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センカアギーの哀しい声

050_edited 沖縄で迷彩服を着たちっこい男が、基地フェンスの傍で耕していたら、

それが「黙認耕作地」を耕すお百姓だ。

 もしあなたが、嘉手納などに行って、ショッピングでもマリンスポーツでもなく、オキナワン・ヒューマン・ウオッチングがしたかったら基地の傍に行くのもなかなかシブイ選択ではある。

コザなどの基地の周りの商店街もいいが、嘉手納あたりをレンタカーでゆっくり走ってみよう。奥間ビーチでは絶対に見られない珍しい風景に出くわす。嘉手納の滑走路直下のサンパウロレストラン(うろ覚え)で、ビンタを食らったような大爆音に痺れながらタコスを食べて、「爆音の缶詰」というふざけた缶詰を土産にするのもいい。もっとも初めっからなにも入ってないが(笑)。そして、なにやら基地フェンスの傍で黙々と農作業をしている色褪せた迷彩服の真っ黒に日焼けした男がいるかもしれない。

それが、黙認耕作地のハルサー(農民)だ。初め見た時にはなにがなんだかわからなかった。おまけに、農民は米軍払い下げの迷彩服など着ているものだから、初めはちっこい米兵が趣味でガーデニングでもしているのかと思った。

センカアギー(戦果上げ)

沖縄にも、ベトナム戦争の頃までは、よく芋畑が「出撃基地」となったという農民伝説がある。ただ、ゲリラに行くのではなく、物資を「センカアギー」(戦果上げ)をしに行くのだ。なんでもかっぱらう。小気味いいほどかっぱらう。かっぱらって、かっぱらって、かっぱらいまくる。停めてあった戦車の車輪をハズして持ってきてしまう。ジェット機の落下タンクなど、置いておけば必ず盗まれる。盗んで、クズ鉄にして、与那国あたりから台湾や大陸に売りさばく。

 終戦直後の時など全島あげてこのセンカアギーをしまくった。不良米兵からウイスキー、煙草、拳銃、ライフル、弾薬、果てはミサイルまで横流しをした。ライフルは使い道がないので拳銃より安く、今の貨幣感覚でいえばほんの2、3万だったそうである。やれやれ。

戦争で沈んだ軍艦や商船も瞬く間にサルベージされて、売られた。センカアギーと呼ぶのは、当時、オキナワ人の中に沢山の元帝国陸軍兵士がいたからだ。彼らにすれば、敵基地に忍び込み、米軍に一泡吹かせて「ザマーミロ、ヒージャミー!」と喝采した。ヒジャミーとは羊の眼。羊の眼は青い。転じてアメリカ人のことだ。

オジィの生きた時代

 私のオキナワ時代にウージ(サトウキビ)畑を借りていた地主のウエバルのオジィは、このセンカアギー組のひとりだった。オジィはシマザキ(泡盛)にもたれながら、眼を遠くにして、ナイチャー(内地の人・ヤマトンチューに比べてややバカにしたニュアンス)の私にこの噺をしてくれた。

 「いや、いい時代だったさぁ。今のヤマトゥぬユ(日本の世)と違って、アメリカーはさ、人がいいから、なんでも盗ませてくれたさぁ。煙草、ウイスキー、ライフル、弾薬、戦車、ミサイル、とり放題」(←おいおい馬鹿にしているのか、褒めているのか)

 「夜になるとさぁ、モクニン(黙認耕作地) からそっと出て、背中にバカデッカイモンキーレンチをくくりつけてね。顔には炭を塗ってさぁ。匍匐前進でね、匍匐前進はベターと伏してはダメ。身体をやや斜めにして頭を低くして。こらナイチャーのワカモノ、やってみなさい、ダメ、それじゃあ死ぬ。あんたは兵隊になれんね」(←なりたかぁねぇや)

「まぁいいとしようかねぇ、間合いを詰めて、サーチライトがあっちに行った時に、小さな声でトテチテター!とわん(俺)が突撃ラッパを言うのよ。デッカイ声で言ったら捕まるからね。

草むらで仲間がトテチテター、トテチテターって返すんさぁ。まるでカエルの合唱。トツゲキ!目標、前方の戦車の車輪!カカレ!そして10分以内にセンカアギーさぁ」

 ちなみに、兵隊だった頃、オジィは帝国陸軍伍長様であられた。オジィに言わせるとけっこう軍隊内部では偉いらしい。このセンカアギー組のほとんどは、南洋で凄惨この上ない戦争体験をし、しぶとくも島に生還した男たちだ。オジィと一緒に出征した男は大部分死んだ。

形を変えた哀しい男たちの戦争

そして、この男たちが見たものは、変わり果てた島と村。亡くなってしまった妻と子、門中(親類)。「ウマリシマ」、生まれた村さえ自分の村が基地の滑走路の下になって、発見できなかった者も多い。

階級賞をちぎった兵隊服を着て、ゲートルを巻き、軍のリュックを背負ったまま、沖縄のひとが入れらていた収容所のテントを歩き回り、女房と子を探した。いくつもの地域のテントを、くたびれた脚で。米兵にこずきまわされながら。

 彼らはいったんは精神的な脳震盪にかかり、声すら失い、泣くことすら出来ず、1時間もしてようやく涙が湧き、そして地面を叩いて泣いた。オジィの奥さんも、そして子供3人も沖縄戦の中で生きてはいなかった。

「一番わんに似ていたのは尋常小学校の何年だったかねぇ、あいつにはシマ(村)の森のどこになにがあるか、相撲ひとつとってやれんかった。女房のカズコはあっちの世で好きな縫い物でもしとるのかねぇ」

オジィのウマリシマは今キャンプハンセンの下にある。彼が遊び、ガキに教えたかった森も田んぼも今はコンクリートの下にある。オジィは家族の骨箱にウマリジマの傍の白い石を納めた。磨いて納めた。

 だからこのセンカアギーは、この哀しい男たちの戦争が終わってからの、形を変えたもうひとつの戦争だったのである。この噺の信憑性は保障しない。ただの酔っぱらいのオジィのヨタ噺かもしれない。しかも私も酔っぱらって聞いていたのだから。

ちなみにこの時代を、琉球史家は「大密貿易時代」と呼び、沖縄はかつてのアジア貿易の中心に一時的に復活した。米軍支配下の時代のことである。米軍統治下を糾弾することはたやすいが、当時国境線と呼べるものは、与那国と台湾の間にはなかった。そう考えると、琉球弧は奄美までフリーウエイだったのかもしれない。禍福あざなえる縄である。

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コメント

 早朝「絶賛の嵐」のコメントを入れたつもりで出勤しておりましたらどうも「送信」を忘れていたようです。そして今開きましたら、我が目を疑いました。あれっ、増えている!?2つも3つも。今度は大作の嵐です。ほんとに農業やっているのですか?
 一度開けて大作であることに遭遇し、二度開けて斜め読みをし、三度開けて労作であることに驚嘆しております。四度めにようやく噛みしめておるところで、まだ「ダナン」の項で足踏みしているところです。おちこぼれそうです。その精力、集中力に驚嘆であります。

投稿: 余情 半 | 2008年5月28日 (水) 22時25分

五月、六月を沖縄を伝える事を
教えてくれたのは、懐かしい委員会。
組合員活動の意味。組合員の力。
また言おう。あんたら兵隊にはなれんねー。

投稿: ぶんぶんこ | 2008年5月28日 (水) 22時47分

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