峠を超えた巨人
米沢郷牧場の伊藤幸吉さんが先日お亡くなりになった。長い、長過ぎる闘病の末だ。伊藤さんは私の目標だった。
伊藤さんの地域循環モデルに触発されなければ、私はGというグループを作らなかっただろうと思う。また、農を中心として、全国の産地と消費者を結びつけて、寄り合わせる運動にはダイナミズムを感じた。まさに峠を超えていく巨人だった。
氏は敵も多かったはずだ。しかし、その批判者もまた、氏を別格に見ていたことは間違いない。現実には、私は伊藤氏と意識的に距離を開けていた。伊東氏のグループにも何度かお声を頂いたが、行かなかった。生意気な奴だと思われただろう。
氏が生前、「畜産業は耕種農家から差別されているんだ。地位は低い。ドイツでは城門の鍵は肉屋が握っていたのに」という話を友から教えてもらった。なぜかそれを聞いた時に、胸が締めつけられるような気がした。村での私の位置と同じ目線に立っていたのだ、彼は!
畜産業は村の中での二級市民だ。いや、村民か。耕種農家は、彼らの数の数十分の1しかいない、気質も違う畜産農家に違和感をもっている。働き方も違う。価値観も必ずしも、土に依拠するのではなく、家畜という生きものに依拠している。
そしてなにより、畜産業は血を見ざるを得ない。耕種農家は、ほうれんそうを出荷する時に、胸の痛みは感じないだろうが、畜産農家はその都度、胸の中で血を流している。多少の差はあっても、どんなに馴れても、その痛みは刺のように突き刺さったままだ。
だから、血とケガレという日本人の神道的タブーをおかして、血に手を浸している畜産農家は稲作民族が支配する瑞穂の国で永遠に「差別」され続ける。この悔しさと哀しさに伊藤氏は反発したのだと思う。そして氏は、独学し、自分の脳で分析し、独自の世界観を持つに至った。また、権力を持つことで、自分が思う世界を創ろうとした。よくは知らないが、喧嘩には強いタイプではないだろうか。
畜産農家は縄文人の末裔だ。縄文人とその後裔は狩りをし、犬を飼い、鉄を使い、時に家畜を飼育し、屠った。伊藤氏の血の中には縄文人の血が流れている。そして、鹿児島の隼人族の血を受け継ぐ私の中にも、同じく縄文人の血が流れている。
常世とやらがあるならば、生前一度として頂戴できなかった杯を交わしたい。合掌。
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畜産は他の農業以上に難しい立場にあるでしょうね。
飼料の大半(ほぼ全て)が輸入である以上、極論すれば、既に「日本の畜産とは、輸入した穀物を肉に変えるだけの産業」です。
食料面での安全保障や、環境といった、他の農業がその非効率の代償にする言い訳も、なかなか通用しません。
これらは、より単純に現在の経済で、歴史や民族観とはあまり関係無い事です。
‥さて、どうなっていくんでしょうね?
投稿: | 2008年7月 4日 (金) 21時02分