拓郎さん
ちょっと前にギターの練習を10数年ぶりに復活した。愕然とするくらいに指が動かない。中指が特に伸びない、クッソーと伸ばすと、翌日痛い。トホホである。ベソをかく。
高1の時に、アコースティックギターを買った。いや、当時の表現でいえばフォークギターか。背伸びをしてヤマハを買った。たしか7千円だったかしら。当時の私には充分に大枚であった。
私はこのギターという新兵器で、当時のアイドル、吉田拓郎をフォローアップしようと試みた。当時、拓郎さんはもてまくりのシンガーソングライター(死語)で、確実にキムタクよりギターと歌がうまかった。
またしなやかな長髪もステキで、耳にかかる髪を叱られていた私たち田舎の男子生徒は、公式見解としては「なんだタクローくたばれ、幼稚な歌。単純なコード」といいつつ、内心は泣きながら、「うらやましいゾ、悔しいからパクってやるゾ。ガッコを出たら髪伸ばすゾ」という二律背反に悶々としていたのである。
要するに、もてたかったのだ。その一心だった。ロッカーの皆さんで、その初心のモテたいという心がなかったら、そのほうが異常だ。だって、ロックとは、自己表現以前に、モテたいからやるのだ。それから、自己表現とやらというジャングルに分け入っていく。逆ではない。今の私風に言えば、ロックとは、君と私、男と女という「対関係の中でこそもっとも輝く音楽」なのである。
拓郎さんとは、高校を出てから日比谷野音(ヤオンと呼ぶ)のロックフェスのローダー(器材を設置する下働き労働者のようなもの)をかって出た時に、直に接した。彼は当時の左翼インテリ的な反戦フォーク(←なんてものがあったのだよ)にまっこうから楯突いていた。
当時私はバリバリのレフトウイングであったが、なぜかあの愚民的な反戦フォークとやらが大嫌いだった。猫なで声で♪エイチャンの家にジェット機が落ちたら~などと唄われると、背筋に寒イボができた。聴くほうが低いレベルだろうとはじめから想定して作っている根性がイヤダ。頭のいい私たちが、意識の低い君らに、社会の誤りを絵解きしてあげますよ、という姿勢がたまらなかった。そもそも、音楽的につまらないのだからしょうもない。
同時期、ピートシーガーを聴くが、彼の音楽の持つ突き抜 けた明るさ、メーセージの透徹した強さに打たれた。彼は、ギター一本で、30年代の荒廃したアメリカを歩き回った。貧窮した労働組合のスト現場でも唄った。報酬はスープとパンだけだとしても。日本の三番煎の出がらしとは、シンガーとしての腰の据え方が違う。「格」が違うとしかいいようがない。
拓郎さんは社会的な人気とはまったく反対に、フォークの世界では栄光の異端だった。当時岡林信康などの関西フォークが主流だった中で、孤立して吠えていた。
生身の若者の、うまく表現できないいらだちや、悔しさや、恋人がいるうれしさや、恋をうしなった哀しさや、語る友がいることの歓びや、自分のだらしなさを誠実に歌にした。写実的といってもいいくらいだ。
彼の資質で一番すごいのは、直球勝負ということではないのか。普通の生半可なシンガーは、背伸びしてフィルターをかける。自分を直視させないためのフィルターだ。それの多くは歌詞の中に隠されている。拓郎さんは、その無意識の自己規制をはずしてしまった。
だから、湘南地帯の高校生からみると、ガッコで仲間と話す時には「拓郎はヤボイんじゃない。子供の歌詞でしょう」とかいいながら、家に帰ると彼のレコード(アナログのバカデカイ33回転の奴である)をかけ、「いいなぁ、わかるなぁ」と泣き、彼のオールナイトニッポンを常連で聞き、投書までした。一度彼に読まれたことがあり、ラジオに向かってバンザイ~と叫んだ。
そして翌日に仲間と会えば、しゃらとして「ツェペリンの3枚目聴いた?がっかりだね。やっぱ、ジェスロータルかな」などと言っていた。われながら、実に可愛いものである(←笑うな)。お笑いだが、高校生にも高校生なりの見栄というものがあるのだよ。いや、当時ほど、知的、感性的な見栄っぱりの時期はなかった。
さて、拓郎さんは、軽いアイドルどころか、骨があるシンガーだった。岡林が、♪私たちの望むものは与えられることではなく、奪い取ることなのだぁ~、と歌えば、拓郎さんは、♪僕の髪が肩まで伸びて、君と一緒になったら、結婚しようよ、と歌った。
野音でこれを歌うと、反戦フォーク派から、「ナンセンス!ナンセンス!」の罵倒と共に空缶を投げられた。その一発が彼に当たった。すると彼は、歌を唄うのを止め、そのバカヤローに投げ返した。これを合図にして反戦フォーク派が、壇上に突進してきたので、私たちローダーが容赦なく壇の下に蹴落とした。今日びのコンサートではなかなか見れない風景ではないかと思う。
私たちコンサートの下層労働者に対してもきさくに声をかけてくれ、終わった後に車座になって酒を呑む機会もあった。広島弁丸出しで気取らなかった。男気がある人で、独特のユーモアがあり、私たちは終始、笑いぱなしだった。女より、男に好かれるタイプだった。坂本龍馬にライブで接すれば、彼のようなタイプかと思う。
一方、岡林の歌は、残らなかった。彼は繊細だった。批判にも弱く、断ることもできなかった。だから、当時の青年の反逆心を代弁しただけに終わった。彼は当時の若者の「依代」(よりしろ)だったことに、自分が耐えられなかった。しかも、コンサートの後で、拓郎組は酒宴だったが、岡林は労音のコンサートでは、かならず総括会議をやらされてボロボロになったそうだ。気の毒に。
そして、そんな象徴になるのが嫌になり、一時京都の郊外で百姓になってしまった。去年、ひさしぶりに野音でコンサートをした。いい感じで気負いや、理念が消えていた。彼も苦労したのだろう。
写真は、農場音楽室である八角堂の内部。何本かのギター。ガレージライブハウスでの演奏風景。
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岡林様も拓郎様もなんの関係も無きコメントで恐縮です。酔っております。「白波」は30年前のブームのときのブランド。しかも全国。南の半島の枕崎の優秀な蒸留もの。それなりにたいしたもの。今日はそれを相伴しております。ただ、物足りない全国ブランド。まっすぐに言えば、芋臭いが、いまひとつそうではない。主様、もしよければ私のところの「五代」ご賞味ください。芋くさくてだうしようもありません。それとも主様には「隠し蔵」でございましょうか。姓名からしますと、なんかその辺のような気がいたしますが、だうか「クセモノ」をご賞味ください。ただ「白波」も穏やかな逸品。「隠し蔵」もそれなり。「五代」もちゃらちゃらした「五代」ではなく、黄色いラベルのものでございます。うたは元ちとせさんか、大工哲弘様でいかがでしょうか。あっ、次元、空間が違う、さうでした。今日はおやすみなさい、酔っておりました。卵みがきもお励みください。巡り合うことができれば賞味させていただきます。おやすみなさい。
投稿: | 2008年6月 8日 (日) 21時16分
吉田拓郎、彼と話していたのですか。
やはり、彼は時代と共に生きていたのですね。
最近の「永遠のうそをついてくれ」も良いです。
なんとういうか、歌というより、もっと生っぽい感じ。むき出しの生き方のように感じていました。
あえて、自分の感覚に生でふれるような。
ありきたりの「反体制」ではなくて。
しかし、岡林信康。「山谷ブルース」や「友よ」は、ゴリゴリの党派からは、バカにされました。
しかし、デモの熱気とは違ったもうひとつの感情を刺激する別の世界への憧れをあらわしていた。
音楽堂、すばらしい。
投稿: 野生のトキ | 2008年6月 9日 (月) 02時07分