私は鳥飼という言葉が好きです。養鶏家や畜産家という言葉はなぜか私には似合わない。今日はそのあたりをお話します。
よく同業者に言われるんですが、じゃあ、あんたそんなキレイゴト言ったって商売でしょう。そんな家畜にセンチメンタルな態度で接しられるわけがない、と。
あるいは、都会の意識が高い消費者から言われるのは、養鶏なんてしょせん輸入穀物の加工業にすぎないんじゃないですか、と。この言葉は傷つきますね。オレたちは加工業ですか?ならば、私は鶏をモノ扱いにしているのか、と。
このふたつの疑問に対して、私は同時にこう答えるようにしています。私が目指している鳥飼は、人と生きものの関係をより豊かにしていく中でしか生まれません。私は鶏を加工するただのモノとはまったく考えていません。互いに生きものとしての目線を失わずに生きていきたいのです。ですから加工業という批判はものごとの一部を指したもので、全体を見ていません。
また、それをセンチメンタルだというならば、あえてそうだと言いましょう。センチメンタルというのが、彼らとの気持と優しさの交流の言い換えならばです。つまり、それは単なる技術論の枠をはずれ、鳥飼としての矜持、あるいは哲学の上に立った私の農業者としての生き方の問題だからです。
ニンゲン族が作った畜産の技術とは、動機は実にシンプルで、どれだけ多くの肉をつけさすのか、乳を絞れるのか、卵を採れるのかという技術にほかなりません。その中にはいままで家畜と呼ばれる生きものの幸福度などは一切考えられてもいませんでした。幸福だろうが、不幸だろうが、お金の価値に換算できればいいという前世紀の近代畜産の考え方です。
結果こうなりました。単位面積にできるだけ多くの家畜を詰め込む。そのほうが施設の回転率が高くなりより儲かるからです。
そして家畜は運動をさせないために縛って動けないようにする。これで飼料を運動エネルギーにするロスを省き、また管理をしやすくするためです。
そして、その先はこうなりました。畜舎は最悪の状態に置かれることがあたりまえになりました。まずは匂い。家畜農家が周辺から文句を言われっぱなしなくらいに匂う。糞尿から出るガスと家畜のストレスからくる独特の汚臭が畜産につきものになりました。そしておびただしいハエ。
病気になりやすい弱い家畜。薬剤、抗生物質、消毒剤の常用。そして毎回効かなくなって濃度を高くするしかない薬剤と抗生物質。その資材コストが足を引っ張ってしまっての経営成績の頭打ち。・・・これが家畜を生きものとして遇さなかったための自然からのしっぺ返しです。
総論ばかりお話していてもしかたがない。わが農場の舎内を見ていただきましょう。
舎内に入ったら、ここは彼女たちの自治区ですから、遠慮気味にゆっくりと動きましょう。静かに、静かに。そして口元には笑みを。え、鶏にそんなことが分かるのかって?バッカだなぁ、分かるに決まっているでしょうが。彼女たちは自分たちに対して敵対的なのか平和的なのかを瞬時で察知します。
餌をくれに来たのでもないニンゲン族がなにをしに来たのか興味津々で彼女たちは見ているのです。当然、ニンゲン族の個体識別もしています。見学者だと餌をくれるわけでもないのに、なにをしに来たのかという警戒の眼で見られるでしょう。
では、いきなりですがものは試しで、腕立て伏せの要領で。鶏の鼻孔の位置に自分の鼻を置いてみましょう。左下の写真は、ほぼ鶏の鼻の位置で撮影しています。
この位置で臭くなければ合格です。逆に、ここで匂ったら、どこかに問題がでている証拠です。たとえば収容羽数が限界を超えているか、病気、特に呼吸器病が出ているかです。ついでに床も観察してみましょう。特に糞の状態がポイントです。糞が流れていれば、それは下痢で、消火器官障害の黄色シグナルが出ているからです。
床が糞尿でベチャベチャだったりした場合、100%の確率でアンモニアガスや、メタンガス、硫化硫黄が大量に発生します。これはいわば魚の水槽に大量の汚染物質を投入したことと一緒です。魚にとっての水、鳥にとっての空気、これを汚染した場合、鳥類である鶏は呼吸器病に簡単に罹ります。
そして呼吸器病は鳥類にとって万病のもと。ここから多くの感染症に拡大をしていくのです。
だから、薬剤が常にいるのです。金をかけて薬剤投与をし、安全性に疑問符がつく食材を作り、だからと言って自分も儲かってもいない。ニンゲン族にとっても不幸な状況です。今まで余計なことに金を掛けていたのです。薬、抗生物質、消毒液。金をかけずに鶏が幸福に生きていくというのは相互にとって最大限幸福なのではありませんか。第一そのようなまっとうな生きものが生んでくれたものは、不味かろうはずもないではないですか。
私は根がケチですから、つまらないことに金をかけたくありません。また住んでいるところが、鶏舎のほんの数メートル先ですから汚臭やハエなどとんでもありません。なんのために田舎に来たのかわからなくなりますもんね。
ですから、鶏にとってのいい環境が、ストレートに私たちの住環境の良さとつながっていました。
あ、そうだ、肝心なことを言い忘れていました。写真で見える床がなにかお分かりでしょうか?砂?土?違います。糞です。げ、と思われるでしょうが、これが平飼養鶏の真髄です。
床は私たちが与える草やモミガラ、ワラなどの敷料と鶏糞がかき混ぜられた糞が堆積したものです。しかも底まで完全に乾燥して、無臭です。これはわが農場を見学に訪れた人が口を揃えて驚嘆することです。「匂わない!ハエがいない!静かだ!」。
そしてもうひとつ「鶏が幸福そうだ」。そうです、これが私たちの鳥飼の勲章なのです。
彼女たちと私たちの幸福は相矛盾することではありません。いやむしろ完全に一致しているといってもいい。ただ、そのハーモニー(調和)に到り着くまでに多少の努力と多少の哲学がいるということだけです。
彼女たちとのつきあいは確かに短いのです。だから、ニンゲン族の最大限幸福と、鶏の最大限幸福のバランスの中でやっていこうと思っています。
この短い中で彼女たちが生命力を開花できれば、産卵も上がり、私というニンゲン族も非常にうれしいと思います。貪らず、生きものとしてのつきあいができること、それが私たちにとっても共通の利益なのですから。
写真は、上からわが農場のオンタン(♂)。こうして改めてみると眼がコワイですね。次は鶏舎の作業通路と餌をやる車。この通路が実は雨が振り込まない秘密なのです。人は楽に、鶏さんも楽にというわけです。次は鶏舎内。できるだけ視線を下げて鶏の目線に立っています。でもやや高いか。最下段は産卵箱で生んでいる彼女たちをパッチリと一枚。
仕事柄、マヨネーズの原料の卵、その卵を生産する契約農家の鶏舎と割卵の加工場は見学したことがありました。例の交互のケージに入れられたまま一生を座るか立つかしかできない鶏の姿にちと後ずさりしました。現実のことに無言を通さざるをえませんでした。見学を受け入れてくださった皆様には申し訳なかったのですが、マヨネーズの営業をする気力が萎えました。生産を担うみなさんにとっては死活のことですので何も言えません。その後トリインフルや京都の賞味期限ごまかしの事件などが起きました。生産の危機が迫ったときに京都の得意先のある人が卵の生産の実態、地を這う多くの生産者の擁護の論陣を張りホッとしたことがありました。
平飼い卵を利用してはいましたが、なるほどそういう風にされていらっしゃったのですか。なんというのだろう、もし、さらっと見学しても「そんな世界だ」みたいなことで真髄はわからなかったかもしれません。いつか住所からしてお仲間の「平飼たまご」が届いたことがありましたが、想像していた以上にその「こころ」がわかりました。
このブログのド迫力に後ずさりしながら、ときどき朝みたものと夜みるものが違っていたりするのに目を白黒しながら、その生き方や農業というものや生産の仕組み、産物のことについて妻殿との対話の素材をいただいています。
本社の仕事で1週間里帰りしていた三男が全ての荷物を整理し、最後に「平飼たまご」ごはんを食べて本日「自分の部屋」に帰りました。ひよこではなくなりました。
投稿: 余情 半 | 2008年7月13日 (日) 17時32分
このことから、豊かさは<あたえる>ことだと、実感します。今地球から奪うばかりで、それを豊かさというなら間違いなくその豊かさはくひとときの夢>で終わるでしょう。
農業の現場でも、例外ではありません。この<間違い>に気づくべきなのですが、まずはこんな豊かな楽しい現場を作っていくことが大切かもしれません。
投稿: 豊かな大地アスカ | 2008年7月13日 (日) 19時17分