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2008年6月

わが盟友について

Img_0023  一昨日まで連載した「なぜ日本農業は大規模化できなかったのか」の中で、私は戦前の地主制度の評価にはさほど踏み込みませんでした。私自身の勉強が不足していることと、村に住んでいて実感のないことは言えないなぁ、と思ったからです。私は旧地主を何人か知っています。ひとりは、パルと産直事業をしているGという有機農業グループを創設した時からの10年来の盟友のIです。

Img_0004  Iの亡くなられたお父上にも入植直後にお世話になっています。私が米の苗を全滅させてしまって途方に暮れていた時に、苗をわけて頂き、さらには田植えの方法まで手を取るように教えてもらいました。それからも、なにくれとなく私のようなにわか百姓を助けてもらったことを昨日のことのように思い出します。

 亡くなられた父上と替わるようにして、Iが私の農場に遊びにきました。そして息子まで。当時彼はまだ慣行農法でしたが、私が説くいいかげんな有機農業の可能性にフムフムと耳を傾けてくれました。息子は息子で、うちの農場のヒヨコが欲しいといい、ほんとうに生きもの好きの優しい子でした。しかし、彼は高校の時に持病で不慮の死を遂げます。その時のIの嘆きぶりは、今思い出しても胸が痛いほどでした。

 さて、Iと私は、10年前の1998年に有機農業の産地を作ることで盟約を結びました。身長は180センチほどの大男、腹はボコンとでっぷり、腹の上でトランプ大会ができます。なんとも言えないような温かい表情を見せます。そして、なにより天性の指導者タイプなのでしょうか、押しつけがましい態度ではなく、そこ に彼がいるだけで皆、安心できるようなキャラクターでした。いわば人と人のネットワークのハブになるタイプです。

 ともすれば、たいしたことがない智と弁に走りがちな軽薄な町っ子の私には到底まねできないことでした。地に根が張る楡の大木のような男は、私は彼しか知りません。唯一の欠点は、情熱に任せてしゃべり過ぎること。しかし、智と弁の私と、人をまとめて束ねることが天性の彼との凸凹コンビで、「有機農法G」ができたことだけは間違いありません。

Img_0008  また、関西にはOさんという紀州の旧家の当主がいます。非常なやり手で、常に商機を伺って逃さないタイプです。その部分が、わが盟友Iとはまったく性格を異にする部分です。Iは「どうしていつもいつも」とぼやきながら、やらなくていいような世話を焼いてしまうタイプでして、ですからわがGは商業的には今ひとつブレークしません(苦笑)。

 しかしこのご両人、どこか似ている点があるのです。それは村に対しての責任の取り方です。一方は関東の平野部、一方は急峻な紀州の山と住む場所は異なっても、彼らには、自分が生きる村に常に「責任」を持って生きているという共通項があります。自分の村に対してなんとしてでも繁栄を引き寄せたい、ぜったいに自分の村を潰させはしないゾ、とでも言いますか、その気迫があります。

 普通の村の衆にこんな責任感があるでしょうか?まず、ないと思います。自分が儲かることには気迫がある人でも、それを村全体、いや字の単位でも拡げる気などないのです。まして、村全体で共に成長していくことなどはまったく念頭にはないと思います。

 若き日の私は、地主制を封建的抑圧体制としてだけで見ていました。絞るだけ絞って、自分は豪華な家で踏んぞり返っている。村の娘が女郎に売られても気にもしない、年貢を払え~といった教科書的なイメージです。しかし、現実に出会う旧地主たちは、むしろ清廉であり、質素ですらありました。経済的に成功した普通の村の衆が、すぐにクラウンに乗りたがるのに対して、旧地主のIはいつも30万円で買った中古のバンで走っていました。いや、今でもそうです。つまり彼は、車などには権威を認めないのです。

 Iが一番嫌がるのは自分の事しか考えないミーイズムです。せこいことです。決められた規格を守らない。出荷時期をはずす。不可抗力ならともかく、値がいいので他に売ってしまって産直に穴をあける。このような背信行為にはIは厳しかったと思います。いったん集団を組んだ以上、個人の経済行為の自由な選択などはないのです。たかだか単価数十円で崩れてどうするという彼の強い気持を何回も目の前で見てきました。  

 Img_0030_2 そのようなわけで、私は「地主」という階層を抽象的に考えることができないのです。それはIやOさんを通して感じられることですから。私が知る限り、彼ら「地主」は凶作の時に平気でいられるような感性を持つ人達ではないと思います。むしろ、それを防ぐために奔走し、その先頭に立つ人達です。

 もちろん、強欲で人間味がない地主も大勢いたでしょうが、一方秩父困民党のように、身を挺して高利貸しの証文を焼き払った人達の中に地主もいたのは確かです。秩父困民党事件の時に、地主が襲われたことはなかったはずです。

 地主は村の中のディグニティ、つまりは「権威」です。権力そのものではありません。その起こりは、江戸期の名主や庄屋から始まっています。江戸期の庄屋たちは、凶作の時には自らの蓄えを放ち、一揆の時にその先頭となりました。九族が滅びた庄屋は多いのです。

 明治維新の前夜、わが村は水戸天狗党の拠点のひとつでした。それに力を貸した、いや、それどころか天狗党に走ったのも地主の子弟層でした。無残な死を遂げましたが。村に電気を自腹を切って敷いたのも、優秀な子弟を書生として養い、大学にまで行かせたのもまた地主です。この有為な者を集めるという気風は、今でもIの中に生きています。だから、私や何人もの帰農者がこの村に来れたのです。

 ご理解頂きたいのは、この地主が農村の柱であったことです。村という共同体は漠然とあったわけではなく、何本かの村を支える柱が必要であり、それを世代を超えて担う者たちが必要だったのです。

 私は、Iたち一族を、この村を数百年の長きにわたってその肩で支えねばならない宿命を帯びたアトラスのような人達だと思っています。この高貴な宿命を、「地主」を継ぐ若者がどのように継いでいくのか、いまや歳ふりてしまった私は静かに見守っています。

 

 写真は、上はわが農場の冬の夜明け。中はジャガイモの可憐な花と水を張った田んぼ。下はこれから出荷のトウモロコシ畑。

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村に養蜂家がやって来た!そしてヤギ汁の大宴会!

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 恥ずかしながら、実は私、養蜂家になるのが帰農した頃からの夢でした。養蜂家って農業の変わり種なんですよね。
 
 なによりも、一カ所に定着しません。これは街の人にはピンとこないかもしれませんが、スゴイことです。農業というのは自分の圃場の土に依拠しています。言ってみれば、土に生えている樹のようなものです。樹がどしっと動かないように、お百姓もあまり動きません。
 仲間のかぁちゃんに聞くと、県都である水戸に年に一回行くか、行かないか。近くの鹿島ですら月に一回行くけっなぁ・・・とのこと。うちの夫婦のように、年がら年中、アッチに行ったりコッチに行ったりと遊びまわっていないことだけは確かなようです。
 
 さて、養蜂家は「旅をする農家」という不思議な人たちです。農業の定着という宿命から唯一日本で解放された農業人種なのです。かつて住んでいた沖縄のヤンバルに来た養蜂家のザキミさんもそんな人で、沖縄のウリズン(若夏・5月)の頃に山イッパイに咲くイジュという広葉樹の白い花をミツバチに吸わせるために年に一回来ます。トラックに30くらいの巣箱を乗せて、選挙の候補者よろしく手を振りながらムラにやってきました。
 
 その夜は三線と踊りの大歓迎会です。こういう時のウチナーの凄まじいまでのエネルギーには圧倒されます。
 宴のメインディシュ(てなもんか)はヒージャージル(ヤギ汁)です。ザキミさんが来る日はあらかじめ分かっていましたから、前もって用意してあった若いヒージャー(山羊)をツブします。これがオキナワ流の最大のもてなしで、その準備に朝から大変。この準備自体からもう既に祭が始まっているようです。
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 山羊をゴツンして、逆さにして血を抜きます。この血は洗面器に集めて後から別な料理に使います。毛はバーナーで焼き、皮を剥いでと、やることが一杯です。男衆は、器用に出場包丁を使ってスイスイと仕分けていきます。
 そして一番ジョートーロー(上等)の肉は、刺身にして、一番偉いクチョーが食べる。
 このヤギ刺身は珍味。オキナワではワサビはほとんど使わず、酢味噌に泡盛を入れたタレで食べます。
 次いで、タマキンも茹でてスライスし、まだ子供がいないリョーイチさんに食べさせます。白子風です。そして皆んなで大笑いしながら「チバリヨー、リョーイチ!チバリヨー!」(がんばれ、リョーイチ!)。新婚間もないリョーイチさん夫婦は真っ赤になりました。何に頑張るのか、まったくもう。子供がタマキンスライスを盗み食いしようとすれば、「お前にはまだ早い」とハタかれます。
 洗面器に取った血もチーイリチー(直訳すれば血炒め)にして、テキトーに野菜と炒め合わせて食べてしまいます。これは鮮度が勝負なので、さっさと料理してしまいます。なんせ、当時この「幻の村」には電気がなかったので、冷蔵庫などないのです。チーイリチーはレバーのような味と、モソモソとした食感で、案外いけました。
 後の肉と臓物は、肉は骨ごとブツ切りにして、煮こぼして茹でます。臓物は丁寧に小麦粉をまぶしてよく水で洗います。腸の中は特に丁寧にウンコを出してきれいにします。フテンマさんの奥さんはこの達人でした。慈しむように、ヤギの命を受け継ぐように、丁寧に、それは丁寧に洗浄していました。
 調味料はハードボイルドにも塩だけ。これをコトコトと、薪で3時間くらい煮るとこれぞオキナワのもっともディープな食といわれるヒージャー汁の完成です。フーチバ(よもぎ)としょうがをゴソッと入れて食します。
 煮えたヤギ汁の味見は、不肖ハマタヌが命じられました。「うりぃ、ナイチャーの兄さん、食べてみなさいよぉ」とクチョーの厳命。周りの村の仲間がニヤニヤと笑いながら私を観察しています。「ムリに食べんでいいからねぇ。吐き出したらもったいないよぉ」
 
 確かにあの匂いはすごい。ワキガがすごい外人さんを、1週間ほど山羊小屋に閉じ込めたようなフレグランス!大部分のナイチャー(本土人)はだめだそうです。しかし、ウルムチ、カシュガル、ラサ、トルコといった羊文化圏で鍛えあげたこの鉄の胃袋の私にとってなんのことやあらん!
 皆様の期待に反してわしわしとたいらげてしまいました。わ、はは。しかし、周りの村の連中はまだニタニタしている。「ハマタヌさん、今晩大変よぉ」・・・なんのこった?
 え~、その宴が終えた(2時だぜ、2時)夜、分かりました。全身がぽっぽとほてるのです。血行がすさまじい勢いで廻る、廻る。地球は廻る。私も廻る。酒ではない血行流通。
 そして訳もなく、ウヒャヤと笑いたくなる。ヒージャー汁がヌチグスイ(命の薬)というのがしみじみ分かりました。ありゃ合法ドラッグですな。昔、イトマン(糸満の漁師)が、子供を潜水で使った後に、体温を戻すために喰わせたという理由が分かりましたね。そして数日間、私の全身からあのヤギ・フレグランスが漂っていたらしく(当人はわからない)、奥方にアッチに行けと嫌われました。
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 さて、この養蜂家のザキミさんがなぜ大歓迎を受けるのでしょう。それは農業の大きな助け役になるからです。そう、受粉係なのです。
 カボチャ畑の横に巣箱を置いてあげるので、リョウイチさんは大助かり。タンカンを作っているフテンマさんも大歓迎。
 一種の花咲爺です。季節とともに来て、農家の役にたつから大歓迎されて、毎日酒宴を開いてもらい、しかも健気な従業員は餌いらず、だって勝手にそこら中から餌を採取するわけですからね。ニワトリではこうはいかない。餌を買ってこなきゃいかん。
 そして、従業員のハチたちがが腹いっぱいになって、蜜をしこたま蓄えたら、そろそろこの土地にも飽きたんで別な土地へと旅だって行く。ああ理想的な人生ではないですか。
 もちろん、現実の養蜂家の生活は厳しいそうです。トラックで寝る日も多いし、重い巣箱の移動で腰にも来るそうです。第一家族は学校の関係で連れてこれないので寂しいんだと、ザキミさん。
 しかし、だとしても、フーテン農家の養蜂家、いいよなぁ。
 写真は私の養蜂のお師匠のキラさん。蜜が溜まった巣箱を遠心分離機にかけているところです。中は遠心分離機の中に蜜が溜まっているのが分かりますか?下は、採れたばかりの自家製の蜂蜜。

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なぜ、日本農業は大規模化できなかったのか 最終回 農家が土地を売らないわけ

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戦後日本農業が小農(小規模農家)の大量生産から始まり、それは同時に農地の諸外国の20分の1という細切れをもたらしたということを前回お話しました。

 コメント様がご質問の「なぜ、日本農民は土地にしがみつくのか」を今日は考えてみましょう。肝心なご質問への回答まで時間がかかってしまいました。しかし、農業をご理解いただくためには、それなりの前知識がいると思いましたので、いらいらしたでしょう。ごめんなさい。

 まず頭においていただきたいのは、農地というものが政策的に極端に流動性を制限されている地目だということです。農地売買の番人というべきかの悪名高き「農地法3条」というものがあります。これは、農業者資格を持つ者しか農地を売り買いできない法律です。法人は基本的にできません。できる法人は限定されおり、有限会社までです。この法律が厳密に適用されているために、農業外からの異業種参入はできませんでした。今は3条を撤廃する方向ですが、現実には進展はみられません。つまりは、農地は農家の中だけでしか流通できない非常に特殊な地目なのです。

 農水省の頭にあったのは、小農を保護する、その基盤である農地を異業種に買わせないことが基本方針だったということがわかります。現在は、WTOに対しての危機感から、農水省は大きく梶を切って大規模化、異業種参入歓迎の方向を取り始めましたが、WTOが決着まじかでは余りに遅過ぎる気がします

 さて、農水省はかつても大規模集約化を考えたことがありました。だいぶ前で、1960年代から70年代にかけてのことです。それは大規模化と謳うと抵抗があまりに大きいので、減反政策という衣を着ました。田んぼの作付けを仮に一律2割減という政策です。これは一見、食管が財政的に持たなかったという現実的な理由に見えますが、高度成長期に農村から若年層を中心に都市労働者となっていった都市への人の流れを、決定づけようとする意図が感じられます。

 農水省はこう考えていたと思われます。今までの「作りさえすれば、親方日の丸が丸ごと買い上げてくれる」というぬるま湯的な小農保護政策から、減反ショックを与えることで、立ち行く農家と立ち行かない農家を仕分けする。そして立ち行かない農家には都市に働きに出てもらい、その土地を強い農家が買い上げて大規模集合化する。農水省は口が裂けてもそうは言わないでしょうが(言ったら大臣の首が飛びます)、本心はそのあたりにあったのではないかと私は勘ぐっております。

 そして補助金も薄く広くではなく、このような強い農家に集中的に出すようにしたらどうか・・・と。このような考えはこの時期だけではなく、今に至るも4品目横断政策、かつての地域中核農家構想の流れへと続いていきます。たぶん農水省内にも二派あるのではないでしょうか。 

 ところが、この隠されたもくろみは大きくはずれました。農水が期待していた大規模化の道を農家は選ばなかったのです。農家は揃って土地を売らず、兼業化の道を選んでしまったからです。

 いちおう農業に本籍だけ置いて、現住所の実態はかぎりなく都市の勤め人。1年で農業するのはわずかという兼業化に道を拓いてしまったのです。土地保有者兼賃金労働者というのが、現在に至るも「農家」の大多数です。確かに農家に住み、村のつきあいはしていても、実際年間1週間も農地では働きません。むしろ土地保全管理者が、荒れないためにまぁ、ひとつ芋でも植えるか、ていどの農業です。米など圧縮すればトータルで1週間以内の労働です。

 よく長谷川慶太郎さんあたりに揶揄される「農家に車4台」というのは、別に農家によぶんな金があるわけではなく、単に子供たちが皆揃って町に働きに行く兼業農家のいち風景にすぎません。しかし、この兼業農家ですら、土地は売りません。なぜなのでしょうか

 その理由の深層には、農家の「土地」に対する深い思い入れがあります。農家の自我の核心には常に「土地」がデンとあるのです。もはやDNAの塩基配列にも刻印されているように思えるほどです。たとえば、隣家との境界の寸土に口角泡を飛ばす、隣の畑をジリジリとトラクターで削っていく、隣も気がつくとやり返す。まことにいじましいまでの農家根性です。

 しかし、それだけでは説明がつかないのです。というのは、ならば公共事業にかかることをなぜあれほど望むのでしょうか。わが村にも高速道路とインターができるそうで、村はこれが自分の土地にかかるかどうか注目しています。県の複合団地ができた、湖を超える大きな橋梁がかかるという計画が来るたびに村中大騒ぎです。条件がよければ、売りたくてたまらないようにすら見えます。

 日本の地価が限りなく上昇を続け、土地を持っている限り不動産資産が日増しに大きくなり、担保価値も上昇を続けるという土地神話がありました。こんなかつての時代状況で、農家が土地を安易に手放すはずもないではないですか。なぜなら、農家ほど土地を信仰している人達はいないのですから。

 これが「農家が土地にしがみつく」もっとも大きな現実的な理由です。農地は農家しか売り買いできず、従って流動性が極端に低い資産だとしても、右肩上がりの資産価値増大という幻影にとりつかれ、担保価値により有利な金融が受けられるというメリットで農家は土地にしがみ続けたのではないでしょうか。

 そしていまひとつの理由は、農地を買う側からみれば買うメリットがなかったことです。要するに、高過ぎたのです。農地という特殊な地目は、農家しか買えず、農業しかできません。となると、農業生産で採算の合う地価相場というものがあります。妥当な地価相場は、年間収益の5年間分だと言われています。 仮に米だとすれば、反10万円/年の5年間分で50万円ていどなら、5年間の償却期間を経て合うという計算になります。しかし、それが300万円だぁ、などと言われたら誰が買いますか。実際、バブルという土地神話全盛の頃にはその相場でした。これで誰が買うでしょうか、20年もかけて償却するような土地に。

 この間の土地神話の崩壊は、わが村の農地の地価を大きく落としました。一時は反300万円超(坪1万円)、都市近郊では1000万円を超えた農地地価も、今はその4分の1ていどの相場80万円ほどとなりました。水田など30~50万円です。自慢ではありませんが、わが村は純農村地帯なので、路線価で近在一安い(笑)。

 こうなるとさすがに、土地は流動化を始めます。「誰か買ってくれないかのう」という声がようやく出てき始めます。残念ながら、その時には農業が衰退しきり、買う人とていないのですが。

 また一方、農家の内部にも土地を手放さないというか「手放せない」理由が内在していました。土地は当主(長子)の持ち物ではないのです。それは一族のモノなのです。相続にあたって、土地を分割しないように下の兄弟は相続放棄をして、長子が一括して相続をします。ですから、いわば借りを兄弟から貰った形の長子が勝手に売り買いしようものなら、大波乱です。土地を売るに際しては、親兄弟が映画「八墓村」よろしく広間に集まり鳩首協議します。ひとりでも「うんにゃ」といえばお終い。世の中、金と土地ほど確執を生むものはないのです。ですから、そうそう簡単に売れないわけです。

 そんなこんなの利害が絡んで、農家は皆んな揃って兼業、皆んな揃って土地を売らない、ということになっていってしまったのです

 そして今、農村の皆が老い、農地を耕すことはおろか、草だらけにしてしまうという耕作放棄地という事態にまで到りました。この問題については、私のライフテーマですので、また稿を起こします。また、本稿において、農協や自民農政族が果たした役割は、煩雑に過ぎるのでバッサリ切りました。これはこれで戦後農業を考える上で、大きなテーマですので、そのうちということで。

 長くなりましたので、このシリーズはこれで打ち止めとします。コメント様、これでお答えになったでしょうか。忌憚のないご意見をお待ちします。

写真は収穫直前のジャガイモ畑。

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なぜ、日本農業は大規模化できなかったのか?その3 1.5hに農地が揃ったの謎

 Img_0008                                            

 議論を進める上で、大変にありがたいコメントをいただきました。感謝します。

 自給的な経済がなぜ崩壊したのかの原因にふれた後に、コメントにありました「土地の流動化がないのが、大規模化を阻んでいる」というご意見にお答えいたします。

 農家がなぜ自給的な経済構造から、今のような中途半端な商品経済に漬かるようになったのか、その理由は簡単です。平均1.5ヘクタール(1.5町歩)という耕作面積では「自給とわずかの現金収入しかできなかった」からです。

 そもそもこの1.5ヘクタールという中途半端な面積で、なぜきちっと日本農民の耕作面積が揃っているのかということに、疑問をもたれたことはありませんでしたか?あまりにもピタッと揃いすぎている。自然では、こんなことはありえないと思いませんか。

 これには理由があります。占領軍GHQ、つまりは米国の押しつけた独善的な占領政策によるからです。GHQ民生局は、日本の土地制度を「悪」でありファシズムの温床として解体をしました。まことに傲慢なことです。

 軍事占領下における、当該国の内政に干渉するのはあきらかな国際法違反です。この問題には立ち入りませんが、日本農業と農村社会にまったく無知なアメリカ人がいじくり回したおかげで、戦後日本の農業は出発点からしておかしなことになったことだけは確かです。この最初のボタンのかけ違いによって、今に至る日本農業経済の脆弱性が構造化されてしまったわけです。まったくヤレヤレです。

 思えば、現在、イラクでやっている失敗にどこか似ている風景で、まことに歴史を省みない国といいますか、懲りない国です。イラク統治を、日本型占領モデルの成功例を踏襲すると聞いた時にはのけぞりましたね。そうかぁ、連中は日本の占領を成功と総括しているんだ・・あ然、ぼう然、がく然、そして大笑い。

 閑話休題。この1.5ヘクタールは「農地解放」という美名で実施され、日本の農地は細切れになりました。農地は二束三文で叩き売られました。私の仕事の相棒は旧地主でしたが、今でも子供心にムシロ旗で自宅が囲まれ、居間にまで土足で乱入されるような集団恫喝の記憶を苦々しく語ります。

 その後、彼の一家は鍬一本から買わねばならない生活に入ったそうです。かつての小作のガキ共は、彼をあえて対等以下の立場のようにくさしたそうです。

 面白いことに、秩父困民党などの明治期の民衆蜂起の先頭には、地主層が立っています。そして多くの死者を出しています。あるいは、現在の有機農業をしているグループのリーダーには、驚くほど旧地主階層が多いのです。その土地と人に責任を持ち、共同体を永続させる責任者の役割です。地主は単なる収奪者ではなく、地域に対しての大きな樹、いわば主護神の誇りという側面もあったのです。

 そのように考えると、地域の守り手である大樹を外国が手前勝手にファシズムと決めつけ、切り倒した後には、ゆっくりとした農村共同体の死滅が待ちかまえていたのです。

 さて結果として、非常に多くの小農(小規模農家)が生まれましたが、このていどの面積では、私の乏しい経験からも、自給とわずかな現金収入しか得られません。自給的な部分だけでも、当時の農家の平均的な所帯人数の6人~8人が食べるには、米作で2~3反、野菜や雑穀、芋類、果樹などで3~4反、すると商品作物に当てる部分は、わずか8反~1町反ていどになってしまいます。これは腰だめの数字ですが、大きくははずれないはずです。

 一方、他の敗戦国である独、伊に対してはこのような内政干渉まがいの農業政策は取られませんでした。たぶん事実上の米国による一国支配である日本と、英仏などの同じヨーロッパ諸国が連合して占領政策を敷いた差でしょう。ですから、独、伊には、戦前の土地所有制度である地主制が残りました。

 日本の地主制が、山林を除き徹底的に解体されたに対して、欧州は大規模な土地所有制が残ったわけです。これは、後に大きな農業にとってのプラスになります。つまり、日本の寸断された自立経営も難しい小面積の耕作規模に対して、その20倍以上の面積という圧倒的なアドバンテージがあるからです。農業では耕地面積の大きさは、そのまま競争力の指標となり得るからです。

 これだけは明確に言い切れますが、戦後の「農地解放」がなかりせば、日本農業の戦後はまったく様相を変えていたことだけは間違えありません。そして、紆余曲折の後に、今よりはるかに強く、そして自立した国際競争力を持つ農業だったことでしょう。この芽を潰したのは、世界最大の農業輸出国のアメリカでした。その理由は言うまでもなく、太平洋を挟んでの将来の農業のライバルをあらかじめ潰すためです。 

 かくして、戦後日本農業は農業経営としてそもそも成り立たないような小面積から出発したために膨大な数、当時の国民の人口の約6割もの小農を誕生させてしまいました。これが、先日頂いたコメントの「日本は他国より農民数が多い」理由です。

 現代の脱産業型社会の観点からすれば、自給的な循環型社会と生活を営む農民は豊かに思えるでしょうが、この豊かさの背後には、この方法でしか喰えないという哀しい農民の現実があったことを忘れてはなりません。農民は自給的な暮らしを賛美されれば、気分としては非常に誇らしく、反面、一抹の苦さも抱えていることをどこかで心にとめていてほしい気がします。その両面を見て初めて「農」が分かるのですから。

 皆様、お退屈でしょうが、今少しおつきあいいただければ幸いです。

                            (この稿続く・次回終了)

*本稿の初稿で「小作農」と記してしまいました。これは「小農」の間違えです。ニーニャ様のご指摘に感謝します。なお、上記は訂正済みです。

写真は、冬の母屋。

 

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なぜ、日本農業は大規模化できなかったのか? その2 農家の自給自足はすごかった

                                            やや本筋から離れるようですが、なんでこんな低所得で農家が暮らせるのかは謎ではありませんか?Img_0008 どこかに隠し金がある、先祖の遺品を喰い売りしている?

 違うんです。農家は衣食住をほぼ自給自足できてしまうのです。現代においてもです。都市の人にとって夢物語ですが、農家はまぁ、なんとなくという感じでできているのです。

 なかなか面白いですよ。まず、主食の米は、文句なしに100%自給可能です。昔は一日に1一升飯を炊いていたそうです。一升、一升ですゾ!当然電気釜ではダメで、ガス釜。まぁ、20~30㌃も自給田んぼがあれば、喰い盛りの部活高校生が2、3匹いても大丈夫です。ただし、出荷米は減りますが。

 小麦を作れば、うどん、パンができます。今はいい品種がでてきています。ソバも簡単な作物です。種になってからが大変ですが。芋もはずせないでしょう。芋があれば、おやつに主食の代役に、はたまた豚も飼えます。餅米は5畝(0.5㌃)も作れば、死ぬほど餅が食べられるでしょう。農家は一家に一台餅つき器があるのですよ。

 野菜も100%大丈夫。肉、卵も、まぁ大丈夫でしょう。裏庭のトリ小屋に10羽も飼っておけば、部落内に配るほど出来ます。産まなくなったヤツから締めればいいわけです。豚肉はこれとの交換で、たまに喰えるでしょう。肉などたまでいいのです。魚は裏の湖や小川で釣ってきましょう。釣るのがメンドーなら、漁師さんと、お互いはね出しの品と物物交換をすればいい。

 味噌は、自分の所の大豆で楽々と出来ます。米国大豆で作った市販品など足元にも及びません。醬油もかつては、醬油屋が村々を巡回して絞っていました。

 お茶も生け垣にしている茶の若葉を摘んで(ちょうど今頃)、かつては村の焙煎所に持っていってお茶にしてもらっていました。そうそう、餅米も、地元の煎餅屋に持ち込んでいたそうです。さすが、これらは今は消滅。残念。

 果実は、栗、柿、ユズなど豊富。わが地方など、これに出荷ハネ出しのメロン、イチゴが村内で行き交います。

 酒すらも、これは自給するといかんらしいのですが、昔は平気の平左でした。芋焼酎、ドブロクなどあたりまえに作っていたのです。実際、売り買いしなければ、税務署も目こぼしだったということです。

 油は菜種から素晴らしい油が採れます。腰のあるいい菜種油が絞れました。わが家も今年、絞りました。これも昔は各地にあったそうです。

 このように考えると食に関しては、あたり前といえばあたり前ですが、完全自給自足が可能です。可能でないものは村内の物物交換、都会の方の好きな表現でいえば、「地域貨幣」的な発想で楽勝に乗り切れます。

 ただし、以上はあくまでも理念型で、実際これほど自給自足をしている農家は皆無ですが、今でも都会の人とは質量ともにレベルが違うことはわかっていただけたでしょうか。

 余談ですが、実際うちのカミさんは、村内の社交ダンスクラブでもうかれこれ10年以上もやっていますが、クラブがある2日間に、うちの卵と交換して来る農産物の多いこと、多いこと。時には、野菜、餅のたぐいはとうぜんとして、湖のコイの甘露煮まで来ますからね。今はジャガイモとキャベツの洪水で、出荷コンテナ2杯ずつは貰ったかな。おかぁちゃんらは、この物物交換したくて、クラブをやってんのかといった感じです。

 つまり、農家というのは生活費を信じられないくらいかけずに生きられる人達なのです。

 暮らすことは全部自分の圃場と村内の中でなんとかなる。しかし、そこから余るというか、足りないのが、なにを隠そう子供の教育なのです。これがいちばん堪える。教育はわが民族のいいところでもあり、弱点でもあります。

 次回、なぜこの自給自足構造が崩れたのか見た後に、次々回でご質問の「なぜ農家は土地を手放さないか」に迫ります。

                             (この稿続く)

写真は、村の谷津田に続く小道。私の大好きな散歩道。

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なぜ、日本農業は大規模化できなかったのか? その1 農家規模を見てみよう

Img_0017  昨日のコメントで「なぜ日本の農業が大規模化できなかったのか?」という提起をいただきました。ありがとうございます。この謎は、私も入植して以来ずっともってきた疑問でした。

 まさにそのとおりで、日本の耕地面積は、日本より国土が狭いドイツの20分の1、イギリスの38分の1でしかありません。イタリアの26分の1だと思います。

 米国やオーストラリアに至っては、もう比較するもイヤになるくらいで、たぶん100分の1以上のケタ違いの差があります。先日日本に来た米国のNONGMの生産者は、400何十ヘクタールとか言っていました。実にわが国農家の150戸から200戸分です。わが村の耕地面積を全部を集めた規模かもしれません。足がヘナヘナ~。

 もはや、笑うしかない規模の差でありますな。数倍だったら日本農民魂をかきたてて勝負を受けてもいいが(←することか)、十数倍では隔絶的戦力差、100倍ともなると住む世界が違うってかんじです。これらを比べて一緒に「農業」、「農民」と呼べるのかという気持ちもなってきます。

 先日、ドイツへ交流に行ったうちの村の農家の跡取りが、「もう、規模聞いたら、ガックリきちゃいましたね。一軒でうちの字全部くらいやってんすよ。トラクターは同じ馬力だから、かえってやってらんねぇやって感じでぇ」と正直なことを言っていましたっけ。

 ちなみにわが農場は、1.7ヘクタールの自己所有地と40㌃の借地で、合わせて2.1ヘクタール規模です。まさに大きくもなく、小さくもなく、ドンピシャ真ん中程度の面積です。

 では、この経営規模から来る収益はというと、平均耕作面積を1.5ヘクタールとして、米作をした場合、反収8俵(1俵=60㌔で480㎏)、資材を引くと140~150万ていどとなります。そうですね、高卒の自分の娘が、町に働きに行ってスーパーで働くより稼げないのではないでしょうか。

                        (この稿続く)

写真は、わが家の蜂蜜づくりの風景。うちの自家製の蜂蜜のうんまいこと~!

 

 

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日本農業に対する質問に答えて その2

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Q5 現在のコメの価格についてどう思いますか?

日本の農業はつまるところコメであり、それはエコシステムの保全という役割をもっています。日本の農産物にはいわば環境保全コストが乗っていることを忘れないで下さい。

仮に、この環境保全コストによって国内産のコメが多少高くなったとしても、あなたの子供、孫へ渡すべき日本の水と土の安全というかけがえのないものとは比べようがないのではないのではないかと思います。

Q6 米価の下落や高齢化などで農家が減っていることについてどう思いますか?

ある統計では、この先の5年で山間部の集落は半分以下になるといいます。

私の地域でもいくつかの農業団体が自然消滅の危機を迎えています。なにか事件があって団体が消滅するのではなく、跡継ぎがいない、自分も年金受給の歳になった、無理はしたくない、身体が動かない、かぁちゃんが寝込んだ、畑や田んぼを荒らしたくないだけでやっている・・・。

高齢化問題は、今そこにある危機です。もうまったなしです。しかし、それがゆっくりと何年もかけて進行するために、多くの国民の眼にとまりません。国民がわかった時は、農業が再度起き上がれない時なのかもしれません。

新規就農者への支援を急ぐべきです。特に山間部への新規就農には支援を惜しんではなりません。平野部と違って、高齢者問題とは山間部ではそのまま集落の消滅につながるからです。

Q7 政府は、農業の生産性を高めるため、一定規模以上の農家だけに補助金を出す政策を打ち出しました。このことについてどう思いますか?

土地の所有権と耕作権の分離は今後とも、好むと好まざるとに関わらず進むでしょう。これは否定できない流れです。修正が行われている4品目横断政策も、出し方と、今までの農政への不信のために農民から総スカン状態です。農政の出し方が拙劣だったために、集合化、共同化、集落営農という、それ自体は正しい部分もある政策全体が否定されかねない状況です。

私見ですが、これは民主党の愚劣極まる、ばらまき以外なにものでもない所得補塡政策よりはるかに現実的ではあります。

現在は、農業生産のあらたなやり方の模索期間です。異業種との乗合、農業の法人化、消費者との提携による共同農場、観光まで視野に入れた総合的な地域おこしなどなどの実験が、既に一部では始まっています。この芽を潰してはなりません。

また、同時におじぃちゃん、おばぁちゃんの小農経営が成り立つ方途も考えて行く必要があります。

さて、前提として、農村と都市の交流がない国は自国の農業に冷淡です。そのような「農業に冷淡」な国民に食の見直しを言っても意味がありません。

わが国は農村と街を交流していく立体的な流れを政策的に作っていませんでした。EU諸国はかなり早い段階から、農村と街との行き来を支援する方針を建てていました。交流拠点やグリンツーリズム、そしてそれらの広報などに対して援助を与えてきました。

反対に、これらの政策支援が希薄なところで、ほとんどが民間が自腹を切って進めてきたのがわが国です。

「食卓を見直す」には、素地がいります。いわば離陸のための滑走のような期間が要ります。突然、頭だけで決心して、テレビを見てヤバイと思ったりすることはあるとは思いますが、続きません。

自分の食が作られる農村に行ってみて、多少の汗も流し、農村の夜の深さと秋の虫のコンサートを聞き、農民と語り合う、そしてゆっくりと自分の「農」になじんでいく。

それがあって自分の食卓から輸入農産物を減らしていこうという気になるのではありませんか。

食と農を近づけることをしましょう。これは農業政策とは違って迂遠な道で、10年以上かかるでしょうが、その中で育った子供や奥さんは農と自分の生活をひとつにし始めています、自分の言葉で、なによりも自分の身体と食卓を通して。

NHK「日本のこれから」昨年10月放映に対するアンケート回答より編集。

写真は 朝日の登ろうとする里山と水田の風景。

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日本農業に対する質問に答えて その1

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Q1 私たちの食べ物の安全性について、今、どのように思いますか?

自給率40%ということは、とりもなおさず食糧の過半を輸入食材に依存していることです。

例えば、中国産の食材の汚染は常識を超えています。これは中国の生産者の意識、あるいは生産工程管理上だけの問題ではなく、中国の水質や土壌そのものの汚染のために違法な薬剤、農薬を大量使用せねばならないからです。

また、これを検査しブロックすると言っても、現実には遠い外国は管理しきれるものではありません。水際でのブロックも職員の不足からうまくいっていません。産地表示にしても、国内で生産加工されてしまえば国産品でまかりとおります。

つまり、外国の環境汚染の危機を国内の食卓にリンクさせているのが輸入農産物なのです。外国の環境の危険性が食卓のうえに常にあるのが今の日本だと思います。

Q2 食料の輸入が増えたことで、安価で多彩な食生活が実現できているという意見がある一方、安全性などの問題が指摘されています。私たちの食べ物の多くが輸入されていることをどう思いますか?

追加してもう一点。輸入農産物はわが国に食糧、即ちタンパク質、転じてチッソという形で過剰なチッソを持ち込んでいます。河川、湖沼の汚染物質であるチッソは、外国由来が多くを占めています。つまり輸入されたタンパク質は、糞尿のかたちでチッソになります。ということは、外国から流入する膨大なチッソはわが国に蓄積し、環境を不断に汚染し続けているわけです。

もうひとつは、輸入農産物には、あたりまえですが、わが国の環境に責任はありません。農業が環境に対して大きな影響があることがわかってきた現在、6割を外国産に依存するということは、日本人は自国の環境に対して持つべき責任を6割放棄しているに等しいことだと自覚すべきです。

Q3 食料を国産でどれだけまかなっているか、その割合を示す「食料自給率」は、現在、およそ40%です。このことについてどう思いますか?

農業問題とは環境問題です。これは表裏の関係にあります。農業は、農業生産や林業を通して、里山エコシステムを持続的に管理しています。都会の消費者は、ともすればわが国の環境の守り手である農業の役割を忘れて、単なる食卓のバラエティや、安い、高いの問題にのみ眼が行きがちです。あまりに近視眼でしょう。

ドイツにこのような言葉があるそうです。

「もし、あなたの国内農産物が3マルク高いとすれば、1マルクはあなたの健康のため、1マルクはあなたの家族のため、そしてもう1マルクは自分の生きる国土のため」

NYのジャポニカ米は20ドル。味もそこそこだといいます。東南アジアはそれよりはるかに安いでしょう。

米など、自由化してしまえという経済学者も多いのです。そのほうが、消費者の利益だと。

経済的な合理性をいちばんに考えた場合、資本グローバリズムの観点からは当然なことでしょう。そもそもWTOとはそのためにあるのですから。

しかし、もしわが国の米生産が外国からの安価な米に制圧された場合(その可能性性は高まっていますが)、ごく一部の産地を除いて壊滅的な打撃を受けるでしょう。資本グローバリズムに決定的に欠ける視点、それが自国の環境なのです。

日本の水と土のエコシステムを司っているコメ生産が壊滅した場合、日本の里山にとってもまた決定打になると思います。

Q4 日本は、今、工業製品の輸出を進める上で、農産物のさらなる輸入を求められています。コメを含めた農産物の輸入自由化を進めていくべきだと思いますか?

進めるべきではありません。それは亡国の道です。

しかし、WTOのドーハラウンドの結果次第で、現実になります。日本はWTOのドーハラウンドから離脱すべきです。780%もの関税を今日本はコメにかけているはずですが、これはWTO体制ではアメリカの輸出補助金に並んで完全に否認を受ける政策なはずです。

WTOと日本農業は共存できないのです。小手先でどうなる段階を過ぎています。

今後とも今の日本農業の米作を保全するには、国際社会に対して正々堂々と「米作りは日本型環境システムである里山保全のための環境コストである!」と言い切ってしまうことです。

農業とはその国の土と水、すなわち環境そのものから生まれています。これを他の工業製品や金融のように自在に移転できるとかんがえること自体がおかしいのです。

                   この稿続く

写真は、八角堂からみた光景。

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食糧の地殻変動

Img_0024  去る6月19日に農業界を静かなパニックが襲った。

JAによる肥料価格の大幅値上げである。最大の値上げ幅は7割、それを6割の肥料商品に、この7月から転化するという驚くべき発表である。

 このような、急激な価格値上げに、いっせいに肥料の前倒し購入が始まっているとも聞く。4月の石油の駆け込み購入と同じ光景が、各JAのグリーンショップで繰り広げられることになる。

 原因は、中国によるリン鉱石の輸入の実質的な禁止措置だ。6月1日から既に中国は開始している。これは4月段階からわかっていたことだが、例によって農水省は何の手も打たなかった。まいどおなじみの無作為である。怒る気にもなれない。

 今まで日本は、リン鉱石を、南洋の島ナウル共和国とアメリカ、ロシア、そして中国から輸入していた。しかし、ナウルは既に掘り尽くしており、アメリカ、ロシアもまた禁輸に走った。自国資源の保全のためである。

 そして残った唯一の輸出国である中国も、これに追随した。リン鉱山が今回大地震を受けた四川省に集中している関係もあるとされる。いずれにせよ、もはや日本にリン鉱石を売る国は、事実上なくなったことになる。

 また中国は中国産の農産物に100%関税をかける方針だという。そして、別な機会に詳報を出す予定だが、アメリカ中部の大洪水は、トウモロコシの生産に大打撃を与えた。市場相場は需給の逼迫を想定して、早くも高騰している。たぶん、世界的な飼料価格の暴騰、畜産物の大幅値上がりは避けられないだろう。

 昨年は激烈な熱波がオーストラリアを襲った。そして今年は、世界的なリン鉱山のある四川省に大地震が襲った。そして原油価格の天井知らずの高騰。

 しかし、食糧サミットでも示されたように、アメリカはバイオ燃料の生産を減らすことも、ヘッジファンドの規制も拒んだ。他の食糧輸出国も食糧の禁輸措置をゆるめることに同意しなかった。つまり、世界各国は、自国の利害防衛にしか関心がないのである。わが国は、まぬけにも金の提供を申し出ただけだ。問題の本質が政府には分かっていないようだ。札びらを切ればどうのという時代ではないのだから。

 資材高、原油高は、産業として既に疲弊しつくしている農業、漁業を直撃している。年内に廃業に追い込まれる生産者が激増していくのが目に見える。

国際市場価格は変動するもので、変動の周期が変化すれば、また一服するという経済学者もいる。また、国際市場価格が上がれば、国内産の農産物の生産増加が始まるという学者もいる。

 果たしてそうなのだろうか。私はもっと深い部分での食糧の地殻変動が起きている気がしてならない。いわば、金を出しても食糧を買えない時代に。

 昨日スーパーに行った。そのようなことと無縁に、あいも変わらぬ「生活応援」の安売りがメーンだ。危機感はみじんもない。ハレーションを起こしたような白昼の幻想を見た思いだ。

写真は、わかったら偉い。煙草の花。今の季節は満開です。

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プロが教えるハブ防衛術その3 対峠篇

 一番大事なことは、毒蛇と出会わないことです。当たり前だと言うなかれ。蛇もコワイのです。いや、蛇のほうがビビっているといってもいいのです。ですから、人が攻撃を受ける場合、出会い頭事故が圧倒的です。草むらの窪地や穴で、いい気分で昼寝をこいていたハブをうっかり踏んでしまった。眠っている樹を揺すってしまった。シュワッチとハブは、即応態勢に入り、攻撃をしかけてきます。

 ですから、沖縄で草むらを歩く時は、長い棒などでガサゴソと周囲を叩きながら移動するのが賢明です。また夜間では、「長いものは跨がない」ことも覚えておきましょう。それがハブの場合があるからです。

 歓楽街も安心はできません。桜坂の飲み屋街で、ネズミをねらった2mもの大蛇がいたことがあるくらいです。沖縄の歓楽街に行きたいなら、先ほど教えた雨合羽とゴム長、長い棒装備が基本です。その覚悟で行きましょう。003 沖縄の飲み屋街はカッパと長靴姿の男たちでいっぱいです。(わけない)

 しかし、バッタリと出会ってしまったらどうしましょう。慌てて、パニックになり背中を向けて逃げようとしたら、多分、確率9割であなたの奥さんは未亡人です。ハブはあなたのふくろはぎを狙って、正確にミサイルのように跳んできます。良くて脚一本は進呈せねばなりません。下手すりゃ死にます。

 ここで、もしあなたが、大きな布かエプロンを持っていたらこれはラッキーです。これをハブにふぁ~と被せます。そしてすぐに、間髪を入れずハブをくるむようにして遠くに投げて下さい。

 上着でも結構です。これは私の得意技で、先週もマムシ殿を一匹この方法で投げ捨てました。しかし、一般的言って、けっこうコワイですよね。ならば、闘牛士よろしく身体の前に垂らすだけでも効果的だと思います。ハブがあなたの体を見られないからです。ただし、闘牛士のように絶対にヒラヒラ振らないように。

 あなたが棒を持っていたとした場合、それでいきなりなぐりつけるのは必ずしも賢明とはいえません。たぶんハズすからです。ハズしてしまった場合、第2撃の態勢にこちらが移る前に、間違いなくハブに嚙まれます。

 棒を決して振り下ろさずに、構えたままで、眼を逸らさずにジリジリと後退しましょう。だいたい10メートルあたりまで後退したら、後は死に物狂いで、助けてくれぇとかわめきながら逃げましょう。

 要は、毒蛇界の大関クラスであるハブと闘う状況を作らない、仮に作ってしまっても、温和に解決する。包んで投げるか、じりじりと逃げるというのが一番です。

 万が一山の中で嚙まれたら、心臓に近い位置を縛り、心臓より高い位置にかざし、近くの人家に頼り、たぶんその集落の区長か公民館にあるはずの血清を打つしか方法はありません。時間が勝負です。幸運をお祈りします。

写真は、「幻の村」に続く道。私が住んでいた20年前にはまったく未整備の狭い砂利道だった。画面左手にわずかに見える巨大なシダ類は、ヒカゲヘゴ。

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プロが教えるハブ防衛術指南その2 服装篇

052  さてここで、毒蛇に対する防御法をお教えしましょう。これは、私の先生である、クチョーからの直伝に、少々の私の経験を加えたものです。

 あなたの眼の前に鎌首をもたげSの字に身体を優雅にくねらせたハブがいたとします。

 このSの字態勢に入ったハブは、ベリー・デンジャラスです。このハブのSの字態勢は、攻撃モードに入ったことを示しているからです。前回の写真は警戒モードで、この首がクッと直立して、やや頭が後ろに傾いで勢いをつけたら、攻撃モードに入っています。

 ハブは、体を直立させて、後ろに頭をやや倒し、それを繰り返しながら、攻撃対象を見定めています。この振り子運動は次の飛翔のための予備運動です。

 そしてこの攻撃モードから、目標が定まった瞬間にハブは攻撃対象に向けて一気に飛翔します。無音で跳んで来るミサイルにハブは化します。

 だいたい体長の3倍、ときには4倍とも言われています。最低3~4mは飛び掛かってきます。これがハブのスゴサです。無言で、スパーンという感じで跳んできます。よく漫画で書かれるような、シャーなどという擬音は聞こえません。あっと思ったら、嚙みつかれていたということになります。

 人間に対しては首や腕、指の先という無防御の部分を狙います。鼻に食いつかれたという話も聞きました。ほとんど、ハズしません。ですから、素人には、避けることはそうとうに困難でしょう。野性の一殺必中のハブと、文明にほややけた人間とは勝負にならないのです。気がついた時には、腕にハブがぶら下がっていることを発見するあなたがいることになります。

 嚙まれると筋肉組織を破壊する毒素が、牙の先端から注入され、牙が引っかかるようになるために、容易には抜けません。血清がない場合は悪くすると死にます。血清が遅くなると、その部分が壊死します。

 クチョーの右手人指し指はおかしな形で曲がっていていますが、これはハブに喰われたためです。彼の唯一のハブに対する敗北です。仔ハブだったそうで、彼の優しさが裏目に出ました。すぐにスネークバイトキットという応急キットを出し、メスで切開し、小さなゴムポンプで毒液を吸い上げ、ゴム輪で縛って、嚙まれた手を手拭いでつり上げ、血清のある街まで歩きました。

 7㎞ほど歩き、国道に出て、車に乗せてもらって病院に着いた時には、さすがのオジィも気を失いかけていたそうです。指は曲がったものの良く生きていたものです。

 では、どうしたら防護できるのでしょうか?まずは、身繕いから。「ハブ防護服」が必要です。いや、なんの雨具のカッパとゴム長ていどでいいのです。なければダブダブの作業服でもいいでしょう。仮に嚙まれても、牙が簡単に皮膚に達しません。つまり、牙がむなしく衣類にガプっに終わればオーケーなのです。

 首筋にはタオルを巻き、できたらフードも被ります。樹上から降ってこられても、首筋が大丈夫です。蛇は視覚情報よりも、赤外線探知に頼っていますから、身体全体をゴムで包むのは有効な対策です。

 沖縄や先島諸島、奄美諸島の草むらにショートパンツにTシャッツ姿で分け入るのは、私からみれば、それは自殺志願者です。ハブがいる島、いない島はひとつおきですから、島に行ったら、そこの人にこの島にハブがいるかどうかを聞きましょう。

 劣等生の見本は、映画「ランボー」シリーズです。上半身裸のマッチョ男がジャングルを走りまわっていますが、絶対にありえない光景です。私などあの映画をみるたびに、クチョーだったらなんて言うかなと苦笑いしています。

 たぶん100mも行かないうちに、上からはヒル、草むらからは毒蛇、ついでに皮膚の傷口から入った感染症という多重攻撃を受けて草むす屍となることでしょう。絶対にいい子はマネをしてはいけません。沖縄では、まねをする小学生が出たので、あの映画は上映禁止になっている、という冗談がウチナンチューの中にあるそうです。

写真は、ヤンバルの空気 。羽地(はねじ)内海。

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プロが教えるハブ防衛術指南その1 ハブはヤンバルの守護神

800pxhabupitviper  え~、お嫌いな方にはたまらないでしょうが、これがハブ、そのなかでも一番強いホンハブさんです。頭は完全な三角形で、眼はチャーミングな金色。

 色は緑がかった褐色。体形はスリム。長いもので2m。だいたい1mていどの優美な姿をもちます。

 この写真では口を開けていないので残念ですが、カッと開くと顎の関節がはずれて゛、ネズミ程度は軽く丸呑みにします。

 まずネズ公の頭が消え、胴がズッズッという感じで徐々に消え、最後に尻尾がピラピラと揺れて、哀れお終いとなります。かなりシュールな風景ですよ。

 それを目撃した沖縄の農場では、納屋の梁に潜んでいたのが、失礼にも、私を無視して、突如空から降ってきて私から数mのところにいたネズミをくわえ込んだのです。さすがに蛇には常人以上の耐性がある私も背筋がゾゾッとしましたね。失礼でよかったぁ。礼儀どおりに来たら、わしゃ死んでたがな、もし。ハワハワ。

 蛇でも毒があるものはさほどありません。本土では、マムシとヤマカカシていどです。沖縄でもホンハブとヒメハブの2種類です。奄美には強烈なハブの一族がいます。あちらのほうが毒性は強いようです。

 毒蛇は、世界各国でも、頭が三角形をしているので、簡単に識別できます。ほら、コブラのあの頭です。蛇は毒がなければまったく恐れる必要がない生きものなのです。

 むしろ、ネズミなどを退治する益虫といったほうがいいのではないでしょうか。沖縄北部では、開発はハブのために遅れたといわれるほどで、自然環境の守護神でした。ハブなかりせば、今頃ヤンバルは、醜いゴルフ場やリゾート施設で満ちあふれていたはずです。

 写真はホンハブ。Wikipediaより参照のため引用。

 

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ルートの死

 昨日、私の愛犬が死んだ。プラムの樹の下に穴を掘って埋葬した。ルートという。Img_0014 おとといまで元気だったのに、昨日突然におかしくなった。

 獣医に連れていったが、原因はわからず、とりあえず強心剤とリンゲルという対処療法しかなかった。

 農薬を飲んだか、自動車にぶつかったのかと、獣医は言うが、そのようなことは覚えがない。

 みるみる内に弱っていくのがわかる。食べない、飲まない。尿をその場で洩らす。

 人なつっこい気のいい犬なのに、頭をなぜてやっても反応がない。いつもなら、嬉しそうに眼を輝かせ、うるさいほど私にせがんだのに。夜になれば、彼の横でふたりで、星空をながめられたのに。

 私にできることはなぜてあげることだけだ。苦しげに口を開く。

 そして、私たちが少しはずした時に死んでいた。口をかすかに開け、眼を半分閉じて。口は閉じれなかったが、眼は閉ざした。

 スコップで穴を堀り、最後のひとすくいを彼女にまかせた。私たちの中で大切にしていた赤い毛布に包まれてルートは埋まってしまった。

 優しい子だった。怒ったところを見たことがない。いつも、兄弟の中で、食事場所を探していたような奴だった。たった4カ月の人生だった。なにもわからないまま死んだ。好きな雌も知らないまま、この農場も里山の中も知らずに死んだ。それが哀しい。ルートが生き切っていないことが哀しい。 

 ルート、お前の記憶をたくさん残せなっかた。

 お前が途く空が晴れたらいいね。

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チョーイチさんの三線その5 ハブ採りの誇り

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 チョーイチさんとモロミザキさんの違いは、たぶん狩猟民のようなクチョー(区長)と、農民であるモロミザキさんとの差だったような気がする。

 クチョーにとってこのジャングルは恵まれた「猟場」であり、ハブが居てくれての生活だった。

 ある時、泡盛を飲みながらクチョーに尋ねたことがある。「1日3匹捕まえたら、3万でしょう。毎日どうして猟をしないんですか?」

 クチョーは、馬鹿かという表情をして、「それがお前らのようなハルサー(百姓)の根性だ。そんなに採ってみろ。ハブがいなくなる」。勤勉はある意味、悪徳なのである。だから、クチョーは、何日に一回しか「猟」をしない。仮に、今夜は2匹と決めたら、それ以上は採らない。採れなかったら、帰る。

 仔ハブは捕らえない。いたしかたなく捕まえても、つまりバッタリと遭遇してしまった場合ということだが、捕らえた後に放してやる。捕まえてから放すほうが危険なのだ。放す時に、怯えた仔ハブの逆襲で、指を嚙まれることがあるそうだ。

 クチョーが怒るのは、タクシーの運チャンのハブ採りだ。街場から来て、小遣い銭稼ぎが目的で、トランクに入れておいたハブ採り器を使って「猟場」を荒らす。ハブの猟場には、漁業権のようなものはないから、荒らしたい放題だ。

 在の者ではないので、ルールを守らない。パイン畑やキビ畑にズカズカ入る者もいる。小さいハブも残らず殺す。保健所も小さなハブは血清がたいして採れないので、引き取らない場合がある。すると、悔しまぎれに地面に打ち据えて殺してしまう。

 ある夕刻、私が町から「幻のムラ」に帰る途中、道端で座り込んでいるクチョーに出会った。座りこんで不機嫌そうにシマザキを呑んでいる。陽気なクチョーには珍しい。酒にはダラしない人だが、だいたいがジャングルの中の道で坐って飲むのというのは尋常ではない。

 第一、通りかかっても簡単に車に乗らない人なのだ。テクテクと歩いているクチョーに、「乗りませんか」と声をかけても、大体笑って手を振る。借りを作りたくない人だ。そのクチョーが、今回はあっさりと乗った。

 車に乗せて、聞くともなく聞くと、国道沿いの共同売店に酒が切れたので出かけたそうだ。すると道脇に、数匹の仔ハブが叩きつけられて殺されていた。

なんんでぃいーんくとぅさぁ、くぬゲドウめ!」(なんということをするか!この外道め!)

 チョーイチさんは、売店でスコップを借りると、彼らを埋めた。そして酒を買って帰った。途中、あまりにやるせないので、坐ってラッパ飲みにした。飲んでいる内に、眼から汗が出てきて仕方がなかった。ハブの仔だけではなく、死に別れた恋女房が脇に坐っていた。出ていったきり帰ってこない子供もやって来た。道の下の急流がザーザーと流れている。クワズイモが団扇のような葉を揺らす。

 1本空ける頃には、腰が抜けた。あのまま夜になれば、母ハブに仇をとられるところだった。ありがとうよ、ナイチャー。

写真は、ヤンバル(山原)の茶畑と夏の雲。

*この「幻の村」は現存します。これからこのシマの人々を何回かにわけてご紹介しますが、関係者は大多数ご健在です。しかも、あまり書かれることを好まない人ばかりです。そのため、個人ブログですが、人物背景、人物名、事件関係などは、あえていくつかの人やケースを混在させたり、脚色を加えて書いていきます。ご了承下さい。

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チョーイチさんの三線その4 モロミザキさん、現る

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  新しい住民、モロミザキさんは、かつての自分の親類が住んでいた住居に越してきた。チョーイチさんは警戒した。外部から見れば、願ってもない新しい村人なのだが、なぜ警戒したとすれば、その理由はひとつだ。怖かったのだ。自由自在に生きていける「ゆ」(世)を作ってしまったチョーイチさんにとって、新たなこの「幻の村」の住人はうっとおしかったに違いない。

 なぜか?簡単なことだ。今まで自在に生きられた自分が、他者から見られているような「気分」がする。それはあくまで気分であって、実際は違っていても視線を感じてしまう。 第一、誰か分からない。心を許せない。せっかく「孤独という悪虫」を退治したのに、どうしてコイツとつき合わねばならないのか。

 たぶん、そんなところだ。昔のシマを、下帯もなしに歩くことが出来たクチョーにとって、また大嫌いな秩序が戻ってきたのだ。

 しかし、チョーイチさんはクチョー(区長)だから凛々しく、新しい住民のところへ出かけて行った。モロミザキさんという住民は、オジィと同年輩であり、それもヤバかった。せめて、10ぐらい若かったらいいのに、とオジィは思ったことだろう。同年輩というのはなぜか口ごもる。

 まぁいいか、と泡盛を一本引っげて訪れたチョーイチさんに、モロミザキさんはひとこと、「ワンは、飲まんさぁ」。これは沖縄では死の宣告である。とっ着けないと自分で言っているに等しい。まぁ、このあたりは本土でも同じか。

 チョーイチさんが勝手にしろとばかりに見ていると、モロミザキさんはどんどんとチンヌク(里芋の一種・八頭の親戚)を植えていく。半年で荒れた畑が芋の青々とした葉に覆われていく。その間、たった2軒の間の会話はない。別に喧嘩をしているわけでもない。たまに道で会えば、「おっ」、「やっ」でお終い。幻の村から、不思議な村が始まってしまったようだ。

 ところで、モロミザキさんはどのような人なのだろうか?後に分かってくることになる。

 彼は若年でペルーに入植し、苦労したあげく,大きな農園を作ったが、働きすぎで酒と、当地の悪習の麻薬に染まってしまった。奥さんは自殺した。子供は親戚に引き取られた。農園も手放すことになった。そして、借財だけが残った。

 親戚一堂から、抱えられるようにして沖縄に戻った。妻、子供、農園、すべてを失った。親戚から言われたそうだ。「クスリを抜け、真人間になれば、子供を返す」と。

 以来、モロミザキさんは一滴の酒も飲まないと覚悟した。このようにしてモロミザキさんはこの「幻の村」に来た。

写真は、沖縄北部の潮が入る河口。

*この「幻の村」は現存します。これからこのシマの人々を何回かにわけてご紹介しますが、関係者は大多数ご健在です。しかも、あまり書かれることを好まない人ばかりです。そのため、個人ブログですが、人物背景、人物名、事件関係などは、あえていくつかの人やケースを混在させたり、脚色を加えて書いていきます。ご了承下さい。

 

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チョーイチさんの三線その3 孤独という悪虫退治

001                                                       

                                    

 数年後、 チョーイチさんがひとり住むシマに来たのが、モロミザキさんだった。

 シマとは、沖縄独特の言い方で、こちらの大字ていどの語感だと思えばいいだろう。だいたい15~20所帯といったところだ。いわゆる火の見櫓から見渡せる距離内におさまっている。私は、「火の見櫓の字」と言っている。この字ごとに寄り合い所があり、3つくらい合わさって小学校がある。まさに日本の草の根だ。

 モロミザキさんが来た時、チョーイチさんは「いちおう」喜んだ。いちおうというのは、チョーイチさんは、既にそれなりに「孤独という悪虫」を馴致させていたからだ。

 ところで、人をもっとも蝕むのは「孤独という悪虫」だ。私も罹ったことがある。いや、今でもたまに再発することがある。つい最近も症状が出た。このような村、しかもその隅に住み、社会と隔絶した生活を送っていると、人は不安になる。確かに、自由ではあるのだが、自由の代償は大きい。社会的な関係が極端に少ないのだから。宇宙空間の中に住むように、上下縦横が分からなくなる不安にさいなまれる。

 私のように、誰がどう見ても社会的な組織に適応できないタイプで、しかも、高校時代から逃走人生を意識的に選んだつもりの人間ですら、このていたらくなのである。笑って下され。帰農志願者が、なんとはなしに、ひとつの地域に集まるのはそのためだ。 

 もし、私が百姓でなければ、草、虫、鳥、樹が好きでなければ、あるいは、鳥飼いが職業でなければ、私が飼う犬や猫、山羊がいなければ、そしてなにより連れ合いがいなければ、私はとうの昔に街に尻尾を巻いて帰っていたことだろう。自分に対しての言い訳はいくらでもつくから。

 そうなのだ、ため息と共に、つくづく人は独りでは生きられない生物種なのだと思う。孤独実験25年めにして、正直にそう思う。そう言える程度、私は強くはなってきてはいる。こうして去って行った帰農志願者は、掃いて捨てるほどいる。私が帰農は必ずカップルでしろ、と口酸っぱく言い続けているのにはそれなりの理由があるのだ。

 だから、チョーイチさんの中にも、「孤独の悪虫」が棲んでいなかったはずがない。チョーイチさんは元来、腕のいい造園師だったのだ。この「幻のシマ」に来たのも、これと思った苗樹を植えて大きくする場所が欲しかったからで、初めからハブ採りだったわけではない。

 恋女房だったそうだ。のろけは散々聞かされた。「あいつのほうがワンを先に好きになってね」、「シマ一番のチュラカーギでね」(美人)。ああ、うっさい。しかし、いい加減に聞いていると、いきなりカチャーシーの「カジャディ風節」(かぎやで風節)を耳元でジャンカジャンカやられて、追い返されてしまう。わがままなオジィである。

 カチャーシーとは、宴の最後の曲。沖縄の嬉しい時、めでたい時、選挙に勝った時(沖縄人は異常に選挙好き)に最後に演る曲。同時に踊らねばならない。そしてだんだん演奏が速くなり、舞い手と奏者の競争となる。大体が皆酔っているので、ひとりふたりがひっくり返えることになる。負けると、またまた呑まされるという美しくも、オッソロシイい習慣がある。

            (もう一回いくか、ちゃーならんさ)

                *ちゃーならんさは仕方がないかの意。

 写真は、ヤンバル(山原)の森。というよりジャングル。かつて私はこの中で暮らしていた。

 

*この「幻の村」は現存します。これからこのシマの人々を何回かにわけてご紹介しますが、関係者は大多数ご健在です。しかも、あまり書かれることを好まない人ばかりです。そのため、個人ブログですが、人物背景、人物名、事件関係などは、あえていくつかの人やケースを混在させたり、脚色を加えて書いていきます。ご了承下さい。

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チョーイチさんの三線その2 やんばるオジィライフ

Img_0009  チョーイチさんの生活には電気、電話はない。新聞や手紙は、海岸のムラの共同売店(*沖縄北部独特の住民が共同で経営する売店。原初的な生協のようなもの)までしか届かない。

 しかし、そもそも新聞は読まないし、手紙など来るはずもないと決めつけているので、取りにもいかない。だから、まったく不便は感じない。

 郵便物は、溜まると共同売店の可愛いネェネェ(お姉さん)が車で届けてくれる。「オジィよ、元気しとるかぁ」とチヤホヤされるので、オジィはそれを楽しみにしている節もあるが。その時に、必要な食糧や雑貨品も注文する。何日かで届けてくれる。オバミーチー(おばさん)が来ると、ぷっとむくれる。素直なもんである。

 大部分の野菜は家の後ろのアタイグァ(自家用菜園)で採れる。けっこうマメに作っている。もともと湧き水が豊かな土地なので、水には困らない。ニガナ、ウイチョーバー、チョーメイグサ、ハンダマ、ナーベラ、ゴーヤなどを作る。ひとりでは余るので、私たちの所にもおすそ分けでよく頂いたものだ。もっとも、帰りには、うちの卵をしっかりと抱えていったが。

 料理はこなす。ある時は沖縄スバ(そば)まで打ったことがある。この話しはまたべつの機会に。

 税金は払ったことがない。課税したくとも、収入がないからだと、いばる。では、生活保護をと言おうものなら、またしても、帰れと言われる。「わんはクチョーさ、ふら~んかいするな」(馬鹿にするな)。

 ところが、実はオジィには立派な現金収入があったのである。ハブ採り。オジィからすれば、この山奥から転居したら、ハブ採りができなくなる。ハブは一匹ホンハブで1万円、ヒメハブで5千円で保健所が買い取ってくれる。血清をつくるのだ。「即金だからムゼーよォ」とオジィは嬉しそう。一晩で、いい時で2、3匹捕まえれば、なかなかの収入となるという寸法である。

 ハブが沢山採れた翌日は、オジィは昼からシマザキ(泡盛)を傾け、三線を奏でる。枯れた、透明な音色がヤンバルの森に滲みていく。

 そんな時にうっかり、私が通りかかろうものなら、「うりゃ、ニセー(青年)、寄っていかんかねぇ」。断ることは不可能だ。もう今日は仕事にならないと覚悟しよう。

 なぜ、オジィひとりの村に私がいるかって?そう、チョーイチさんのたった一人の山奥生活は案外早く終わったのだった。去った村人に替わり、おかしな人達が島内はおろか、ナイチ(本土)からもやってきたのだから。

                  (もしかして続く)

 この写真は、私の三線。オジィが弾いたら、どんなにか素晴らしい音がでるだろうか。

*この「幻の村」は現存します。これからこのシマの人々を何回かにわけてご紹介しますが、関係者は大多数ご健在です。しかも、あまり書かれることを好まない人ばかりです。そのため、個人ブログですが、人物背景、人物名、事件関係などは、あえていくつかの人やケースを混在させたり、脚色を加えて書いていきます。ご了承下さい。

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チョーイチさんの三線その1 オジィはひとり残った

                                      

 私が住んでいた沖縄の山奥に、チョーイチさんというオジィがいた。

 いちおうクチョー(区長)ということになっている。いったん廃村になったシマ(村)にひとり残っていたからだ。

 シマがなくなる最大の原因がなにかお分かりだろうか?教育である。小学校すらテクテク3㎞以上歩かねばならない。中学校ときたら、そこから更にバスで行く。高校に至っては、もう寄宿舎に入るしか手がない。大学?話の外だ。

 だから、子供を高校に行かせたいと考えたら、大変な負担になる。いっそのこと、家族で街に移住して、勤め人にでもなるかと30代あたりの夫婦は考えてしまう。親戚関係が強い沖縄では、都市にいる誰かを頼って出ていくことになる。40代にでもなれば、潰しが効かないから、今出よう、と。仕方なしに、祖先の田畑と家を売り・・・いや売れない。だって買う人がいないから。名義は残って、人は去って行く。

 こんなふうにして、村人は皆、いなくなった。集落跡に行くと、今はハブの王宮となった廃屋がいくつか。水田と茶畑、野性化したバショウと蜜柑の樹。そこにはかすかだが、かつて暮らした人の痕跡があった。

 チョーイチさんはこのシマにひとり残った。台所と居間だけの、ほんの15坪の小さな家で暮らし続けることを選んだ。最後の村人が去る時は、さすがに哀しかったという。去る人と、一晩三線(さんしん)を弾いて別れを惜しんだ。三日月の暗い晩だったという。

 以後、堂々とクチョーである。住民が生活を続ける限り、いちおう居住区であることには間違いないので、市も非公認ながら認めた。まぁ、「当人がそう言ってるんだからさぁ」ていどだが。その時には、市は再三足を運び、街の老人施設に入ってはどうか、親戚はいないのか、などと説得をしたそうだ。登校拒否児童に対する担任のような気分だったろう。

 当然のことながら、返ってくる言葉は「だ~が入っか、えーかなむん」(だれが入るか。親戚はいない)実際は立派な伜がふたりいて、後に転がり込で来る。

 こうして、三線(さんしん)とサキグワ(泡盛)だけが、チョーイチさんのたったふたりの友となった。語るものとていない山奥のランプの下で、チョーイチさんはなにを唄ったのだろうか。

                                 (本稿続く)

 Img_0011

写真は、私の三線。ベトナムのニシキヘビの皮。黒檀の棹。腕が悪いのを、道具で隠す(←隠せない)という悪しき典型。

*この「幻の村」は現存します。これからこのシマの人々を何回かにわけてご紹介しますが、関係者は大多数ご健在です。しかも、あまり書かれることを好まない人ばかりです。そのため、個人ブログですが、人物背景、人物名、事件関係などは、あえていくつかの人やケースを混在させたり、脚色を加えて書いていきます。ご了承下さい。

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暗闇が御馳走 その2 電気が愛おしい

 太陽光発を入れてからのライフスタイルに、なにか変化がありましたか、とよく聞かれる。あったなどというものではない。電気が愛おしくなるのだ。電気を愛したなんて、初めてだ。ガキの頃に電気にしびれたことはあったが、しびれるように愛してしまったようだ。

 わが農場で出来た電気、スリスリ(頭を撫でる音)、いい子、いい子である。どこかよく分からない発電所から来たものではなく、まさしく、今、現在、ただいま自分の家の上で健気に発電しているのだ。

 技術的には、売電、買電の問題があるので、正確ではないが、なんとも言えない気分の良さがある。この電気支配社会に接続されていた生活のプラグを引っこ抜いた感じとでもいうのか。事実、いざという時には太陽光自家発電を、外部からの系統電力を遮断して、自分の家のみで使用できる回路がある。

 以来、わが家の電気で白熱灯はほぼなくなり、暖色系の蛍光灯に変わった。消費電力が3分の1になるからだ。また、夜には、今、生活している場所に不必要な電灯は、玄関、ホール、ときには台所すらも消される。この前など、私が料理していたら、手元蛍光灯だけ残して、台所の電灯も切られてしまい、喧嘩になった。

 ひと頃は、夜でも点いているのはリビングの一個と読書灯のみ、それ以外スッキリと真っ暗という時もあった。こうなると、表からはポツンと電気が一個ともっているタヌキ屋敷としか見えない。

 夜に集金に来る新聞屋さんが、こわそ~に来る。なんせウチの家は三角大屋根で、草ボウボウ、家の中には電灯がポツンと1個で、あまつさえ大きな黒い犬は道に寝そべっており、まるで映画「サイコ」の館のようだからだ。う~ん、自分で書いていても、けっこうコワイぞ。

 電気を熱源に変えるのが、もっとも電力ロスすることがわかったので、炊飯器は保温をしない。炊けたら、すぐに切る。保温ジャーは初めからない。電気絨毯はあるにはあるが、電気を入れたことがないただの絨毯。クーラーは極力Img_0006 制限する。使っても、設定温度を高くし、扇風機を同時に回す。

 わが家では、冬は家の中でも、毛糸の帽子を被り、ダウンジャケットを着て、ダウンの毛布にくるまっている。まるでテント生活のようだ。たまに「寝るな、寝ると死ぬゾ」などという遭難ゴッコをする(うそ)。

 そう言えば、この百姓生活をする前まで、連れ合いも私も登山が好きだったが、帰農してからパッタリと行かなくなった。考えてみればまぁ、当然ではある。

 こんな365日キャンドルライトのような生活をしてみると、夜の暗さというのが、案外楽しい。音楽をかけると集中できる。本も進む。

 暗闇という異界が身近なものとなるのがわかる。うちなど、周りは里山で、人家がないので、異界に棲む者たちが、家の外に忍びやかにいる気配すら感じられる時がある。猫が軽く毛を立てる。犬が薄くうなる。

 そう、暗闇は御馳走なのだ。

 写真は、漏れ陽の回廊から見る午前10時の農場。

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暗闇が御馳走 その1 キタウラ第1太陽光発電所

 太陽光発電を設置して、もう10年以上になる。 当時NEDO(新エネルギー財団)が半額交付していたのを応募したのだ。

 数百人が応募したので、当選するはずないや、と思っていたらやっぱり60番くらいの補欠だった。がっかりもしたが、数百万円は痛いので、正直ややホッとしていたのだが、な~んと前の人たち60人全員が辞退。おいおい、こら、卑怯者!

 しゃ~ない、いいことはいいのだと、貯金を切り崩して導入した。半額補助でも、180万円くらいしたので、私たちの貯金はスッテンテンになってしまった。エコロジスト志願者の見栄も高くつく。

 太陽光発電シテスムは、シャープ。シャープの支社が、支店長まで出てきて、陣頭指揮をしてくれた。なんせ当時、事例が関東では数例しかなかったそうで、支店のエリアの第1号だったようだ。「社運をかけています」との支店長の弁。たしかに、シャープはこの太陽光発電と液晶の成功で、ほんとに世界的な企業になってしまった。

 支社長は技術畑の人で、正直に答えてくれた。これは、どのくらいで償却できるもんなのかという私の問いに、「そうですな、20年でしょうか」とのこと。ドヒャーであるが、今や道半ばまで来たことになる。

 また、メンテナンスはと問うと、「まったく要りません。パネルの汚れはお宅のように45度の角度の屋根では、雨がきれいにしてくれます」とのこと。実際10年間、ノーメンテナンス。ただ、インバーター(交換機)が一度去年に故障をしただけだ。

 さて、設置された太陽光発電は24枚のパネルを持ち、3.2㌔ワットを発電する能力を持つ。昨日のような快晴ならば、わが家の消費電力の8割を発電してしまう。システムとしては、蓄電せずに、昼は発電した電気を売って、夜は買うという仕組みだ。

 これの設置が終わり、東京電力が確認に来た。東京電力としても管内で初めのケースで、それはそれは慎重なテストと、電力販売に関する契約書を結んだ。そして「太陽光発電所」の資格を得た。じ~ん。あの世のおとっつぁん、おっかさん、とうとう私は3.2㌔W級発電所の所長になりました!あ、当時は健在だったか。

写真は、わが家Img_0001 の屋根に乗る太陽光発電パネル。

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農家に嫁ぐということ

Img_0001  街から農村に入る方法のひとつに、村の男性と結婚するという方法があります。実際に、都会から極小ですが、村に嫁いだ方はいらっしゃいます。私も沖縄では、入り婿になるしかないと言われました。沖縄では「ウチナームコ」といいます。要するに縁組で、村に入るという方法です。

 実はこの方法こそ、もっともしんどい方法です。具体的にみてみましょう。まず、嫁とは真っ先に起きて、今時なら4時でしょうね、そして家族全員の朝食を作らねばなりません。風呂は最後です。まかり間違って、寝過ごしたり、初めに風呂に入ろうものなら、なんと言われるか。

 また、夫の財布は代が変わるまで彼のものではありません。ほんのこずかい銭ていどしか父親から与えられません。もちろん、衣食住にかかる費用はなしですが、息子の家庭の独立という概念は存在しません。働いていても、賃金に相当するものは、代替わりする時までないということになります。ですから、農家では40代になっても、こずかいを親からもらっているという人が珍しくありません。  

 一方、若奥さんのほうは、仮に街で働いていて賃金を別途にもらっているとしても、それを自分の若夫婦の家計にだけ入れると、舅姑との間にヒビが入ります。

 いわゆる「かまどをゆずってもらう」まで、家計のやり繰りも、代替わりするまでさせてもらえません。メニューも勝手に決めることができない場合があります。

 村は月に2、3回は冠婚葬祭がありますが、そこでの下働きは全部女性です。組内(班内)の葬式などになると、前後3日間は細々とした共同の女性だけの仕事があります。村内のつきあいをおろそかにすると、村で生きて行けません。

 朝起きて台所に行くと、親戚のオヤジがあたり前のような顔をして酒を呑んでいた、などとという風景がままあるのです。農業を一緒にすれば、一時間に数回通りかかる村の知り合いから声をかけられ、ついでにお茶になだれ込み、村中の全員が自分の私生活のすべてを知っているという「恐怖」と闘わねばなりません。実際は考えすぎですが。

 女性は女性だけの、村の中の横のつながりが唯一の息抜きの場です。「若妻会」と言います。お金を溜めて旅行に行ったり、会食に行ったりします。組合の婦人部もそのようなことをしていますが、ここは年齢の上下があるのであまり羽根を伸ばせないでしょう。

 また、ママさんバレーや、社交ダンスなどに頑張る女性も多いようです。理由は、そこしか息抜きの場がないからです。

 都会からこのような環境に嫁ぐと、そうとうな確率でノイローゼになります。ひどい場合は、即離婚です。即離婚というケースだけで、2、3組私は知っています。逃げられた亭主には、永遠に連れ合いは来ません。

 封建的と決めつけるのは簡単ですが、長いしきたりというのは堅牢にできていて、そうそう簡単に変えられません。まさに好むと好まざると、という世界なのです。

 ま、というわけで、私は街で育った女性が、農家に嫁ぐということはまったくお勧めしていません。まさにラクダが針の穴を通るようなことです。 

写真は、村の峠から見下ろした空を写した水田。

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農家にはなれない

 農家にはなれない。ここのところそう思っている。そのことをお話しようかと思う。よく、私のところに帰農志願の人が来るが、農の生活の楽しさはお話できるし、その技術的なアドバイスも与えることができる。しかし、このところ、喉の奥でむずむずしている言葉が、「農家になろうと思ってはだめだよ」なのだ。

 農家とは「人種」のようなものではないのか。農家とは職業ではないのだ。その土地の水で産湯を漬かり、その土地の学校と祭で育ち、その土地の米と水でできた酒で三三九度をあげる。子供を育て、代を渡し、そして歳老いてその土地の土に還える。

 生きる糧は、先祖代々が守ってきた田畑から得、それを一生守り通して、子孫に受け渡す。この糧のことを農業と呼び、それにまつわる文化を農の文化と総称した。

 だから、農業とは生産部門のことではないのだ。作ること、食べること、子供を育てること、教育すること、地の文化を教えること、礼節を習わせること、地の演芸や工芸を伝えること、相互扶助を学ばせること、地の水と土と風を守ること、それらすべてが農業なのである。Img_0010_3

 だから、農業とは元来、農民という「人種」の固有の職業なのだ。

 農家になろうと思うことは、言ってみれば、アラブ圏の国に行き「ムスリムになりたいのですが」というようなものである。その地の人、その地の民族しか原則として、ムスリムにはなれないのに。

 私はかつて沖縄人になりたかった。そそっかしくも、押しかけ沖縄人、それもハルサー(百姓)になろうとした。ウチナーグチを覚え、琉球料理を作り、指はぎしぎし鳴り、肌は黒く、足底は堅くゴムのようになった。しかし、なれなかった。土地は貸してもくれず、まして売ってはくれなかった。その土地に入り婿で入ることだけが、唯一の方法らしかった。

 当地に入った時に、10年間は村に出ていくまいと考えた。農場の建設はやはりそのくらいかかり、基盤は出来た。その後からだ、村に出て行ったのは。入植初年度から消防団などや字の班にデビューすると、十中八九潰れる。在の土壌微生物に包囲されたEM菌のようになる。つかず離れず、これが秘訣のようだ。

 25年たった。人生の半分弱をここで過ごしたことになる。農業団体の代表もした、村の農業振興委員にもなった、しかし、あいかわらず私は「農民」にはなれていない。

 私は百姓であると思う。百姓はだれでもなれる、そう強く望めば。

写真は、わが村の化蘇沼稲荷神社、8月25日には子供のお神楽と、奉納相撲が見られる。

 

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米が足りない!?

Img_0006_2  世界は食糧恐慌の一歩手前にある。この問題は近々きちんと取り上げたいと思うが、問題はわが国だ。

 確かに小麦や食用油は値上がりをした。また小麦を原料とするパンや、大豆を原料とする発酵食品などの値上がりも続いている。畜産飼料の値上がりはすさまじいのひとことに尽きる。

 しかし、米が足りないというのだ。はて?この話しを初めて聞いたのは、村でかなり手広く米を作っている農家からだ。

 「JAの支所さ行ったら、課長が米がねぇかって聞くんだべ。もう、そたらものとっくにねぇは、って答えたら、今、在庫さ持っている奴さいたら紹介しろつうんだわ」(語尾をのんびりと上げていただくと、正調茨城弁になります)

 そんなはずはない。世界が穀物恐慌になろうという時に、減反している国だ。官房長官が減反を止めたらどう、と言ったやいなや農政族から袋叩きにあった国だ。しかも去年の米の収量は870万tと16万tも伸びているはずだ。良く理由が分からなかった。

 ひとつありえるのは、米食の復活のきざしか。小麦の高騰で、米への回帰現象が生じたのかとも思った。ならば吉兆雲海である。調べると、確かに米食はマイナスから、少し伸びてはいた。しかしたかだかプラス0.6%である。

 理由がわかった。わかってガックリきた。政府が余剰米を買いつけているのだ。いわゆる備蓄米の買い増しだ。今、余剰米は、たしか江戸川倉庫だったかに山積みされているはずだが、これを去年は米緊急対策ということで、34万t、実に米の流通量の約1割を政府が買い取った。

 これにより、日本の米の備蓄は100万トンの大台に乗り、流通量が厳しくなったところに、小麦などの穀物市場が高騰し、一挙に需給逼迫とあいなったということらしい。

 で、この緊急米対策だが、参院選の直後に出されている。去年の米相場の下落、米農家のパニック手前の動揺を抑えるためのものだった。自民農政族が動いたのだ。これでは、次の衆院選も農村の反乱が起きて、確実に負ける、と。

 この緊急対策で、年頭からコシヒカリは3~4割も価格が上昇したという。去年のうちに売り払った農家は地団駄踏んでいるだろう。しかし、政治と米、古くて長い因果のしがらみだ。

写真は、谷津田。水量は湧き水で豊かだが、午後4時にもなるともう半分は日が差さない。

 

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学校脱走委員会からのメッセージ 逃げてこい、受けとめてやる!

Img_0019  昨日の秋葉原の大バカヤローは、一流高校の落ちこぼれだそうだ。まったく、タイムスリップして、わが校の「学校脱走委員会」に強制入会させて、シゴいてやりたいもんだ。

 あ、申し訳ない、前後を逸した。今回のことに遭遇し、命を失われた方々のご冥福をお祈りする。あなたがたのなしたかった夢、生きたかった人生を思う。また、ご家族の歯ぎしりするような怒り、身悶えするような哀しみに、頭を垂れたいと思う。合掌。

 さて、この大バカヤローに戻る。こいつはあるところまで、私だ。このような奴に限って「逃げる」ことを知らない。逃げりゃあいいのだ、逃げりゃあ。中学まで地域一の秀才でブイブイいわして、超一流高に入った途端360番中300番に落下。それで、傷ついたんだと、馬鹿か!

 勝手に傷ついて、勝手に腐ったガスを腹一杯に溜めて、後は落ちこぼれ。勝手に理不尽に母親を殴る。お定まりの家庭崩壊。自分のせいで、いっそう追い詰められる。

 そしてあげくは、勝手に自分の暴力的な破壊衝動を全開にして、見知らぬ他者を殺戮する。まさにヘルプレス。全部ひとのせい、全部他者が悪いってか。

 高校の落ちこぼれ一歩手前だった私に、コイツへの処方箋をレクチャーさせてほしい。私の場合は、けっこう上位で入学して、すぐに怠け者だったのでまっさかさまに落下傘降下してしまった。数学なんか赤点大王だったゾ(←えばることか)。

 その私がレクチャーしようではないか。まず、逃走することだ。逃走を構想し、計画し、仲間を集め、情報を収集し脱走する。え、こんなメンドーなことは出来ない?

 馬鹿だなぁ、そう簡単に高校が逃がしてくれると思うのか。簡単に逃がしてくれないから、楽しいのだ。壁は高いからやる気がでるのだ。やがて、脱走戦術だけではなく、その対象にも思いは及ぶはずだ。

 何度か脱走を試みるうちに、「学校を脱走する」という意味がわかってくるのだ。「学校」の意味もわかってくる。「学校」は自分にとって必要なのか、必要とすればなんなのか、逆にいらないとすればなんなのか、ちょっとずつ見えてくるはずだ。これが哲学用語でいうところの「対象の相対化」だ。えーと、そんなのあったか?

 そして、逃走が出来なかったら、闘争する。闘争して負けたら、もう後はないから、ここで一発シャバを替える気にもなろうというものだ。

 これができれば、君はもう落ちこぼれではないはずだ。なぜなら、落ちこぼれた対象が、しょせん、まぁそんなもんだと気分が切り替わるからだ。学校の外には大きな世界が開けている。これは保証しよう。

 この男はもう取り返しがつかないが、そのような大きな世界は君に大きな手を拡げて待っている。

 農業の世界だ。農業の世界に逃げてこい! くだらねぇガスを溜めていないで、スッパリ別れて、こっちへ来い。こっちは深く、広い。眼をつぶって飛べ!たいした距離じゃない。

 クソ、縁もねぇお前らなんか、受けとめたくはないが、しゃぁねぇ、受けとめてやらぁ!

写真は、黄色いタビラコの可憐な黄色の花とタイの鮮やかな菓子盆。Img_0017_6

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雪の国の悲劇 第3回 胡錦濤氏の犯罪

5228  1989年2月。パンチェン・ラマ10世の命をかけた演説と、その直後の謀殺に抗議する怒りがチベット族の間に高まり、また時あたかも2月のチベット暦正月を祝う年間最大の宗教行事であるモンラムが予定されていました。

 これに対して、新「総督」胡錦濤氏は、全国各地からチベット族が集まり抗議運動に発展することを恐れて、あろうことかモンラムを禁止するという暴挙にでました。仏教が民族の背骨の民族に、その背骨を捨てよ、と。年に一回の最大の宗教的、民族的な祭祀を止めよ、と。

 これにチベット人の怒りが爆発しました。2月7日にチベット仏教の聖地ジョカン寺(チベット仏教の総本山)で大規模な抗議集会が、僧侶、市民によりもたれました。

 胡錦濤氏が、この平穏な僧侶を中心とする抗議行動に打った手は、このようなものでした。まず、文官でありながら、チベットに展開する中国軍の指揮権を自分に与える要求を党中央に要請し、党中央が認めるやいなや、軍と武警(武装警察・鎮圧用軍隊)をもってこのチベット僧侶と市民に襲いかかったのです。

 市民、僧侶はチベット民族の国歌「雪国の理想」を歌いながら、まったくの丸腰で軍と立ち向かいました。今まで大切に隠されていた何本もの色鮮やかな雪山獅子旗が、涙ぐましいラサの蒼穹にたなびいたそうです。

 1989年3月14日、チベット、ラサ。午後1時40分。胡錦濤氏は軍と武警に無差別発砲を認め、装甲車が民衆の中に乗り入れ、人々を虫のようにひき殺しました。装甲車の車輪は血と肉で滑ったそうです。本来、正月が祝われているはずの平和なラサの街は虐殺死体で溢れかえり、負傷者の助けを求めるうめきと血で染まりました。


 これが1989年3月14日のジョンカン寺における大虐殺事件です。そして中国建国以来初めての戒厳令がラサに敷かれ、徹底した摘発と投獄が行われました。この悲劇を現出させた張本人が、胡錦濤氏です。彼はこの「成功」をバネに中央に戻り、出世の階段を登っていきます。

 そして20年後のラサでの抗議行動に、最も恐怖し、常識を逸した弾圧指令をだしたのも、彼の背後にいつまでもとりついているであろう1989年3月の悪夢がなせるわざだったと思われます。

 また、ラサ暴動事件の直後の5月、胡耀邦氏を悼んで大規模な民主化要求闘争が北京で起き、これもチベットと同じように軍事的に残虐に制圧されたのが、第2次天安門事件です。このふたつの事件が、まったく同時期に起きた同じ根を持つ事件であることがご理解いただけたでしょうか。

 このようにして、1989年から2002年まで中国とチベット亡命政府との対話のチャンネルは閉ざされます。

 正義と真実を唯一の武器として闘う、心優しいチベットの人々に、安らぎと平和が訪れますように心から祈ります。
                (この稿終わり)

写真は、チベット国旗の雪山獅子旗。

 

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雪の国の悲劇 第2回 1989年ラサ

チベット問題に理解をしめした希有な共産党幹部である胡耀邦氏が失脚をすると、一挙に暗転へと向かいます。

同年1月、唯一の希望を絶たれた囚われのハンチェン・ラマ10世は、勇気を奮って、共産党のチベット政策を批判します。もはや彼には、わが身を捨てての戦いしか残されていなかったのです。彼の最後の、チベット民衆へのメッセージは涙なくしては読めないものです。

そして、このメッセージを発した翌日彼は死にます。共産党は心臓麻痺による死と発表しました。謀殺であることは、疑う余地がありません。もちろんそのような発表を信じるチベット人はひとりとしておらず、世界も信じませんでした。

 そして同年4月、奇跡の友情で結ばれた盟友、胡耀邦氏が失意の中、パンチェン・ラマ10世の後を追うように死去します。

その前月、春浅いチベットで大規模な抗議が起きました。雪の国の心優しい

人々が、圧政に対して立ち上がったのです。いわゆるラサ暴動です。

 この時に、中国からチベットにいわば総督(チベット自治区党委員会書記)として送り込まれたのが、つい先日、日本に来た現総書記の胡錦濤氏でした。氏は当時46歳、この任務を昇進の大チャンスと考えて、張り切っていました。彼が来る前のチベットは、文革による徹底したチベット文化の破壊と虐殺の傷が癒えておらず、完全な軍政下にありました。
 高僧のあいつぐ処刑、しかもチベット民衆の前での公開処刑などで大きく揺れている時期でした。彼はこれを平定するために送り込まれたのです。

Lhasa00_f_2 写真は、ポタラ宮の屋上部分。現在のダライ・ラマなきポタラ宮は単なる観光施設となっている。高度3000メートルの蒼穹がまぶしい。

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雪の国の悲劇 第1回 パンチェン・ラマ10世とその奇跡の友情

中国深せんで、チベット亡命政府と中国が会談をしました。中国側は、政府の外交部ではなく、中国共産党統一戦線工作部です。つまり、中国はチベット亡命政府を相手にしていないよ、ダライラマ14世と個人的に接触しているだけだよ、というスタンスです。

一方、チベット側交渉団の団長は、ロディ・ギャリ特使。ダライラマ14世の重要な側近です。今まで6回にわたる接触のリーダーだった人です。

 ギャリ特使は、80年代に鄧小平-胡耀邦が試みた自由化路線の時にも、中国政府と接触をもっています。
 当時の中国は、鄧小平の指導のもとに開放路線が敷かれており、鄧小平はこの時期「独立以外ならすべてを議題にできる」とも発言していました。

その流れを進めたのは、ダライ・ラマに次ぐ地位にあり、ダライ・ラマ14世のチベット脱出の際にあえてチベットに残留し、十四年間にわたる投獄と拷問を受けた故パンチェン・ラマ10世でした。彼は「ダライ・ラマを支持する」と言ったために恐るべき迫害を受けました。紅衛兵の少年少女によって、眼を背けたくなるような拷問を受けている写真が現存しています。

日夜続く拷問に、彼は獄中で何度も「殺してくれ!」と叫び、自殺を試みたこともあったそうです。この声は、同じ獄舎に繋がれていた民主活動家の耳にも達したそうです。

パンチェン・ラマ10世の悲劇に心を痛めた共産党幹部がいました。胡耀邦氏です。彼は10世と会話をし、チベットの悲劇を知ることとなります。そしてふたりの間には、奇跡のような友情が生まれました。

胡耀邦氏は、党の政治局会議で「チベット問題で党は重大な誤りを犯した」と発言したそうです。彼の総書記という立場を考えると、尋常ではない勇気が必要な発言でした。この発言が、彼を失脚と死に追い込む導火線となったのです。

彼を党中枢に引き上げたのは、ほかならぬ鄧小平氏でした。彼は改革開放路線の遂行者として胡耀邦氏と趙紫陽氏を取り立てたのです。しかし、民主化運動に対する胡耀邦氏の支持、そしてチベット問題に対する姿勢に、鄧小平氏は激怒します。

鄧小平氏の改革開放路線は、中国が強国となる方途であり、チベットを開放し、民主化運動を支持することは、一党独裁の中華帝国を解体することになると考えたのです。

鄧小平氏は、なんの未練もなく胡耀邦、趙紫陽両氏を切り捨てます。そして、胡耀邦氏は同年5月に失意の中で死去します。


 この短い「チベットの春」の時期にロディ・ギャリ特使が中国共産党の中枢と話しあっているとする人もいます。内容はまったく分かりませんが、この時期が過去において唯一のチベット問題解決の時期であったことは確かです

                    (この稿つづく)

                   写真はLhasa05_f_3 、チベットの宗教的中心部であったポタラ宮前広場。巨大な五星紅旗がたなびき、ミグ戦闘機が威圧的に鎮座している。

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JAS有機認証の後先の風景 その2

Img_0018  

私はJAS有機認証は、大型化、単作化、集約化の方向に有機農業も梶を切った大きなきっかけになったと思っています。  

 いくつかの有機農業の農法が、事実上不可能になりました。たとえば、混植(コンパニオンプランツ)は難しくなりました。これは、ナス(ナス科)の株間にネギ(ユリ科)を植えることでナスの病気を防ぐ、などといった栽培方法ですが、非常に有効な防除だけではなく、相互の作物を収穫できるという賢明な手段でした。

 あるいは混植だけではなく、2畝、3畝という小規模で作り、ナス科の横の畝にはユリ科、ユリ科の横にはセリ科といった農法も消えていきました。作型自体を1反歩単位に集約せねばならないからです。

 別にJAS有機認証の基準には1反歩にしろ、などとは一行も書かれていませんが、あの煩雑極まる文書体系を1畝、2畝単位で記録することは、まず不可能です。

  また、ひとつの作物が、そうですね、仮にセロリ(セリ科)がやられて、その後のリカバリーにニラ(ユリ科)を植えようとなると、まったくもう一種類の圃場台帳、作付け台帳、資材台帳・・・と言ったフルセットが必要となります。 

 第一、入り組んだ圃場が多く、複雑な地形で農業をしている日本の農家がいちいちその作型を記録していくのは困難なことです。ここは10㌔四方がトウモロコシといったイリノイでもなければ、100キロ四方が小麦のオーストラリアでもないのです。

 本来、そのような大型圃場にこそふさわしいのが有機認証のシステムだったのです。それを100キロ四方トウモロコシ単作と、せいぜいが1~1.5町歩の農地にとっかひっかえ40品目以上を作ってきた日本とを同一の文書体系で規定する発想そのものがおかしいと思います。

 かくて、日本の有機農業もまた、慣行農法に歩調を合わせるようにして大型化、単作化、集約化の方向になし崩しに向かっていくことになりました。
 今、JAS有機を取得した有機農家では、トマトだったらトマトだけ、ほうれんそうならほうれんそうだけと言った単作の道がつけられています。かつてのような、あたかも野草のお花畑のようだった、日本型有機栽培は消滅するか、JAS有機の外に世界を求めています。

 有機栽培の農家の集まりに行くと、昔のように、農法に口角泡を飛ばす人は減り、土壌資材と農薬の使途のみがやたら詳しい人が増えたのも哀しい風景です。土壌資材はともかく、農薬の使途が一体農業となんの本質的な関係があるのでしょうか?

 かくして、JAS有機認証は、当初、これに夢を託した人を裏切り、国内の有機農業をがんじがらめにし、一方外国産農産物の輸入に大きく道を開くこととなったのです。

写真は、キューバで買ったキビ刈り労働者の麦わら帽子と、ペットボトルの中はボリビアのウユニ塩湖の塩。

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JAS有機認証の後先の風景 その1

 JAS有機認証が制定されて8年にもなります。一時画期的だと評価された認証制度は、なにを日本の農業にもたらしたかを考えます。

 私は2000年(研究段階まで含めると、実際には1997年頃から)有機認証の旗を高く掲げました。まず当時、なにがなんだか分からないようなジャングル状態の「有機」にうんざりしていました。ほとんどが、紛い物なのです。「有機栽培」のシールさえ、市場で普通に売っていた時代ですImg_0017_2

 一方、小農-個人産直という従来の提携運動の流れの中では、一定規模以上の流通団体とは組めませんでした。あまりにバラバラで、規格もなく、農法も拡散しており、そしてなにより、余りに小規模でした。

 この流れは、有機農業が出来た時からある伝統的な方法でしたが、極少派から抜け出せず、早晩行き詰まることが目に見えていました。

 そしてそのような季節に、JAS有機認証が出てきたのです。客観的でジビアな、公正な基準。私はこれを新しい有機農業の「軸」にしたいと考えました。

 このJAS有機認証を、「軸」に作られたのが、私たちGです。県境をまたいだ、有機農業グループの統一基準などそうそう簡単にできるはずもありません。私たちはJAS有機の基準をそのままあてはめました。その意味で、ラッキーでした。

 このように、広域で有機農産物を流通させる方法こそが、有機認証の本質です。広域で有機農産物が行き交う。 そして、私たちが想定した県境をはるかに超えて、外国もあったのです。

 では、その結果なにを有機農業は失ってしまったのか。それを次回に見ます。

写真は、ボリビアの可愛い人形。

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拓郎さん

Img_0006  ちょっと前にギターの練習を10数年ぶりに復活した。愕然とするくらいに指が動かない。中指が特に伸びない、クッソーと伸ばすと、翌日痛い。トホホである。ベソをかく。

 高1の時に、アコースティックギターを買った。いや、当時の表現でいえばフォークギターか。背伸びをしてヤマハを買った。たしか7千円だったかしら。当時の私には充分に大枚であった。

 私はこのギターという新兵器で、当時のアイドル、吉田拓郎をフォローアップしようと試みた。当時、拓郎さんはもてまくりのシンガーソングライター(死語)で、確実にキムタクよりギターと歌がうまかった。

 またしなやかな長髪もステキで、耳にかかる髪を叱られていた私たち田舎の男子生徒は、公式見解としては「なんだタクローくたばれ、幼稚な歌。単純なコード」といいつつ、内心は泣きながら、「うらやましいゾ、悔しいからパクってやるゾ。ガッコを出たら髪伸ばすゾ」という二律背反に悶々としていたのである。

 要するに、もてたかったのだ。その一心だった。ロッカーの皆さんで、その初心のモテたいという心がなかったら、そのほうが異常だ。だって、ロックとは、自己表現以前に、モテたいからやるのだ。それから、自己表現とやらというジャングルに分け入っていく。逆ではない。今の私風に言えば、ロックとは、君と私、男と女という「対関係の中でこそもっとも輝く音楽」なのである。

 Img_0011 拓郎さんとは、高校を出てから日比谷野音(ヤオンと呼ぶ)のロックフェスのローダー(器材を設置する下働き労働者のようなもの)をかって出た時に、直に接した。彼は当時の左翼インテリ的な反戦フォーク(←なんてものがあったのだよ)にまっこうから楯突いていた。

 当時私はバリバリのレフトウイングであったが、なぜかあの愚民的な反戦フォークとやらが大嫌いだった。猫なで声で♪エイチャンの家にジェット機が落ちたら~などと唄われると、背筋に寒イボができた。聴くほうが低いレベルだろうとはじめから想定して作っている根性がイヤダ。頭のいい私たちが、意識の低い君らに、社会の誤りを絵解きしてあげますよ、という姿勢がたまらなかった。そもそも、音楽的につまらないのだからしょうもない。

 同時期、ピートシーガーを聴くが、彼の音楽の持つ突き抜 けた明るさ、メーセージの透徹した強さに打たれた。彼は、ギター一本で、30年代の荒廃したアメリカを歩き回った。貧窮した労働組合のスト現場でも唄った。報酬はスープとパンだけだとしても。日本の三番煎の出がらしとは、シンガーとしての腰の据え方が違う。「格」が違うとしかいいようがない。

 拓郎さんは社会的な人気とはまったく反対に、フォークの世界では栄光の異端だった。当時岡林信康などの関西フォークが主流だった中で、孤立して吠えていた。

 生身の若者の、うまく表現できないいらだちや、悔しさや、恋人がいるうれしさや、恋をうしなった哀しさや、語る友がいることの歓びや、自分のだらしなさを誠実に歌にした。写実的といってもいいくらいだ。Img_0027

 彼の資質で一番すごいのは、直球勝負ということではないのか。普通の生半可なシンガーは、背伸びしてフィルターをかける。自分を直視させないためのフィルターだ。それの多くは歌詞の中に隠されている。拓郎さんは、その無意識の自己規制をはずしてしまった。

 だから、湘南地帯の高校生からみると、ガッコで仲間と話す時には「拓郎はヤボイんじゃない。子供の歌詞でしょう」とかいいながら、家に帰ると彼のレコード(アナログのバカデカイ33回転の奴である)をかけ、「いいなぁ、わかるなぁ」と泣き、彼のオールナイトニッポンを常連で聞き、投書までした。一度彼に読まれたことがあり、ラジオに向かってバンザイ~と叫んだ。

 そして翌日に仲間と会えば、しゃらとして「ツェペリンの3枚目聴いた?がっかりだね。やっぱ、ジェスロータルかな」などと言っていた。われながら、実に可愛いものである(←笑うな)。お笑いだが、高校生にも高校生なりの見栄というものがあるのだよ。いや、当時ほど、知的、感性的な見栄っぱりの時期はなかった。

 さて、拓郎さんは、軽いアイドルどころか、骨があるシンガーだった。岡林が、♪私たちの望むものは与えられることではなく、奪い取ることなのだぁ~、と歌えば、拓郎さんは、♪僕の髪が肩まで伸びて、君と一緒になったら、結婚しようよ、と歌った。

 Img_0034 野音でこれを歌うと、反戦フォーク派から、「ナンセンス!ナンセンス!」の罵倒と共に空缶を投げられた。その一発が彼に当たった。すると彼は、歌を唄うのを止め、そのバカヤローに投げ返した。これを合図にして反戦フォーク派が、壇上に突進してきたので、私たちローダーが容赦なく壇の下に蹴落とした。今日びのコンサートではなかなか見れない風景ではないかと思う。

 私たちコンサートの下層労働者に対してもきさくに声をかけてくれ、終わった後に車座になって酒を呑む機会もあった。広島弁丸出しで気取らなかった。男気がある人で、独特のユーモアがあり、私たちは終始、笑いぱなしだった。女より、男に好かれるタイプだった。坂本龍馬にライブで接すれば、彼のようなタイプかと思う。

 一方、岡林の歌は、残らなかった。彼は繊細だった。批判にも弱く、断ることもできなかった。だから、当時の青年の反逆心を代弁しただけに終わった。彼は当時の若者の「依代」(よりしろ)だったことに、自分が耐えられなかった。しかも、コンサートの後で、拓郎組は酒宴だったが、岡林は労音のコンサートでは、かならず総括会議をやらされてボロボロになったそうだ。気の毒に。

 そして、そんな象徴になるのが嫌になり、一時京都の郊外で百姓になってしまった。去年、ひさしぶりに野音でコンサートをした。いい感じで気負いや、理念が消えていた。彼も苦労したのだろう。

写真は、農場音楽室である八角堂の内部。何本かのギター。ガレージライブハウスでの演奏風景。

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農場への道

 農場への入り口は何本かある。この写真が正面の道。杉並木と広葉樹の並木を抜ける。この入り口が農道に当たる場所には、なんの看板も立っていない。だから、初めて来た人はだいたいが迷う。

 今でこそ整備されてしまったが、この農道自体がかつては鬼門だった。ここの土地の人が言う「馬車道」という狭い道で、舗装されておらず、2トン車がぎりぎりでしか通れなかった。よく落ちた。人によってはご丁寧に、農道で落ちて、ようよう引きずり上げたら、こんどはこの林道でまた片輪を落としImg_0025_2 たという剛の者もいた。

 で、この林道を抜けて安心してはいけなかった。農場内部の道が、ちょっとした雨で泥濘となった。

 はんぱな泥濘ではなく、ワゴン車などのホイルベースが長い車は、まったく出られなくなってしまうほどだった。後輪が左右に振れて、進まないのだ。無理にアクセルを吹かすと、そのまま泥濘に埋まってしまった。入れないのはまだ仕方がないと思っても、出荷にも出られないのには参った。

 だから、当時は四輪駆動車でなければ、農場に出入り出来なかった。四輪駆動車が、まったくの実用品の生活というのもなかなかではある。スタック(うんぬまり)からの脱出に関しては、そうとうに馴れてしまった。

 牽引ロープ、シャックル、ジャッキ、2メートルほどの道板、各種スコップは常に常備してあった。自称「キタウラJAF」。ただし、私の所に来る人のを救助するのであるから、ある意味タチが悪い。

 四輪駆動車は、ジムニーから始まり、ジープ、最後には車載ウインチつきのランクル60を買い、落ちた来訪者の車を上げまくった。ある時、気まぐれで「4×4マガジン」という専門誌に、私たちの「うんぬまり生活」を投稿したところ、編集部からえらく羨ましがられてしまった。土日に、何時間もかけてうんぬまりに行っている彼らからすれば、それはそうであろう。

 落ちるといそいそと駆けつけたのだが、あまりに来訪者の苦情が多いので、砂利を大量に敷き整備をして、今に至る。残念なことに、今は昔の面影はない。普通の車でスイスイ来訪して頂ける。ちょっと悔しい。

 そんなわけで、今でも、街でピンカピンカの泥ひとつ着いていない四輪駆動車を見かけると、ちょっと笑ってしまう。

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ゴーヤチャンプルーの正しい作りかた

Img_0003_2  今日は朝から、むしょうに食べたくなったゴーヤチャンプルーの ことをお話しましょう。私はチャンプルーに関してはプロです。ですから、グチャグチャな柳川鍋もどきのチャンプルーを出されると、星一徹のようにお膳ごとひっくり返したくなります。

 チャンプルーは沖縄が誇るテーゲー(いいかげん)料理の帝王ですが、きちんとしたレシピが存在します。テーゲーでいいのは、その食材にマーミナ(もやし)、タマナー(キャベツ)、ソーミン(そーめん)、はたまたパパヤー(パパイヤ)にするかという選択だけで、料理方法には王道があるのです。えへん。あ、私がいばることではなかった。

 よく沖縄居酒屋で出るチャンプルもどきの失敗の原因は、なんと汁で煮てしまうという外道にあります。そして、あろうことか卵とじにする愚挙に至っては、怒りすら覚えます。ま、まったくとんでもない間違えです!(←怒りで過呼吸状態に)

 チャンプルーの一番の鉄則は、中華鍋をこれでもか、というほどチンチン、ボーボーに焦がすことにあります。水滴を垂らせば、瞬時にチュンと言って蒸発するまで炙ります。ですから、当然テフロン加工は適しません。

 そして、よ~く水切りをした豆腐を使います。あたりまえですが、豆腐は木綿です。絹豆腐でやったら、グチグチャな代物になること必定です。

 できたら、島豆腐という荒縄でくくって沖縄では売っている(ウソ)堅い豆腐が望ましいのですが、本土で入手は困難でしょう。ですから、テッテイテキに水を重石をかけて切ります。

 この水切りをした豆腐を、チンチンに炙られた鍋に投入します。シュンッというでしょう。すかさず軽く塩を振って、ちぎるように一口大に割ります。そして焦げ目がついたら、鍋から出してしまいましょう。

 次に主役のゴーヤを縦半分に割り、スプーンで種を出して半月に切ります。苦みがイヤなら水で晒して、と言いたいところですが、苦みがイヤならゴーヤなんか食べなさんな。「苦み」という、本源的に人間が忌避したがる味を逆手にとって、食欲増進につなげるというパラドックスへのあくなき挑戦こそが、このゴーヤチャプルーなのです(そんな大層なもんか?)。

 次にわき役のポークを短冊に切ります。ポークと言われても、豚肉そのままではありません。ポーク缶であります。正式にはランチョンミート、いわゆるスパム・メールでも有名なスパムです。

 スパムは米軍が戦後沖縄に大量に持ち込んだ食品で、粗雑な肉を合成保存料、発色剤などとともに固めたという、とんでもない食品です。犬缶といい勝負です。戦時中にスパムを大量に補給されたイギリス人が、そのまずさに厭戦気分になったという噂がある食品です。

 世界一の味オンチ・イギリス人が太鼓判を押したこのスパムは、なぜか沖縄では大好評で受け入れられます。たぶんチャンプルーとの相性が抜群だったからに相違ありません。上京したウチナンチューがまっさきに郷里から送ってもらうのがこのポーク缶で、これを一日一回食べないと、ウチナンチューは死んでしまうとさえ言われています。

 わが家は、ことポークに関しては、一切の食品安全上の論評を差し控えています。うちのカミさんはことのほか、食添にはコウルサイのですが、これだけは目こぼし食品と指定されています。だって、これを使わないと沖縄料理にならないんだもん。

 では、レシピを進めるとしましょう。洗った中華鍋を、ふたたびボーボーと強火で炙ります。黒煙があがった頃に、一気にゴーヤ、ポークを投入し、鍋をあおります。軽く炒めて、豆腐を鍋に戻し、大きくかき混ぜます。あまりこのときに煽ると、豆腐が崩れてしまうのでご注意。

 最後に軽く塩コショウをして、溶き卵2個分をかけまわします。卵は半熟ていどで火を止めます。これでワンラ。皿に盛りつけ、カツオ節をふりかけてどうぞ。わが家では、ゴーヤチャンプルーは3日に一回は食べて、夏を乗り切っています。冬にも食べます。要するに、一年中食べているわが家の定番料理です。

 

 

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5人馬鹿が集まれば、世界を変えてみせよう

 組織の揺籃期というのはなんでも楽しい。なんせゼロから、なにも手本にせずに、自在に創り出すという経験ほど、私のような人間にとってかけがえのない喜びはないからだ。いわば第1世代。

 Gという今まで類例のない農業集団を作った時がそうだった。Img_0003この10月でちょうど創立10年になる。もうそんなになるのかと驚く。 なにもない、あるのは身銭を切ったわずかな出資金ひとつと、日本農業を刺激する面白いことをしようぜ、というエネルギーだけ。

 小さな事務所、事務員もパートの1名しかいない、パソコンは自宅から持って来た。電話も寄付してもらった一本だけだった。

 おまけに何回も自腹を切って、資金の追加補給をした。しないと潰れた。取引の営業をかけながら、同時に作付けをせねばならなかった。もし、失敗したら、全量買い取る覚悟だった。そうとでもなかったら、生産者から信じてもらえなかったからだ。

 地縁血縁で縛られている従来の農業団体を、思い切って変革する県境を超えたネット組織を構想したので、既存の人達からはうさんくさい眼で見られた。ありとあらゆる誹謗中傷が降ってきた。

 「聞いたことのない団体だべぇ」、「バイヤーだっぺよ」、 「街から来た訳のわからん奴がやってっる怪しいとこだべ」、「なんか裏があるっぺよ」・・・エトセトラ。いちいち怒っていたらきりがなかった。

 テイクオフまで長かったので、出荷開始の時には資金がショートしかかっていた。とうぜん、職員には給料を出したが、こちらは数年ほどは無給だった。だから、初回の振込が、生協からあった時には、相棒と手を取り合って喜んだ。

 ほっとしたのも束の間、初出荷のわずか1カ月後、東海村の原燃がドカンといった。私たちの村にも放射能が来た可能性があった。この事件については別稿で書くが、注文は激減して大打撃を喰った。まるでジェットコースターだ。

 内部もネットワークというと聞こえがいいが、寄せ集めで、組合費を頭を低くしてもらいに行った。かんじんな作付けは、皆が勝手にしたので、ある時には溢れる、ない時にはなかった。何度も欠品を出し、取引先に頭を下げてまわった。

 こんな状況で、2000年にJAS有機認証を集団突破した。良く出来たものだ。今になると、逆に突破するということで、かろうじてまとまっていったのかもしれない。刺激的だったが、もう一回やれと言われれば、尻込みするが。

 ただ、こうは言える。この時期は楽天的で、しびれるほど楽しかった、と。

 私がGの代表を引いた時あたりを境にして、第2世代が実務を握った。ギルドの創立には関わらなかった人達だ。立ち上げの恐怖も歓喜も知らない。危ないジェットコースターには乗らなかった。
時は、創設の季節が終わり、平時になったのである。第2世代にとって、ギルドと関わった時に、既にそこに「あった」のである。

 Gはそこそこに大きくなり、職員も増え、事務所は3倍になった。会議室も出来た。そして、ネット構想が成功し、一時は70名を超える生産者と100町歩を超える認証畑を持った。

 第1世代の特長は、破壊的なエネルギーだ。ほころびだらけの衣を着ていても平気で、前のめりのバカバカしい陽気な部分がいる。整合された世界に生きるのではなく、その世界自体を創ろうとする。生意気で、気負っていて、鼻っぱしらが強く、自分が弱いということを知り尽くしているからしぶとい。

 変人でなければ務まらない。言い換えれば、平時には昼行灯である。立ち上げとか、非常事態になると、妙に嬉しそうにしている。この馬鹿たちには、合言葉がある。「5人バカが集まれば、世界を変えてみせよう」。

 さて、第2世代は、この上に規則や組織構造を乗せることになる。第1世代のムチャクチャなエネルギーを整理し、組織し直す役割だからだ。なぜなら、そもそも規模が違ってきているし、ガバナンスを考えれば無茶もできない。

 すべてが慎重で、あたりさわりがなくなる。常に前のめりで、時に破天荒だった私たちとはまったく体質が違う、穏健で、バランスのいい実務家肌が揃った。このようにして、ギルドの体質がゆっくりと変化していった。

 そして第2世代の部下の第3世代に至っては、一般労働市場から来るのが当たり前となった。もはや一般の会社とさほど変わらない。同じ理念を掲げても、中にいる人間が大きく変貌してしまっている。

 今、私は自分に身びいきに言えば「伝説の人」だ。はっきり言えば、神代の人、関係ない人、とうに終わったと思われている人、昼行灯。

 だから、もうGの職場に行っても、この情けない「伝説の人」の居場所はどこにもない。私が誰か知らない人もいるはずだ。たまに行くと、ちょっと言いたくなる時がある。「君らの職場は俺が作ったんだがね」と。もちろん、言わないが。

 Gというのは私の精根込めた作品のような部分があったから、私がそこから精神的に独立するまで2年ちかくもかかってしまった。で、ようやく去年くらいから自分の居場所は自分で作るものだと割り切ることができた。今はもうギルドの私ではない。わかっていながら、時間がかかった。失恋をした人に想いをかけるようなものか

 しかし、そう簡単にはくたばらない。まだ挑戦は続く。

 写真は、雪の中の八角堂。八角堂は、農場の音楽室。ロックを大ボリュームで聞いたり、映画を観たり、エレクトリックギターや三線の練習をしている。いや、昼寝の時間のほうが長いか。

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茨城トリインフル戦争 第5回「週間金曜日」不掲載原稿復刻す!

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許してはならないIファームと愛鶏園の企業犯罪

この「戦争」が決して自然感染によるものでない人為的な意図によって引き起こされたことは明瞭である。

動機は、その前年にあった他県、特に京都府の悲惨な事例を見て、違法ワクチンを接種することで自分の企業だけはなんとか助かりたいという卑劣な意志からである。

そのために国外から違法ワクチンを密輸入し、密かにウイルスを散布した。すべてはトップからの直接指示で極秘に行われ、農場現場サイドすら関知しなかったかもしれない。とうぜん、このような行為が刑事事件を構成することも百も承知なはずである。

しかし、このような違法行為を誰も掣肘する者がいない。企業内にしか世界がなく、その外に眼を向けようとしない「企業人」たちの悲喜劇である。まさに今、不二家でそしてかつて雪印で三菱自動車で起きている事態に酷似しているではないか。

しかし、思わぬことろからこの「企業人」たちは馬脚を現す事となった。

それについては稿を改めてお話したい。

 (この稿終わり)

写真は、農場の菜種畑の道

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茨城トリインフル戦争 第3回「週間金曜日」不掲載原稿復刻す!

Img_0016 原因は特定されている、違法ワクチン以外にありえない

さてここで、実は原因はほぼ100%特定されていると言ったら皆さんは驚かれるだろうか。疫学的には完全に決着が着いている。農水省の最終報告書は「違法ワクチンである可能性を否定できない」という奥歯にものの挟まった言い方をしたが、いや、実は「否定できない」どころではなく、完全に違法ワクチン以外にあり得ない。その理由を書く。

弱毒N2型は人為的に作られたウイルス、つまり違法ワクチンだ

まず第一に、この事件で検出されたウイルスの株はH5N2亜種である。N2型であることに注目されたい。N2型は今宮崎などで発生しているN1型と異なり弱毒である。つまり、これに感染死しても鶏はまったく平気の平左、死ぬことはあり得ない。これは弱毒を接種し、抗体を体内で作る目的で作られた人為的なウイルスだと言うことを示している。要するにワクチンである。

ワクチン自体は違法ではないが、トリインフルにあっては、弱毒が何代にも渡って変異を繰り返す事で、ヒトにも感染しうる新型インフルエンザ(スペイン風邪亜種)に変異する危険性がWHOなどによって指摘されているため、その接種は厳重に禁止されている。すなわち、これを接種する行為は重大な刑事的犯罪に当たるのだ。

グアテマラ株が自然界で拡散することはありえない

第二に、このウイルスの遺伝子株はグアテマラ株と97%の相同性が認められた。聞き慣れない言葉ばかりで恐縮だが、これははるか遠く太平洋を挟んだ中南米のグアテマラ由来だということを意味する。

感染症は渡り鶏が自然宿主となってその気管支にウイルスを持って地球規模で拡散させるというのはご存じだろうと思う。その証拠に宮崎のトリインフルは中国の青海湖由来だと特定されている。

青海湖の水鳥がトリインフルH5N1型で大量死し、そのウイルスを持った渡り鳥が世界に拡げた。日本には中国、韓半島を経由して侵入したとみられる。しかし、グアテマラから太平洋を横断して、東西を行き来する渡り鳥は存在しない。

あとは強いて言えば、グアテマラからの家禽の輸入だが、そんなものの輸入はとうに禁じられている。ならば人か。いや、これもあり得ない。防疫関係者は密かに調査をしたが、グアテマラ人労働者はこの地区にはいなかった。

鶏舎内で均等にウイルス感染することはありえない

第三に、その発生状況である。これがメチャクチャに怪しい。たとえばイセ・ファーム石岡農場ではウインドレスで12棟、美濃里においても9棟発生しているが、この発生状況がいかがわしくも、ベタ均等荷出ているのである。

外部からウイルスが侵入しての自然感染ならば、一棟の中でポツポツと斑点のような発生をする。このようにベタ均等に陽性抗体反応が出ることなど絶対にありえない。ましてイセ・ファーム美濃里農場に典型的なように、隣接するウインドレス鶏舎棟がことごとく感染することなどありえない。

何者かが違法ワクチンをばらまいた!

これらが示す事実は、一点に向けて収束する。日本国内の陰湿なしがらみから自由な複数のアメリカの疫学研究者がまことにサバサバと指摘している(根拠・農水省中間報告書「米国の研究者からの情報提供」)。何者かが人為的に違法ワクチンを接種した以外に考えられないという一点に向けて。

写真は、北浦に出る山田側河口風景

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茨城トリインフル戦争・第2回 「週間金曜日」不掲載原稿復刻す!

原因は闇に葬られようとしている

この茨城トリインフル事件について、農水省が2冊の大部の報告書を作成している。2005年10月に出た中間報告書と2006年9月に出た最終報告書のふたつである。疫学専門用語だらけのまるで迷宮のようなこの大部の報告書を読み通してなんとも深い失望感を覚えるのは私だけではないであろう。

この報告書は斯界の権威が並び、膨大な資料を収拾し、これが人為的な違法ワクチンによると九割方指摘しながら、最後の最後で口を濁しているのだ、いわく「最後の詰めとなる証拠がない」と。これが日本政府農水省の最終見解となった。かくして魔を放った者は、多額の補償金すら握って、今や公然と被害者ヅラをし始めている。

おカミがAファームを守っているんだっぺ

さて、ここでこの戦争の最大の「被害者」にご登場願おう。国内では、強引な商法で市場を制圧し、アメリカや中国にまで大規模進出し、社長は「総帥」とすら言われる世界一の養鶏多国籍企業「イセ・ファーム」である。

今回の事件でも一社としては最大の殺処分と「監視下からの殺処分」、あわせて数百万羽以上という「大被害」を受けている。数字だけでみればまがうことない最大の被害者である。

しかし、当地でこの巨大企業のことを被害者と考える者は皆無に等しい。移動制限区域で呻吟した者、殺処分で経営基盤を根こそぎ破壊された者、そして巨額の借財を作り二度と立ち上がれなかった者達は、皆顔をしかめ、声をひそめて言う、「ああ、ありゃイセと愛鶏園が違法ワクチンをぶん撒いたからだべぇ。その上大枚な補償までふんだくりやがって、泥棒に追銭とはこのこったぁ・・・」。そしてその言葉の後には、吐息と共に必ずこう続く、「俺たちがなに言ってもダメだべぇ。おカミがイセ・ファームを守ってんだっぺから」。

 Img_0010 本稿においては、雑誌掲載原稿と異なり、社名を名指しした。果たして、訴訟魔イセは、このちっぽけな虫のようなブログまで告訴するだろうか?

写真は、北浦が望める丘からの風景

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茨城トリインフル戦争・第1回「週間金曜日」不掲載原稿復刻す!

Img_0012_5 国民の多くは、わずか2年前の2005年夏から翌年6年暮れの知事の終結宣言まで茨城県で起きた茨城県トリインフル大発生事件、いや、現地のある人が恨みをこめて呼んだ「茨城トリインフル戦争」を忘れ去ってしまったかにみえる。

この「戦争」が何によって引き起こされたのかの真相を、数回に分けてみていきたい。

全国一の採卵鶏産地の半数が殺処分された

 

飼養規模1千百万羽、全国一の採卵鶏の規模を誇った茨城県のほぼ半数もの560万羽もの鶏が「殺処分」に付された。この数字は言うまでもなく、日本畜産史上、空前の数字であり、今後も破られることはないであろう。

この殺処分は県の職員だけではとうていできず、発生の中心となった小川町(現小美玉市)では、土木組合、そしてなんと陸上自衛隊の160名が災害派遣の名目で出動した。このような畜産防疫事件で、自衛隊が正式に出動したのも日本では初めてのことである。

また、処分、補償などで一説100億円以上の公費が投じられ、40を超える農場が殺処分か監視下に入った。そしてその半径3㎞以内のすべての養鶏場は移動禁止措置を受けた。

経済的な被害総額は算定しようもない。たぶん数百億円規模と推定される。これをもはや一地域で起きた単なる畜産事件として済ますのは難しいであろう。それは実は、この地域に己の私利のためにウイルスという名の魔を人為的に呼び込み、あろうことかそれを拡散させた者と、拡大を防ぎ、この巨大な悪を告発しようとした者との間の「戦争」だったのである。

本稿は2007年3月に「週間金曜日」3月号に掲載するために書かれた。しかし週間金曜日編集部との意見の相違により、不掲載となったものである。ここに改めて世に問いたい。

写真は、束の間の晴れ間の下の蓮根とせりの田んぼ。

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山椒の実がなりました

 雨上がりに山椒の実が雨粒を滴らせて実っています。農場には3本の大きな山椒の木があります。いずれも、裏の山から掘ってきたものです。

 まだ、ほんの30~40㎝程度の若木を、そっと根の回りから堀り起こしていきます。できるだけ根を痛めないように丁寧に。そして根にできるだけ土をつけたまま、よいしょとレジ袋で移します。

 植物の根の回りには、その植物固有の土壌微生物である根溜菌があります。これは、そのうちこれだけのお話をしたくなるほど、素晴らしく精緻な共生システムです。これをなくなすと植物は自分の根を防御できにくくなります。すると根から侵入する病気にかかり易くなってしまいます。だから、できるだけ根の回りの土ごと、農場へと誘致するのです。

 いつの間にか大きくなって、3メートルにもなった山椒。もう20年ちかくになりますかね。私の百姓人生と同じくらい生きています。相棒の一緒に植えかえた相棒は一昨年の台風でポッキリいってしまいました。とても哀しかったことを覚えています。

 そろそろ実を着けてきたので、適期をみて、摘んで天日乾燥させて、すりつぶして山椒粉にして保存します。この素晴らしい芳香は、市販の山椒粉など別のものに思えるほどです。若葉はかつおの刺身やImg_0003_2 、野菜の煮つけに添えます。

 適期を逃すと赤く成熟してしまいます。この青い時期の山椒、ほんとうに素晴らしく芳しいのです

 写真はわが農場の最長老の山椒の樹。そのうち名前をつけてやろうかと思っています

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なぜ、トリインフルエンザは東西に拡大したのか? 第3回

 西ナイルウイルス謎の西進の謎は、やはり渡り鳥の北米大陸での移動を解明することで分かってきました。これは私にとって眼ウロコでした。

 こういうことで説明がつきます。東海岸でウイルスの宿主となった渡り鳥は、春に一旦北のアラスカの湖へ戻るのです。そしてその保留地で他の渡り鳥に感染を移します。

 そしてウイルスを移された他の渡り鳥が西海岸へと飛来するという行き来をするのです。いったんアラスカに行って、そこでウイルスの宿主の乗り換えをして、また南下するわけです。Img_0012

 この往ったり来たりが、西ナイルウイルスがNYからロスにまで行く2年間だったのです。つまり、南北に行ったり来たりしながら、ジワジワ、ジグザグに地軸に対して横方向の東西に移動するということです。

 このようなことは当然、アジア大陸でも起こっていると思われます。例えば、アジアのトリインフルウイルスは、青海省⇒中国東北部⇒朝鮮半島⇒日本列島に来るのですが(*もうひとつのルートは、バイカル湖⇒シベリアルートです)、途中の中継地で別の渡り鳥に感染を拡大します。その渡り鳥が北に帰る時には、移した鳥とは別の保留地に向かいます。そしてまたそこでウイルス拡大をして、また別なルートが出現する、というメカニズムです。

 こうして地軸に対して横方向のジグザグ転移を、宿主を複雑に変えて、その感染を拡大しながら、数年規模で行っているのではないでしょうか。

 このようにして、世界最強の感染症であり、ヒト転移も始まっているトリインフルエンザは世界中に蔓延していったと思われます。また、機会を変えて、トリインフルエンザの謎を追求します。

                                     (この稿 了)

写真はボリビアの高地。標高3500メートルの村。

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なぜ、トリイフルエンザは東西に拡大したのか 第2回

Img_0003  トリインフルエンザの発生源は中国大陸の青海省青海湖、それとあと一カ所はシベリアのバイカル湖です。ここがトリインフルエンザのふるさとにあたります。ここから全世界に拡散していったのだと言われています。
 では、前回の疑問である地軸方向と直角の方角(東西方向)にはどうやって感染が拡がるのだろうか、という疑問がここで出てきました。
 これを解く鍵は、意外なことにアメリカにありました。アメリカの西ナイルウイルスは初めニューヨークで発生し、2年後にロスアンジェルスで出ました。これは蚊が媒介し、渡り鳥に感染させ、それが拡散したと思われています。しかし、東のNYから西のロスにどうやって?しかも2年もたってから・・・。この疑問にアメリカの防疫関係者は頭を抱えました。
 実は、この「2年」というのがミソで、なぜ2年なのかということに留意下さい。なぜかと言うと、もし航空機などに乗ったヒトが持ち込んだのなら、逆に2年というタイムラグは大きすぎるのです。むしろ瞬時に西海岸に感染が伝播していなければならないわけでしょう。2年などという速度は逆にゆっくり過ぎて、何らかの自然と生物が媒介したとしか思えない速度なのです。
 となると、感染拡大は渡り鳥を疑うのが定石です。しかし、南北のアメリカ大陸を地軸方向で飛来する鳥はいても、東西ルートで飛来することはまずありえない。ここで、アメリカの防疫関係者と鳥類学者は頭を抱えてしまったんですね。
 
 この謎が近年になってようやく解けました。それによってトリインフルエンザなどの感染症がどのように世界に拡散していくのかの一端がつかめたのです。
                                   (続く・次回完結)
 
写真は、春の農場風景。 若葉の中にヤマザクラが一本。写真を300ピクセルに拡大しました。いかがですか?

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なぜ、トリインフルエンザは東西に拡大したのか?

 トリインフルエンザは私の仇敵です。この仇敵を、私は2年間にわたって追跡をしてきました。その報告は「グラウンドゼロ」というメールマガジンで発表しました。同時に、民事訴訟まで視野に入れた戦いも準備し、農水省に質問状を提出いたしました。

 しかし残念ながら、昨年、力及ばず一敗地にまみれました。まさに矢折れ刀尽き、哀れ玉砕といったかんじです。戦いが終了した時には、まったく私の中には闘志のかけらも残っていないほどでした。

 それから1年余、今、気を取り直してもう一回この大きなテーマに取り組むつもりでいます。皆様に多角的にトリインフルエンザを知って頂きたく、この3回の稿を作りました。

 さて、ご存じのように、今、韓半島がスッポリとトリインルエンザに覆われました。感染地図をみると2カ所を除いて真っ黒です。しかも強毒性のN1型です。韓国の防疫当局は必死なのですが、局地化できずにむしろ拡がり続けています。

 現在の季節が渡り鳥が北国で生活する時期だからよかったようなものの、冬季なら大量の感染した渡り鳥が、日本に殺到したと思われますですから、今年の冬に韓半島から飛来する渡り鳥は、原則として保菌している可能性が極めて濃厚だとみねばなりません。この秋から冬いっぱいは厳戒態勢でのぞまねばなりません。自然養鶏は、自然界と接する機会が多いので、そのぶん警戒をせねばなりません。
 さて、今回は少し角度を変えて、なぜ感染拡大が東西方向に伸びて行くのかを3回にわけて考えてみます。と、言いますのは、ご承知だとは思いますが、渡り鳥は、南北方向にしか移動しないからです。
 
 え、太平洋を横断する渡り鳥はいないのか、ですって。なんか、雁あたりがハワイあたりに向けて飛んでいそうですが、錯覚です。映画で雁をライトプレーンで導いている勇敢で優しい女の子の話しがありました。あれも確かカナダから北米の湖に向けての南下の旅だったと記憶しています。
 なぜなのでしょう。それは渡り鳥が方角を探知できなくなってしまうからです。彼らの方角ジャイロは、地磁気による、と言われていますから、北極と南極のN極とS極を感知して飛んでいるのです。ですから、東西軸には飛べないのです。
 では、どうして東西にトリインフルは拡大したのでしょうか?矛盾していますね。Img_0001 ひとつは感染した家禽を人が持ち運んだということもあり得ます。そしてもうひとつの学説がこれです。このヒントは思わないところにありました。
                                          (続く)
写真は、本日のわが農場の梅雨の景色
 

 

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学校脱走委員会の後日談

Img_0023_2  学校脱走委員会の後日談をしよう。

 美術部長は、後にある国立大学の美術史の教授となった。この事件の半年後に、私が本格的な校内反乱組織である高校全共闘を作った時も、律儀につきあってもらった。しかし大学に行って連絡が途絶えた。

 なぜ彼が、私とこんな二人三脚をしたの分からなかった。だいぶたって再会した折りに、酔っぱらって聞いてみたことがある。「なぜ、オレとあんな危ないことをしたんだ」。

 彼、答えて言った。「退屈な学校から抜け出すには、お前について化学室の窓から出るしかなかったんだ」

 歯科医の息子は、二浪したあげく聞いたこともない歯科大学にもぐり込み、今は父親の跡を継いで診療している。彼は2回目の脱走で、バイクという新兵器を使ってスティーブ・マックインよろしく逃げて成功した。校内反乱組織には、当然こなかったが、誰も文句は言わなかった。好きなエレキはいまでもやっているそうである。今でも診断書は大量に発行しているのだろうか。藤沢近辺の方、あの歯医者は危険ですぜ。

 生徒会長は、校内反乱組織には加わらなかった。現在は商社マンになって、サウジアラビアだったか、オマーンだったかであこぎな仕事をしている。ボーボワールのような女房をもらったが、離婚したという。前回会った時に、「あの脱走がオレの人生最大の冒険だった」とウルウルしていた。あいかわらず情けない実存男である。

 パチンコヤンキーは、頼みもしないのに校内反乱組織に加わってくれた。後に、もっとも縁がなかったはずの本の世界に入り込み、今は書店チェーンのえらいさんをしている。いかなる心境の変化があったのか、聞くと怖そうなので聞いていない。

 そして私は、ご承知のとおりに有為転変の後に、しかるべくしてお百姓になった。10年ほど前に再会した時には、全員がのけぞっていた。

写真は恐竜の頭蓋骨モデル。当時の私たちのようだ。

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1968年の小逃亡

Img_0021  二流どころの進学校に行ってしまった。二流なのだから、二流に安住すればいいものを、一流に追いつけ追い越せと生徒のケツを叩いた。しかし、生徒は残念ながら現状「二流」なので、下校時にはちょっとした暴徒になり、ディーゼル車の機関士から、「こらぁ、それでも、県立かぁ!」と怒られながら、毎回何人かが引っこ抜かれていた。

 この運転手は生徒の間ではなかなかの有名人であり、顔と雰囲気は、まるで映画「北国の帝王」のアーネスト・ボーグナインが国鉄のナッパ服を着ている、と思っていただければいいだろう。

 生徒管理は厳しかった。当時皆、ビートルズのマネをしたいのに、髪が耳にちょっとかぶっただけでガミガミ喚かれた。襟のホック、校帽の着用も義務づけられており、実に情けなかった。これでは中坊ではないか。

 校舎じたいが、麦畑に囲まれている丘という悪条件下にあり、生徒指導室から丸見えだった。「難攻不落のチガサキ要塞」といわれた。

 うわさでは生徒指導の教師が、看守よろしく一日中望遠鏡で見回し、あまつさえ地下室にドーベルマンを飼っているという噂すらあったが、これはガセであろう。生活指導の教師は日体大出身で、あだ名も「ニッタイダイ」。

 さて諸君、ここで本日のテーマである学校脱走学を講義するとしよう。まず、グループを作りたまえ。名称は映画のように「学校脱走委員会」などがキュートである。

 次になにか特技がある奴を集めよう。例えば、足が速い奴、病院の跡取りなどがいればごきげんだ。彼には親父の診断書を大量に偽造してもらおう。私たちの脱走委員会には、医者は医者でも歯医者の伜がおり、彼に大量の診断書を作らせた。今思えば、歯医者の診断書などリアリティに欠けるにもほどがある。

 美術部長がいたので委員会に引きずり込み、美術部員の証明書(そんなもんはありません)を偽造してもらい、印鑑のひとつも押した。当時のわが高校は1流高にそれいけ、やれ行けで、息もできぬファショ高校だったが、美術部のみは、放し飼いで、授業中も美術室で描いていられたからだ。だから、私も美術大学志望ということにした。言うまでもなく、絵はまるでダメ。

 後は、足が遅い(校内マラソンでドンケツだった)のと、サルトル好きで有名な生徒会長。そして、ともかくガッコを逃げたい、パチンコ屋に入り浸りたい、その一心で参加したヤンキーの総勢5人である。言い忘れた、ヤンキーの特技は足が異常に速いことである。

 次に重要なのは、脱出ルートの選定。真正面の学校玄関ルートは、一度やってみたかったが、リスクが大き過ぎた。そこで一番北側の化学室の窓から逃げることとした。

その授業がある時を調べる。それはティーチャズ・ペットの生徒会長に職員室から全学年授業表を盗んでもらう。それにしてもなぜ、全校でも1、2位の彼がわが脱走委員会に加わったのか。後で聞いたら、「実存の投企」をしたかったのだそうだが、なんのことやら。

 全学年授業表が手に入り、準備万端、時は来たりぬ。学生カバンには、当時の私たちにとっての大都会である藤沢での着替えも入っている。できたら学生服を裏返せば、ジャケットになるようなものが欲しかったが゛これは無理である。 歯医者の伜など、いざという場合に備えて自分の病院の診断書まで持っていやがる。君らの分もあるよ、と人のいい笑みを浮かべている。やや頼りないが、いい奴なのだ。しかし、全員が歯医者の診断書を持っていたらオカシクないか?

 まず教室からふける。ふけるというのも大変なのだ。私など、いきなり次の授業の教師に廊下で出くわした。しかし堂々と「僕、芸大志望なんで美術室にいますから」とニコニコ。われながらなかなかの悪人である。芸大、受ける気もない。

 そして一目散に化学室へ。全員集合。欠員なし。あらかじめ置いてあった学生カバンを持って、窓から飛び出し、麦畑の畦道を這うように逃げる。黒い学生服がベトコン服のようでありがたい。

 予想どおりヤンキーがトップ、私が2番、絵描き、歯医者、そして思ったとおり生徒会長がケツである。ああ、仲間にするんじゃなかった。しかし、駅まで最短距離である3キロは頑張ってもらわねば困る。最短距離は線路だ。線路を走ったことがおありだろうか。砂利が敷きつめてあって足を取られ、枕木に足が引っかかる。それは走りにくいのだ。

 私はといえば、脱走が成功したら、藤沢オデオン座で上映していた「ロメオとジュリエット」の3時30分の回を観る気でいた。私はオリビア・ハッセイの純粋な美しさにゾッコンだった。あの黒い艶やかな髪、輝く瞳(←なんつう俗な表現)。

待っていてくれぇ、オリビア!今、行くぞ!はっきり言って、バカである。

 ひーひー言いながら錆びた線路を走る。そう、脱走とは走ることと見つけたり、なのである。最大の難所は川にかかった鉄橋だ。ここで万が一にでもディーゼル車と出くわしたら、今私はここにいない。生徒会長はもはや真っ青。いつ川に転落して、サルトルの本と共に相模湾の魚の餌となるかとヒヤヒヤした。

 そうして下車駅に着く。これはかねてから調査済み。駅員は単線路線だからいない、バッチリ。ディーゼル車が走り込んでくる。諸君、脱走成功!と、思ったら、あろうことか、運転席からボーグナイン機関士が降りてきてこう言った。

 「おい生徒、なんでこんな時間に帰れるんだ」。歯医者の伜が、診断書をヒラヒラ振ったが相手にされなかった。そりゃそうだ、全員3㎞マラソンで健康そのもの、汗びっしょりだったのだから。

 そして15分後には、うれしそうな顔をしてニッタイダイがお出迎えに来た。私と生徒会長を見つけると、あれっという表情を浮かべた。かくして、小学校からいい子で通してきて、ノーマークだった私は、これで一躍、要監視対象者となってしまった。処分はなかったが、全員親が学校に呼ばれて説教を受けた。

 この後、懲りずにメンバーを変えながら2回脱走を試み、共に成功する。

 写真は、ブルースマンの人形。

 

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