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2008年7月23日 (水)

サガミハラの記憶 第2回 最後の薄い人の壁

Img_0068

この話しをし出すと長くなります。色々な情景や、人の顔が浮かんできます。僕にとっての原点みたいな闘争でした。こういうと不謹慎かもしれないが、ほんとうに楽しい闘争でした。今でも晴れやかな気分で胸を張ってこう言うことができます。
あの時、1カ月、たった1カ月ではあったが、アメリカの戦争機械は混乱し、作戦は滞った。僕たち日本人はそれを誇りに思う、と。
闘争の最後の夜のことだけをお話して終わりにします。
国の介入により神奈川県が屈し、戦車の搬入の夜が来ました。幾多の党派がにぎやかにデモをして、石のひとつも投げて帰っていった、その深夜。
戦車のコンボイが基地に向けて静かに進み始めたのです。その時、基地ゲート前の現場に残っていたのはわずかに百人にも満たない丸腰の市民と若者だけでした。僕たちができることは、互いに腕をしっかりと摑み合い、頭を膝の間に入れるようにしてただ路上に座り込むことだけでした。もちろん石ひとつ持っていませんでした。
Img_0059 僕たちはベトナムに戦争機械を送ることを阻む最後の薄い壁のようなものでした。僕たちが突破されれば、そのまま戦車はノースピア(米軍用桟橋)からベトナムに送り出されるでしょう。僕たちがここで突破されれば、ベトナムへとなんなく運ばれてしまう。
この時に、たった数十人の日本人しか現場にいませんでした。深夜のために住民はいませんでした。もちろん数百人の機動隊に対して勝てるはずもない。しかし、勝つとか負ける以上のなにかのために居た少数の人の戦いが始まります。私たちはこの薄い頼り無い壁が崩されれば、この1カ月間が無になることを理解していました。だから、帰宅をせずに、この場に残ったのです。誰の命令でもなく、指令でもなく、自分の内なる深いところからわきおこる声に従って。
このようにしてわが身を戦争機械の前に投げ出す戦いが始まりました。流血の深夜が始まったのです。
写真は、ウユニ塩湖の朝。塩湖を小高いサボテンの丘から見る。

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コメント

相模原といえば、わが地元・町田と背中合わせの町。
他人事ではありません。
実際、TVの音が聞こえなくなるほどの
飛行機の爆音が日常的でした。
物心つく頃にはいくらか軽減されていましたが、
きっと政治的に何やら動きがあったのでしょうね。
住民としてはあきらめに近い受け入れのムードでしたが。。。

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