雪の国の悲劇 第1回 パンチェン・ラマ10世とその奇跡の友情
中国深せんで、チベット亡命政府と中国が会談をしました。中国側は、政府の外交部ではなく、中国共産党統一戦線工作部です。つまり、中国はチベット亡命政府を相手にしていないよ、ダライラマ14世と個人的に接触しているだけだよ、というスタンスです。
一方、チベット側交渉団の団長は、ロディ・ギャリ特使。ダライラマ14世の重要な側近です。今まで6回にわたる接触のリーダーだった人です。
ギャリ特使は、80年代に鄧小平-胡耀邦が試みた自由化路線の時にも、中国政府と接触をもっています。
当時の中国は、鄧小平の指導のもとに開放路線が敷かれており、鄧小平はこの時期「独立以外ならすべてを議題にできる」とも発言していました。
その流れを進めたのは、ダライ・ラマに次ぐ地位にあり、ダライ・ラマ14世のチベット脱出の際にあえてチベットに残留し、十四年間にわたる投獄と拷問を受けた故パンチェン・ラマ10世でした。彼は「ダライ・ラマを支持する」と言ったために恐るべき迫害を受けました。紅衛兵の少年少女によって、眼を背けたくなるような拷問を受けている写真が現存しています。
日夜続く拷問に、彼は獄中で何度も「殺してくれ!」と叫び、自殺を試みたこともあったそうです。この声は、同じ獄舎に繋がれていた民主活動家の耳にも達したそうです。
パンチェン・ラマ10世の悲劇に心を痛めた共産党幹部がいました。胡耀邦氏です。彼は10世と会話をし、チベットの悲劇を知ることとなります。そしてふたりの間には、奇跡のような友情が生まれました。
胡耀邦氏は、党の政治局会議で「チベット問題で党は重大な誤りを犯した」と発言したそうです。彼の総書記という立場を考えると、尋常ではない勇気が必要な発言でした。この発言が、彼を失脚と死に追い込む導火線となったのです。
彼を党中枢に引き上げたのは、ほかならぬ鄧小平氏でした。彼は改革開放路線の遂行者として胡耀邦氏と趙紫陽氏を取り立てたのです。しかし、民主化運動に対する胡耀邦氏の支持、そしてチベット問題に対する姿勢に、鄧小平氏は激怒します。
鄧小平氏の改革開放路線は、中国が強国となる方途であり、チベットを開放し、民主化運動を支持することは、一党独裁の中華帝国を解体することになると考えたのです。
鄧小平氏は、なんの未練もなく胡耀邦、趙紫陽両氏を切り捨てます。そして、胡耀邦氏は同年5月に失意の中で死去します。
この短い「チベットの春」の時期にロディ・ギャリ特使が中国共産党の中枢と話しあっているとする人もいます。内容はまったく分かりませんが、この時期が過去において唯一のチベット問題解決の時期であったことは確かです。
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