農家にはなれない
農家にはなれない。ここのところそう思っている。そのことをお話しようかと思う。よく、私のところに帰農志願の人が来るが、農の生活の楽しさはお話できるし、その技術的なアドバイスも与えることができる。しかし、このところ、喉の奥でむずむずしている言葉が、「農家になろうと思ってはだめだよ」なのだ。
農家とは「人種」のようなものではないのか。農家とは職業ではないのだ。その土地の水で産湯を漬かり、その土地の学校と祭で育ち、その土地の米と水でできた酒で三三九度をあげる。子供を育て、代を渡し、そして歳老いてその土地の土に還える。
生きる糧は、先祖代々が守ってきた田畑から得、それを一生守り通して、子孫に受け渡す。この糧のことを農業と呼び、それにまつわる文化を農の文化と総称した。
だから、農業とは生産部門のことではないのだ。作ること、食べること、子供を育てること、教育すること、地の文化を教えること、礼節を習わせること、地の演芸や工芸を伝えること、相互扶助を学ばせること、地の水と土と風を守ること、それらすべてが農業なのである。
だから、農業とは元来、農民という「人種」の固有の職業なのだ。
農家になろうと思うことは、言ってみれば、アラブ圏の国に行き「ムスリムになりたいのですが」というようなものである。その地の人、その地の民族しか原則として、ムスリムにはなれないのに。
私はかつて沖縄人になりたかった。そそっかしくも、押しかけ沖縄人、それもハルサー(百姓)になろうとした。ウチナーグチを覚え、琉球料理を作り、指はぎしぎし鳴り、肌は黒く、足底は堅くゴムのようになった。しかし、なれなかった。土地は貸してもくれず、まして売ってはくれなかった。その土地に入り婿で入ることだけが、唯一の方法らしかった。
当地に入った時に、10年間は村に出ていくまいと考えた。農場の建設はやはりそのくらいかかり、基盤は出来た。その後からだ、村に出て行ったのは。入植初年度から消防団などや字の班にデビューすると、十中八九潰れる。在の土壌微生物に包囲されたEM菌のようになる。つかず離れず、これが秘訣のようだ。
25年たった。人生の半分弱をここで過ごしたことになる。農業団体の代表もした、村の農業振興委員にもなった、しかし、あいかわらず私は「農民」にはなれていない。
私は百姓であると思う。百姓はだれでもなれる、そう強く望めば。
写真は、わが村の化蘇沼稲荷神社、8月25日には子供のお神楽と、奉納相撲が見られる。
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いつも「奥が深くてなるほど・・・」なんでありますが、今回はその「更に奥深さ」があります。なにしろ実践の幾星霜からの搾り出すような感慨、実感でありますからさもありなんと思うのであります。腹に落ちます。「庭植えみたいなことをやりたい、ちょこっとやりたい、そんでもっていやになったらすぐ逃げ出したい」というべきところを「農業をやりたい」と言ってしまうのです。私もその派なので自覚があればとてもはずかしいことなんですが、言ってしまったことがあります。ブログ主様はそれもリーチの範囲というか見透かされていると考えますが、それをはるかに超えた境地を窺がい知る内容です。話の次元は違いますが、見た目は都会のようなところでも、もとは村落であった旧集落の住宅地に住みますと新住民は「仲間にいれてくれない」経験をします。自治会も勝手に運営されて閉口したことがありました。泣き寝入りのようなまま、そのこととは関係なく、引っ越してしまいましたが。
投稿: 余情 半 | 2008年6月12日 (木) 09時24分
あ~あ。嫁ぐという経験の無い人達が、
何か言ってる。
投稿: ぶんぶんこ | 2008年6月13日 (金) 00時10分