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2008年7月

日本の野菜は高いのか?第2回 ジャパン・スペック

Img_0010 前回で、日本の野菜が高いとすれば、それは煩雑な流通にあるのかもしれないと書きました。

では、なぜ、そのように複雑な流通になるのかを考えてみましょう。

その理由は、実は日本人の極端なまでのキレイ好きにあるのではないかということを考えてみます。

Img_0029 葉に穴ひとつあればクレーム、傷があれば返品、量販店にかぎらず、生協でも日常的に繰り返される風習です。その都度、頭を下げて返金、クレーム処理です。まったく品質に関係のない見てくれだけで日本の消費者は大騒ぎをするため、流通が農産物規格を厳しくチェックする必要が生まれたのです。

だから、日本には、世界一煩雑で精緻な農産物規格が存在します。ごぼうなどは10種類ちかくあってごぼう鑑定士が村にいるほどです(笑)。葉物なら、丈は30センチまで、葉に穴があってはならない、大根は大きさはここまで、肌がツルツル虫喰いひとつあってもいけない。

ホウレンソウでは穴(食痕)の直径まで規定されているのです。たかだか、葉の穴が大きい小さい、ゴマの色の違う粒が数粒あったたということが、どんな食卓に影響を与えるというのでしょう!くだらない!このような日本の消費者の過度な清潔癖が日本の農産物をダメにしているのです。もうあの膨大な規格表をお見せしたいくらいですね。味や栽培方法といった本質的なことはまったく違う次元で「規格」という首かせがガチンと締まるのが日本の農産物です。これに農家や流通の労苦と時間が注がれ、価格を押し上げている大きな原因となっています。

実際農家は畑にいるより、納屋で選別している時間のほうが長いと揶揄されているほどです。すこしくらい安かろうと、あのチマチマとした選別作業はしたくないというのが、農家の本音なのです。

これが世界でもっとも悪名高い「ジャパン・スペック」(規格)というやつです。これは農産品以外にも海産物、畜産物などすべての食品を覆っています。中国のゴマ加工工場で、ピンセットで一粒一粒色が違う粒を摘まみだしていたというビックリ仰天な光景もあるそうです。こんなことで価格を押し上げ、農家や加工業を苦しめてなんの意味があるのでしょう。その分しっかりコストは乗ります。つまり消費者にとっても高いものを買うはめになるのです。

Img_0075 このような消費者の清潔癖のために農産品や水産品が高くなったとして、それが第1次生産者と流通のみを責めるのはお門違いだと思います。消費者の意識構造が変わらない限り、日本の食品は永久に「高い」と言われつづけるでしょう。

少しずつですが、消費者の意識も変わってきています。上の写真のように葉に穴があるのは初めは気持が悪いし、嫌でしょうが、理由がわかれば納得できますでしょう。

食育教室や野菜ソムリエなどの動きの中で少しずつ消費者も「キレイで安いことだけがいい」という平板な見方から変化をし始めてきました。ほんとうに素晴らしいことです。このような「眼」が育ち、農と消費者とのつながりが強まらないところで、高い安いを言うこと自体がおかしいことに気がつき始めたのです。

高くて良質の国内産か、安いが危ない輸入ものかという二者択一ではなく、第3の道が拓けてきたのです。地域の中で地場農業と組んで、良くて安い、しかも顔が見える農産物を得る道が拡がってきつつあります。この道をもっと拡げて、踏み固めていきたいですね。私は外国に日本の農産物を輸出するなどということより、この地域内での農産物の動きを活発にしていくほうがより素晴らしいことだと思っています。

お断り 本記事は昨日エントリーしました記事を、あまりに長かったので、読みやすくするために2分割して加筆修正しました。

写真は私たちのグループの堆肥生産センター、下は有機トマトの栽培畑。最下段は、仲間の生産者の紫キャベツ。非市場出荷です。実例として出しました。

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日本の野菜は高いのか?第1回 高い安いという前に

Img_0011 今度は野菜を考えてみましょう。題して「日本の野菜は高いのか?」です。

結論を急ぐ前に、いったいどのくらいの価格で農家は出荷しているのか、考えてみたことはおありでしょうか?

分かりやすく、よく100円均一なんかでスーパーの店頭に並んでいる慣行栽培の100円ホウレンソウとしましょうか。農家は、大体約50円で出していると思って下さい。栽培して、収穫して、選別して袋詰めして、ラベルを入れてだいたい50%です。これを高いか、安いと思うかはあなたたにお任せしましす。私は、先進国の物価水準を考えればかなり健闘していると思いますが。そしてその原価はたぶんその半額程度じゃないでしょうか。つまり25円くらいですね。これも作物によって大きく違います。あくまで目安です。

さて、ここからです。ややっこしいのでゆっくり理解していって下さいね。農家はこれを直接に小売りに持っていくわけではありません。小売りとの間に2ツの流通が挟まっています。

まず、野菜を農家はJAや生産団体などの集荷場に持っていきます。これが、一次卸(おろし)です。ここが、その時々、その卸によっても違うので一概にも言えませんが、だいたい手数料を8%~10%取ります。これは2次卸しまでの配送料込みです。Img_0007 

それを2次卸に持ち込みます。ここを「仲卸」(なかおろし)と言って卸と小売業の間を色々な形で取り持ちつ仕事をします。ここが関東各地や全国に配送するわけです。この手間賃として、これも力関係、需給関係がありますので一概には言えないのですが同じく8~10%は取ると思います。

残りが小売りのマージンです。20~30%といったところでしょうか。これも多くの店員や売り場の占有を考えれば無理なからんという利幅です。

やや見えて来ませんか。農家はたった5割(原価率はそのまた半分ていど)を稼いでいるにすぎないのです。これは先進国の人件費を考えれば、そうとうに頑張っているほうだと思います。つまりは、流通経費が5割もかかっているのです。これをして、「日本農業は非効率的だから、国際競争力に欠ける」とか「自助努力をしていない」とか言われると、やや日本農業サイドとしては「ぜんぶおれたちだけの責任かよ」とムっとなるのがわかるでしょう。生産部門だけがどうかしてもダメなのです。流通消費まで考えていかないと農産物の価格問題は理解できません。

Img_0052 「日本の野菜が高い」といわれる原因は、確かに農地の狭隘さもありすが、その劣悪な条件に対して日本の農家は健闘をしていると私は思っています。より大きな原因は、この複雑な農産物流通システムにあります。

もし仮にEU並に日本の農地の20倍といった大面積で栽培したとしても、原価率を10%台まで落すのはそうとうに困難なはずです。私が大規模化もひとつのオブションにすぎないと思うのはそこらあたりです。大規模化だけで解決にはなりません。流通と消費のあり方そのものを変えていかないと「日本の農産物が高い」という問題は変わりません。

日本では生産をしている地方には、いったん都市の卸売市場から農産品が戻ってくるのです。ヤレヤレですね。いったんトラックに乗って、高い石油を使って、炭酸ガスを吐いて東京の大田市場まで行き、そして翌朝には再び生産地に戻ってくるわけです。ウエルカムバック!

これは生協産直ですら例外ではなく、例にとるとパルシステムでは、私たちグループの農産物はいったん相模と岩槻のセットセンター(SC)に全部集荷してから、そこでセットされて翌朝の便で茨城の単協に戻ってきます。生産地の農産物が遠い旅をして、また生産地に戻ってくるというのは、フードマイレージの見地からしてもおかしな話ですが、今の100万人生協の流通システムではこれ以外の流通方法は考えられないのです。

生協も、単なる巨大化ではほんとうにいいものを、手頃な価格で供給できなくなっています。産直といっても、パルシステムの場合は、消費者組合員の間に3ツ流通コスト(マージン)が入ります。まず、生産団体(1次卸)→GPS(2次卸)→単協(小売り)という経路を辿るために、その分どうしても時間と経費がかさんでいきます。地域の単協が今後もっと直接に自分の地域農業と結んでいく努力が必要です。

流通卸の多重構造をひとつ減らすだけで違うと言うのはお分かりいただけましたよね。農産物の半額は流通経費ですから。Img_0048

ではなぜその削減ができないのでしょうか?そうとうに難問です。これは誰かが意識的に作ったものではなく、長い時間をかけて日本社会の中に根づいてきたものだからです。卸の人は皆誠実で、働き者でいい奴です。彼らに非はありません。既存の流通が大きな幹であることを尊重した上で、それと違う流れを作っていきたいのです。

嘆いてはいけない。希望はあります。いままでのような、大量生産-大量流通-大量消費→大量廃棄というモデルを変えてしまえばいいのです。大量生産-大量流通から始まる図式にとらわれているからおかしくなるのです。

「もうひとつの流れ」を作りましょう。今の既存の生産-流通-消費を否定するのではなく、ましてや破壊するのでもなく、新しい流れを作っていくのです。否定ほど疲れることはないでしょう。いっしょに併存し、共に豊かになる方法を考えていきませんか。

このひとつのモデルが道の駅です。農家はいきなり道の駅への持ち込みですから、卸をまったく省いています。小売りである駅のマージンだけです。すると今まで出荷を小売り値の5割で出荷していたものが、いきなり生産者手取りが6割、7割にはね上がります。しかも値決めは自分で出来ます。売れなければ、価格を考えればいいし、これという自信作は高く設定すればいいだけです。買う人は、作った人の顔と名前がわかり(ただし安全性とは別個の問題ですよ)、しかも一般の小売り値より2~3割以上も安い。消費者、生産者、共にニコニコというわけです。

Img_0026 このような農産物を、地域で既存の流通卸を通さずに流通させていくという方法は、21世紀の主流になっていくと思います。域内流通です。

今まで広域遠方出荷が主流で、茨城だと東京を主体に考えていました。CO2をまき散らしながら、高い石油を使って遠距離市場に配送していたわけですね。しかし、生産者自らは東京の大田市場には持ち込めないが、地域の道の駅には持っていけるわけです。

このような身近な地域市場を活用し、成長させていくことも解決のひとつの途ではないかと私は思います。その他にママさんグループが農家と手を組んだり、NPOで起業して農産物を自ら作ったり、運んだりしているグループもあります。もう百花繚乱で、今後この流れは太い大きな道になっていくことでしょう。

写真は、6月のジャガイモ畑。もう収穫を終わっています。次は乾燥させているにんにく。情景もいいでしょう。中段は珍しいカボチャ。すいません品種名を忘れた。次はトラクターでの堆肥の切り換えし作業。最下段は、個人産直のお百姓の本日のお品書き。今日はこんなものをお届けします。

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日本のコメは高いのか?

Img_0041_2 99ss様からコメントをいただきました。ありがとうございます。(引用開始)

>それでもなお、日本の農産物は、(多分)世界で最も高価なんですよね。
少し前、フィリピンで、米価上昇に対して抗議するデモがありましたが‥
日本の米の値段は、その倍以上です。日本の消費者は何故黙っているのでしょう?諦めているのか、「世界相場」を知らないのか‥。この、どうしようもない程の非効率な農業を何とかできないなら、日本の農業は一度滅びた方がいいのかもしれませんね。(引用終了)

反論ということではなく、少し一緒に考えてみましょう。まず、「世界一高い農産物」といわれますが、そうなのかなぁというのが私の色々な国を歩いての実感です。これは貨幣価値や購買力を考慮に入れねばなりませんよ。一日を1ドル以下で家族が暮らしている途上国と先進諸国を物価で考えても無意味なのはわかりますよね。

フィリピンの米価の話がでてきましたが、あれはベトナム産の低品質米です。ベトナムにはうまいコメはいくらでもありますが、ベトナム政府はその中でも低品質のものしか出しません。キューバでベトナムの輸出米を食べたことがありますが、まぁ論評したくない味ですね。それすらも今は輸出停止してしまいました。あの米と、多分世界でもっとも高品質な日本のコメを比較すること自体がおかしいでしょう。ですから、コメだけに限っても、「国際相場」なんていくつもあるのです。フィリピンのたぶん世界でもボトムの低品質米と、日本のたとえばコシヒカリやきららを比較すること自体が、いかがなものでしょうか?東独のトラバントとウインダムを比べるようなものです。

Img_0003 もしどうしても比較したいのなら、カリフォルニアの日系農場が作っているコメとなら、一定の競合関係は成立します。ただし、彼らはそんなに輸出余力がないようです。米国内のコメ市場が拡大の一途にあるからです。

ですから、「日本の農業を一回滅びたほうがいい」というお考えは、あくまでも消費者のご意見としては承りますが、「滅ぼした」後に、今の価格で米国が売ってくれるかどうかは保証の限りではありません。

このあたりを国際エコノミストといわれる人も考えに入れていないのです。「ただいま現在」の価格を比較していますが、それは日本がコメに関して極めて高い障壁を作って保護しているから、日本市場を狙うコメ生産国は今のところないという状況が前提としてあるのです。

いったん日本の農業を「滅び」させてしまった場合、カリフォルニア米の日本市場における寡占状態が現れます。そうでしょう、われらもっとも米の味にうるさい国民がベトナムの最低品質のコメを食べるはずもないじゃないですか。これは1993年の凶作時に実証済みです。となると、今のところはカリフォルニア米しか選択肢はないことになります。絶対的な競争力と市場支配力で、しかも供給量が過少ですから、もう値段はつけ放題ですね、きっと。その時、米国がお人好しにも今の価格で売ってくれるとでも思われますか?Img_0010_3 ま、ないですね。今のコシヒカリ並か、それ以上の価格になりますよ。

そしていったん農業という部門は潰してしまった場合、再生がきかないのです。空の工場と使っていない機械に油を差して、従業員を雇い直して再開という工業とは違うのです。

いったん荒れた農地はたぶん半年でトラクターすらかからなくなります。野草が地上のみならず、地下でも根で繁茂するからです。水田は底が抜けます。そしていくら水を入れても漏ってしまう。いうまでもなく土質は悪くなります。ですから農業は一回潰すと、ほとんど絶望的に再生は不可能です。

たぶん99ss様は、日本農業も国際競争力をつけろと言いたいのだと思います。そうならば、私も大賛成です。いつまでも補助金のぬるま湯で生き残れる時代ではありません。今回はコメだけを取り上げましたが、野菜や小麦なども考えてみたいと思っていますが、今日はここまでとします。

写真は、7月の谷津田。有機栽培です。株間が広いのがわかりますか。疎植といいます。中段はタマネギを乾燥させているところです。後段は今でも現役の菅笠。いい風情でしょう。

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サッカー観戦と値切り術

 Img_0031                                           サッカー観戦に行ってきました。そうです、頂上対決、J1第1位のわが鹿島アントラーズと、にっくき宿敵第2位の浦和レッズとの対決です。勝てば首位を堅持、負ければ首位をレッズに明け渡すという天下分け目の戦いです。これを見逃さないわけにはいきましょうか!昨年は前半でボロ負け、後半は奇跡的大勝利で優勝ロードに乗りました。上の写真で正面スタジアムの赤いユニフォーム軍団は、うちのサポーターではなく、こんな遠くまでわざわざ負けを見に来た3千人のレッズのサポーターたちです。敵ながらアッパレですな。

鹿島サッカースタジアムはたしか定員が4万人は入ったはずで、まぁ当日券があるだろうなどと思っていたらギッチョン、ない、一週間前にソールドアウト!あきさみよ~と天を仰いだら、ダフ屋の兄ちゃんが「ちょとちょと」と招き猫。

2枚で1万などという法外な値段を言ってきて、しかもサボーターズシートでっせ。なめてはいけない、凡アジア値切り旅の達人2人を相手にそりゃ甘い。たちどころに半値の、「2枚で5千円!」。ダフ屋さん、可哀相に相手が悪かったね。

え~、サッカーとはなんの関係もないですが、アジア値切り戦必勝法を伝授いたしましょう。まず、相手が正価で売っていないことを確認するために、だいたいの市場相場を摑むのが第一歩です。たとえば、印度なら、清涼飲料水は2ルピー、リキシャが5ルピー、カレーが8ルピー(もっと安いものも沢山あり)などと相場がわかれば、勝ったも同然。Img_0033ただし、屋台の食べ物にはふっかけはありませんのでご注意を。 みやげ物なら、複数か所で調べてみましょう。

だいたいが、売り手は2倍、時には10倍(!)などというメチャクチャを吹っ掛けてきますから、一気に3分の1から始めます。仮に1万円といってきたら、かまわず3千円と答えます。すると、「オーノー、これはいい品」とか必ずいいますが、表情も変えず無視します。するといきなり8千くらいまで落ちます。ぜったいに落ちます。

しかし勝負はこれから。「3千5百」と渋い数字を出しましょう。すると、たぶん「7千」と言うかもしれません。これも無視します。そしておもむろに「4千」。売り手はゲッと言いながら、ムスリムなら口の中でコーランをぶつぶつ唱えているかもしれません。そして「5千」。さて、妥結は目前ですが、表情を変えてはいけません。「4千5百」。時間に余裕があるのなら、ここで「4千250」などという小刻み戦法もいいかもしれません。

ここいらで売り手は、ハンマープライスとなるか、ならいいやと品物をしまい始めるかもしれません。かまわないので、「グッバ~イ」と背中を向けて歩き始めましょう。確率7割で、「オーケー、4千5百」と追っかけてきます。これ以上やると、やりすぎというもので国際紛争に発展しかねません。妥結、4千5百。相手は悔しそうに「ユー、ジャパニーズビジネスマン」とか言うでしょうから、「ノーノー、アイムファーマー」と笑いながら胸を張りますImg_0019 。百姓が外国旅行をすることなど、まず考えられない土地では、またまたゲッという顔をされるでしょう。

そうそう、ちなみにご忠告ですが、ディスカウントゲームを始めたら、買うということを前提にして下さい。ディスカウントをしながら、買わなかったら仁義にはずれます。

ああ、いかんお許しを、サッカーの話のつもりが、値切り話になってしまったぁ!当地においては、ひと頃より大分静まりましたが、あいかわらずサッカーは神です。この私も含めて、アントラーズがどんなに弱くなっても、今年のように強ければなおのこと、アントラーズを支え、ミスすればいちばんギャーギャーとブーイングを鳴らすわけです。まして去年のように、宿敵レッズを大奇跡の逆転で優勝などしようものなら、あーた、もう大変ですよ。私なんぞ、農場の夜にばぁんざぁ~いと数回吠えましたもん。

試合はなんと前半の途中で大雷雨というおまけ付きで、1時間中断の後に再開。小笠原の一発で先制しましたが、クソッー後半に一発田中に決められて同点でした。ワンプレー、ワンプレーに拍手やブーイング、指笛、旗を振る、タオルを回すという3万人が一体となっての大接戦でした。いや、ひさしぶりに燃えたね!気分爽快!

写真は上段から、40分に小笠原が一発決めて歓喜のスタジアム。正面のレッズサポーターはし~ん。が、はは!中断はハーフタイムの全員でのタオルまわしの応援。キッズがわんさか来てました。下段はゲーム中。わがスタジアムの芝の美しさは日本一です。

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三省の死

Img_0021_3 私たちの50代世代は案外簡単に鬱病になる。
一種の更年期なのだと思う。更年期という言葉は面白い。

「年」を「更」新するということだろうか。
もう一回生き方を更新しろという風にもとれる。
私も自分の生き方を更新したい。25年間やってきて、農の楽しさや農業問題にどっぷり漬かったが、今、目の前に大きな壁がある。
いつまでもGを言っている自分もいやだ。いつまでも有機農業や環境をわかったようにしゃべっている自分もいやだ。
わかったつもりの自分がいちばんイヤだ。なにもわかっていないのに。
ただ無駄に25年間農業に漬かっていただけなのに。

できるならば、生まれ変わって、まっさらになりたい。
今の私にはべっとりと手垢のように「俗」がこびりついている。名誉心、功名心、体面・・・そして屈折した自我。Img_0023_2

かつての軽トラで入植地を求めて放浪した時のような初々しい感性に戻りたい。
有機の畑を初めて見た時のような震えるような感動を呼び起こしたい。
エレクトリックギターを初めて持った時のようなドキドキ感が、今こそ欲しい。ニールヤングや大江健三郎を知った時の心。
山尾三省の詩の朗読会を、農場の夕暮れに聴いた時を思い起こしたい。彼の詩を読む声を思い出したい。

今、私の中で薄れていき、弱まり、消えていこうとしているひりひりするような始原の皮膚感覚。
魂の深いおののき。どきどきする気持。
未来への尽きない願望。大きななにかの一部であることへの切望。
そして、苦難を楽天に変えるなにか。


空気のようなゼロに戻れるならと渇望する自分がいる。
ヨガもやりたいが、なにより旅に出たい。帰りの切符をポケットでまさぐるようなそれではなく、長い長い旅がしたい。


Img_0018 三省の最後の文章を読むと、彼が進行性癌に冒された時の混乱が書かれている。

そして彼は長男の太郎に詫びてすらいる。「貧乏でごめん。すまない」。そうか、三省にして「貧乏」に苦労したのだ。三省をある意味、導師のように考えて自分がいた。

しかし、違った。三省は悩み、生きる確証を得るためにとぼとぼと途を歩むひとりの旅人だったのだ。


彼の末期に、この地の帰農仲間が集まって、暗い畑の隅で車座になり「気」を集めた。
この世から去りゆく三省の魂が安らかにと。そして彼の魂は、私たちが生きる限り続くと信じて、祈った。

彼がこの世を去った時刻に、皆なにかを感じたという。そういうことはあるのだ。彼の魂魄が地上を離れて、天へと駆け登っていくその時に。

写真は、凍土から出る芽。そして農場の冬の夜明け。

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ロックは無国籍ではない

Img_0037 イギリスのロックの音楽家はクイーンにしかり、パープルにしかり、ツェペリンにしかり、皆、一種のクラシックコンプレックスを抱えている。
これはしかたがないことだ。それだけの歴史の厚みがあるからな。
あるいはトラディショナルなイングランド民謡だ。ツエッペリンの大名曲「天国への階段」などは前半はもろにトラッド・イングランドフォークだろう。いきなり転調してハードロック(死語)になるところがカッコイイ。
では、日本ではなにかというと、極東の歌謡曲が磁場だ。ジャパニーズロックはみな、どこかで歌謡曲になる。
これは馬鹿にしているわけではなく、しょうがないのだよ。あのビジュアル系だって、やっているのはエレクトリック歌謡曲だからな。しかも扮装は歌舞伎だ。Img_0007
Xジャパンなどは、どう聴いてもあれは日本にしか存在しない節回しだ。トシの歌い方もどこか歌謡曲。湿っていて、繊細で情感が濃いい。
唯一、違うなと思うのはブラッキージェットシティくらいか。ブルーハーツも大好きだが、あれをパンクというにははばかれる。キヨシローをブルースマンというのも苦しい(←ガンバレ、キヨシロー、くたばるにはまだ早いぜ)。
日本のロックは「本場」の模倣から始まった。ロックンロール、ヒルビリー、ブルース、ハードロック、ポップス、みんなパクった。まるで遣唐使のようであるな。その中から、日本のロックが出来上がった。そして今やまったく別物に成長してしまった。
だから面白いのさ。ディープパープルのハイウエイスターは バロックだぜ。僕は詳しくはないが、感覚的にそう思う。あの曲をチェンバロで典雅にやったらそれなりに様になるはずだ。クラシックの音楽家に聴いてみな。ああ、耳が汚れるとかいいながら、ウンチクを垂れてくれるだろう。それをもっと分かりやすい形でやったのがクイーンだった。
Img_0022 それとね、もう一つは、ロックは今でこそそうでもなくなったが(桑田に国民栄誉賞を!)、僕のガキの頃はなんて言われていたと思う。
「楽器の使い方を知らない」なんていうのはいいほうで、「粗野だ」、「バカだ」、「低能の不良がやる音楽」だぜ。まぁ、それだけクソミソに言われりゃ栄光だがな。
ビートルズが、勲章もらったりして、Sirに列せられ、ロイヤルアルバートホールにおいて女王陛下の御前で演奏できたから、後が続いたともいえる。ロックの市民的地位の飛躍的改善さ。これをいいか、悪いかということでロック少年の間で論争があったくらいだ。否定派はみな、ストーンズに行った。僕は肯定派だったが。
こんな地場がヨーロッパ、特にイギリスには強烈にあったから当時のロックバンドは、「チクショー、俺らだってクラシックの理論のひとつくらい知ってるんだぜ」というのがあったのではないか。実際、誰かは忘れたが、パーブルか、クイーンの中の誰かはクラシック教育を受けているはずだ。うろ覚えなので、まちがったらごめん。
このようなものが一切ないのが、イギリスの対岸のアメリカのそのまた西の端のウエストコーストであるな。ロックって一見インターナショナルなようで、実は民族的なもんなんだ。無国籍の音楽などない。僕が追いかけをしていたハッピーエンドにしたって、そうだったもんな。この話しはまたそのうち。
あまりに暑いので(当地でも30度を連日超えています)、本職の農業の話をあまりしたくなくなっていて、すいません。まぁかえって、このブログの守備範囲が異常に広いことと、文体、主語がその時その時で違うことがおわかり頂けたかと思います。

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サガミハラの記憶 第4回 サガミハラはどこにありますか?

Img_0072 どうやら病院に運ばれたようで、治療を受け、脳波をとられ、左腕の骨に一本にヒビを入れられ、まるで包帯ミイラ男のようになって入院していました。その時のことですが、あのトビの親方が僕にというわけではなさそうですが、見舞ってくれました。この病院では数人がこの闘争のけがで入院していたのですが、彼は地元の饅頭をもって見舞いに来てくれました。
これがうるさい、まことにうるさい。下の階から彼の声が聞こえる。「おー、元気だせ!今度退院したらいいとこ連れて行ってやる」(どこだぁ?)、そしてミイラ男の僕を見つけると、「このボーズ、この馬鹿野郎!親を心配させやがって!」と言いながら、けが人の僕の頬を張るんです。そして親方の熱い涙が僕の顔にボタボタとかかりました。涙が熱いというのを初めて知りました。
自宅に帰って、母親に力一杯叱られました。夕食の時、二人で食卓を囲んでいた時に、ふいに母は僕に「よくやったね」と言って泣き出しました。塩辛い夕飯でした。
Img_0131 このようにして72年の夏は終わり、僕の相模原闘争も終わりました。 
非暴力直接行動という行為は、暴力によるそれとは比較にならない代償を要求します。肉体的にも、人間関係的にも、そしてなにより自分の心に恐怖の楔を打ち込まれた人間はいわゆる武勇伝を語りません。
僕すらこの話を開封したのはそれから30年余たった昨年だったほどなのです。カミさんにすらはなしませんでした。話さないというよりも、話せないのです。あの時の恐怖が甦ってくるからです。
怖というのは人間の想像力がもたらすものであり、人を打ちのめします。
しかし、歓びというのもまた、人の想像力の賜物なのです。かならずしも勇敢に生きる必要はないが、勇気を心に生きていこうと思っています。あ時のサガミハラに恥じないように。
後日談ですが、あるベトナム使節団が日本に来た時に、「サガミハラはどこにあるのですか。サガミハラの人々にベトナム人民は感謝したい。この気持を必ず伝えてほしい」というメーッセージを聞いた時、僕は涙が止まりませんでした。
心が届くということはほんとうにあるのです。ほとんどの場合届かないが、ある一瞬、奇跡のようなことが起きて、心が届くことがある。人は、少なくとも僕はこの一瞬のために生きていると言って過言ではないと思います。今でも歪んだままの左親指の爪を見ながら、そう思いました。
ウユニ塩湖にできた川に遊ぶ。下はボリビアの典型的な夕飯。硬いがそれなりに美味しい牛肉のBBQとボテトチップス。ビールの泡が溢れているのは、高度が3000mを超えているため。富士山頂上で食事をしているようなものです。

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サガミハラの記憶 第3回 ゲート前、深夜

Img_0012_2 そして深夜、基地正面ゲート前のすべての灯が消えました。

腕時計がなかったので時間は分かりません。たぶん12時ちかかったと思います。
周囲の街灯や僕たちを照らしていた警察車両のライトが一斉に消され、わずかに基地の光だけがおぼろに一個二個ついているのみとなりました。
それからたぶん10分もの間、おそろしいほどの静けさがあたりを包みました。実際は警察車両が警告をしていたでしょうが、そのようなものは僕にはまったく聞こえませんでした。今まで止まっていた鈍い灰色の機動隊の幾重もの隊列が、ゆっくりと前進を開始し始めました。彼らのヘルメットがズッズッと黒い津波のように押し寄せて来ました。

Img_0089

さて、映画「いちご白書」をご覧になったことがあったでしょうか。あの映画の最終シーンでの座り込み円陣を組む占拠学生の排除のシーンがありました。あれが座り込みという方法(戦術)です。

一般的には、座り込み自体はそれほど過激な戦術ではないと思われています。実際、それまでも僕はベ平連のデモなどでは気楽にしていました。しかし、ほんとうはとてもこわい闘争戦術だとその時に知ります。なぜならひとりが恐怖にかられて逃げれば、全体が崩壊してしまう危うさを持つからです。フランスの核基地反対闘争では、互いにベルトに紐を繫ぐ例すらあったほどです。逃がさないぞというのではなく、逃げない自分と逃げないあなたが、今この地で、この時間に一緒の運命にいるんだよ、という絆です。まるで心中みたい。そうです、それは一種の集団心中に近いのです(笑)。

そして、市民環視の中で白昼にするのとは違い、深夜、誰もいない軍事基地の前での「戦車を止める。ベトナムには送らせない」という実効性を目指してのそれなのです。これはデモンストレーションの域を離れていたようです。つまりは非暴力直接行動です。

歯の根が合わないほどの恐怖が僕を襲いました。耳がキーンと遠くなるような恐怖。双眼鏡を逆さに見ているような恐怖。武者震い、とんでもない。口がカラガラに渇き、自分が皆んなとなにをシュプレッヒコールしているのかもよく分からない。そして機動隊による実力排除が始まりました。


隊列の前と横から二手からごぼう抜きにしていくのです。それもただ引き抜くのではなく、ジュラルミンの楯を組んでいる腕と腕の間に叩き込み、編み上げ靴で顎や顔面を蹴り潰して排除していくのです。前のほうからブバッ、グシャという音と悲鳴が続く。暴力の前に僕たちはただ坐ることしかしていない。身を投げだすことしかできない。
ベトナムへと向かう戦車の前の単なる妨害物として我が身を投げ出しているにすぎないのです。

Img_0045 僕の身体はひきつぶされる自動車止めだ。

僕の身体はコンクリートブロックだ。
僕の身体は自動車止めだ。
人間ではない、単なるモノだ。

ただ、決意をして平和のためにひき潰されることを選んだモノだ。
この瞬間、ひとりのベトナムの子供が無事であることを祈ることのできるモノだ。

そして僕の番が来て、ジュラルミンの鈍い色をした楯が僕の腕から親指にかけて叩きつけられました。僕の左親指の爪はその瞬間引きちぎられて飛んでいました。
鮮血と、一瞬遅れての激痛!
そのまま隊列の外に連れ出され、僕は自分の爪をもがれた左親指を押さえながら、なおも続く機動隊の検問と称するジュラルミンの楯の間を通らされました。そしてそこで容赦ない殴打が両側から受けました。胃に食い込む編み上げ靴。倒れると髪をつかんで立たされ、なおも腹を蹴りまくる。

彼らもまた昨年の三里塚の東峰十字路おける神奈川県警の警官3名もの虐殺に対する復讐に燃えていたのです。あの時殺された警官は、交番の巡査でした。たまたま成田配備で応援にいったすぎなかったのです。しかも殺されたひとりの若い巡査には生まれたばかりの幼い赤ん坊すらいました。同期の仲間は慟哭したそうです。その中の幾人かはいたでしょう。

こんなことがわかるのは十数年も経てのことです。お分かりになるでしょうか?人が人を殴るのには理由があります。殺し合うには理由があるのです。人は皆、サディストでも、ましてや殺し屋でもない。むしろ情が厚い人こそがこんな状況で狂うのかもしません。機動隊員のひとりはこう言っていました「わかったか、おいわかったのかよ、セーガク!こら、わかったのかよ!」

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僕がかろうじて、「おれになんの恨みがあるんだ、おれは君らに石ひとつ投げちゃいないぜ、ただ、おれらは平和を、ただ平和を!」というようなことをかろじて叫ぶと「うるせぇ!」と楯で思いっきり頭を殴られて昏倒。

写真はウユニ塩湖の村。そしてこから地上最高度の塩の湖へと。

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サガミハラの記憶 第2回 最後の薄い人の壁

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この話しをし出すと長くなります。色々な情景や、人の顔が浮かんできます。僕にとっての原点みたいな闘争でした。こういうと不謹慎かもしれないが、ほんとうに楽しい闘争でした。今でも晴れやかな気分で胸を張ってこう言うことができます。
あの時、1カ月、たった1カ月ではあったが、アメリカの戦争機械は混乱し、作戦は滞った。僕たち日本人はそれを誇りに思う、と。
闘争の最後の夜のことだけをお話して終わりにします。
国の介入により神奈川県が屈し、戦車の搬入の夜が来ました。幾多の党派がにぎやかにデモをして、石のひとつも投げて帰っていった、その深夜。
戦車のコンボイが基地に向けて静かに進み始めたのです。その時、基地ゲート前の現場に残っていたのはわずかに百人にも満たない丸腰の市民と若者だけでした。僕たちができることは、互いに腕をしっかりと摑み合い、頭を膝の間に入れるようにしてただ路上に座り込むことだけでした。もちろん石ひとつ持っていませんでした。
Img_0059 僕たちはベトナムに戦争機械を送ることを阻む最後の薄い壁のようなものでした。僕たちが突破されれば、そのまま戦車はノースピア(米軍用桟橋)からベトナムに送り出されるでしょう。僕たちがここで突破されれば、ベトナムへとなんなく運ばれてしまう。
この時に、たった数十人の日本人しか現場にいませんでした。深夜のために住民はいませんでした。もちろん数百人の機動隊に対して勝てるはずもない。しかし、勝つとか負ける以上のなにかのために居た少数の人の戦いが始まります。私たちはこの薄い頼り無い壁が崩されれば、この1カ月間が無になることを理解していました。だから、帰宅をせずに、この場に残ったのです。誰の命令でもなく、指令でもなく、自分の内なる深いところからわきおこる声に従って。
このようにしてわが身を戦争機械の前に投げ出す戦いが始まりました。流血の深夜が始まったのです。
写真は、ウユニ塩湖の朝。塩湖を小高いサボテンの丘から見る。

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サガミハラの記憶 第1回 非暴力ほど尊いことはない

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非暴力の抵抗は恐らく人間が取りうる抗議、抵抗の方法として最も恐ろしく、それゆえに、最も他者の心を打つものだと思います。
ガンジーの塩の行進は、ただ歩いていたのではなかった彼をあそこでイギリス官憲が捕縛したり、ましてや密かに殺したりすればインド全土の民衆が立ち上がるというものすごい戦いでした。彼のやや前のめりになって歩くその小柄な姿はイギリス官憲には巨人に見えたことでしょう。
なぜなら、彼の後ろには数億の怒れる民がいたのですから。
悲惨に眼をつぶらないこと、不条理に黙さぬこと、許せぬことには許せぬと言うこと、結果、弾圧を覚悟すること、その前に身を投げ出すことを厭わぬこと、己の苦役が時に他者を感動させることを知ること
・・・そしてそれを必ずしも自身の行為の共感を期待しないこと。
この季節になると思い出します。1972年の夏の事でした。僕は神奈川県の相模補給しょうゲート前で1カ月間過ごしました。
ちょうど二十歳の頃です。
当時、日本はベトナム戦争の後方基地でした。毎日のように僕たちの頭上を傷ついた米艦載機が飛び、日本の航空機修理工場は米軍機で一杯でした。相模補給しょうは米軍の戦車や装甲車を修理するためのもので、そこにも泥だらけで、破損した軍用車両が日々大量に運び込まれていました。
つまり、この神奈川は、沖縄と並んで米軍の軍事行動を直接支える重要な拠点だったわけです。
言い換えれば、ベトナムの人々を殺戮する戦争機械の重要な末端、後方基地だったのです。
Img_0033 当時僕は暴力的な闘争がとことん嫌になっていました。壊して、破壊して、仲間同士傷つけあってなにか新しいものが生まれるとは思えなかった。
かといってただのデモや学習会だけではなく、今、ここで目の前を戦争機械が人をひき潰して進んで行く時に、もっと直接に「実際に止めること」をしたかったのです。「戦車を止めろ!」という声が誰ともなく発せられ、ほんとうに多くの若者があの基地の前に集まりました。当時20歳の僕もその中にいました。
各々ゲート前の桜の並木道にテントを張り、自炊をし、討論をし、デモをし、ビラを切り、汚い立て看板を作り、銭湯に行き、夜ともなれば居酒屋で現地の人と激論をしておごってもらったりもしました。
土曜の夕方ともなれば、それこそ縁日の人出で(実際テキヤさんも来てました)、「おいガクセー、そのビラ寄越しな。なに書いてあるんだ、教えろぉ!」というトビの親方とも友達になり、親方を納得させることができるとカンパをもらえました。いや、それどころか、親方はぼくたちの汚いチラシを30枚くらい取ると、「おいこら、読め」と来る人に自分でも手渡したんですからありがたい。
街全体が、トビの親方風に言えば、「ベトナムの野郎はよくやってる。ニッポンは負けたが、あいつらは死ぬ気でやってる。アメリカは許せねぇ。俺らができることはこの若い衆を応援することだろうが!」という気持に満ちていました。水をもらいに小さな商店の裏にいくと、おばぁちゃんがにこにこ笑って「ご苦労様です」とアイスクリームを手渡してくれるようなかんじです。
それが、1972年の真夏の相模原でした。
写真はボリビアのウユニ塩湖。白く見えるのは岩塩。地平線まで真っ白な岩塩が続き、蒼穹と世界を二分割している。下は、この季節(3月)特有の塩湖の中の川。この時期にしかみられない。

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ベンツからでは畑は見えない

Img_0029 私がGという農業団体を作った時に、相棒と誓ったことがふたつある。

それは一生涯現役の農家でいようということだ。畑にいないとわからないことが出てくる。その時々の気温の変化土の湿り具合植物の葉の反り方などから分かる水分含有、せん虫の出具合、アブラムシがいるかいないかから分かるチッソの多寡、天敵昆虫がいるかいないか、総じて圃場の「土」の出来具合・・・これは自分も畑の中にいて、仲間の畑に一歩踏み出さないとできない。

畑はそんなに簡単には分かるものではない。事務所にいて帳簿の数字だけながめていても絶対に分からない。畑が舞台だとすれば、あまりに多くの踊り子、振付師、裏方などがいるからだ。皆、私を見てくれ!と叫んでいるのだが、ヒトは鈍感なのだ。

だから、畑に出ないでいると、農家出身でも微妙に感覚がくるってくる。パソコンをとおしてしか農業を理解できなくなってくる。品質も落ちてくるが、単に規格の問題としてしか理解できなくなる。あるいは加工にまわせば的な対応しかできなくなる。

当初は微妙なズレが、やがてはとてつもなく大きな差になって出てくる。これが「畑から離れる」ということの結果だ。しかし、当人はそれに気がつかない。そのようにはなりたくなかった。

もうひとつ、相棒と約束した。地域のためになろうということ。自分のようなよそ者が言うのは、やや気恥ずかしかったが、自分ひとりや自分のグループだけが成長していくのではなく、地元という畑も同時に耕していくことをしたかった。Img_0061

仮に、急成長の農業会社があるとする。その架空の農業会社の社長は、最高級ベンツで生産者の畑に乗り込むとしよう。いかにも田舎的な、あまりに田舎的な見栄の張り方であるが、田舎では大いに通用するのだ。

なぜなら、それは、「成功」の記号だからだ。自分についてくれば「成功」するゾと、分かりやすく触れ回っていると思えばいい。一種の広告塔効果だ。経済的な権力の示威だ。だから村では小成功者はクラウンを、自分がグレートに成功したと思う者はベンツ買うのだ。外車でもまちがっても、サーブは買わない(笑)。小粋な車は権力の小道具にはならないからだ。次は家を建て替えて2億もかけるか・・・。

そのような形で成功した人の次は、経済的な小権力者から、政治的な小権力者に向かう。つまり、市会議員かなにかに成る道に、ほとんど法則的に進む。やがては地域の利権構造にもしっかりと食い込んでいく、とう言うかいかざるをえない。やがて、50代にでもなれば、息子に経済的な権力たる社長を継がせ、自からも県会議員か、国会議員の道を選ぶことになる。

なにひとつ変わらない。なにも変化しない。かつての30代の「農業の挑戦者」は、たぶん50代にはまったく別物に変化している。農業をエリアとしているが、既に農業者ではない、別なものにだ。

Img_0006 私が故伊藤幸吉氏を、いくつかの批判を留保しつつも、かつてのエントリーで書いたように、その死に際して涙が止まらないのは、氏が「うぶな心」を失っていなかったからだ。うぶな心とは牛が好きで、年老いても牛飼いだと思い、ケガを負ってしまうような「うぶ」なところだ。彼は、生涯を牛飼いとして始め、鳥飼になり、農的な権力者になり、大物国会議員までその記念パーティには馳せ参じるところまでいった。色々あったのだろうが、最後はひとりの牛飼いで死んだ。うぶな心とは初心のことだ。彼は最後まで農民だったのだ。

さて、私たちのグループの一番高い車は30万円の中古バンだ。清貧を気取る気はない。だって、ベンツやクラウンでは農道は入れんでしょう。こっちのうほが合理的なのだ。バンでも入れないような畑は軽トラで行く。畑にも入り、ときにはその場で野菜を食べたりもするので、ゴム長か地下足袋だ。ベンツで行ったらゴム長だと車内に戻れない。車内が汚れるから。クラウンを買った時に、毎回腹がたった。脱いだり履いたり。メンドーで、こりゃダメだ、使えん車だ。燃費は悲惨だし。だから、農家から軽く見られるのかもしれないが。

Img_0027 そしてわが社長は年中畑にいる。手はザラザラ、顔も真っ黒。ある時、期末に剰余が出たので税金対策でクラウンの中古を社用車にしたことがあったが、自分たちの納まりがあまりに悪いのでたった3カ月で手放して、その売った金で作ったのが左写真のヤード内のビオトープだ。今、アサザの花が咲こうとしている。無味乾燥なヤードが生き返った。また、私たちの霞ヶ浦再生のシンボルをヤードの中に取り込んでいる。こんな気持がいい「無駄」が好きだ。ビオトープは権力の小道具にならない。だから、それは理念というより、百姓の心意気なのだ。ビジネスマンにならんという。

写真は上段から、わがグループのトマト圃場。有機トマトは完全におてのものになった。中段は仲間のジャガイモのストック。次は農家の集荷場。下段はワカグループのヤードのビオトープ。こんなもん持っているのはうちだけだと自負する。ぐはは。

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ギター談義をしたい

Img_0003_2ギター談義をしたい。
楽器はいいのを買ったほうがいい。ゼンゼン違う。

私なんぞ、最初のエレクトリックギターはトムソンなんて聞いたこともないラワンで作られたギターだった。今思うとひでぇしろもので、すぐに歪むは、反るは、すねるは。しかしなんせ、アンプまでついて(これもすげぇ代物)たしか7千円だったっけ。でも大事にしたな。毎日眼鏡のおまけの布で拭いた。


グレコのギターを高校2年だった、夏休みにバイトして買った時など至福だった。上の写真のエピュホンの赤いSGタイプで、それだけでうれしかった。タイプというくらいだからグレコは堂々とパクったのだ。今やると、訴えられます。4ツもボタンが着いてるんだぞぉ。何に使うか分かんないが。色も渋くて黒だぞぉ。ほんとうに嬉しくて毎日なぜて、弾いた。

Img_0037 アンプもティアックという国産中堅のメーカーのツインスピーカーを友人の兄貴から手に入れた。故障していたのでタダ同然に譲ってもらった。たしか50Wの出力で、がたがただったが修理して、色もペタペタとエナメルで黒に塗り替えた。すごい大音量が出て狂喜したが、すぐに父親にうるさぁ~い!と禁止されてしまった。まぁ当然である。

しかたがないので、農家の友人の納屋で思いっきり音が出せた時は、ああこれで死んでもいいとすら思った。あの時のギャ~ウ~ン!というエレクトリックギターの雄叫びは今でも耳に残っている。納屋の60Wの裸電球はアンプを使うとふっと薄暗くなった。なんだべぇと友人の父親が飛んできた。

このグレコ嬢は毎日枕元に置いて寝た。ある意味ガールフレンドより大事だったかもしれない。この17の私が、もしグレコが人格をもっていたら、結婚したいと言ったろう。永遠の愛を誓ってしまう。そんなかんじ分かるだろうか。好きで好きでたまらなかった。

藤沢の歯医者の息子(脱走委員会の奴だ)など、ほんとうに「スージー」なんて名前をつけおった。なんつう、こっぱずかしい感覚だ。そして演奏の前にはギターにキスをするのだぁ。ウゲゲ~。気分はわからんではないが、フツーそこまでやるか。私のグレコ嬢は幾度にもわたる引っ越しの中で生き別れになってしまったが、この歯医者の伜は、近年会った時にもいまでもスージーは床の間に飾ってあると言っていた。嘘だろう!しかし、あいつは私と違って、生まれてから今まで自宅から一歩も動かないから、ありかもしれない。

さて、あせってグレコさんと結婚すると、後で後悔するはめになるだろう。上には上がわんさか素晴らしいギターがあるのだ。

Img_0035_2 グレコを買った半年後、 藤沢の楽器屋で飾ってあるフェンダーを見つけてしまったのが、私の不幸の始まりだった。

なんていうのか、街でとてつもない美少女に出会ってしまったってかんじかな。映画「ニューシネマパラダイス」でシチリアに北部から来た金髪の少女が突然現れたという気分だろうか。

もう一目惚れ状態たぶん私はヨダレを垂らしていたであろう。ああ、グレコにあせってプロポーズしなくてよかった。こりゃ、グレコの比じゃない。グレコがモー娘の誰かだとすればフェンダーは蒼井優であるな。もっとも、彼女はマーチンのタイプだが(これについては異論あり。いや、テレキャスだという友人もいます)。

で、店の親父にすがりついて、触らせてもらった。テレキャス(テレキャスター)だったが、そのズシッとした重さ、そしてラージヘッドのカッコよさ、大人になったら初ボーナスをはたいてでも買おうと思った(←買えない)。ガキの頃に大人になっからコロッケと魚肉ソーセージを山盛りで喰うぞってなもんだ。

色は確か渋いトーンのチャウダーホワイトだったかな。今思うと、母親をだまくらかしても買っておけばよかった。今持っていたら、50万でも買えないんじゃないか。ちなみに当時でも10万を超えた。初任給が1万円前後の時代にだ。だから、今の貨幣価値で換算すると、軽く100万を超えてしまう、ギョ!

だから、ザ、フーや、ジミヘン、近年ではクラッシュがステージでギターを壊すのを見ると怒りで震えた。いかに神様仏様ジミヘン様だろうと、許し難い暴挙である。恋人を衆人環視の中で自ら殺すようなものではないか!

私は壊すギターはすり替えだと思いたかったが、後に詳細に映像を見るとホントにやっていやがる。悪い意味でクレージーだよ。どうして愛器を壊せるんだ。あんなことをしたからオーバードラッグになるのだ、まったくもう。無駄死をしおって。彼のエレックトリック・レディランドやウッドストックの歴史的演奏など、今聴いても鳥肌が立つ。生きていたら、クラプトンみたいに渋いギターリストになったのだろうに。Img_0017

毎日最長で5時間弾いたが、いっかなうまくならなかった。これは拓郎がオールナイトニッポン(今や伝説だろ)で、誰かの質問に答えて、一日5時間、それを1週間やってダメなら、タンバリンにしなという厳しいお言葉をまねしたのだ。
1週間、きつかった。指は切れるし、最後のほうはハシを握るのも痛いくらいだった。 だから奥さんをくどく時にギターを使えなかった。今に至るも彼女は私がギターを弾けないと思っている。人生とはそんなものである(おいおい、いきなり悟るなよ)。



で、私はタンバリン奏者に転向したというわけだ(笑)。
あれ以来、私はギターコンプレックスでね、秘密だが。まじに20年間くらい触っていなかったんだ。

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価格問題をまっ正面から消費者に提起すべきです その2 今、農-流-消がなすべきこと

Img_0082 さて、この29.8円/個という原価は、私のグループGPセンター出荷価格26円から赤字出荷していることになります。25年やってきましたが、まったく初めての体験です。

出荷が流れて、入金が滞っていないので、かろうじて農場を維持できているという、いわゆる自転車操業状態に入ったことが分かります。また、私は、長年やってきてご縁がある出荷先が多く、大小合わせて6か所と取引関係がありますので、なんとか経営を維持できています。これがパルシステムだけが出荷先ならば、私の経営は早晩破綻するでしょう。

では、一般の養鶏業はどうでしょうか。自然養鶏はその体質がシンプルです。つまり低エネルギー消費型で、家族労働主体の低人件費型、地域の自給飼料も適時組み合わせています。薬剤、抗生物質の使用はゼロです。鶏糞出しや焼却の作業もミニマムかゼロです。冬季の遮蔽、加温もありませんから、資材代・光熱費もミニマムです。このような、たぶん日本の畜産でこれより下はないと思われる超低コスト型自然養鶏にして赤字の淵に立たされているのですから、他は推して知るべしでしょう。

Img_0042 たぶん、エネルギー多消費型の一般のケージ養鶏や、ウインドレス養鶏、ブロイラーなどではこのコストアップ重圧は、私たちの比ではないと思われます。

大規模経営は飼料の四半期先までの一括大量買い上げ、自社便、自動化などのスケールメリットで逃れられるでしょうが、中規模から下の業者の打撃は計り知れないものがあります。私以上に苦しいと思います。倒産が相次ぐでしょう。このことは全農も予測しています。養鶏哲学や方法論においてまったく異なった同業者ですが、ここ一番、頑張ってほしいものです。

一方、この危機の時代に、いまだスーパーマーケットチェーンの多くは「生活応援」、「価格据え置き宣言」などというたわごとで、消費の確保を考えています。いや、確保どころか新たな市場競争を始めてすらいます。これは国内の第1次産業が壊滅しようというこの時期に最悪の選択です。まさに自らの墓穴を掘るに等しい愚行です。ここ1年、この低価格競争に耐えたのなら、なにかしらの展望が生まれるとでも思っているのでしたら、その戦略眼のなさにかえって驚嘆するほどです。

来年は更に、食料を禁輸する国も増大し、温暖化の影響で米国、豪州などの穀物生産は毎年恒例のようになった被害を食らうでしょう。悪魔のバイオエタノール生産は歯止めが効かず、ハゲタカファンドの暴走も止まりません。かくして、食料の需給関係はタイトになり、国際食糧市場は完全なパニックの様相に突入します。Img_0010

この状況の中で、最後の砦であるはずの国内農生産をまだ買いたたこうとしているのを愚行とよばずしてなんと呼びますか!今、流通がすべきはまず、この危機的な食糧需給について、しっかりとしたアナウンスをすることです。未だ大部分の消費者は、よもやそこまでとは思っていない。自分の財布の中身にしか気がいっていないのが現状です。

そのような消費者意識に真実の衝撃を与えるべきです。この食糧の危機状況にはとうぶん「終わり」がないのです。これについては多くのバックデーターを提出できます。むしろこのデーターを読み込むと、この状況はひょっとしたら「終わりの始まり」なのかもしれないと思うほどです。

この中で、もうひとつ先の時代を見越して、新しいビジョンを掲げたグループのみが生き残れると知るべきです。農-流-消まで貫く、農業-漁業のフードシステムを作る時期です。これからの5年、ほんとうの生き残りをかけた農業と流通そして消費者の戦いが始まります。その中で、生産以外の「農の文明的な価値」も再発見されるのだろうと私は考えます。

写真は、カボチャのポール栽培。底が白くなりません。面白い光景でしょう。中段は谷津田の夏。下段はすげ笠。まだ実用品です。

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価格問題をまっ正面から消費者に提起すべきです その1 未曾有の危機

Img_0022 現在、日本農業は大変な危機に立たされています

従来の高齢化や土壌の崩壊などといった内在的な問題に加えて、大変な問題が生じました。

それはいうまでもなく、未曾有の資材、飼料、原油価格などのトリプル高騰という未だかつて日本農業が経験したことのないツナミの襲来です。私の所属する生産グループの農家からは悲鳴ともつかない声が多く寄せられています。

それを受けて、私の農場とグループは徹底的な農生産物の原価計算の割り出しと分析を急いでいます。現在、これが終了しているのは鶏卵部門だけですが、追って蔬菜部門も分析していくつもりです。

私の農場を例に採ります。去年2007年6月と、本年2008年6月のコストを比較してみましょう。同時期、同飼養羽数で比較しています。特に、すさまじい値上がりをしているのが飼料代です。実質のコスト支出が約41万から51万円、実に25%の上昇をみています。

次いで雛代が4%、光熱費が25%などのコスト上昇をしています。他に項目もありますが、省略して、トータルで116%の上昇です。つまり約2割ものコスト上昇があったということになります。結果、一個あたり原価コストは、昨年6月が26円であったのに対し、今年同月は29.8円、15%もの上昇となりました。1個あたりにして11.8円、約1.2円という大幅なものです。

Img_0041 手元に、全農が弾き出した畜産物価格に対しての影響額という資料がありますが、この資料はこのように言っています。採卵鶏は12.6%/㎏、ブロイラーが17.9%/㎏、養豚が11.5%/枝肉㎏、和牛が4.4%/枝肉㎏、乳牛4.6%/生乳㎏となると述べています。奇しくも、私の出した数字、15%とImg_0031 符合します。この数字の信憑性がご理解いただけたでしょうか。

1個あたりの原価コストが15%上昇するということは、もはや個人やグループの経営努力の範囲を大きく超えています。

余情半さんが先日のブログで提唱されたことに賛同します。ttp://kantannihasinjinai.blogspot.com/

余情半さんがおっしゃるように、「逃げ回っていてもしかたがない」のです。生産者と流通はこの危機の痛みをオブラートにかけずに消費者と共有することを提起すべきです。

国際的な食料危機は必ず日本にも襲来します。いや、もう既に農業、漁業という第1次産業は高波を食らって溺れかけています。ところが市場で主導権を握る、量販、大規模流通がデフレ型低下価格競争の迷妄から覚めないのです。

Img_0040 それは消費者意識においてもまったく同様です。消費者は「今日の続きに明日明後日がある」と、なんとなく思っています。国も流通も食糧が危機だと言わないからです。なんとなく海の向こうの発展途上国だけの問題だと思っているのです。このような消費者意識に打撃を与えるべきです。

たぶん、コストアップによる値上げをした場合、消費は一挙に7割近くまで下がるでしょう。更に安い価格帯の商品に消費構造がシフトする可能性が大です。現に地鶏シャモではそのような現象が生じました。だから、刹那的な言い訳ではなく、大きな立場に立ったアナウンス説明が必要なのです。消費意識そのものを変えないで、この時代を乗り切るのは不可能です。

全農はこの資料の中で、この異常なコスト高騰により相当数の農家が赤字転落になると指摘しています。日本の農業は、とうとう俵に足がかかりました。私の推定した5年以内というデッドラインは大幅に書き換えられなければならないかもしれません。

団結して休漁をした漁民をうらやましく思えます。農民には、残念ながら今はそんな力はない。全国一斉に農産物の出荷を止める団結力はない。農家が農業捨てる兼業化が進みすぎているからです。このままでは、個別に孤立したまま潰れていくのを待つしかないのかと歯ぎしりする昨今です。

(この稿続く)

写真は、上から開花し始めたアサザの花。中段は谷津の有機の水田。その下はソーメンカボチャ。最下段は畦に咲くノカンゾウの花。

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金ピカバブル時代にダッシュ村 その1 貧乏人のキャンピングカー

Img_0007 私は金ピカバブルを知らない希有なニホンジンです。世間様が新入社員研修ハワイ!億ション馬鹿売れ!などと浮かれ騒いでいる時代に、森の中で暮らし始めたからです。

沖縄に渡ったのが1982年、そして本土に帰ってきて、今の暮らしを始めて母屋が建つまでの1990年頃までが私のダッシュ村時代でした。ね、丸々バブル期と重なっているでしょう。親は泣く、親戚は笑う、友人は仙人と囃すというまこと面白い時期でありました。時あたかもバブル真っ最中に、月に5万円、生活すべて手作りという生活をしていたわけです。

この土地にやって来た時の車が左下の写真です。ホンダの箱荷台付き軽トラでした。今はひっそりと農場の入り口でゲートガードの余生を送っています。この車で生活をしながら、西は岡山、東は栃木まで渡り歩いたのです。

Img_0022_2 どうやって暮らしていたのかというと、農業用の黄色のコンテナ4個をこの箱荷台(キャビンというのもおこがましいただの箱)の四隅に置き、ひとつにはカセットコンロと鍋釜、ひとつには衣類、ひとつには本やラジカセ、ひとつには味噌醬油、米などを入れ、その上にどっこいしょとコンパネという厚手のベニヤ板を敷きます。そして、その上に敷き布団と掛け布団を置くと一丁上がり。称して、これぞまことの「貧乏人のキャンピングカー」。

これがまた、ピッタリのあつらえたようなサイズの荷台で、大人が足を伸ばしてピタッと収まるのです。寝る時は、内側からズルズル~とドアを閉めます。絶対に酸欠にはなりません。だって、隅には錆びてた穴が一杯にあって、寒風がシュルシュルと入ってきますから、安心。元は魚屋が使っていたと見えて、初めの頃には、ドアになんとか鮮魚店というロゴまで書いてあったのですが、境内の駐車場に寝泊まりしている時に朝起きると、お坊さんに仰天されたことがあって、さすがに消しました。そりゃお坊さんからすれば、なんとか鮮魚店のバンの荷台から、ふわぁ~とあくびをしながら人が出てきたら驚くわな、確かに。

この貧乏人のキャンピングカーで、色々の農場を見て回りました。一か所3泊4日程度お邪魔をして、農作業を手伝いながらお話を伺い、そして次に見たらいい農場を紹介して頂きます。そしてまたそこにガタゴトと移動するという生活でした。当時は沖縄の過酷な農業修行をした後ですから、身体は頑健そのもの、自分で言うのはなんですが、使いでのある旅人だったと思いますよ。Img_0005

長距離移動となると、さきほどのようにお寺の境内の駐車場によく泊まりました。住職にお声をかけて停めるのですか、運がいいと宿坊に泊めて頂いたことも何度かありました。そしてこころばかりの喜捨をして、また次の土地へ旅立ちます。人の情が妙に嬉しいのが旅です。

夏など、シャワーを浴びたくなると、夜に、青シートを張りめぐらし、蛇口からホースで水を掛け合いました。このホースはなかなかのスグレモノで、20メートルほどの長さで、先にコック付きのシャワー栓がついています。これに朝、水を満たして、裾を縛って、軽トラの屋根にしばりつけておくと、夕方にはしっかりと太陽熱で熱せられてお湯になるという寸法です。

シャワーを浴びたら、青シートについている紐を伸ばして、一方を車に、片方を樹に縛りつけて天幕にします。そして食事の準備。外食は金がほとんどないので、当然なし。ほんとうは焚き火でとでも言いたいところですが、実際には境内や公園の駐車場で焚き火などできるはずもなく、カセットコンロでしょぼしょぼとした煮炊きです。電気がないうえに、火がひとつしかないので、ご飯から鍋で焚きます。そしておかず、最後に味噌汁の順です。

Img_0028 別にキャンプに来たわけでもないので、調理器具は普通サイズの包丁と鍋、まな板でさっさと調理していきます。海に近い土地なら絶品のお魚が手に入り、魚屋さんにまで「おい、これで全国を回っているのか!よし、これも持ってけ」とおまけまで頂きました。またもや感激。冷蔵庫がないので、さっさとその夜と翌朝で食べきりました。今でも、魚やあらの料理はちょっとしたものですよ。このホーボー(旅人)生活で私は料理が飛躍的にうまくなってしまいました。

夏を過ぎ、秋の京都を通過したあたりから、猛烈に寒い琵琶湖の冬に遭遇しました。ハンパではない木枯らしと、時にみぞれまじりの雨です。夜には仕方がないがないので、シートで車体をくるんでいました。外から見れば、青シートにくるまった軽トラ、異様ですよね。

ここで活躍したのが湯たんぽ。湯たんぽを足元に置いて、ダウンジャケットを着て、フードを降ろして布団にくるまって寝るわけです。私たちがこの後2年間も住むことになるトリ小屋ライフにまったくめげなかったのはこんな下地があったからです。

(もしかしたら続く)

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土の道

 Img_0006                                 土の道

土の道を歩いてみなさい

そこには どっしりと深い 安心があります

畑の中の道でも

田んぼの中の道でも

森の道でも

海辺の道でも

土の道を歩いてみなさい

そこには いのちを甦えす 安心があります

畑の中の道でも

野原の道でも

島の道でも

アジア アフリカの道でも

土の道を じっくりと 歩いてみなさい

そこには 命が還る 大安心があります

山尾三省の遺作となった「祈り」より

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TV取材が来ました

Img_0001 来る時には来るもので、立て続けに、雑誌とTVが取材に来ました。今まで、25年もやってきているせいか、マスコミにはかなり出るハメになっています。

どうもあの世界は狭いとみえて、関東近県で自然卵というと、ウチとあそこね、みたいになっているようです。

上の写真はレポーターの女性がリハーサルをしているところです。実によく嚙みました(笑)右下はまたまた嚙んだので「ごめんなさ~い!」と叫んでおります。連続写真でご覧下さい。私も、女子従業員も興味シンシン。こんな具合でリハーサル5回ですぜ。ディレクターがだんだん引きつって来る。しかし、大変に素直に私の話を聞いて頂けました。事前にあるていど平飼養鶏についても下勉強をしてきていたみたいです。明るくてドジっぽくてうちの女子従業員によくいるタイプですね。とても好感のもてる人でした。ほんとうに番組って、かなりの部分までレポーターで決まってしまうみたいですね。Img_0002

前回の赤坂に局がある放送局には、女性レポーターの例の後ろ走りをホントに見せてもらっちゃいました。ホントにやるんですね。うちの狭い作業通路を前を見ながら「うわー、鶏ばかりいますねぇ、すごぉい!」(←鶏舎に来てあたりまえだろうが)と叫びながら、後ろ向きに走って、ディレクターの指示どおりトリの部屋で餌をやっている(ふり)の私に、異様に明るく「こんにちは~、なにをやってらっしゃるんですかぁ~!」。私、絶句。思わず茨城弁で「決まってぺよ、おめらが言うとおり餌さやってんだべぇ。こたら時間に餌やるなんて聞いたことないべさ」。悪態をつく時に方言は実に迫力があります。小さくつぶやいたつもりでも、しっかりと集音マイクに入っていたとみえて、はいNG。

Img_0005 で、テイク2。再度の後ろ走りを見せてもらったところ、その異様なふるまいにわが女性従業員が遂に堪忍袋の緒を切らして、パニックになり舞い上がる灰神楽、いやさ、鶏糞神楽。それを気の毒にも頭から被ってまたもやNG。レポーターさん、メイクのやり直し。実は、彼女が浴びたのが発酵乾燥鶏糞だなんて、可哀相で教えてあげられないですね。

だいたい他人の農場の、しかも彼女たちの自治区に来て勝手なふるまいをするからですって。テレビなんかそんなにえらくないのよ。撮ってやるって顔しちゃだめです、私とか、わが従業員のようなへそ曲がりがたまにいますから。

上と下の写真はは卵の撮影風景。カメラマンの真剣そのもの眼差しはずごいですよ。光線の射し方、陰影などまで考慮に入れています。今回のクルーは非常に丁寧に仕事をしてくれました。

あまりマスコミに露出するのは好きではありません。しかし、私たちの仕事も誤解されていることが多いので、最近は来る取材には応じることにしています。               Img_0004          入植当初も、農村でおかしなことをしている都会の若者といった感じで取り上げられることがありました。真面目な記事もあったのですが、ひどいものもあり、、別に取材していただかなくても結構といった感じで、以後10年以上は取材拒否農場となっていました。

ここのところで、食の乱れや表示の偽造などで、生産者がやり玉に上がることが多いので、そうではない生産者もいますよというメッセージを出さねばならなくなりました。私としての気分はテレビ相手の食育のようなものです。

実際に取材に来て、まったく無臭、静粛な農場の風景に接すると、百の言葉より説得力があるようです。 しかし、半日仕事が潰れますが・・・。もちろんノーギャラですよ。うちの農場は産直一本なんで、宣伝はいらないんだけどなぁ。

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雛が入りました! その4 ヒトにとっての幸福、トリにとっての幸福

Rimg0044 今回は硬くしゃべればいくらでも硬くなりそうなので、できるだけかみ砕いてお話します。

私は自分の農場が「5分の3経営」でいいと思っています。5分の3、つまり稼働率6割でわが農場は回っています。上の写真はわが農場の鶏舎ですがこのような建物が5棟あります。私の同業者は、仮に5棟あれば目一杯産む鶏を入れようとします。私はそのうち3棟しか経済性には使いません。

ちょっと算盤をはじいてみましょう。私の農場では、この1棟に収容できる限界を600羽~650羽としていますから、めっ一杯入れると約3千羽です。しかし現実には、私は3棟分しか産む鶏に使いません。約1800羽~2千羽といったところです。実に千羽強の差があります。実に我ながらゼイタクな使い方です。

これを収益に置き換えてみます。産卵率8割として、目一杯10割入れると2400個/1日が生まれます。一方、6割入れた場合1600個/1日です。800個/1日の差です。これを30円/1個で販売するとして、24,000円/1日、そして月で実に720,000円、年にするとなんと864万円もの収益の差があることが分かります。どひゃ~、こんなにあるのかぁ。計算すんじゃなかった(汗)。

Img_0022 気を取り直して、近代畜産は、施設を高速回転させて効率よく生産することを至上課題としました(←いきなり教師口調になる)ちょうど工場のベルトコンベアーを高速でぶんぶん回すのに似ていますね。

どんどんと家畜を入れて、がんがん出荷しようという考え方です。私のようにわずか6割の鶏舎しか使わず、のんびりとやっている低速回転農場など、現代畜産農家のいわば辺境だと思われてきました。

では、どうして私はこんな辺境農法をとっているのでしょうか?それは私の農場が「一貫」だからです。さてと、ここでまたひとつ専門用語が出てしまいました。説明をします。「一貫」とは、雛から最後の淘汰まで、文字通り「一貫」して自分の農場の責任で飼うことです。

なんだ、あたりまえじゃないかと思われるでしょうが、私の農場のような「一貫」は今やまったくの絶滅危惧種、レッドブック入りです。養鶏家は、外部の育成業者から産み出し寸前の120日齢(生まれてから120日め)の大きな鶏を入れて、ものの1カ月以内で産ませることになんの疑問を感じていません。言ってみれば、苗を自分の農場で育てず、よそから買ってくるようなものです。こうすれば、仮に5棟あれば、全部に産む鶏を入れてしまえることになります。残念ながら、今や平飼養鶏も含めて、大部分の養鶏農家はこのような方法で飼育しています。(私が属するGは全員が一貫飼育です)生育技術を持たない養鶏家などざらです。ついでに言えば、完全配合飼料を使った場合、餌もなにか知らないという知らない尽くしの人すらいる有り様です。これで鶏に愛情を持てるはずもないではありませんか。

では、なぜこのような「手抜き」をするのか?理由は、さきほど述べた経営的に施設稼働率を上げられるという事以外に、雛を育て上げるというのは神経がくたびれることだからです。一昨日に入った雛の様子を見に、今日も私は夜でも見回りを絶やしません。しっかりとした硬い羽根が生えるまでの1カ月間は寝不足の日が続きます。暴風雨や台風のときには、彼女たちを守るためにつきっきりで側にいます。濡れた雛は、一羽一羽よく拭いてやってぬるいドライヤーで温め、自宅のコタツに入れたりもします。食欲がない弱った雛には餌を練って口に運んでやります。そしてうまく育った時のなんとも言えない充実感と爽快感、彼女たちへの愛情、これが鳥飼という職業の醍醐味なのです。Img_0003

このようなことを養鶏農家は忘れかかっています。企業養鶏はそもそも話の外です。彼女らを採卵マシーンとしか思っていません。農家が企業と張り合えるのは、そのきめの細かい愛情なのに、それを忘れかかっています。悲しい。

養鶏農家は高い雛を買い込み、淘汰をした後にすぐに鶏糞出しと消毒をし、そして数日以内にまた産み出し寸前の鶏を導入するという作業します。過酷な腰が痛む労働で、実際、養鶏農家の職業病は腰痛でなのです。

人は毎日鶏糞出しと消毒作業をし、腰を痛め、消毒農薬による肝臓障害などを起こしたりします。一方、産み出し寸前で入れた大雛は、新たな飼育環境に馴れないためにひ弱で、おまけに私の眼からみればバカ高い値段です。これを次から次に入れていけば、年間の雛代だけで膨大なものになります。計算したことはありませんが、たぶん私のような一貫飼育の数倍ではきかないのではないでしょうか。

Img_0023_2 私の農場では5分3しか鶏舎を動かしていませんし、育成期間中は1棟5部屋のうちの一部しか使わず、大部分は遊休期間としています。鶏糞は出しません。畑でいる時にだけ、必要なだけ出すだけです。ですから、鶏糞出しなどほとんどしません。そして、しかも雛は発酵鶏糞の上で育ち、その菌相に雛のうちから馴れていく強い鶏となります。鶏舎を休ませるのが、最大の予防防疫なのです。

このように、近代畜産では、確かに入ってくる売り上げは一見大きくなったようにみえても、消毒代、薬剤費、人件費、施設費などがかさんで、農家は心身ともよれよれにくたびれ果て、腰痛を患い、そこで一回どこかで事故が起きようものなら、倒産しかねません。これではヒヨコ屋、薬屋、資材屋を儲けさせるために農家が身を粉にしているようなものです。

そう考えると、私のようなグータラが5分の3回転などと言ってやっている農法と、結局はさほどの収益的な差はなくなりました。そして人と家畜の幸福という価値を考えると、高速で突き進むベルトコンベアーから降りるのが幸せではないかとふと思うのです。

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雛が入りました! その3 ガリで、ドジな子の死

Img_0020 こんなことを考えていたら、私にペットがいたことを思い出しました。
卵をゼンゼン生まないのでまぁ、いちおうペットと呼びます。ようするに、駄羽です。ケージ養鶏では真っ先に締められます。というかハナから居場所がありません。うちの農場の方針は「駄羽もいるあたりまえの社会」ですから、駄羽の諸君もワラワラいます(←自慢することか)。
ほんとうに弱い雛で、どうしようもない。雛の時からドジで、ガリガリで、一時は別飼いと言って群から分けて飼っていたこともありました。成長しても群になじめず、いつも高いとまり木の上で、皆が食事をするのを上から静かに見ているような女の子でした。あまりドジなので個体識別ができてしまったくらいです。
私が個体認識できるのは駄羽か、凶暴な雄鶏しかありません。優秀で大きな鶏は見分けがつきません。これでもいちおう感情移入しないクールな管理者なんですよ(どこが)。鶏が死ぬごとに号泣していたら身が持ちませんもん。
彼女はメシの時間にも一緒に食事ができないんです。鶏というのは集団性生物特有のイヤミなところがあります。劣位の鶏が傍らに食べに来ると鋭いクチバシでカツンっとつつく。劣位には食べさせないわけですね。果てはつつきまくってとまり木の最上部にまで追い上げてしまいます。
そして食事を終わってからそっと食べに来るとまためざとく仲間にいじめられる。私が彼女のための特設食事処を作ってやって生き延びていました。ですから、彼女は私が餌に部屋に入ると、うれしげに、有難迷惑にも、肩に飛び下りてくるのです。鶏の脚には鋭い爪がありますから、夏のTシャツだとシャレにならないくらい痛い。痛てぇじゃねぇかと払っても肩に乗って来ました。
昨年の熱波の夏、8月16日朝、彼女は干からびるようにして片隅で死んでいました。酷暑に加えて、長い間なにも食べられなかったのでしょう私にも目配りする余裕がなかった。いまでも思うのですが、彼女は私のことを親と思っていたのかもしれません。
もしそうなら、私はいい親だったのだろうかと自問します。
写真は、ガリでドジな彼女が自分がそうであったらと祈っただろう姿。わが農場のシンボルです。

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雛が入りました! その2 私の鳥飼哲学

Img_0053_2                                           私は鳥飼という言葉が好きです。養鶏家や畜産家という言葉はなぜか私には似合わない。今日はそのあたりをお話します。

よく同業者に言われるんですが、じゃあ、あんたそんなキレイゴト言ったって商売でしょう。そんな家畜にセンチメンタルな態度で接しられるわけがない、と。

あるいは、都会の意識が高い消費者から言われるのは、養鶏なんてしょせん輸入穀物の加工業にすぎないんじゃないですか、と。この言葉は傷つきますね。オレたちは加工業ですか?ならば、私は鶏をモノ扱いにしているのか、と。

このふたつの疑問に対して、私は同時にこう答えるようにしています。私が目指している鳥飼は、人と生きものの関係をより豊かにしていく中でしか生まれません。私は鶏を加工するただのモノとはまったく考えていません。互いに生きものとしての目線を失わずに生きていきたいのです。ですから加工業という批判はものごとの一部を指したもので、全体を見ていません。

また、それをセンチメンタルだというならば、あえてそうだと言いましょう。センチメンタルというのが、彼らとの気持と優しさの交流の言い換えならばです。つまり、それは単なる技術論の枠をはずれ、鳥飼としての矜持、あるいは哲学の上に立った私の農業者としての生き方の問題だからです。

ニンゲン族が作った畜産の技術とは、動機は実にシンプルで、どれだけ多くの肉をつけさすのか、乳を絞れるのか、卵を採れるのかという技術にほかなりません。その中にはいままで家畜と呼ばれる生きものの幸福度などは一切考えられてもいませんでした。幸福だろうが、不幸だろうが、お金の価値に換算できればいいという前世紀の近代畜産の考え方です。Img_0012
結果こうなりました。単位面積にできるだけ多くの家畜を詰め込む。そのほうが施設の回転率が高くなりより儲かるからです。
そして家畜は運動をさせないために縛って動けないようにする。これで飼料を運動エネルギーにするロスを省き、また管理をしやすくするためです。
そして、その先はこうなりました。畜舎は最悪の状態に置かれることがあたりまえになりました。まずは匂い。家畜農家が周辺から文句を言われっぱなしなくらいに匂う。糞尿から出るガスと家畜のストレスからくる独特の汚臭が畜産につきものになりました。そしておびただしいハエ。
病気になりやすい弱い家畜。薬剤、抗生物質、消毒剤の常用。そして毎回効かなくなって濃度を高くするしかない薬剤と抗生物質。その資材コストが足を引っ張ってしまっての経営成績の頭打ち。・・・これが家畜を生きものとして遇さなかったための自然からのしっぺ返しです。
総論ばかりお話していてもしかたがない。わが農場の舎内を見ていただきましょう。
舎内に入ったら、ここは彼女たちの自治区ですから、遠慮気味にゆっくりと動きましょう。静かに、静かに。そして口元には笑みを。え、鶏にそんなことが分かるのかって?バッカだなぁ、分かるに決まっているでしょうが。彼女たちは自分たちに対して敵対的なのか平和的なのかを瞬時で察知します。
餌をくれに来たのでもないニンゲン族がなにをしに来たのか興味津々で彼女たちは見ているのです。当然、ニンゲン族の個体識別もしています。見学者だと餌をくれるわけでもないのに、なにをしに来たのかという警戒の眼で見られるでしょう。
では、いきなりですがものは試しで、腕立て伏せの要領で。鶏の鼻孔の位置に自分の鼻を置いてみましょう。左下の写真は、ほぼ鶏の鼻の位置で撮影しています。
この位置で臭くなければ合格です。逆に、ここで匂ったら、どこかに問題がでている証拠です。たとえば収容羽数が限界を超えているか、病気、特に呼吸器病が出ているかです。ついでに床も観察してみましょう。特に糞の状態がポイントです。糞が流れていれば、それは下痢で、消火器官障害の黄色シグナルが出ているからです。
Img_0005 床が糞尿でベチャベチャだったりした場合、100%の確率でアンモニアガスや、メタンガス、硫化硫黄が大量に発生します。これはいわば魚の水槽に大量の汚染物質を投入したことと一緒です。魚にとっての水、鳥にとっての空気、これを汚染した場合、鳥類である鶏は呼吸器病に簡単に罹ります。
そして呼吸器病は鳥類にとって万病のもと。ここから多くの感染症に拡大をしていくのです。
だから、薬剤が常にいるのです。金をかけて薬剤投与をし、安全性に疑問符がつく食材を作り、だからと言って自分も儲かってもいない。ニンゲン族にとっても不幸な状況です。今まで余計なことに金を掛けていたのです。薬、抗生物質、消毒液。金をかけずに鶏が幸福に生きていくというのは相互にとって最大限幸福なのではありませんか。第一そのようなまっとうな生きものが生んでくれたものは、不味かろうはずもないではないですか。
私は根がケチですから、つまらないことに金をかけたくありません。また住んでいるところが、鶏舎のほんの数メートル先ですから汚臭やハエなどとんでもありません。なんのために田舎に来たのかわからなくなりますもんね。
ですから、鶏にとってのいい環境が、ストレートに私たちの住環境の良さとつながっていました。
あ、そうだ、肝心なことを言い忘れていました。写真で見える床がなにかお分かりでしょうか?砂?土?違います。糞です。げ、と思われるでしょうが、これが平飼養鶏の真髄です。
床は私たちが与える草やモミガラ、ワラなどの敷料と鶏糞がかき混ぜられた糞が堆積したものです。しかも底まで完全に乾燥して、無臭です。これはわが農場を見学に訪れた人が口を揃えて驚嘆することです。「匂わない!ハエがいない!静かだ!」。Img_0010 そしてもうひとつ「鶏が幸福そうだ」。そうです、これが私たちの鳥飼の勲章なのです。
彼女たちと私たちの幸福は相矛盾することではありません。いやむしろ完全に一致しているといってもいい。ただ、そのハーモニー(調和)に到り着くまでに多少の努力と多少の哲学がいるということだけです。
彼女たちとのつきあいは確かに短いのです。だから、ニンゲン族の最大限幸福と、鶏の最大限幸福のバランスの中でやっていこうと思っています。
この短い中で彼女たちが生命力を開花できれば、産卵も上がり、私というニンゲン族も非常にうれしいと思います。貪らず、生きものとしてのつきあいができること、それが私たちにとっても共通の利益なのですから。
写真は、上からわが農場のオンタン(♂)。こうして改めてみると眼がコワイですね。次は鶏舎の作業通路と餌をやる車。この通路が実は雨が振り込まない秘密なのです。人は楽に、鶏さんも楽にというわけです。次は鶏舎内。できるだけ視線を下げて鶏の目線に立っています。でもやや高いか。最下段は産卵箱で生んでいる彼女たちをパッチリと一枚。

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雛が入りました! その1 きらきら光るような命の塊

Img_0004 昨日、雛が入って、これを書いています。元気な雛が、涙ぐましいようなきらきらと光る産毛に包まれて私たちの農場に来ました!
それは生命力が産毛を着ている輝くエネルギー。走り回る命。まだ頭の先に殻が残っているような赤ん坊。
手で強く握れば簡単に死んでしまうようなふわふわな瓜のような縦縞の入った雛を、これから大人の女性に育てるまでの約半年、彼女たちは私の関心の中心に居座ります。
特にこの瓜坊の縦縞がなくなって、堅くて強い翼が彼女たちを守る30日くらいまでは気が抜けません。
強い雛と弱い雛があります
雛は育種技術が発達した今も、個体の形質はデコボコです。ある者は強く、大きく、そしてある者は弱く、小さく。これはたぶんクローン技術でもないかぎり当たり前の自然の摂理なのだと思います。
Img_0030 試練は早くも初日の夜に来ます。強い雛は喰うだけ喰って、お腹はパンパン、さて寝るかとばかりにもっとも温かい温源近くに当たり前のように寝ます。うむぅ~温けぇ、眠いなぁ~、ふがぁ~ってなもんです。ボタモチのようにのんびりと身体を丸めて円陣を組むようにしてすやすやと寝ています。
一方、ドジで小さな雛は昼にたいして食べられず、寝る時も温源から最も遠い、ボタモチ円陣の外縁の一等寒い場所で寝ざるを得ません。同じ餌をやっても大きな雛はトウモロコシのような腹の足しになるものを食べ、哀しくや弱い雛はパフパフの糠ばかり食べるはめになるわけです。
まして、私が温源(なんてことないリサイクルショップで買ったコタツですが)の温度設定に失敗したりしたとして、お~寒い、あ~凍えるということになってしまえば、まっ先に必要な温度を得られないのはこの弱い雛ということになります。こんなことが続くとたった1カ月で、同じピヨピヨでも、方や大きく、方や惨めに小さいということになるのです。
そして、このような群の均一な発達(揃一性)に失敗すれば、産卵のピークは上がらず、もうメタメタな群(ロット)となります。これはニンゲンにとっても困る。だって儲からない(笑)
ガンガン生んでくれるのもいいが、かといって生命力を一瞬で失わせても困る。まぁ、ボチボチ、気長に、無理せずに、それがわが農場のポリシーのようなものです。第一、私らニンゲンもそうだもんね。Img_0028
鳥飼の仕事は、生き物を「見る」ことです
よく、新規就農者に聞かれます、養鶏家はなにを毎日するんですか?
そりゃいくらでもありますよ、餌やり、卵拾い、選別、出荷作業、緑餌集め、村中を回っての野菜くずの収拾、ヒヨコ育て、そして畑作り。
でもこれではなにも言っていないに等しいのです。ほんとうにしなければならないのは「見る」ということです。毎日群を見る、毎日見る、餌をやりながら見る、すぐ来る奴と来ない奴を見る、通りすがりでも見る、やがて見ることによって群に何が起きているのかがわかるようになります。
一般の人が見ればだだボーとして鶏舎を見ているボケに見えるでしょうね。確かにボケには違いがありませんが、その時、なにを鳥飼は何を見ているんでしょうか?
いじめられている個体、食べられない個体には注意がいります。この個体は速やかに群から保護しなければなりません。その判断が遅れるといじめ殺される可能性すらあります。
集団的に生きる生物には、群の中で弱い個体を排除しようという意志があります。自然界において、それは群にとってお荷物だからです。それを簡単にさせてたまるかというのが、私親代わりのニンゲンの立場だと思っています。
写真は、上は着いて1時間の休憩をしているところです。蓋を半開きにして蒸れないようにしてあります。長野からの3時間の旅でした。中は保温器の中に入れていきます。この時期はほとんど温度を入れません。下は餌つけが始まったヒヨコ。まだ環境に馴れていないので、やや不安そうです。

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ダッシュ村に住んでいた その2 トリ小屋の住み心地は?

Img_0002_1 さて、話を戻しましょう。この農場の中に私たちが住みついたトリサマ亭がありました。もとヤマギシ会式のトリ小屋だからカマボコ型屋根のついた長屋式の鶏舎です。屋根はスライドして開けられますが、壊れていて、いったん開けてしまうと閉まりません。まことににしまらない話しです。手作りのトリ小屋なので、まぁよくあることです。

10部屋連なっていて、その余りの11号室が私たちの部屋でした。初めの頃はその一部しか使えず、壁があるのは四畳半のみ。あとは壁のない土間が台所で、冬の間は冷蔵庫がそのまま温蔵庫になるといった、なかなかワイルドな暮らしぶりでしたが、いくらなんでもこれではということで、仲間と一緒に部屋作りに取り組みました。

Img_0004 とは言ってもその頃の私たちは、先住者たちの大工の腕前にいたく感心しながらの下働きで、たいした戦力にはならなかったと思いますが。大工のイロハはこの時に覚えました。

大工の世界が尺間法であり、センチでは使えないこと、トンカチを玄翁(げんのう)と呼ぶこと、その重さによって打つ釘の長さが違うこと。水糸の出し方、垂直の取り方・・・。これが今にして思えば、この時から10数年の長きにわたる農的大工生活の始まりでした。

全部で10坪ほどの鶏舎のひと部屋のうち、6坪分の床を作り、内装には拾ってきた白い壁紙付きの合板を張ると、これがとても鶏舎とは思えない新居になりました。カマボコ型屋根に内張りをしたわけですから、部屋は当然カーブした天井になり、気分の良い住まいでした。ちょっとスタジオ風(どこが)。

タダ同然でできた部屋ですから、いくつか難点がありました。最大の問題はともかく寒い。土間との仕切りがないので、ピューピューとすきま風が吹き込むのです。ときには雪さえも。とりあえず毛布を垂らしたのですが、いつぞや寝ている時に、夜、吹雪になったとみえて室内に粉雪が降り積もっているのです。横に寝ている連れ合いを見ると、顔に薄っすらと雪がかかり、スノーマン状態。鼻の穴から、ヒュルル~と息が漏れているのをみてほっとするやら、可笑しいやらでした。Img_0021

その年はとりわけ寒冷だったとみえて、毎日夜は平均マイナス10度以下でしたので、布団の淵は毎日凍ってバリバリ。しかたがないので、羽毛服のフードを被ったまま寝ていました。ある時、夜帰って唯一の暖房具であるコタツを開けると中から当時飼っていたサンチョが飛び出してくるという椿事もありました。コタツから飛び出した猫ならともかく犬(それもシェパード)というのは、後にも先にも、初めてでしたね。

次なる難問は、壁がペラペラのベニヤ一枚で音が筒抜けだということです。しかもこのお隣さんの朝がめっぽう早くて、寝坊ができないことでした。トリという隣人は、早寝早起きで、今時なら3時半には雄鳥の起床ラッパ、コケコッコー、ケコケコ!から始まります。それも一羽だけではなく、10数羽のオンタンが波状的にがなりやがる。こうなると、もうこちらもおちおち眠れない。こんなに朝っぱらからうるさいのは、トルコの安宿でコーランの詠唱をがなる拡声器の下の部屋に泊まった時以来です。といって、「おいこら、うるさいんだよ」と壁を叩いても虚しですね。

私たちはこのトリ小屋生活をいたく気に入っていましたが、ある時親が来て「私たちの終戦直後の焼け跡生活でも、これよりずっとマシだった」とさめざめと泣かれてしまいました。隙間風が吹き込むトリ小屋と玄米、廃鶏肉がちょびっと入っただけの野菜の煮つけが相乗効果を上げたのでしょうか。Img_0013_1おまけに、これを盛りつけた友人の陶芸家が茶色を得意の色調としていたので、食卓は渋紙色でしたからね。

そうそう思い出しました。その時に農場の連中が仲間の親を歓迎しようと、ギターと詩の夕べをやったのも逆効果だったのかもしれませんね。親は翌日農場の皆を連れて寿司に連れて行ってくれました。実は、自分がいちばん食べたかったのかもしれませんが。それからもう二度と、親は私の農場には来ませんでした。

写真は、メキシコの猫の陶器。眉がある!中段は八角堂の外観。左の樹は勝手に生えているミズナラとサクランボ。よく見て頂くと、サクランボが実っています。中段は母屋の正面にかかっているトリのワイヤーワーク。最下段は薪ストーブ。

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ダッシュ村に住んでいた その1 品行方正ではないダッシュ村の住人になった

Img_0009 1983年、沖縄から帰って、ここ茨城で最初に住んだのは、共同農場のトリ小屋、その名もトリサマ亭でした。トリ様が住むからトリサマ亭と、じつに分かりやすいネーミングであります。

他にもいくつか建物がありましたが、いらなくなった農家の納屋を解体して作ったから納屋亭。壁にはなんと畳が張られているという素敵な家。マムシがいる谷に面しているからマムシ谷亭。亭主が悪酔いするとマムシと化すからだという説もあります。ひとりで瞑想したりするためのほろ酔い亭。ほんとうは泥酔亭でしたが。全部自分たちで作ったのです。

ああそうだ。イメージとしていちばん近いのは、品行方正ではないダッシュ村でしょうか。「鉄腕ダッシュ村」(日テレ日曜日夜7時)を数年前に観た時にたまげました。オレたちが25年も前にやっていたことが、今、こんなに多くの若者に関心をもたれているんだって、うれしいような、くすぐったいような。

Img_0034 品行方正ではないと言ったのは、TVダッシュ村は打ち上げで酒は飲まない、宴会はしないし、踊らないし、恋人はでてこないし、ヨガはしないし、肥えは汲み出さない、ビニールマルチをするかしないかで胸ぐらをつかまんばかりの議論もしない、そしてよくできた堆肥に接吻しない。

今となっては我ながら馬鹿馬鹿しい限りですが、私たちはそうして生きてきました。なにせ私たちは農の悪ガキでしたから。

TVダッシュ村は非常に良く出来ていますが(知らない農業技術を毎回再発見しています)、まるで理科室みたいなんですよね。人間臭くない。生活臭がない。タツヤは農業に欲しいキャラだなとか、松岡と長瀬、国分はこなすだろうが向かないだろうなとか。城島は下手だが農業向き(そう言って彼が喜ぶかは不明ですが)とか、まぁ色々とキャラを透かして見えてたとしてもですね。

農というのは善くも悪しくも、人間臭い生き方なのです。農業に憧れる人が思い描くような聖なることでも、崇高なことでもなく、人が人の顔をもってありのまま生きられるが故に素晴らしく、また一面人と人の根の部分が露になってしまうところでもあるのです。

私が沖縄から帰って入ったこの共同農場は、30前後の歳の連中が、「金なし、土地なし、技術なし、かと言って街に帰りたくもなし」で都市から田舎に住みつき、畑を耕し、小屋を立て、家畜を飼い、詩や音楽の夕べを持ち、生活を作っていったそんな場所でした。皆、金は見事なまでにないが、時間と好奇心だけは有り余るほどあるという生活を選んだ連中でした。

生活費は、沖縄時代は月に6千円(さすがにこれにはびっくり)、この共同農場時代は月に5万円。ですから金があればつい買ってしまうものも、全部いちから自分で作るという生活が必然としてなるわけです。第一、暇だしね。Img_0010 金がなく、地位がなく、ついでにぜいたくにも暇だけがあるというのが自由になれる前提条件なのです。金を出せることによって失うものがあり、時間を買う如き生活にはそれなりのものしか我がものとはならない。

ですから、就農して大きなトラクターを買い込み、大面積に単作している奴がたまにいますが、同じ就農者でも、異次元だなと思います。なにが楽しいんだろう。工場労働と同じじゃないですか。いろいろあっていいので否定はしませんが、農の楽しさはその生活にありですよ。私は今までの都市の暮らしと根本的に異なる衣食住のスタイルが見つかってこそ楽しいのだと思います。

写真は、上から今の母屋。自作です。完成しないうちから壊れてきていますが、素人普請ですから、妙に頑丈ではあります。煙突は薪ストーブ用。今年もまたヒヨドリ様に巣を作られてしまいました。母屋建設はそのうちたっぷりとお話します。次はわが家の掛け時計。まったく好き勝手な時間を示して穏やかに笑っています。下段は、八角堂の扉。中古のステンドグラスが入っています。

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自家製小麦のシュークリーム

Img_0018                                          

米は、入植してすぐに田んぼを借りて作っていました。しかし最悪ここが借りられなくなっても、自分の敷地内で何とか主食を自給したくて、穀物に至るわけです。

いざとなったら陸稲で1反歩作れば、1年分は何とかなるかとも考えましたが、近所の百姓に聞くと「陸稲はうまくねえよ」。じゃあそれは最後の手段にするとして、今は別のものを作ろうと考えました。「小麦ならうどんにもなるし、パンも作れる。何ならおやきを食べたっていいんだし」。そこで日本有機農業研究会の知人に無理を言って分けてもらった、“朝日”という品種(栽培は少し難しいけれど、無農薬でよく育つ)を播きました。

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またもや栽培はうまくいったんです、これも。その頃の私たちの合言葉は、「播かねば生えぬ、何物も。出来ぬは人の蒔かぬなりけり」。真理です。皆様、心するように。

まったく人の手柄はほとんどないというのが実感でした。で、またまた大豊作。刈りとって、乾かして、脱穀してできたのが、30kg4袋。ここからがまた大変というのも、そばと同じパターンです。でも今回はソバと違ってカラがないのが救い。そのまま挽いてしまえばOKということはわかったので、挽く道具を探しました。初めは、近所の農家の庭先に転がっていたのをもらってきた石臼。直径30cm、厚さ20cmほどの円盤状の石を二つ重ねたものです。

上の穴から少しずつ小麦を入れて、木の棒を差した取っ手を持ち、ごろごろ回すと粉が出てくるという、大変牧歌的なシロモノ。ごろごろごろごろ。でも、やたらと時間がかかります。何せ、30分間休まず回し続けてできるのが、たった100gほど。とにかく疲れる、そして根性がいるのです。朝食用のホットケーキにと思っても間に合うはずもありません。たまたまその時期に滞在していた、内気な青年が、おしゃべりしながら3時間ほど挽いてできたのが石臼小麦300gでした。

これで終わりかというととんでもない話でして、これから粗目メッシュ、中目メシュ、細目メッシュでふるって、ふるってふるいまくり、ようやく出来上がりです。これでフスマが分離され、分量は250㌘くらいに目減りします。粗目だけでもいいのですが、たっとフスマが入って色はもはやモカ茶いろです。これで作ったお焼きはなかなかです。

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中古喫茶店用コーヒーミルを経てようやく隣町の農機具屋で、本当に小麦の挽けるミルに出合いました。店の主人に電話で尋ねると、「ああ、ちょうど古いミルがあるからタダであげるよ」。喜びいさんでもらいに行くと、「ミルはタダだが、モーターは新品だから3万円」と言われ、はたしてこれは安いのかと悩みながらも購入し、ここでようやく文明の曙となったわけです。何と長い道のり!

これでできたのが、全粒粉。茶色のツブがいかにも健康によさそうだし、おいしそうです。記念すべき自家製小麦粉クッキングの初まりは、クッキーでした。おいしくて、香ばしくて、クッキーにはぴったり。お次はシュークリーム、これは絶品でした!自家製卵と隣の牧場からもらった搾りたて牛乳のクリームに、自家製小麦の全粒粉のシュー。いやあ、おいしかった!

写真は、当時から使っている石臼。中はラブラドリーレトリバーもどきの兄弟。いまやこの5倍に成長しなんでも食べる大食いへ。犬柄よし。見かけはコワイが、まったく番犬にはならない人なつこさ。次は現在の凛々しき姿(でもねぇか))。名前はタローです。お見知りおきを。

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農家の果報 疑問にお答えして

Img_0004 コメント様からいただいた疑問にお答えします。

>広い世界では太刀打ちできないので、狭い世界に閉じこもる‥それこそ、袋小路でしょう。

そうでしょうか。私は違うと思います。もともとの食のあり方はその地域に根ざしていました。地域の食をその地域で食べる。これが基本形なのです。日本の場合、それが全国流通、特に低温流通の普及でいったん崩れ、さらには低賃金を求めて東南アジアに行きました。海老や鶏肉などがそうです。そして海老などはその土地の水田が成り立たないほど破壊をしてしまいました。このことは下記の痛切なブログ記事に書かれています。ぜひご覧になって下さい。「はぐれおいどん余情半」http://kantannihasinjinai.blogspot.com/

また、野菜や食品加工業もまた中国に大量に移動しました。国内の大手食品会社一社が移動すればその現地工場の周りに下請けの会社が作った生産拠点も同時に移動して、いわゆるクラスター(ぶどうの房状)の地域ができました。これについてはこのブログをご覧下さい。第一線の食品加工とその流通に関わっている方のブログです。

田畑住まいの未来http://blog.livedoor.jp/nobu23/

一方、戦後ほぼ一貫して穀物は米国の中西部がくしゃみをすれば日本は風邪をひくといった構図です。最近も中西部の大洪水で、日本は大風邪を引きました。これらは、国内的には、農業生産-農産加工という食の基本ラインが崩れて来ていることを示しています。食の空洞化現象です。

Img_0005 一方外国、特に東南アジアから見れば、日本による地域の破壊です。儲かるのはプランテーションを経営する華僑などの一握りの人間だけ。数年間で養殖場は使い物にならなくなり、再生不可能な水田だけが残ります。地元民は解雇されてしまいます。残ったのは使い物にならない水田と、解雇された村の人々。

米国ですら、原因的には自業自得なのですが、バイオエタノールにシフトしすぎてしまいトウモロコシ⇒大豆⇒牧草⇒トウモロコシという輪作体形が崩れてしまいました。トウモロコシの連作が始まったからです。このままでは遠からず土壌が持たないとさえ言われています。砂漠化につながりかねません。世界のパン籠の砂漠化です。

このようなことがグローバル、つまりは地球規模で一斉に起きています。そのことは米国ですら認識し始めていて、その反省からローカル・ファーミング・サポートのような新たな動きが出てきました。つまり、地元の農業を支えよう、その中で自分も農業と関わろう、一緒に汗を流して、地場で出来た農産物を共に食べよう、そういった動きです。実は、これは日本の地産地消運動に学んだと言われています。米国の辞書には「TEIKEI」(提携)という言葉が載っているそうです。一方、欧州はむしろTEIKEIの元祖日本より先行して、ローカルエリアマーケットがしっかりと市民社会の中に根づいています。Img_0018

結局、「自給率」とはある種の抽象的な数字なのだと思います。国家レベルで考えることも大切ですが、仮に国家的な穀物生産基地を作って、この歴史的に蓄積されてきた食の歪みを修正できるでしょうか。

私はできないと断言できます。それは身体のあちらこちらが痛んでいる人が、食事や睡眠、運動などの日常生活を見直さず、高価な元気ドリンクを飲むようなものです。

食の歪み全体を修正できないところで、自給率の向上がなったとしても、それは無意味です。農水省が掲げた自給率50%が達成されたとしても、それは単なる官僚の手柄にしかならないのではないでしょうか。

自分の地域の中の循環の環づくりは決して袋小路ではありません。例にとった今治では、麦の作付け面積だけでゼロから15hまで拡がりました。数学的にはどうか知りませんが、15倍です。従来の農水省の補助金農政の方法だと、この地の農家に100%の補助金を出して政策誘導をします。鼻の先に金をひらひら~。しかし、たぶんそれは成功しません。なぜなら農家にとってなんの社会的責任もないような恣意の判断だからです。

Img_0014 しかし、今治市全体での取り組みとなり、自分の子供も通わせている小学校でも給食で食べさせるとなると個人の恣意では済みません。しっかりと作って、シッカリといいパンを作ってもらうべぇとなります。たぶんJAはいい意味での面子をかけてやったのではないでしょうか。それこそが農家の誇りです。

これは農業がこの地でこう叫んでいるに等しいのです。俺らはお荷物ではないぞ、俺らはくたばってはいないぞ、俺の背中は曲がっていないぞ、俺らこそが地域の核だぞ、と。一粒の麦、一個のパンに今治の農家はそのメッセージを託したのだと思います。それが農家の果報です。プライドです。

ご理解頂けましたら幸いです。ご質問はいつでもお受けいたします。投稿、ありがとうございました。ぜひまた頂けましたら幸いです。そのうちハンドルネームをつけて下さいね。

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自給自足事始め 一杯のざるそば農場版

 Img_0009_2 ここ茨城で暮らし始めた25年前頃は、「自給自足」という言葉に「うーん、田舎暮らしの本領はここにありだよね」みたいな気分がそこはかとなくあり、まぁいろいろとやってみました。

 入植した当初は、広い土地を前に茫然自失。と言っても、しょせん8反(2400坪)ていど。今の眼からみれば驚くような規模ではないですが。いったいどうしたらこの広い場所が埋まるんだろうと小首を傾げてしまいました。

 いちおう2年間の農業研修をしているんですが、まぁ、こう言うとまったく申し訳ないのですが、研修生などというのはひと様の土地で勝手に作り散らしてというのが実情でして、さっぱり身になっていないのですなぁ(えばることか)。まことに冷や汗であります。

 いちおう作付け計画など机上では作って、とりあえずパラパラといくつもの野菜の種を蒔いたのですが、まだ9割の土地が空いている!どうする、当時はトラクターはおろか耕運機もなく、鍬ひとつ。こ、困ったぁ!放っておけば草ボウボウ。念願の自分の土地を持ってなぜか青ざめるわが夫婦。

 Img_0006 とりあえず、小耳にはさんだソバを播くことにしました。播きさえすれば手入れもいらない、というのは甘い天の声でしたね。「もしソバ粉が手に入ったら、冷たいザルソバだ」、「ソバ打つのってかっこいいよね」、「作務衣なんぞ着てやろうね」などと言い合いました。蒔きもしないうちから、ファションに走るなっていうの!自分のところの研修生だったら説教だな、こりゃ。

 「もし最悪の場合、粉にまでならなくても、花はきれいだよね」、「そうそう」。あきれるほど軽薄な奴らです。それが25年たつと、やれ地域の農業再生がどうしたの、新規就農支援がなんじゃらと聞いた風を抜かしよるのだから、歳月はこわいものであります。

 ホントにそれはそれはきれいでした。風にそよぐ一面の白いソバの花畑。そのうえ、何とこんぺいとうのような実までついてくれたんです。いやあ、気分は大勝利。で、これを刈り取って束ねて干し、ゴザの上でバタバタたたくと、見事に実が茎から離れる、という寸法です。もう脳裏にはザルソバのイメージ画像がむくむくとがわき上がってきます。

 本来なら、これを挽いてカラと実に分けるんですが、挽くのはまあいいとして、分けるところがよくわからない。昭和30年代の農家向け自給の本を引っ張り出すと、「ひっくり返して風選」というのを見つけました。これは、風のある日に戸外にゴザを広げた上で、挽いたソバを放り上げると、軽いカラは風に乗って散ってしまい、重い実だけが残るというもの。Img_0008 

 半信半疑ながら、これしか手がかりがない以上、仕方ありません。やってみました。容易に想像がつくように、うまくはいきませんでした。風が強すぎて実も飛んでしまったり、パタリと風がやんでカラも一緒に下に落ちたり。何より、作業としてはかなり間抜けで、「何やってるんだ、私は」状態に陥ってしまい、結局元の種の3倍ていどが残っただけでした。これからようやく挽いて、打って、切って出来たるが貴重極まる一枚のざるそば。夫婦が泣きながら食べたことは言うまでもありません。これがどこまでも続く自給自足の花道ならぬ泥道の始まりでもありました。

 ご教訓その1 自給自足は失敗してもへこたれない神経でやるべし。  

 写真特集は、農場の勝手にはえてる自生ハーブの皆様。上から自生しているペパーミント。今年もこれでキューバのモヒートだぁ。中はドクダミの花。今が盛りです。下はこれもミント。ただし、勝手に生えているので(植えた記憶がない)品種名わからず。紫の花がメチャ美しい。

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自給率について突っ込んでみよう 最終回  ローカルエリア・マーケットを創ろう!

  Img_0007                                                

 さて、自給率というテーマを単独で追いかけていくと袋小路にはまってしまうことがわかってきました。おかしな言い方になるかもしれませんが、「自給率の向上」をいったん頭からはずして考えたほうが、かえってほんとうの国内自給に近づける気がしてきました。

 私はこのシリーズの第2回で、「農業を市場原理の外に置くな」と提唱しました。これに対して「市場原理とは弱肉強食のことではないのか」というコメントも頂戴しております。なるほどなと思いながら、果たしてそれだけなのかと考えてしまいました。私は現在ある市場批判よりも、むしろそれをどう変えていくのかに興味を持ちます。

 なるほど前世紀、いや現在に至るまでもそうですが、量販店チェーンの市場原理は、品質を問わず、ひたすら安く、もっと安くという価格競争を前提としていました。結果、食品の原産地偽装、表示偽装、果てはまがいものを平然と流通させるという食のモラルの荒廃にまで到り着いてしまいました。量販店がそのチェーン展開力の力で、納入業者を買い叩き、叩かれた業者は品質の低いものにシフトし、果ては偽装に走ってしまいました。この腐り切った根はそうとうに深いと思われます。Img_0030

 今までの食の流通の構造は、量販店が全国、いや全世界から安いものをかき集めて、値決めをし、量を集積し、安価に提供するという原理で動いています。この原理の中で、量販店に権力が集中するという歪な構造を作られました。「量こそが力」、すなわち権力です。これが古い市場原理でした。

 私は今こそ21世紀の新しい市場原理を作る時だと思います。そのキイワードは、ズバリ「地域」、ローカルエリア、そして「農」からの食の再構築です。抽象的に言ってみても理解されにくいでしょうから、具体的な事例を上げます。

   今、つくば市で「パンの街」というプロジェクトが起きています。これは当地の独立法人の農業研究所と地元の農業者が提携をしてパン用最適小麦を栽培し、さらにそこで終わらずに、地場のパン屋さん10数軒が、話しあってその小麦を使った各店が独創性のあるパン作りをしています。なかなか評判が良く、地域の目玉ブランドに成長しつつあります。

  また、こんな事例もあります。愛媛県今治市では、農業試験場でつくられたその土地の風土に合ったパン用小麦ニシノカオリを地元で栽培し、その小麦を用いて学校給食用のパンの製造をしています。かつては米国産小麦だけでしたが、平成13年度の作付けが1.2h、そして現在ではなんと15hまで拡大してきています。それまで一粒の小麦も今治市では栽培されていなかったことを考えると意義深いことです。また大豆も米国産のものから小麦と同様に地元産のサチユタカを使い、平成13年から学校給食に供給をしています。

 この今治市の実例は、惚れ惚れするくらい素晴らしい実践です。大規模穀物基地は地域を耕しませんが、このような地域に根ざした穀物生産は、まるでそこに吸いつけられるように多くのものを引き寄せ、束ね、相互の壁を溶かし、混ぜ合わせ、そして豊かになっていきます。新たな価値の創造による「市場」の誕生です。

  Img_0014 「市場」の意味の転換が行われたのです。これがローカルエリア・マーケットの誕生です。これが来るべき未来に向けたもうひとつの市場原理です。

 私の住む村でもこんなことを考えています。わが村では耕作放棄地が激増しています。もう待ったなしで、たぶん数年後には1000hの大台に乗るとすら言われています。今まで手入れをしてきたじぃちゃん、ばぁちゃんの身体がきかなくなったからです。草刈りができないのです。

 これだけでは泣き節です。もうダメだ、助けてくれと。しかし、そう眼をバツにしないで、このような参った状況を価値に転じてみましょう。価値を逆転してみると、1000hの広大な面積の土地が作付けを待っているのです!ラッキー!ごめん、じっちゃん。許せ、責任をもって耕すから。そしてじっちゃんにも悪いようにしないからさ。

 耕作放棄地に植える作物は条件があります。なんて言っても雑草対策が必要です。草刈りが出来なくて放棄したわけですから株間、畝間がないものがいい。除草作業のない「面」でダーっと栽培できる作物がいいのです。ひと季節放っておいてもいいタフな作物が適しています。そうなると限られてきます。

 思いつくのは、麦や大豆、菜種です。これらの作物はビシッと繁茂して、雑草をまったくというわけではないですが、寄せつけません。そして、舌でガシガシ草を食べてくれる牛の放牧はどうでしょうか。この面制圧型の小麦、大豆、菜種などを耕作放棄地に作付けたら、耕作放棄地はまた黄金の穂波に飾られます。品種は地場の風土に適したものを選ぶべきです。収量だけで判断すると、途中で病気が入ったりしますから。そのために、県試験場や独法などとの協働が必要です。研究機関をアカデミックな天上からひきずり出しましょう。Img_0001_edited_2

 では、誰がこの作業をするのでしょうか。そもそも農家が出来なくなって放棄したのですから、農家にというわけにもなかなかいきません。そこで、私は地元の土建屋さんが面白いと思っています。今、公共事業の緊縮で地元の土建屋さんは泣いています。しかし、つねに従業員を雇っていなければならないので大変です。重機の維持管理だけでも大変だそうです。この土建屋さんに播種、管理、収穫を依頼してみたらどうでしょうか。これは既に牛久市で実現しているアイデアです。

 そして、収穫できた小麦や大豆、菜種などからは色々な加工品ができます。パン、うどん、豆腐、納豆、菜種油などなど。更に食品加工のプロとジョイントすることで、更に可能性は拡がります。これらの農産品を地元の加工場にお願いします。学校給食センター、パン屋さん、お豆腐屋さん、油屋さんなどで加工します。その過程で製造廃棄物が出るでしょうから、それも地元の農家で家畜の餌や肥料に利用していきます。製造工程で出た食品残さなどは有効な家畜飼料や肥料になります。このように地域での生産-製造-廃棄物利用-流通-給食センター・台所-廃棄再利用という大きな流れを創っていきたいと思っています。

 出来上がった製品は、地元の学校給食でまず使用します。子供たちにとってこれほどの食育はないでしょう。学校菜園などでも野菜や穀物を作る学校の菜園化が見えてきます。父母も休日に来て耕せる。遠い市民菜園に行かなくとも、自分の子供たちの学校菜園を耕す。これがほんとうの「理科」ではないのでしょうか。

 Img_0006_3 そして剰余は、地域ブランド化して県内で販売します。このためには商品開発のプロフェショナルが必要です。流通のプロではなく、「商品を作る」、しかも農の立場に立ったプロが必要です。

 また、 その商品流通にあたっては地域量販店と地域生協、有機農産物宅配などの協力が必要です。この大きな環を作るためには、県や市とのコラボが必須です。行政の協力なくしてはこの実現はありえないことです。行政が本来いるべき位置は、その地域の活性化のために民と民を結びつける機能です。

 私はその民間側の立場で、有機農業推進フォーラムを作りました。まだ行政の意識は追いついていないのが実情ですが、具体的に話し合っていきます。このように、ローカルエリア・マーケットは、その地域に生きる生産者、流通、消費者、加工場、研究所そして行政が、経験、知見、そして各々のネットワークを集めて作り上げるゆるやかで大きな環そのものなのです。

 本日はこのシリーズの最終回としてローカルエリア・マーケットの鳥観図をお話しました。横文字はうさんくさいのですが(ごめん。本来私は和文字が好きです)、あえて「地産地消」という表現を避けました。この表現は人口に膾炙しているので便利なのですが、反面、流行の言葉と化していて、かえってイメージが狭まるような気がしたためです。

 また、この構想全体において、重要な部分をなす里山有機農業公園やJAとの連携、牛の草地放牧、アイガモ水田、代替エネルギーなどは煩雑になるので、残念ですが今回は説明を割愛いたしました。

 また、ゆっくりとお話いたしましょう。農の時間の中では、時間は逃げませんから。末永く拙ブログとおつきあい下さい。宜しくお願いします。

 写真説明。わが農場の昼下がり。2番目は出荷時期を迎えたトウモロコシ畑。3番目は旧家のたたずまい。4番目はわが農場の菜種畑。まさに菜種色の海。最後は、私のうちの納屋です。どこもかしこも農場は濃厚な緑に覆われています。

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自給率について突っ込んでみよう その3 ふたつの袋小路とは

Img_0003  自給率向上を考えているといつのまにか袋小路に入ってしまうことに気がつきます。北海道あたりで官とJA主導の巨大な穀物生産基地をつくればいいとなるか、あるいは、いつものお定まりの国際水平分業論です。

  巨大穀物基地はその気になれば出来ないことはないでしょう。しかし、このような解決方法をとれば、官僚の決裁権限の肥大化が必ず副作用としてついて来ます。縦割りの省益、いや局益を墨守する官僚がこれを指導し、その分配などにおいて大きな権限をもつようになります。

するとどうなるのでしょうか?現代は官僚にとって冬の時代です。食管は既になく、減反といった食料生産の統制は既に先が見えています。そして、補助金の配分も、国が直接支払う形から、地方自治体に分権化が進んでいます。この中で巨大穀物基地を国が推進した場合、たぶん、国産穀物推進法のような法律が出来るでしょう。これは自給率向上のために、食料生産者に一定の割合で国産穀物を買い入れることを義務化するかもしれません。こうすれば確実に自給率はアップします。

  そしてその決裁権限を官僚が担うことになります。国家官僚にとって、この国際的な食料危機の時代において、こんな法律を作らなくとも、畜産業や醬油、味噌、パン、麵類生産業者などに対しての国産飼料の分配権限を持つことは、事実上の生殺与奪の権利を得たに等しいことになるのです。これは時代の逆行でしかありません。前世紀の中葉の官主導型国家に逆戻りするのです。Img_0008

  では一方、その対極にみえる資本グローバリズム的な考え方に立ってみましょう。それはデビッド・リカードが1810年に唱えた「比較生産費説」以降綿々として続く国際水平分業論です。簡単に言えば、日本は自動車生産に特化し、農産品輸出国は得意な穀物輸出に特化し、互いに自由貿易で交換するのがいちばんハッピーだという論理です。このリカード説は形を変えて、200年後に甦りました。これがWTOの主導する資本グローバリズムです。

 これに立つ人は経済界はとうぜんとして、経済学者にも実に多いのです。いや、むしろこちらのほうが多数派でしょうね。この人たちに言わせると、日本農業は比較劣位なのだから、比較優位の工業に専念することこそが、国が豊かになり、国民も幸福になれると主張します。そして農業は衰退し、遠からず消滅する部門だから、むしろ社会政策、つまりは福祉の分野に入れて考えてしまえと唱えます。

  この考え方は、私たち農業者の神経をまるでキィーとガラスに爪をたてるようにいらつかせます。この人達は農業を生産だけの面でしか見ていないのです。日本農業がなにを保全してきたのか、なにを2千年有余の時間尺で継承してきたのか、その歴史や価値、そして構造をまるでわかっていないのです。マッカーサーと同じです。一切を平板な算盤勘定だけでみています。農が保全してきた日本型エコシステム(別な機会に詳しく説明します)、人と自然との関わり、継承されてきた工芸、芸能、そして福祉、さらには農の中で得られる深い精神の安らぎといった経済「外」的な価値を完全に切り捨てた議論です。まったく素晴らしく貧しい考え方です。

  Img_0006_2 グローバリズム論者に言わせれば、肉や卵などは国産する必要がなく、アメリカから全部買えばいい。醬油も味噌もどうせ米国産大豆が原料なのだから、国産する必要もなく、全部アメリカの日本法人から輸入すればいい。野菜もどうせ肥料は外国産なのだから、中国から輸入すればいい。コメもカリフォルニア米がうまいし、安いのだから全量輸入するほうが消費者の「利益」だ、と、まぁこんなことになるわけです。もうひとつひとつ反論するのもメンドーな議論ですが、実態は限りなくこのような形になりかかっているのです。いや、逆に実態を論理にすると、こうなったというところです。

  この2ツの道はどちらも袋小路です。方や、前世紀の遺物である官僚主導型農政の復活、方や日本農業不要論です。では私たちはどうしたらいいのでしょうか?

稿を改めて、明日にその先をお話します。

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雨の日はつらいよ

 Img_0004_2                                           え~ん、ブログ記事を書き上げてアップするその瞬間を狙ったように土砂降りの豪雨と共に、停電。朝4時から起きて1時間以上かけた作業が一瞬にしてパーとなり脱力感にうちのめされております。カミナリのばかやろー!泣いちゃうぞ。

 というわけで、当初に書いたエネルギー問題ぬきには国内自給は考えられないという大きなテーマは、そのうちに。くそ、かなり調べて、自分の代替エネルギー実験の報告も含めて書き込んだんだけどなぁ。落ち込むなぁ。

 農業は天候に関係なく淡々とせねばなりませぬ。雨が降ろうと、雷が爆撃よろしくドカンドカンと落ちてこようと、雪が真正面からビュビューと吹きつけようと、はたまた、30度を超えるカンカン照りの炎天下だろうと。日々、淡々黙々。多少は天を恨みながらも。まさに宮沢賢治ではないですが、雨にも負けず、風にも負けずがわが仕事です。

 宇根豊さんがよく「農業は経済行為ではない。楽しみだ」とおっしゃいますが、注文が入っている日に豪雨だったりすれば、楽しみとだけは言えないなぁ。経済行為でなければ、こんな日は表に出たくはないわけです。経済行為であるかどうかが、プロの農業者とアマチュアとの差でしょうね。まぁ、その大変さも含めてが農なのでしょうが。

 さてと、雷がまだドシン、ドシンと鳴っている豪雨の中の農作業に行って参りま~す。

 

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自給率について突っ込んでみよう その2 麦の自給率は助成金では上がらない

Img_0005  昨日の私のエントリーを読まれた方には、多少のとまどいがあったと思います。

 私が有機農業者であり、なおかつ、農業の自立を強く望む者でありながら、「自給率と米は関係がない」と言ったことです。これについて補足説明をしておきましょう。

 世界の高騰を続ける国際穀物市場相場の2倍の価格で日本の消費者は麦を買わされているという事実がまずあります。これがパンなどの値上がりをもたらしました。次いで、割高感の出たパンから、米へのシフトが起きました。ダイエーで6月には20%の米の売り上げ増です。ある人の計算では食パン一斤で150円~160円。一枚当たり6枚切りだとして25~30円となり、ほぼご飯一杯の価格と同じになったそうです。

 米食へのシフト自体は大歓迎です。米の粉化も賛成です。米を食の中心に置くことは、まっとうな食の復権にとって素晴らしいことです。ただし、小麦の価格上昇の原因が国産麦への補助金財源の捻出でなければ。Img_0168 そしてそれに玉突き的に押されての米食シフトでなければ、です。

 政府は米食が自給率と関係があるという因果関係に乏しい宣伝を止めて、現実を直視する説明を国民にするべきなのです。コメは国を挙げて責任をもって守る、農業と消費者、行政が一体となって穀物と油脂の国内生産をあげようと。そして、それが国産自給率の向上の道なのだ、と。

 少し話題がズレるようですが、ご承知のようにパン食自体が、戦後のアメリカによる余剰の家畜飼料であった小麦(パン)と脱脂粉乳の給食への導入から始まっています。しかも有償で、けっこう高い価格で日本に恩きせがましく押しつけられました。私たちの世代が飲まされた脱脂粉乳はなんのことはない仔豚の代用乳なのです。私たち昭和育ちの子供はアメリカ産ブタ飼料で育ったわけです。ああ、そう考えるとムカっ腹が立つこと(怒)。

 当時は、いや今もコメでしっかりと給食を供給できたのにもかかわらず、あえて学校給食にパン食を入れて、パン食教育をしたことで、戦後のコメ離れが生み出されました。パンを好む子供は、大きくなり、パン食党になり、またその子供もパンを好みコメをおろそかにしていったのです。北斗の拳の10年殺し(そんなのあったっけ)ではありませんが、米国による、日本を半永久的に「穀物の軛」で縛りつけるための食のねじ曲げではないかと私は思っています。

 それは米国の穀物基地があってこその日本の食卓という構図です。パン、うどん、ラーメン、そば、ハム、卵、サラダ油、そして納豆、醬油、味噌に至るまでほぼ食卓の全域を網羅します。その意味で、コメントさんのおっしゃる指摘は、畜産だけの問題ではないのです。

 さて、話しを戻します。1993年、ご記憶でしょうか。戦後最大のコメの大凶作の年です。政府は260万tもの外国米が緊急輸入しました。タイ米を一生食べないぞと決意された人も多かったようです。この原因は何だったのでしょうか?当然ひとつには、冷夏だったことですが、真の理由は、93年年の水稲の作付け面積がなんと通常の半分だったという驚くべき事実です。減反政策のため、約半分が休耕田として草ボーボーだったのです。農政の失敗による人災的凶作と言ってかまわないでしょう。

 通常に水稲を作付けておれば、まったく米の供給に影響は出なかったのです。政府は米価を統制するために、大幅な減反を農民に強制的に押しつけ、結果として食料供給を破綻させてしまいました。1993年の教訓から、私は減反政策には反対です。これは農業の足腰を弱め、政府の統制価格に安住する弱い経営体質を生みました。そして農家の農業離れである兼業農家の増加をもたらしました。

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 ちょっと思い出して下さい。地域名を被せたナントカ米、美味しさを競うナントカヒカリとかいう米の質的な向上や地域ブランド化は、この悪しき食管(食料管理制度)がはずれてから、一斉に花開いたのではありませんか。それまでは、経営努力もなく作っていれば、丸ごと親方日の丸が買い上げてくれていたから日本農業の進歩が止められていたのです。

 この、食料生産に対する統制と一対になっているのが補助金なのです。補助金は、政府が助成金という政策誘導をすることで、農政をする手段です。補助金自体はいいも悪いもありません。政府の政策としてはどの国もとっていることです。

 問題なのはむしろ、その助成金という国民の税金が有効に使われていて、麦や大豆などの国内生産を推進したかです。結果はノーです。市場価格の2倍で買い上げるという市場原理を無視した支援政策をしても、麦の生産は伸びませんでした。大豆もしかり。農民は丸ごと買い上げてくれるうまみを知り、農家が言う「捨て作り」といって栽培努力をしないいい加減な栽培に走りました。そして反あたり収量も低く、質の良くない穀物を作った農家も多かったのです。

 いいかげん、政府は気がつくべきです。農家を市場原理の外に置くのはやめるべきです。それは簡単なことです。つまりはいいものをつくれば高く売れる、経営努力をしてブランド化してみる、流通を工夫する、消費者と徹底的に話しあうなどの努力をすべきです。そして今多くの地域でこの努力が果実を結びはじめました。Img_0076

 様々な野菜や、特産物、米でできたことに麦などの穀物ができないはずがありません。馬鹿げて高額な麦輸入交付金を止め、輸入小麦の価格を国際相場にし、そして麦の国内生産を新たに考え直す時期だと思います。

その具体的な私のイメージは、また明日に。

写真は、今年のトマト。きれいでしょう。野菜ほど美しいものはないと思います。中段は花が咲くまえの菜種畑と母屋。その下はボリビアのウユニ塩湖近くの村の風景。最下段はウユニ塩湖の日没です。世の中にはすごい風景があるものです。

 

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自給率について突っ込んでみよう その1 右手で課税、左手で補助金の怪

Img_0002  コメント様から、一昨日の私のエントリーについて「日本の畜産は輸入穀物を肉や卵に変えている産業だ」というご意見をいただきました。

 結論的には、まったく同感です。この問題を語り出すと、この所、農水省や低血圧の福田さんまでもがテンション高く叫んでいる「自給率の向上」という大テーマにもつながっていきます。もう少し先にとも思っていましたが、ぼちぼちやってみますか。まずはデーターを上げてみましょう。

■平成18年年度(2006年)自給率39%
果実:35%
大豆:25%
野菜:76%
魚介類:59%
砂糖類:32%
小麦:13%
油脂類:4%
畜産物:16%
コメ:94%
これがカロリーベースの算定による自給率39%の内訳です。ではこれを41年前と比較します。

■昭和40年度(1965年)自給率:73%
果実:86%
大豆:41%
野菜:100%
魚介類:110%
砂糖類:31%
小麦:28%
油脂類:33%
畜産物:47%
コメ:100%Img_0034

 少し説明をしましょう。2006年度の米が94%と、100%を切っているのは、ミニマムアクセスで低品質の輸入米を買って、市場に出さずに保管しているからです。

 よく福田さんが「米を食べて自給率を向上させよう」と言います。また農水省がマスコミを通じて国産自給だと、「3食はイモまたイモになりますよ」と言ったイメージをバラまきますが、いかがなものでしょうか。自給率向上は大いに結構です。私も諸手を上げて大賛成です。しかし、この政府の宣伝はある種のレトリック、いえ有体に言ってプロパガンダでしかありません。目的がよければ、虚偽を言ってもいいのか、という感じですね。

 まず米は自給率向上にはなんの関係もありません。自給率低下の主原因は穀物と油脂が国内自給率を引き下げていることです。この要因をハズして自給率を語るのはナンセンスです。当然穀物自給の問題は、国内畜産の宿痾である輸入穀物頼りの体質にもつながっていく大きな問題です。

 ではなぜ、この問題について政府は隠そうとするのでしょうか?隠すはオーバーにしても、少なくとも真正面から国民に説明をしていないことだけは確かです。これには理由があります。 

 小麦などの穀物の自給率ですが、28%とあります。これには裏があります。小麦には100%の補助金が与えられていての数字です。このことを大部分の消費者は知らないと思います。

 Img_0036 では、この国産穀物生産に対する補助金は、なにを財源にしているのかご存じでしょうか?「麦等輸入納付金」がこの財源です。昨今問題となった揮発油税が、道路財源になっているようなものだとお考え下さい。ではこの輸入交付金がかけられた結果、輸入小麦はどのような価格になったのかをみます。

 小麦輸入は、政府が買い上げて、民間に売り渡すという仕組みですが、農水省HPによれば、値上げ後の政府売り渡し価格は、69,120円/tです。実は国際相場が、3,7000円/tですので、実に2倍です。国際価格の2倍の小麦を国民は食べさせられているわけです。ではこの差額がどこに行くのかというと、その大部分は国産小麦への補助金に化けていたのです。

 国産小麦の相場は、43,000円/tですが、これに100%の補助金を乗せると、86,000円となり、国際相場の約2.5倍となります。つまり、輸入小麦を国際相場の2倍とすることで、その鞘を国産小麦の補助金に回すという方法を農水省はとっていたわけです。

 これで分かりました。農水省は片手で輸入穀物を高騰させる原因を作り、パンやうどん、ラーメンなどの諸物価高騰の原因を作り、同時に輸入穀物に頼る畜産製品の値上げの原因を作り出していました。そして、それをもう片方の手で、国産小麦などへの補助金に回すということで国内自給率の維持を計る方法をとっていたのです。そしてこのことを公表すると、国内自給率の向上が、現在の農水省のやり方では、皮肉にも国民生活への圧迫となりかねない構造となっていることが、国民にわかってしまうからです。

 ですから、現在の39%の自給率では、三食イモ、またイモになりますよ、という頭を傾げるような宣伝をして眼を逸らしているのです。

                                    本稿つづく

写真、上は山桜。中はわが農場の菜種の収穫風景。下は今、満開の石榴(ざくろ)の可憐な花。

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わが農場の夏の風物詩 トマト・ソース

Img_0001_4  農場はもう夏気分寸前。これでこのうっとおしい梅雨が上がれば、カッとした夏がやってきます。                                                

 夏は農産加工の本番です。私たちが農産加工するのは、この夏と冬に入る晩秋の2つの時期。夏のほうはなぜか洋風で、晩秋は伝統食ぽいのが面白いですね。いずれにせよ、食品加工品は、あまりに沢山あって、腐らすのももったいないからやるもんなのです。

 例えば、ドーンと山なす規格外トマト、少々の傷のあるナス、曲がったキュウリ、虫がちょっとかじった大根、アオムシのいたずら跡があるキャベツ、エトセトラ、エトセトラ。

 鶏さんに緑餌をあげるため、仲間の有機の生産者に「クズ野菜を下さい!出前迅速でーす!」などとふれまわったためなのです。すると、来るわ来るわ。「おい、ちょこっとトマトが出たけんど、来るかぁ?」と知り合いのシゲさんが言うので、いそいそと軽トラで出かければ、ざっと4反、1,200坪のトマトのハウスから出たはね出しトマトの小山。ど、どこがちょこっとだぁ!こら、シゲ公、腕が悪いんじゃないか。 Img_0002_2

 コンテナの数にして多い時で3ケース、約30㌔くらい。大体1日に1ケース。右の写真はほんの1日分。もうゴカンベンと行かないと、朝、庭に積み上げられたはね出し野菜のケースにガクゼンとなるはめに。おいおい、そちらから出前かい。これがほぼ毎日、1カ月半は続くんですよね。

 トリは狂喜乱舞して、瞬く間に平らげますが、トマトが大好物の私らはさすがにやや飽きがきます。毎日朝に3個、昼に3個、お八つに3個、夜に3個・・・うっ~。それ以外に、トマトスープ、パスタ、サラダ、ピザ、カレーなんにでも入ってくるのですから。味噌汁にも入れたことがありました。味ですか、まぁご自分でお試しを。案外、冷やすと美味しい。

 そうなると、もう加工しかありません。今からもう身構えてます。気分はねじり鉢巻、「さあ来いトマト!カモーン!」てな感じです。そこで納屋から引っ張り出したるは、食品加工のために大枚はたいて買った、五右衛門風呂ぐらいのズンドー鍋です。ラーメン屋のスープ用ズンドウです。これが2個あります。子供の風呂につかえそうなサイズですが、実際、夏に来る子どもが水浴びしましたっけ。これはなかなかの道具で、味噌の大豆を煮るにも、スモークチキンを煮るにもなんでも使えます。

 Img_0005 そして、ひと抱えもあるザル。こんなもんが近くのJAの店で、当たり前のように売っているのが田舎なんです。
 ではせっかくですから、トマトソースを作ってみましょう。まずはせっせと、お湯をくぐらせて皮を剥きます。そして細かくちぎる。フードプロセッサーでもできますが、ザクザク感があるほうが好きな人は包丁で叩きましょう。
タネもとってね。これをザルに入れて3~4時間ほど水気を切ります。水気が多いとなかなか煮詰まりません。その後、すりおろしたタマネギやニンニク、ローレルとともに、最初の半量になるまで煮詰めます。裏ごしはお好きに。うちはしません、メンドーだから。

 味付けはいかようにでも。うちの農場では何種類か作っています。プレーンなトマトソース、チリペッパーやにんにく、タマネギ、赤ワイン、バジル(これがまた雑草のように強いのです)を入れたサルサソース、そして砂糖とビネガーをきかしたチリソースなどです。なんやかや言ってもプレーンが一番便利です。

 この出来上がったトマトソースは熱湯消毒したビンに詰め、脱気してください。軽くフタをして蒸し器に入れ、しばらく蒸した後で、キュッとフタをしめます。やけどしないように気をつけてくださいね。脱気したビン詰めは、冷暗所で保管すれば、あきれるほど持ちます。2年前のも食べたことがありますが、まったく問題がありませんでした。おそるべし、先人の智慧。

 右下の写真はうちのトリ肉です。ワンパックに丸一羽分の全部位がコチコチになって収まっています。年に3回ほど作っては冷凍しています。この鶏肉を一度食べると、市販のブロイラーは、まぁダンボールのようなものです。ム、ハハ。前回は40羽分保存したのですが、大分食べちゃったなぁ。次回の淘汰の時にまた作りましょう。

 では最後に、料理をひとつ。農場の道端に生えているニンニクと赤トウガラシを刻み、わが家産の菜種油(左上の写真)で軽く炒めて香りを出し、わが農場の(ああ、くどい!)鶏肉をみじんに刻んで、トマトソースで和えて、野生化したバジルを刻み、茹でたパスタにからませれば、なかなかのトマトパスタになります。Img_0001_2

 このビン詰めトマトソース、冬に食品庫から取り出すと、ふっと夏の香りがします。

 

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峠を超えた巨人

Img_0009 米沢郷牧場の伊藤幸吉さんが先日お亡くなりになった。長い、長過ぎる闘病の末だ。伊藤さんは私の目標だった。

 伊藤さんの地域循環モデルに触発されなければ、私はGというグループを作らなかっただろうと思う。また、農を中心として、全国の産地と消費者を結びつけて、寄り合わせる運動にはダイナミズムを感じた。まさに峠を超えていく巨人だった。

 氏は敵も多かったはずだ。しかし、その批判者もまた、氏を別格に見ていたことは間違いない。現実には、私は伊藤氏と意識的に距離を開けていた。伊東氏のグループにも何度かお声を頂いたが、行かなかった。生意気な奴だと思われただろう。

 氏が生前、「畜産業は耕種農家から差別されているんだ。地位は低い。ドイツでは城門の鍵は肉屋が握っていたのに」という話を友から教えてもらった。なぜかそれを聞いた時に、胸が締めつけられるような気がした。村での私の位置と同じ目線に立っていたのだ、彼は!Img_0008_2

 畜産業は村の中での二級市民だ。いや、村民か。耕種農家は、彼らの数の数十分の1しかいない、気質も違う畜産農家に違和感をもっている。働き方も違う。価値観も必ずしも、土に依拠するのではなく、家畜という生きものに依拠している。

 そしてなにより、畜産業は血を見ざるを得ない。耕種農家は、ほうれんそうを出荷する時に、胸の痛みは感じないだろうが、畜産農家はその都度、胸の中で血を流している。多少の差はあっても、どんなに馴れても、その痛みは刺のように突き刺さったままだ。

 だから、血とケガレという日本人の神道的タブーをおかして、血に手を浸している畜産農家は稲作民族が支配する瑞穂の国で永遠に「差別」され続ける。この悔しさと哀しさに伊藤氏は反発したのだと思う。そして氏は、独学し、自分の脳で分析し、独自の世界観を持つに至った。また、権力を持つことで、自分が思う世界を創ろうとした。よくは知らないが、喧嘩には強いタイプではないだろうか。

 畜産農家は縄文人の末裔だ。縄文人とその後裔は狩りをし、犬を飼い、鉄を使い、時に家畜を飼育し、屠った。伊藤氏の血の中には縄文人の血が流れている。そして、鹿児島の隼人族の血を受け継ぐ私の中にも、同じく縄文人の血が流れている。

 常世とやらがあるならば、生前一度として頂戴できなかった杯を交わしたい。合掌。

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山尾三省を読み直す

 Img_0002_4                                              

 友人のひとりが帰農するという。来年から、今の職を辞して、本格的に農業の道に入るのだという。素晴らしいことだ。農の仲間が増える。拍手。

 歳は私より多少若い程度だ。お互いに50の中頃になってしまった。

 このあたりの年齢って難しいようだ。シルバーエイジ前夜、中年後期、人によっては青春の生き腐れ。

 世間では「男の更年期」などと呼ばれるそうである。なんかバッチイ語感だね(苦笑)。昔の同級生などに会うと、皆いいオジさんである。腹なんかデプっとなって、おいおいお前、カレー臭だぜ、と冷やかしあう。どこか皆、病んでいる。身体に自信がある奴のほうが珍しい。もう孫がいる奴もいる。いてもおかしくはないが、お前、もうオジイちゃんか。

  かてて加えて、オレをオジさんとは呼ぶな!なんて抵抗をして、精一杯ジーンズをはくが、惨めにもまったく似合わない。ジーンズのボタンの上にポンっと腹が乗り、これで球に乗りゃボリショイサーカスの熊だぜ。スーツのほうが様になっていそうだ。まぁ、気だけは若いのが救いか。エレクトリックギターも腹の上で弾くようだ。

 そろそろ定年の年頃で、大会社や銀行に勤めた奴は、オレ今年でお終いと嘆く。パルシステム流にいえば、セカンドステージを真剣に考えねばならない年代なのだ。私は皆にやたらと羨ましがられる。なにか勘違いしているんじゃないか、農業は農業でけっこう大変なんだぜ、と返す。

 しかし、時折考えてしまうことがある。既に、青年期にセカンドステージの生活に早々と入ってしまった私にとって、これからどんな人生があるのだろうか、と。

 1年くらい旅に出たい。ザックひとつを担いで、ガジュマルの大樹の下で寝むりたい。波照間島の西へ行ってみたい。ラサから東チベットをバスで行きたい。ダライ・ラマの法話を聴きたい。心静かな仏教者になりたい。屋久島の「聖老人」と名付けられた縄文杉に拝謁したい。やりたいことはまだ積み残しがありすぎる。

 山尾三省を再び読み始めた。『島の日々』。若い頃には解らなかったことが、しみ込んでくる。ただ、畑を耕すこと、ただ家畜に草をやること、水を汲むこと、淡々と土の上で生きること、それが希望なのだと、彼はいう。

                           

                           土を崇めよう                  Img_0013_2

 土に合掌しよう                

 土の上に生きよう

 土を価値とする新しい時代を準備しよう

 土に大事にされよう           

 土の上で静かに生きる術を学ぼう

                         「太陽と土と」 山尾三省

 写真・上は去年漬けた梅干しが食べられるようになりました。なかなかです。 下は石榴(ざくろ)の花。そろそろ実が膨らみ始めました。

  

 

 

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秋茗荷が出てきました

Img_0017  秋茗荷が出てきました。私の秘密の場所です。連れ合いと私と、ワンコロしか知りません。

 初秋の頃には一面の茗荷の原になります。茗荷は日陰を好みます。ですから、こんな雑木林のちょっと開けた場所に、片寄せ合って生きているわけです。

 現在市販されている茗荷は当たり前ですが、栽培ものです。夏の冷や奴や鰹の叩きには欠かせませんが、薄ぼけた味です。自生している茗荷は鮮烈に「あたしはミョーガ!」と叫んでいます。この近くには蕗(ふき)もあって、文字どおり路の端に列をなしています。福寿草やタラの芽など、食べられる小径なのです。

 今は、農家は忙しくてこんな恵は誰も目を向けなくなってきています。柿さえもカラスがついばむだけ。ましてや渋柿にいたっておや。ですから、採らせて下さいと卵のお礼など持っていくと、喜んで採らしてもらえるのです。渋柿はヘタを縛って軒に吊るしておくだけで、素晴らしいお八つになります。これも中国産の干し柿とは似ているのは外形だけ。あのムニュとした食感と、ほどの良い甘さはたまりません。和菓子の甘さの原点は、この干し柿にあるという話しもあるくらいです。うちには2本柿の木がありますが、渋柿が一本欲しいねなどと言っております。

 Img_0013 下の写真がなにかわかったらえらい。答えはアシタバです。しかも自生しているアシタバです。葉の先を摘んでおひたしやチャンプルーにします。この季節はドクダミの花が満開です。これも茎から摘んで、陰干しすると動脈硬化予防や利尿に効く薬草茶になります。

 私は畑でチマチマと作るより、こういう里山の頂き物のほうが好きだなぁ。どうもまっとうな農家にはなれそうにないですね。採取農家なのかしら私らは。

 このうっとおしい梅雨の季節、里山を下ばかり見て歩き回る私たちです。あ、そうそう、秋になれば上も見ますよ。アケビがたわわに実る場所を知っているんですから。

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