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2008年6月 1日 (日)

1968年の小逃亡

Img_0021  二流どころの進学校に行ってしまった。二流なのだから、二流に安住すればいいものを、一流に追いつけ追い越せと生徒のケツを叩いた。しかし、生徒は残念ながら現状「二流」なので、下校時にはちょっとした暴徒になり、ディーゼル車の機関士から、「こらぁ、それでも、県立かぁ!」と怒られながら、毎回何人かが引っこ抜かれていた。

 この運転手は生徒の間ではなかなかの有名人であり、顔と雰囲気は、まるで映画「北国の帝王」のアーネスト・ボーグナインが国鉄のナッパ服を着ている、と思っていただければいいだろう。

 生徒管理は厳しかった。当時皆、ビートルズのマネをしたいのに、髪が耳にちょっとかぶっただけでガミガミ喚かれた。襟のホック、校帽の着用も義務づけられており、実に情けなかった。これでは中坊ではないか。

 校舎じたいが、麦畑に囲まれている丘という悪条件下にあり、生徒指導室から丸見えだった。「難攻不落のチガサキ要塞」といわれた。

 うわさでは生徒指導の教師が、看守よろしく一日中望遠鏡で見回し、あまつさえ地下室にドーベルマンを飼っているという噂すらあったが、これはガセであろう。生活指導の教師は日体大出身で、あだ名も「ニッタイダイ」。

 さて諸君、ここで本日のテーマである学校脱走学を講義するとしよう。まず、グループを作りたまえ。名称は映画のように「学校脱走委員会」などがキュートである。

 次になにか特技がある奴を集めよう。例えば、足が速い奴、病院の跡取りなどがいればごきげんだ。彼には親父の診断書を大量に偽造してもらおう。私たちの脱走委員会には、医者は医者でも歯医者の伜がおり、彼に大量の診断書を作らせた。今思えば、歯医者の診断書などリアリティに欠けるにもほどがある。

 美術部長がいたので委員会に引きずり込み、美術部員の証明書(そんなもんはありません)を偽造してもらい、印鑑のひとつも押した。当時のわが高校は1流高にそれいけ、やれ行けで、息もできぬファショ高校だったが、美術部のみは、放し飼いで、授業中も美術室で描いていられたからだ。だから、私も美術大学志望ということにした。言うまでもなく、絵はまるでダメ。

 後は、足が遅い(校内マラソンでドンケツだった)のと、サルトル好きで有名な生徒会長。そして、ともかくガッコを逃げたい、パチンコ屋に入り浸りたい、その一心で参加したヤンキーの総勢5人である。言い忘れた、ヤンキーの特技は足が異常に速いことである。

 次に重要なのは、脱出ルートの選定。真正面の学校玄関ルートは、一度やってみたかったが、リスクが大き過ぎた。そこで一番北側の化学室の窓から逃げることとした。

その授業がある時を調べる。それはティーチャズ・ペットの生徒会長に職員室から全学年授業表を盗んでもらう。それにしてもなぜ、全校でも1、2位の彼がわが脱走委員会に加わったのか。後で聞いたら、「実存の投企」をしたかったのだそうだが、なんのことやら。

 全学年授業表が手に入り、準備万端、時は来たりぬ。学生カバンには、当時の私たちにとっての大都会である藤沢での着替えも入っている。できたら学生服を裏返せば、ジャケットになるようなものが欲しかったが゛これは無理である。 歯医者の伜など、いざという場合に備えて自分の病院の診断書まで持っていやがる。君らの分もあるよ、と人のいい笑みを浮かべている。やや頼りないが、いい奴なのだ。しかし、全員が歯医者の診断書を持っていたらオカシクないか?

 まず教室からふける。ふけるというのも大変なのだ。私など、いきなり次の授業の教師に廊下で出くわした。しかし堂々と「僕、芸大志望なんで美術室にいますから」とニコニコ。われながらなかなかの悪人である。芸大、受ける気もない。

 そして一目散に化学室へ。全員集合。欠員なし。あらかじめ置いてあった学生カバンを持って、窓から飛び出し、麦畑の畦道を這うように逃げる。黒い学生服がベトコン服のようでありがたい。

 予想どおりヤンキーがトップ、私が2番、絵描き、歯医者、そして思ったとおり生徒会長がケツである。ああ、仲間にするんじゃなかった。しかし、駅まで最短距離である3キロは頑張ってもらわねば困る。最短距離は線路だ。線路を走ったことがおありだろうか。砂利が敷きつめてあって足を取られ、枕木に足が引っかかる。それは走りにくいのだ。

 私はといえば、脱走が成功したら、藤沢オデオン座で上映していた「ロメオとジュリエット」の3時30分の回を観る気でいた。私はオリビア・ハッセイの純粋な美しさにゾッコンだった。あの黒い艶やかな髪、輝く瞳(←なんつう俗な表現)。

待っていてくれぇ、オリビア!今、行くぞ!はっきり言って、バカである。

 ひーひー言いながら錆びた線路を走る。そう、脱走とは走ることと見つけたり、なのである。最大の難所は川にかかった鉄橋だ。ここで万が一にでもディーゼル車と出くわしたら、今私はここにいない。生徒会長はもはや真っ青。いつ川に転落して、サルトルの本と共に相模湾の魚の餌となるかとヒヤヒヤした。

 そうして下車駅に着く。これはかねてから調査済み。駅員は単線路線だからいない、バッチリ。ディーゼル車が走り込んでくる。諸君、脱走成功!と、思ったら、あろうことか、運転席からボーグナイン機関士が降りてきてこう言った。

 「おい生徒、なんでこんな時間に帰れるんだ」。歯医者の伜が、診断書をヒラヒラ振ったが相手にされなかった。そりゃそうだ、全員3㎞マラソンで健康そのもの、汗びっしょりだったのだから。

 そして15分後には、うれしそうな顔をしてニッタイダイがお出迎えに来た。私と生徒会長を見つけると、あれっという表情を浮かべた。かくして、小学校からいい子で通してきて、ノーマークだった私は、これで一躍、要監視対象者となってしまった。処分はなかったが、全員親が学校に呼ばれて説教を受けた。

 この後、懲りずにメンバーを変えながら2回脱走を試み、共に成功する。

 写真は、ブルースマンの人形。

 

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コメント

ほほほ、ぶんぶんこは、霞ヶ浦周辺の明治からの高等女学校の中しか知らないから、早朝侵入の方が大変だったわ。
 裏門の塀には鉄条網が回され、ガラス片が埋め込まれていたの。
あれは、早起き学習女学生の侵入予防にしては、厳重だったと思う。

 逃亡をする必要がありませんでした。進学のために点数を追わないもの、上げないものは、居ながらにして存在しない扱いとなりました。反抗するにも、結局自分に降りかかってきたように思います。イラクの人質事件のときにあったような「自己責任」のようなものでした。だから進学する意味がわからず、学業が苦痛でした。一種のおちこぼれ、そのころからはぐれものでした。とはいえ、小心者、大学には「学歴」のため行きました。なによりも脱出したかった。そこで友人たちに会わなければ、科学・学問というものを少し垣間見ることがなかったら、ほんとに無意味な青春をおくったかもしれませんでした。ただ、あまりにも「勉強」をしなかったので、「逃げてばかり」ですので、いまだに冷や汗をかいています。勉強はだうだったかは知りませんが、逃げてはいないブログ主様の人生との違いです。

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