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2008年5月

2008年5月31日 (土)

沖縄に渡って初めて出会ったのは

 039

沖縄に惚れ抜いて、とうとう勤め人を辞めて渡ったのが、ちょうど30の時だった。ザックひとつを背負って泊港に着いた時に、靴の紐を締めるふりをして、桟橋にキスをした。

ようやく来た!ついに来た!すべてを捨ててきた、よろしくオキナワ!という気分だ。しかし、地面にキスまですることはない。まったくバカである。第一バッチイではないか。

そして、亜熱帯の夕暮れ時、紫色に染った長い日没のなかを那覇に向って歩き始めた。気分は高揚。足どりは大股、そこら中のウチナンチュー(沖縄人)に抱きつきたいような幸福な一体感があった。 

と、電信柱の陰から色黒く、怪しげなアロハを着たオジサンが、ニコニコ笑って声をかけてくるではないか。「オニィさん、これいらないかねぇ」、そして小指を立てた仕種は、なにか沖縄の手話のようなものであるのか。そして「二枚、二枚」と、いっそう訳のワカラナイことを言う。私を二枚目だと言いたいことはよく分かるが、いきなりそう言われてもねぇ、照れるな。

 ところで、私は最初に出会ったウチナンチューに、ある宣言をすることを心に誓っていた。そこでこのオジサンにこう厳かに言った。きっと鼻の穴が開いていたことであろう。

「私はこの島に農業をしに来たのだ。沖縄繁栄のための捨て石になる覚悟です!」なんたる感動、なんたる崇高な歴史のひとこま!

ところがオジサン、グエっという顔をして「アキシャビヨォ~」などと言いながらさっさと逃げてしまった。なんだあの顔は、農業をしにきてどこが悪い、と少々腹を立てながら、電柱の地番を見ると「辻」とあった。後に知るが、オキナワで一番の大歓楽街だそうである。私の沖縄移住の最初の出迎えは、ポン引きオジサンだったのである。

ちなみに、「アキシャビヨー」(アキサミヨ)は「びっくり仰天」、「あきれた~」ていどの意味であることも、これも後に知った。

思えば、マヌケな幕開けであった。

2008年5月30日 (金)

行政にとって有機農業はゼロだった

 茨城県版の有機農業推進法を作るために働いている。いうまでもなく手弁当だ。皆、自分の仕事をおいて参加してきてくれている。昨日も会議があった。県の担当者も交えて数時間わたる会議。

 一定の方向が出てきている。ひとつは県との共同のあり方。別に驚きもしなかったが、昨年、県推進フォーラムを立ち上げて、最初に県行政と接触した時に県の農水課長から、えらく正直なことを言われた。

 「有機農業は味噌っかすだと思っていた」・・・言うではないか。正直でよろしい。ハラワタは少々煮えたが。かくも県行政、いや国家行政までふくめて行政当局の有機農業に対する理解は浅い、もとい、ない。

 日本の有機農業の歴史はそんなに浅いものではない。むしろ諸外国の中では、江戸時代からの素地があるせいか古く厚い。わが県の歩く日本有機農業Img_0004 史のような魚住さんなど既に35年近い実践をしているし、かく言う私ですら25年にもなる。そして県レベルですら150名を超える有機農業者が存在しているし、エコファーマーなどうじゃうじゃいる。これは全国でも屈指だろう。大地もパルもポランも、茨城県を産直発祥の地にしていることでもわかる。

 にもかかわらず、県行政にとって我々はみえない存在だった。いることすら知らず、有機農業など一握りの変人ていどの認識しかなかったのではないだろうか。そこに、寝耳に水、一昨年国会で全会一致で有機農業推進法が成立し、5年間と区切った形で地方行政に推進法の実体化を求められてしまった。

 県行政はあせった。しかし、腰は重かった。1年目である07年はほとんど見逃しのアウト。なにをどうしたらいいのか、何をしたらいいのか途方に暮れていたとしか思えない。彼らの認識は、せいぜいがところ「エコ農業」までであって、減農薬までは、かろうじて理解が出来るが、有機農業という異世界には想像すらつかなかったようだ。

 そこに彼らからすれば降って湧いたような強力な「援軍」が登場した。つまり、私たち有機農業推進フォーラムである。私たちはあえてこの空白に終わった07年をラッキーととらえた。おかしなものを作られるより、実のあるものを民間主導でできる。

 それにしても県の動きは鈍い。鈍過ぎる。フォーラム総会が今年2月、そこからしつこく接触をしているのに、5月まで年度期末とかで協議が引き延ばされる。そして5月に会ってみれば、今度は一転、この11月までに第1次素案を出したい、09年3月には基本政策を提示したいとえらい拙速を言い出す。

 今はもう6月だから、わずか5カ月で基本政策素案まで行くというのだ。今までゼロだった県行政にそんなまねが可能なのだろうか。私たちは、ここで徹底した原理原則に戻ることにした。

 まずは有機農業の勉強をしてもらう。ハワードの「農業聖典」から入り、ロデイルの「黄金の土」にいき、並行して作物や土壌の科学的分析をしてもらい、日本や諸外国の有機農業の歴史をおさらいする。 環境問題、里山や湖沼の荒廃などに対して有機農業が果たしてきた役割も理解してもらう。消費者や流通との提携産直も知ってもらう。大げさではなくて、国立大学の修士過程ゼミのレベルだと思う。

 6月から8月まで、毎週1日3時間というハードスケジュールでいく。同時に会員からのアンケートに基づいて基本政策の大枠を作り、政策タスクチームを行政と作る。そして秋のオーガニックフェス。11月の素案の作成。

 いや、とんでもないことを始めてしまったものだとわれながら思う昨今である。

写真はグアテマラのジャングルの中にあるマヤの遺跡の店で買ったジャガーの面

2008年5月29日 (木)

霜の道、霧の道、水の道

Img_0005_2  今日は雨だ。朝起きて、というより夜来の雨の音を聞くと心がなえる。雨の農作業はほんとうにつらい。これに風が加わると、雨具など用をなさない。あ、もちろんカッパですよ。傘じゃ、仕事にならんもん。

 うちの農場の地形は北に向かっての緩斜面なので、北風がスロープを巻き込むようにして煽るような強風となる。感覚的に言えば、モロに真っ正面から吹きまくられるといったかんじ。今日などたいした雨量ではないが、大雨だと水泳しているような気分。エラが首あたりにほしい。

 土地の性格というのは、どしゃぶりの雨や台風の日、霜が降る朝、濃霧の早朝にしか分からん、というのは前に一回登場した種屋のおやじの教えだ。おやじさんに言わせれば、土地とその風土には「霜の道」、「霧の道」、そして「水の道」があるのだという。

 同じ村でも、霜が降る場所と降らない場所があり、水が湧く場所がたくさんある所と、掘ってもなかなか水が出ない場所がある。霞ヶ浦名物の霞も、濃厚に立ち込めるところとそうでもない場所がある。濃厚な場所は昼まで晴れない。

 そういうことを考えて耕す土地に合った種を選べという。たとえば、大豆は今でこそ汎用種になってきたが、この村にも大豆は、何種類かあって、字(あざ)が違うと、芽が出なかったもんだという。

 種や作付けの選択を誤ると、芽が出た頃に霜に叩かれてアウト。霜の道を知らなかったからだ。霜の道の畑は、多少寒さに強い品種を選んだり、作付けを農事暦よりやや早めにせねばならない。こんなことは学校では教えてもらえない。智慧というのはこのようなことを言うのかと思う。

 さぁて、6時30分。時間だ。農場に出よう! トリさんが腹を減らしてお待ちかねだ。

写真は本日の雨の農場

2008年5月28日 (水)

センカアギーの哀しい声

050_edited 沖縄で迷彩服を着たちっこい男が、基地フェンスの傍で耕していたら、

それが「黙認耕作地」を耕すお百姓だ。

 もしあなたが、嘉手納などに行って、ショッピングでもマリンスポーツでもなく、オキナワン・ヒューマン・ウオッチングがしたかったら基地の傍に行くのもなかなかシブイ選択ではある。

コザなどの基地の周りの商店街もいいが、嘉手納あたりをレンタカーでゆっくり走ってみよう。奥間ビーチでは絶対に見られない珍しい風景に出くわす。嘉手納の滑走路直下のサンパウロレストラン(うろ覚え)で、ビンタを食らったような大爆音に痺れながらタコスを食べて、「爆音の缶詰」というふざけた缶詰を土産にするのもいい。もっとも初めっからなにも入ってないが(笑)。そして、なにやら基地フェンスの傍で黙々と農作業をしている色褪せた迷彩服の真っ黒に日焼けした男がいるかもしれない。

それが、黙認耕作地のハルサー(農民)だ。初め見た時にはなにがなんだかわからなかった。おまけに、農民は米軍払い下げの迷彩服など着ているものだから、初めはちっこい米兵が趣味でガーデニングでもしているのかと思った。

センカアギー(戦果上げ)

沖縄にも、ベトナム戦争の頃までは、よく芋畑が「出撃基地」となったという農民伝説がある。ただ、ゲリラに行くのではなく、物資を「センカアギー」(戦果上げ)をしに行くのだ。なんでもかっぱらう。小気味いいほどかっぱらう。かっぱらって、かっぱらって、かっぱらいまくる。停めてあった戦車の車輪をハズして持ってきてしまう。ジェット機の落下タンクなど、置いておけば必ず盗まれる。盗んで、クズ鉄にして、与那国あたりから台湾や大陸に売りさばく。

 終戦直後の時など全島あげてこのセンカアギーをしまくった。不良米兵からウイスキー、煙草、拳銃、ライフル、弾薬、果てはミサイルまで横流しをした。ライフルは使い道がないので拳銃より安く、今の貨幣感覚でいえばほんの2、3万だったそうである。やれやれ。

戦争で沈んだ軍艦や商船も瞬く間にサルベージされて、売られた。センカアギーと呼ぶのは、当時、オキナワ人の中に沢山の元帝国陸軍兵士がいたからだ。彼らにすれば、敵基地に忍び込み、米軍に一泡吹かせて「ザマーミロ、ヒージャミー!」と喝采した。ヒジャミーとは羊の眼。羊の眼は青い。転じてアメリカ人のことだ。

オジィの生きた時代

 私のオキナワ時代にウージ(サトウキビ)畑を借りていた地主のウエバルのオジィは、このセンカアギー組のひとりだった。オジィはシマザキ(泡盛)にもたれながら、眼を遠くにして、ナイチャー(内地の人・ヤマトンチューに比べてややバカにしたニュアンス)の私にこの噺をしてくれた。

 「いや、いい時代だったさぁ。今のヤマトゥぬユ(日本の世)と違って、アメリカーはさ、人がいいから、なんでも盗ませてくれたさぁ。煙草、ウイスキー、ライフル、弾薬、戦車、ミサイル、とり放題」(←おいおい馬鹿にしているのか、褒めているのか)

 「夜になるとさぁ、モクニン(黙認耕作地) からそっと出て、背中にバカデッカイモンキーレンチをくくりつけてね。顔には炭を塗ってさぁ。匍匐前進でね、匍匐前進はベターと伏してはダメ。身体をやや斜めにして頭を低くして。こらナイチャーのワカモノ、やってみなさい、ダメ、それじゃあ死ぬ。あんたは兵隊になれんね」(←なりたかぁねぇや)

「まぁいいとしようかねぇ、間合いを詰めて、サーチライトがあっちに行った時に、小さな声でトテチテター!とわん(俺)が突撃ラッパを言うのよ。デッカイ声で言ったら捕まるからね。

草むらで仲間がトテチテター、トテチテターって返すんさぁ。まるでカエルの合唱。トツゲキ!目標、前方の戦車の車輪!カカレ!そして10分以内にセンカアギーさぁ」

 ちなみに、兵隊だった頃、オジィは帝国陸軍伍長様であられた。オジィに言わせるとけっこう軍隊内部では偉いらしい。このセンカアギー組のほとんどは、南洋で凄惨この上ない戦争体験をし、しぶとくも島に生還した男たちだ。オジィと一緒に出征した男は大部分死んだ。

形を変えた哀しい男たちの戦争

そして、この男たちが見たものは、変わり果てた島と村。亡くなってしまった妻と子、門中(親類)。「ウマリシマ」、生まれた村さえ自分の村が基地の滑走路の下になって、発見できなかった者も多い。

階級賞をちぎった兵隊服を着て、ゲートルを巻き、軍のリュックを背負ったまま、沖縄のひとが入れらていた収容所のテントを歩き回り、女房と子を探した。いくつもの地域のテントを、くたびれた脚で。米兵にこずきまわされながら。

 彼らはいったんは精神的な脳震盪にかかり、声すら失い、泣くことすら出来ず、1時間もしてようやく涙が湧き、そして地面を叩いて泣いた。オジィの奥さんも、そして子供3人も沖縄戦の中で生きてはいなかった。

「一番わんに似ていたのは尋常小学校の何年だったかねぇ、あいつにはシマ(村)の森のどこになにがあるか、相撲ひとつとってやれんかった。女房のカズコはあっちの世で好きな縫い物でもしとるのかねぇ」

オジィのウマリシマは今キャンプハンセンの下にある。彼が遊び、ガキに教えたかった森も田んぼも今はコンクリートの下にある。オジィは家族の骨箱にウマリジマの傍の白い石を納めた。磨いて納めた。

 だからこのセンカアギーは、この哀しい男たちの戦争が終わってからの、形を変えたもうひとつの戦争だったのである。この噺の信憑性は保障しない。ただの酔っぱらいのオジィのヨタ噺かもしれない。しかも私も酔っぱらって聞いていたのだから。

ちなみにこの時代を、琉球史家は「大密貿易時代」と呼び、沖縄はかつてのアジア貿易の中心に一時的に復活した。米軍支配下の時代のことである。米軍統治下を糾弾することはたやすいが、当時国境線と呼べるものは、与那国と台湾の間にはなかった。そう考えると、琉球弧は奄美までフリーウエイだったのかもしれない。禍福あざなえる縄である。

巨大基地は芋畑に浸食された!

Img_0004 昔、南ベトナムにダナンというところがあったとさ

南ベトナムという今はなくなってしまった国にダナンという土地があったそうな。そしてそこには米軍のデッカイ空軍基地があったそうだ。当然、お百姓の農地をつぶして、ブルでまっ平らにして、コンクリートで固め、ブワァ~とジェット機を毎日飛ばして、自分らの国を爆撃していた。農民じゃなくても、かなり腹が立つ風景ではあるな。

 で、噺はここからなのだが、周りの農民には基地内に一種の耕作権があったそうな。「黙認耕作権」と呼ぶ。農民が米軍の司令部にてくてく行って、地図など拡げ、「あそこ、うちの代々の墓と畑があったとこ。ちょっとだけ耕やさせて欲しい」なんて半分ホント、半分デマカセを言ってくる。しつこく何度も行って、行くごとに村人の数も増えるので、米軍も辟易してしぶしぶIDをくれて、鉄条網をフェンスの内側にもうひとつ張り、「ここから入ったら射殺するよ、いいね」とかなんとか言う。

 

いつの間にか基地内にお百姓の畑が出現したとさ

これが黙認耕作権というヤツである。つまり、表向きは禁止。しかし、墓参りのためとか理由をつけて黙認、実に大岡越前のような評定ではある。

 百姓はさっそくイモを植えてしまう。植えたら勝ち。ツルが伸びる、どんどん伸びる。鉄条網に絡んで伸びる。鉄条網はまるで栽培ネットの如くなり、程なく鉄条網を跨ぎ越す。

 そうすると、農民も「手入れのため」とか言いながら、勝手に鉄条網を超えて基地内に入ってしまう。とうぜん、警備兵に撃たれることとなる。すると村をあげて、遺影写真など掲げて、「ひどいことをする。ぐれてベトコンになっちゃうぞ」と大騒ぎをする。やがて米兵もイヤになって、基地内で農作業をしていても「黙認」するハメになる。

 

芋畑の下にベトコンのトンネルがあったてさ

さぁ、お立ち会い!いつのまにか繁茂した芋ヅルの下になんとベトコンのトンネルができていたのだ。実に良く出来た作りで、地上に出る揚げ蓋など土と芋ヅルが着いていて、素人にはまったく蓋だとわからない。そこから夜になるとベトコン(これは蔑称ではない。ベトコンをしていた当人がそう自称しているのだから間違いない)が、ドンパチやってはイモ畑に帰ってくるようになったそうな。あれあれ。

この噺の信憑性は保障致しません。よくある都市説ならぬ農村伝説かもしれません。しかし、この噺に多くのアジアのお百姓が喝采を叫んだのは事実です。

人々が作った日本の自然

Img_0003_3 共同体には決まり事がつきものです。そうですね、うんざりするくらいいっぱいあります。 

 家の周りには樹を植えよ、北側には大きくなる欅を、東側には風雪に強い唐松を、西側には栗や柿を植えよ。 

家の周りの道や水路は常に清めておけ、ゴミは公の場所に捨てるな、母屋の意匠は出っ張らないように、格を守り、屋根はいぶした銀灰色の瓦でふけ。 

父母や目上を敬え、村の人とは和せよ、他人の子供も自分の子と同じく遇せよ、村の中心は役場ではなく学校である、小学校は字の中心だから子供が足で通える距離(約3キロ)に配置しろ、それは火の見櫓から見渡せる半径だ。 

祭りには積極的に参加しろ、消防は忘れるな、消防が来る前に燃えてしまうから字の消防団で初期消火をしろ・・・。 

これらの無数の約束事は、共同体という「ひとつの生命体」の恒常性を保つための「自己律」、要するにルールなのです。私のような個人主義の極北から百姓に転身した者が、かつてあれほどホーケンテキと言って毛嫌いしたことの数々に、まったくあたらしい文脈で納得できししまったのですから、不思議といえば不思議です、と言っても、20年ほどの時間はかかりましたが。 

ですから、さきほど書いた村の約束事に一項をそっと入れてしまいましょう。村内だけだと立ち行かゆかなくなるから、たまには希人(まれびと・よそから来る人)の知恵と力を導ちびき入よ、と。 

では、これらの日本のムラの風景がもともとあったのかというと違います。この風景は人工的なものです。神ならぬ人が作りしものなのです。人が長い時間をかけて、誰が言い出したのかは分かりませんが、皆で樹を植え、渇水や大水に備えてのため池という調整池を堀り、河川から小川を引き田に導き、里山を手入れして、うるしなどの広葉樹を植えて水をため込む仕組みを作り上げていった、それも百年、三代のスパンで。 

そう考えると、この自然は、アフリカや中東は知らないので、少なくとも私が接している日本の農村の自然は、人々が作り上げた精緻なエコシステムだとも言えます。 

それを保っているのは他ならぬ共同体です。これは都市でのコニュミティとはやや違う。生存と生産、後世の孫子のための「保全と再生産のための共同体」です。 

この中で私たちは暮らしている。言い換えれば、このような共同体の中で「生かされている」ともいえます。 

う~ん適当な言い方ではないな、ややニュアンスが受動的すぎます、むしろ「生き・生かされている」という相互性の中にいることがわかります。 

人は協働をして生きています。特に協働という理想をもっているというわけではなく、自然の前でそうせざるを得なかったからです。その協働はただいま現在のものだけではなく、遠い彼方の時間の人々とも協働しています。それが「生き・生かされている」ということの意味です。 

また大きくは、生態系の基部をなす小動物、昆虫、微生物、地虫に至るまでを包括した「自然」との相互関係の中に生きているといえるでしょう。私たち人類という孤独な種は、孤独が故に共同を求めた。共同とは自ら生きる地を守ること、いわば「地守」あるいは「里守」の役割を永遠に続けるための手段です。この「地守」であることを絶やささなければ、私たちは決して孤独ではないのです。 

温暖化へ向かった気象変動の予兆は随所に見られます。平均最高気温が5度変化しただけで、農業は生きていくことはできません。3度の温度変化で石垣島近海の珊瑚礁は白く変色し、死滅が始まっています。2度の水温上昇で海流の流れは変化し、魚類の生態分布は変動し、漁業に大きな悪影響を与えることがわかってきました。 

私たちお百姓はその変化に敏感です。論理ではなく、五感で感じ取ります。毎年、異常気象だと騒いでオオカミ少年扱いを受けます。 

なんというのか、毒ガスに敏感で、わずかな変化に怯える炭鉱のカナリアのような存在なのです。カナリアは考えて危険だと鳴くのではありません。五感で警告を発するのです、あたかも私たち農民のように。 

 そして毎年、毎年、正常な農事暦がくることを願い、失望し、しかし、へこたれずにつましく生きています。地球温暖化とは会議場で交わされる抽象的なテーマではなく、今年がそうであったようにつましくも生き残り、子供にこの田と畑、水と里、樹と風を残すための切実なテーマなのです。 

余談ですが、宇宙船地球号とか、ガイアという優れた西欧の考えが紹介された時に、ある意味、なんとなく感覚で納得出来たのはわが日本農民だったのではないでしょうか。それはエコロジーとか地球環境と言ったなじみのない肩肘張ったテーマではなく、宇宙船地球号ならぬ、宇宙船北浦号としてまんま翻訳可能だったからです。「モッタイナイ」が今や世界語になったように。 

そして宇宙船ムラ号は既に千年以上もの長き航海を続けています。私もその船の船客ではなく、ひとりの漕ぎ手として人生を終えることでしょう。それは幸福な人生だと思います。 

やおろずの神、これから来るであろう大きな変動の時代にわれらが人と自然の共生が耐え、そして生き残りますように、あなたに祈るような気持でこの夏を迎えます。

写真は田植えが終わって、水を満々と湛えた谷津田

生きる・生かされるということ

Img_0001_4 ぼや~と考えていたことなのですが、「人の協働と自然との共存」というテーマです。ああ、引かないで下さい。そんなたいしたこと言いませんから。抽象的な言辞は嫌いです。できるだけ自分の言葉にしてお話したいと思います。少しの時間、おつきあい頂ければ幸いです。

村の峠から見下ろす

 私が好きな村をながめる場所にちょっと小高い峠があります。手前に武田川という小川が蛇行し、水田が拡がり、此方には円通寺の本堂の大屋根が見えます。右手には火の見櫓がかいま見え、小さなほこりっぽい国道が走っています。遠くには作り酒屋の煙突の先だけみえます。

 今、村は田植えが終わって一段落した時期です。今年は、田植えの直後に低温が続いて、活着(*根がしっかりと土壌に定着すること)が悪かったのでお百姓は皆ひやひやしました。GWにだいたい皆、田植えをするのですが、今年は田植えが遅れた人のほうがうまくいっているようです。この後、夏日が続いたので、村全体でほ~っとしています。いくら、お上が減反だと言っても、そもそもできなければ話しにもならないでしょう。

 

ムラが作った風景

 この峠から村を見るともなく見ていると、集落がどんなふうにできているのかがおぼろに分かります。実はいつもは分かりにくいんです。車で走ることが多いので、なんとなく見過ごしてしまう。けれど、4月の末に田がいっせいに水を引き込む時、村はいつもの顔から、まるで湖に浮いた島々のようになもうひとつの顔を見せます。

 田が満々とした水を湛える時、防風林の欅や榊の生け垣が堤防のように水をくい止めているような錯覚に陥ります。その時期、この峠から見ると、集落の家々は連なって、水や風を防いでいるようにすら見えます。そしてやがてくる8月末、黄金の輝きをもった海にその島々は囲まれています。

 これが共同体が造り出した風景です。それはひとりの見た風景ではなく、あくまでも共同の風景なのです。

沖縄の部落の福木

 そういえば、こんな風景は沖縄でも見たことを思い出しました。

 例えば、当時私が住んでいたヤンバルの海岸沿いの集落であるシマ(村)に行くと、海岸に沿って全部の、まさにひとつの例外もなく全部の家が海岸に向けて防風林である福木を植えています。福木は丈夫で、しかもよくしなり、風や海水に強い植物なのです。

 この樹が大きく手を拡げて村を守っているのです。そしてその手の内にシィクワーサーの果樹やパパイヤが守られて繁っています。

 もし仮に、この共同の防風林の一角をフリムン(馬鹿)のヤマトゥが買って、この別荘から海を見たい、自分の土地だからなにをしようと勝手だろうとばかりに自分の敷地の福木を切ってしまうとします。

 と、どうなるのか。台風の時の風雨は、海水を巻き上げながら、この崩れた防風林の一点の穴から吹き込み、部落の中を暴れ回ることでしょう。そして狭まった場所からの風雨の流入は、その風速の威力を増大させて、被害を大きくしてしまいます。

 なぜ、ウチナー(沖縄人)がよそ者に土地を売らないのかお分かりいただけると思います。それは単純な排他主義ではないのです。地域の自然とそれを守る共同体の約束事を守る気持のない人はムラに入れられないというルールにすぎません。

(続く)

次回はわが村の掟をお話ししましょう。

2008年5月27日 (火)

「木のヒゲ」じぃさんの懐で眠りたい

Img_0015  今、こうして書いている窓の外は早朝からかしましい、やかましい。ヒヨドリが奇声を上げ、ムクドリがついばむ。何を?サクランボをである。彼らの大好物サクランボの季節がやって来たのだ。

 この季節、農場の庭のサクランボは満開となる。3本のサクランボの樹にたわわにサクランボが実る。勝手に実る。私の手柄でもなんでもない。初めに15年前だったかに買って植えたサトウニシキのたった30センチほどの苗が成長し、その途中で実をならせ、野鳥が食べ、人もそのお余りを頂戴し、こぼれた実から芽が吹き、今やその数3本。

 ソメイヨシノではこうはいかない。実がならず、種ができないからだ。だからソメイヨシノをいくら植えても、勝手に繁殖することはありえない。しかし、自生している樹木は、しっかりと実に種を抱き、あるいはドングリをバラ撒く。Img_0001

そうそう、わが農場には一抱え以上もある大きなカシの大樹がある。名前は「木のひげ」と呼ぶ。「木のひげ」氏の一族は今や年々増加し続け、一帯に6本ものカシのお子さん、お孫さん、やしゃごたちに囲まれて幸せに生きていらっしゃる。今年も小さい芽がいつくも吹いた。どこまで増えるわが家の樹たち。いやさか、いやさか。

樹の上の家を作りたいと思っている。この「木のひげ」一族の中に入れてもらって、その上に雑事から逃避する小屋を作りたい。「樹の上に逃げる」のだ。
 なにかイヤなことがあった時はするするとカシの樹によじ登り、梯子を上げてしまう。ランタンひとつで好きな本を読んで、野蒜と味噌をつまみに焼酎をくらう。催せば、樹の上からジョーとしてしまう。たまに、酔って落ちる。
 興が向けば座禅やヨガなどをしてみる。失敗して落ちる。ああ、今年こそ逃げよう、樹の上の小舎に!

写真は、樫の樹の長老、「木のヒゲ」じいさん。「木のヒゲ」はトルーキンの「指輪物語」に出てくる歩く大樹一族エントの長の名。

2008年5月25日 (日)

誰がために農薬を撒く

Img_0011  先日の続きだ。この問題は、農業のある意味根幹で、リキが入った言い方をすれば、哲学や自然観にも触れる問題だからだ。ああ、いかん、肩に力が入っているゾ。穏やか~に、穏やか~に、アダージョでいきましょうぞ。

 なぜ、農民がこんな危険なクロピクを使用しているのか、あるいは、逆に私の住む有機農業の世界では使用していないのか。一方はJAの半強制的な防除暦(*防除の日取り、農薬の種類を記した暦のようなもの)があり、一方はJAS有機認証があるから・・・違う。そのようなことは表面的な事柄でしかない。

 自然観が違うからだ。いきなりエラソーな大上段な言い方で、このタヌキ如きがと思われるので恐縮だが、そうとしか言えないのだ。抽象的に言っても理解が難しいだろうから、例を上げるとしよう。

 そうだな、今の季節の有機のキャベツ畑にいらっしゃい。モンシチョウのお姉さんが実に嬉しげに舞っている。ただ食べて青い小さな糞をするだけなら可愛いものだが、恩を仇で返すというか、卵を大量に生んで頂けるのが困る。卵は孵って青虫となり、しっかりと食い散らす。震えるほどうれしい光景である。キャベツの芯に達するまで深く掘削する。こいつらは前世は炭鉱夫だったのだろうか。

 慣行農法(*通常の化学農法のこと)では予防防除ということをする。つまり、「食べられる前にやる」のだ。モンシロチョウのお姉さんがやって来る前に、あらかじめ化学農薬をブン撒いておく。するとお姉さん方は来たくても、行ったら死ぬのでいかないという寸法だ。これは化学農薬半減の、いわゆるエコ農法の減農薬栽培でもまったく一緒。モンシロチョウはそんな畑に行ったら確実に死ぬ。

 しかし、天はよくしてくれたことに、ここに面白い昆虫を与えてくれたもうた。アオムシコマユバチさん、こちらにどうぞ。皆さん拍手を、パチパチ!ご紹介しましょう、このアオムシコマユバチ氏は、その名のとおりアオムシの体内に寄生する。気味悪がらないでほしい。そのような昆虫はいっぱいある。体内ほど心地よい、暖かで栄養豊富な孵化する場所はないからだ。

 そして体内で生まれたアオムシコガユバチ(舌を嚙みそうな名)は、アオムシの体内から生まれて空に飛んでく。映画のエーリアンみたいだが、これが正しい彼らの生き方なのである。当然出ていかれたほうのアオムシは死ぬことになる。

 これが天敵関係というやつだ。このような天敵関係こそが、天が地球という惑星の自然界に与えたもうた恩寵なのだ。つまり一種類の種のみが自然界を支配しないように、天敵を使わしその個体数を制限するメカニズムです。これを私たちは自然界のバランスと呼んでいる。

 天敵は、敵対関係にある種を完全に抹殺することはしない。もしそのようなことをしてしまったら自分の自然界からの「取り分」、つまりは餌がなくなってしまうからだ。だから、食べ尽くさずに、寸止めをかける。一定枠で敵を残し、一定程度の繁殖は許す。増えたらそのぶんだけを食べる。人間の作り出したまがまがしいジェノサイドのクロピク野郎などと違って、実に紳士的なのだ。このような天敵関係は地表のみならず、土中でも行われている。

 また、天敵関係は共生関係ともつながる。ええっ、真逆じゃないかと思われるだろうか。これも例を上げよう。このモンシロチョウやハスモンヨトウ、シンクイムシが跋扈するのを避けるために防虫ネットなどを張るとする。これは有機農業でもよくやる技術だが、実はこれも微妙な自然界の共生関係を壊しているのである。

 というのは、モンシロチョウは単なる悪玉のお姉さんではないからだ。このような鱗翅目にはこれに共生する有用な微生物が存在するのである。この菌類によって植物は活性化したり防御力をつけたりもする。だから単に殺すだけでは解決にならないと有機農業のお百姓は言ってきたのである。

 有機農業はJAS有機認証のために殺虫剤や、土壌燻蒸などの化学農薬をつかわないのではない。語弊があるが、消費者の健康が第一義ですらない。それは自らの責任を持つ畑という自然界の中の天敵・共生関係という神の与えた恩寵を大事にしているからだ。ここが理解できないと、慣行農法と有機農業が本質的に別な自然観や哲学を有していることに気がつかないまま終わってしまうだろう。

 本記事は、日本有機農研理事で、私の百姓としての先達である魚住道郎氏のご教示をうけました。感謝いたします。

 

2008年5月24日 (土)

クロピク、それは日本農業の病の象徴である

Img_0009  農業はクロロピクリン、通称「クロピク」という殺人兵器を所有している。ひとことで説明すれば、毒ガス。実際に第一次大戦でドイツ軍が西部戦線線で使用し、多くの犠牲者を出した毒ガスを祖先にもつ。

 こんな危険極まりない代物を今でも大量にごくあたりまえのようにして農業は使用しているということが、おとといバレてしまった。宮崎でこともあろうにクロピクを飲んで自殺を図り、自分だけが死ぬならともかく、担ぎ込まれた病院で54名もの人を巻き添えにするという農家の恥が出たのだ。今、村はこお百姓が会えばこの話題になる。

 「よく飲めたなぁ~!どうやって飲んだんだっぺぇ。あれを開封して嗅いだだけで病院運ばれたカァちゃんがいたしなぁ。マルチから漏れ出して、近所一帯が避難したこともあったぺよ。車にクロピク持ち込んで窓締めてよぉ、開封したら1分ももたねぇべぇ。苦しかっぺよ・・・つるかめ、つるかめ」(茨城弁言文一致体。語尾をやや上げてお読みください)

 そうなのである。今回、医師が吐瀉させた瞬間に治療室にガスが充満し、バタバタと人が倒れたことでも分かるようにとてつもない拡散力をもつ猛毒なのだ。これを何に使っているのか?土壌燻蒸である。土壌燻蒸といっても一般の人にはなんのことだかわからないであろう。燻蒸・・・いぶして蒸し上げるがピンとこないかもしれない。要するに、毒ガスを土壌に強制的に打ち込み、土中に毒ガスを充満させ、悪い虫を燻しあげ、蒸しあげてテッテイ的に殺すのである。

 これは特殊な技術ではない。いや、それどころかまったく当たり前の農業の防除暦にしっかりと組み込まれた日常的な作業なのである。ちょうど今時の農村にいらっしゃれば、トラクターの後ろにマルチ被覆をしながら、シュポシュポとこのクロピクを土中に注入している風景がそこここで見られるだろう。

 この作業は大変に危険で、トラクターを運転しているとぉちゃんはいいのだが、えてして後ろについてクロピクを注入する係のかぁちゃんに被害がでる。うっかりとクロピクを嗅ごうものなら、即病院行きである。マスクなど気休めでしかない。特に天候が悪く、雲が垂れ込めた陽気だと、ガスが低く溜まるので危ない。その上、その作業の夜に雨が降り、翌日天気が回復し、高温になろうものなら、マルチの隙間から一斉にガスが漏れ出し、付近を汚染する。まことにやっかいな「兵器」なのである。

 クロロピクリンには何種類かあって、効果が強いものからクロロピクリン90(90は濃度90%の意)、ドロクロール80、DD60。だいたい10㌃で1缶くらいを使用する。農家はこれを土壌セン虫抹殺のために使用するのである。土壌セン虫は、土中にある大根や芋の表皮を食い、汚くしてしまう。またヨトウガなどの幼虫が地表に出て、作物を食い荒らすことを恐れているのである。

 クロピクを撒けば、ほぼ完全に土壌内のありとあらゆる生物はいったん死に絶える。なるほど悪玉とされる憎っきせん虫も、ヨトウムシも死ぬ。しかし同時に、善玉のミミズなどの土壌生物や、無数に存在する土壌微生物群もまた一瞬にして絶滅する。かくして、一時的「空白」、真空状態が土中に出現するのだ。

 この土中の真空状態は、抗生物質でクリーニングした状態と酷似している。いったん真空状態となった土中は、ガスが切れた数週間後あたりに復活を開始する。しかし、元のようには決してならない。悪玉のせん虫類のほうが、善玉の微生物群よりはるかに強力だからである。しかも悪玉は耐性を身につけ、いっそう強力に再生されている。いやそれどころか、種の危機を一度経験したせん虫類は、多産になることで自分を防衛しようとさえする。土中の悪玉と善玉がバランスをとっていた拮抗状態が崩れ、悪玉ばかりが繁栄する土となる。それでは農家は困るので、次回もまたクロピクを使う、そうするとまた・・・このようなことを悪循環と呼ぶ。

 日本の土壌は毎日のようにどこかで土中絶滅戦争が行われ、いっそう土を崩壊させている。百姓だってやりたくはないのだ。その原因は、ただひとつ。虫食いを極度に嫌がる消費者のエゴが育てた市場にある。クロピク、それは日本の農業の病の象徴である。

写真は芋の畑に散布されたクロロピクリンの缶

2008年5月23日 (金)

非合法ジジィ

Img_0010_3  わが村の飲んだくれのジジィは昔、ハッパで漁をしたことがあるというのが「自慢」(になるかよ)だ。今やったらとうぜん手が後ろに廻る、いや、当時でも廻る。

 このジジィ・・おじいさんというにはあまりにアクが強いので「ジジィ」ということにするが・・の趣味は密造酒だ。密造酒にはうるさい。これまた、当然のことながら違法である。
 今は買ったほうが安いので情けないことに、熊五郎のダブルボトルなどを呑んでいるが、ほんとうはかつて作ったイモ密造酒のほうが好きなようだ。

 酔っぱらった(1年中だが)ジジィに、間違って密造酒のウンチクをタレさせようものなら、確実に2時間はつきあわされるはめとなる。芋はあまり甘くないほうがいいだとか、(これは別な密造家と意見が分かれるのだが)、蒸し時間は何分だとか、舟という道具で絞って、露にして、冷やして焼酎瓶に詰めてと、まるで「夏子の酒」の杜氏のようだ。
 ジジィに言わせると、今時の芋焼酎など、ちゃんちゃら可笑しいそうだ。先日、銘酒「富乃宝山」を手土産にもって行ったが、「ナンダ、この水みたいのは」と言う。ジジィ、これが今の芋焼酎の主流なんだゾ、と教えてやっても言うことを聞かない。
 ジジィに言わせると、芋焼酎というのはガツンっと来る香りがあって、呑むとブワーっとならないとだめだそうだ。栓を開けると部屋の中に焼酎のあの香り、というかニオイが立ち込めて、女衆は鼻をつまんで皆逃げ出す、子供はおびえて泣く、というのが芋焼酎の大道だそうである。
 つまみはそこらに生えている行者大蒜か、キュウリと自家製味噌でもあれば充分。ハムなど持っていこうものなら、「こたらものは合わん。酒の味がわからなくなる」と口にしない。なければ、味噌と塩だけでよさそうだ。実にハードボイルドである。
 密造酒は、かつて私も作ったことがある。コシヒカリの新米を使った。湧かない(発酵しない)ので、イーストをぶち込んだ。ものすごい味のドブロクになってしまった。ジジィにこの話しをすると、歯のない口でギャハギャハと大笑いされてしまった。
 「新米を使う根性が悪い。新米が出来たら、余った古米で作る。麴はまじめにたてろ。麴がすべてだ」そうである。まことにごもっとも。
 ちなみにジジィは、日本共産党の村の中での数少ない支持者だ。あの弱そうでつっぱっているところがいいそうで、選挙ともなるとチラシを配ったりする。しかし、村の共産党のほうからは、「できたらあまり動かないでいただいたほうがありがたい。ジィサマに動かれるとかえって票が減る」と思われているようだが。
 私の大好きな非合法ジジイだ。
写真はじじぃから貰った密造用の焼酎瓶。

2008年5月22日 (木)

湖岸男ののっこみ文化

 Img_0001                                             

私は霞ヶ浦の湖岸に住んでいるが、「のっこみ」というのをご存じだろうか?湖の淡水とほとりの乾いた土地との間にある中間域で、かつては様々な魚やドジョウやウナギなどの漁が盛んだった。それこそ水鳥と争ってヒトも漁を楽しんだようだ。
生物種多様性などと堅苦しいことを言わなくとも、生きもの、やや露悪的に言えば、食い物が多様なところはサギもヘビもヒトも知っていた。

 湖岸の男共の趣味は、パチンコとカラオケ以外に湖の夜の漁があった。夜に懐中電灯を持ち、あるヤツなどオデコにタオルを巻いてその間に小型の懐電を差し込む。足拵えは12枚コハゼの地下足袋。まるで八墓村である。夜の道で出会いたくない連中ではある。そして安眠しているのっこみの魚やウナギを手網ですくうのだ。うまくいけば入れ食い状態だそうである。お魚の立場からいわせれば、ほとんど夜盗に襲われたようなものである。

 男の子は兄に、兄は父親と共に夜間出撃をした。見よう見まねで足袋を履き、懐中電灯を点けすぎると兄貴からゴツンをされた。忍び足でこけると、顔から泥に着地して皆んなから大笑いされるはめに。こうして湖の村の男の文化は継承された。

しかし、コンクリート護岸になってからこの「のっこみ」が激減したために、この湖岸の男の「夜の娯楽」は壊滅状態だ。私が知っている「のっこみ」のプリンスは、今や水上バイクでブンブン湖上を爆走している始末。コンクリートで固められた湖岸は、生物種多様性の消滅だけでなく、湖の辺に住む男の民俗の継承すら潰してしまったようだ。

写真は、朝もや煙る湖岸の田んぼ

ごあいさつ

 Img_0168_1                                          

このブログは沖縄の山の中で百姓修行をして、はからずも20余年もお百姓をしてしまったフリムン(沖縄語でアホウ)の日記だ。体験した沖縄噺や、自分の百姓体験、村の噺、はたまたその時に思うことなどを書いていこうと思う。ズボラな性格なので毎日更新はないかもしれない。なにとぞ、ご愛読下さい。コメントをいただければ、これにすぐる喜びはない。

私は街から週末農業や縁農に来る方と感性的にほとんど同じだ。私のDNAは街っ子だからあたりまえ。うちの農場の今時の季節に来ると10人が10人、「すてき~、いいわぁ。自然に抱かれて生活するのって」とおっしゃる。ただ、私はこのところ歳のせいかややイジワルになっていて、「雨の時か台風にいらっしゃい。力一杯自然から抱きしめてもらえるよぉ」などと言う。

 先日の嵐では、力一杯、自然から「抱きしめて」いただいて涙が出た。私の師のひとりの村の種屋のオヤジが私の農場を見て、開口一番。「ハマタヌさん、あんた天気がいい日にこの土地を買っちまったね」。

 そうなのだ。大雨だと緩斜面で肥料が留まらない。種も流される。畑のど真ん中に水路ができてしまったりもする。こういうドジをさんざんしながら、だんだん街の人から村の人に私はなったようだ。

写真は菜の花畑と母屋、手前は八角堂

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