わが盟友について
一昨日まで連載した「なぜ日本農業は大規模化できなかったのか」の中で、私は戦前の地主制度の評価にはさほど踏み込みませんでした。私自身の勉強が不足していることと、村に住んでいて実感のないことは言えないなぁ、と思ったからです。私は旧地主を何人か知っています。ひとりは、パルと産直事業をしているGという有機農業グループを創設した時からの10年来の盟友のIです。
Iの亡くなられたお父上にも入植直後にお世話になっています。私が米の苗を全滅させてしまって途方に暮れていた時に、苗をわけて頂き、さらには田植えの方法まで手を取るように教えてもらいました。それからも、なにくれとなく私のようなにわか百姓を助けてもらったことを昨日のことのように思い出します。
亡くなられた父上と替わるようにして、Iが私の農場に遊びにきました。そして息子まで。当時彼はまだ慣行農法でしたが、私が説くいいかげんな有機農業の可能性にフムフムと耳を傾けてくれました。息子は息子で、うちの農場のヒヨコが欲しいといい、ほんとうに生きもの好きの優しい子でした。しかし、彼は高校の時に持病で不慮の死を遂げます。その時のIの嘆きぶりは、今思い出しても胸が痛いほどでした。
さて、Iと私は、10年前の1998年に有機農業の産地を作ることで盟約を結びました。身長は180センチほどの大男、腹はボコンとでっぷり、腹の上でトランプ大会ができます。なんとも言えないような温かい表情を見せます。そして、なにより天性の指導者タイプなのでしょうか、押しつけがましい態度ではなく、そこ に彼がいるだけで皆、安心できるようなキャラクターでした。いわば人と人のネットワークのハブになるタイプです。
ともすれば、たいしたことがない智と弁に走りがちな軽薄な町っ子の私には到底まねできないことでした。地に根が張る楡の大木のような男は、私は彼しか知りません。唯一の欠点は、情熱に任せてしゃべり過ぎること。しかし、智と弁の私と、人をまとめて束ねることが天性の彼との凸凹コンビで、「有機農法G」ができたことだけは間違いありません。
また、関西にはOさんという紀州の旧家の当主がいます。非常なやり手で、常に商機を伺って逃さないタイプです。その部分が、わが盟友Iとはまったく性格を異にする部分です。Iは「どうしていつもいつも」とぼやきながら、やらなくていいような世話を焼いてしまうタイプでして、ですからわがGは商業的には今ひとつブレークしません(苦笑)。
しかしこのご両人、どこか似ている点があるのです。それは村に対しての責任の取り方です。一方は関東の平野部、一方は急峻な紀州の山と住む場所は異なっても、彼らには、自分が生きる村に常に「責任」を持って生きているという共通項があります。自分の村に対してなんとしてでも繁栄を引き寄せたい、ぜったいに自分の村を潰させはしないゾ、とでも言いますか、その気迫があります。
普通の村の衆にこんな責任感があるでしょうか?まず、ないと思います。自分が儲かることには気迫がある人でも、それを村全体、いや字の単位でも拡げる気などないのです。まして、村全体で共に成長していくことなどはまったく念頭にはないと思います。
若き日の私は、地主制を封建的抑圧体制としてだけで見ていました。絞るだけ絞って、自分は豪華な家で踏んぞり返っている。村の娘が女郎に売られても気にもしない、年貢を払え~といった教科書的なイメージです。しかし、現実に出会う旧地主たちは、むしろ清廉であり、質素ですらありました。経済的に成功した普通の村の衆が、すぐにクラウンに乗りたがるのに対して、旧地主のIはいつも30万円で買った中古のバンで走っていました。いや、今でもそうです。つまり彼は、車などには権威を認めないのです。
Iが一番嫌がるのは自分の事しか考えないミーイズムです。せこいことです。決められた規格を守らない。出荷時期をはずす。不可抗力ならともかく、値がいいので他に売ってしまって産直に穴をあける。このような背信行為にはIは厳しかったと思います。いったん集団を組んだ以上、個人の経済行為の自由な選択などはないのです。たかだか単価数十円で崩れてどうするという彼の強い気持を何回も目の前で見てきました。
そのようなわけで、私は「地主」という階層を抽象的に考えることができないのです。それはIやOさんを通して感じられることですから。私が知る限り、彼ら「地主」は凶作の時に平気でいられるような感性を持つ人達ではないと思います。むしろ、それを防ぐために奔走し、その先頭に立つ人達です。
もちろん、強欲で人間味がない地主も大勢いたでしょうが、一方秩父困民党のように、身を挺して高利貸しの証文を焼き払った人達の中に地主もいたのは確かです。秩父困民党事件の時に、地主が襲われたことはなかったはずです。
地主は村の中のディグニティ、つまりは「権威」です。権力そのものではありません。その起こりは、江戸期の名主や庄屋から始まっています。江戸期の庄屋たちは、凶作の時には自らの蓄えを放ち、一揆の時にその先頭となりました。九族が滅びた庄屋は多いのです。
明治維新の前夜、わが村は水戸天狗党の拠点のひとつでした。それに力を貸した、いや、それどころか天狗党に走ったのも地主の子弟層でした。無残な死を遂げましたが。村に電気を自腹を切って敷いたのも、優秀な子弟を書生として養い、大学にまで行かせたのもまた地主です。この有為な者を集めるという気風は、今でもIの中に生きています。だから、私や何人もの帰農者がこの村に来れたのです。
ご理解頂きたいのは、この地主が農村の柱であったことです。村という共同体は漠然とあったわけではなく、何本かの村を支える柱が必要であり、それを世代を超えて担う者たちが必要だったのです。
私は、Iたち一族を、この村を数百年の長きにわたってその肩で支えねばならない宿命を帯びたアトラスのような人達だと思っています。この高貴な宿命を、「地主」を継ぐ若者がどのように継いでいくのか、いまや歳ふりてしまった私は静かに見守っています。
写真は、上はわが農場の冬の夜明け。中はジャガイモの可憐な花と水を張った田んぼ。下はこれから出荷のトウモロコシ畑。
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