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2008年8月

2008年8月31日 (日)

秘蔵写真を大公開!農場、ただ今建設中!その1 懐かしのトリサマ亭

Photo_17 昔の写真が出てきました!デジタル化してお見せできるようになりました。

上の写真はこれぞ「トリサマ亭」ですぞ。

赤松の林に囲まれて、ゼッタイにガス中毒を起こすことのない換気のいい家屋(ってなもんかい)構造。ここに実に足掛け3年間暮らしておりました。

こうしてみると峠のわが家みたいで風情がありますなぁ。

遊びに来たうちの母親が、終戦直後だってもっとましだったといって涙した私たち夫婦の新婚当初の家です。風呂は当初から露天ふろ、トイレなし(おいおい)。お隣は鶏様というなかなかの暮らしぶり。

ここから、今の農場の広っぱまで通って倉庫を建て、出来上がるとモゾモゾとそこの屋根裏に住みつき、そこから鳥小屋を作り、畑や田んぼを作り、そして母屋を建てたという尺取り虫的な生育をしておりました。そのあたりは、7月11日~18日のブログ記事をご覧下さい。

2008年8月30日 (土)

皆んな百姓になれ!実践的就農マニュアル 最終回 あなたの行く空が晴れていたらいいね

Img_0024 凄まじい豪雨でしたね。被害はなかったですか?ラジオが「川に近寄らないに」という放送を聞いて、ひさしぶりに川ということを意識しました。近々川について考えてみたいと思っています。

さて、そろそろ稲刈りなのですが、たぶん9月の14、15日の連休がピークだと言われていますが、どないなもんでしょうか。もっと遅れると思います。というのは、このところの曇りと温度低下で、私たち鳥飼にとってはありがたいのですが、米作り農家にとってはなんとも憂鬱な天気です。

肝心なラストストレッチで勝負という時に、低温、日照不足というのは、コメの収量でハンタラ(半俵・30㌔)/1反は違うし、なんといってもコメの味が乗らないのです。いいデンプンになってくれない。皆、空を見上げて、もう雨はいらんから、頼むから晴れてくれよと祈っています。

Img_0036 このシリーズも長くなって、そろそろこれでお仕舞いにするかと思っています。「現代農業」誌などで、定年就農などが喧伝されるのを読むと、おいおいもう少しリアルに伝えろよ、入る人はそれこそ清水の舞台から人生を賭けて飛ぶような気持なんだぜという気分にさせられてきました。甘いことや、成功談ばかり書き連ねた自慢話のような就農紹介記事を、安易に信用してはなりません。

ですから、あえて厳しく書いてきました。甘く書いたのを読んで失敗するより、厳しく考えて準備するほうがいいからです。現実には、すべて万全の準備でなされるようなことはありえません。それでいいのです。それが普通です。

いくつか書き漏らしたことを書いておきたいと思います。まず、資金ですが、これは条件によって大きく差がありますから一概には言えません。土地価格は80~100万円/1反をボトムにして、その数倍まで分布していると思われます。前に書きましたように、めどはそこでやろうと思っている農業収益の5年分までが上限です。それ以上ですと、土地返済の圧力が大きくなりすぎます。

また、資金は農林公庫には新規就農者支援資金のような低利の資金枠が存在します。また返済期間の据え置き2年間なども用意されています。ぜひ問い合わせて下さい。●農林漁業金融公庫関東支店☎ 048-645-5496。

農業技術を学ぶための就農研修学校として、この2校を推奨できます。有機農業も研修出来ます。●日本農業実践学園 加藤校長先生 029-259-2002 ●鯉淵学園 涌井先生029-259-2881

Img_0035_2 また初年度から順調に収益が上がるという楽観はもたないように。私の場合、初め1年間はほとんど収入がないに等しく、翌年から細々と収益が入ってきました。

ですから、初年度1年間分の生活費ていどは準備して農業に入って下さい。いきなり生活に行き詰まっての日銭稼ぎのバイトでは、意気が萎えてしまいますもんね。

特に資金の据え置き期間2年を使った場合、2年目から毎月泣いても笑っても返済がかぶってくることを忘れずに。初め2年は楽でも、その間に軌道に乗せないと大変ですから。また、出荷から振込までスパンが1~2カ月間(取引先により締めが違います。JA系は15日間)あることも忘れずに。いったん順調に経営が進めば気にすることはないのですが、初めの出荷から入金されるまでの間はとかくやきもきするものです。それだけに初回の入金はことのほか嬉しいものですが。

機械はそれなりに必要です。特にトラクターと四輪駆動の軽トラック、刈り払い機ていどは必須です。中古でもいいですから買わないわけにはいかないでしょう。昔はスコップとマンノウからやった私たちですが、人生修養ではないのですから、無駄に疲れる必要はありません。

Img_0065 トラクターは農機具屋さんと仲よくなって状態のいいものを買って下さい。直し直し使ううちに機械にも強くなるはずです。馬力の大きさは、その土地の形状にもよるので一概には言えません。ただあまり小さなものは銭失いかと。トラクターの前にシャボ(排土板)が着いたもののほうが、堆肥の切り返しに便利です。

ただ、ぜったいに重装備はしないこと。何から何までいきなり揃える必要もないし、追々必要に応じて買っていって下さい。重装備をして返済圧力でコケたなんて笑えませんから。

軽トラは絶対に四駆を。畑の中にまで乗り入れられますから。車というより、農機具の感覚ですね。初めは乗用車などいらないくらいで、軽トラ一台でなんとかなります。家族が増えたら貨物車バンを買えばいいのです。あれなら出荷もできるし。フツーのセダンなど10年早いと思って下さい。持っていたら売ってしまいましょう。

共同についてもうひとこと。よく新規就農者同士の共同耕作をする例がありますが、まず失敗します。そのうち別稿で書きますが、農業とは個人の考えや、労働のリズムの差がかなり赤裸々にでてしまうものなのです。一緒にやってみれば、どうして共同農場が長続きしないのかよくわかるでしょう。止めておいたほうが無難です。

農業は自分と自分の家族、自分の農場の圃場にのみ根拠を置きます。そこがしっかり出来てきて、ようやく他者と結びあえるのです。自分がうまくいかないから、他者をあてにするような弱い心だと、自分の農場すらおぼつかないと思います。自分の生きる根をしっかりと持ちつづける人のみが、他者におもいやりをもて、そして宇宙を共有できるからです。

Img_0064 農業は、あなたの人生や人生観を大きく変えていくことでしょう。それまでの都市の生活が、自分のうちの一部分しか使っていなかったことが分かるでしょう。夫婦のあり方や、家族の関係の持ち方も大きく変えていきます。その意味で、宇宙を変えると言っても過言ではありません。

しかも本からではなく、土を握る手と、その地温を知る足の裏、植物や生きもののわずかな調子の差異を見逃すまいと見張る眼、明日の天気を知ろうとして風の音を聴こうとする耳、作物の芳香を嗅ごうとする鼻、そして味わい尽くそうとする貪欲で鋭敏な舌。それら、都市で死にかかっていた初源の感覚を甦らせて。

農は、他者に対する愛やおもいやり、協力、いたわりといった人間になくてはならないもっとも基本的なものを育んでいくことでしょう。

「ほんとうの幸福は、自分自身や親しい人々という限られた対象の幸せを気づかうことからもたらされるのではなく、すべての生きとし生けるものに対する、愛と慈悲の心を育むことから生まれてくるのです」     ダライラマ14世

最後に、あなたの行く空が晴れていたらいいね。

もしこれを読む新規就農希望者がいたのなら、遠慮なく質問を下さい。

写真は、稲刈り間近の稲。里の墓地。田んぼの風景。杉林。よく手入れされています。

2008年8月29日 (金)

皆んな百姓になれ!実践的就農マニュアル 第8回 どのように村とつきあうか

Img_0013 昨夜、なめかたフロンティア農園構想の委員会が開かれて、私も出席しました。

このところ、私は「表現は丁寧に、しかし、言いたいことは言う」というふうにしています。私は歳より若く見えるようなので(これは農村では不利ですぞ)、こしゃくなと思われたかもしれません。

この「こしゃくな」感は常に私に対してもたれていたと思います。なんのツテもなく、親戚のひとりもいないくせに村に入り込んで、農家でもないのにえらそうなという視線を25年間強弱はありますが受けつづけてきました。いわゆる「よそ者」ですね。

私の場合、ひどい時には、ある土地トラブルを発端にして、ある人が煽って、立ち退き陳情までくらったことがあります。看板を立てられるわ、立ち退き署名を集められるわ、いやまったく。

ただ、当時はもう入植して20年めあたりでしたので、こちらもそうそうナイーブではありません。50歳を超えてガメラよろしくがっちり甲羅を被っている部分もあります。それに私と相棒が作った出荷組織は村の中でも屈指の大きさの農業団体ですので(自慢じゃないよ、ほんとだかんね)、くれば来い、やるならやってみろという感じでした。

Img_0009

さすがに村の行政が中に入って、村八分一歩手前で穏便に解決されましたが。前回でも書きましたが、このような時に自分の農場に「逃げ込める」というのはほんとうに助かりました。農場が借り物なら、下手をすれば、村から叩き出されかねないケースです。おーこわ。

これが経営基盤が脆弱な入植初期なら話はまったく違います。私のところから百姓になっていった研修生夫婦も、同じような目に合いました。平飼養鶏を周りから反対されて、公害養鶏出ていけ!というようなバッシングを受けました。平飼のどこが「公害」なのか知りませんが、研修生の対応が生硬だったこともあって、ともかく気に入らないというわけです。理屈ではないから困ります。この時は、私と当時区長の住職さんが間に入ってなんとか折りあうことができました。私たちがいなかったら、彼らも叩き出されていたことでしょう。

村を甘く見てはいけません。警戒する必要はまったくありませんが、あなたが村の「外」に住んでいて、たまさか訪れる旅人ならば、村は最大の笑顔をみせて歓待するでしょう。村のホスピタリティほど心に染みるものはありません。

しかし、いったん村内に新住民として入ると、立場は微妙に変化します。村はあなたを共同体の中で位置づけようと試みるからからです。村という共同体のどこに位置づけるかを、あーでないこーでもないとなっとくするまで詮索するかもしれません。平たく言えば、序列を決めたいのです。

Img_0011 村は共同体です。字ごとの班、田んぼの改良区ごとの地域組織、講という互助組織、消防団、青年団、出荷組織、JAの部会、PTA、ママさんバレー、果ては代議士の後援会・・・・・無数の縦横の糸で緊密に繋がっています。

新規就農者が飛び込まねばならないのは、こんな緊密な関係の中なのです。

特に農をめざす人は、えてして職場でのしがらみを嫌悪して田舎に来るというケースが多いようですので、都市のしがらみを飛び出して、もうひとつの、ある意味都市などとは比較にならない強烈なしがらみ社会に入ってしまうわけです。

では、どのようにこの村とつきあうのかですが、結論から言えば、「遠からず、近からず」です。距離を一定開けて、しかし、礼節をもってつきあうというごくシンプルなことが私のお勧めです。

私の地域ではないのですが、ある入植者は勧誘されるがままに地区の班に入り、そこまではいいのですが、あらゆる付き合いに出るようになりました。彼は熟年就農でしたので、そのような地域での付き合いが大事だと思ったようです。

Img_0016 半分は正しく、半分はやりすぎです。そこまで村と間合いを詰めてしまうと、もう逃げられません。彼は酒が飲めないのに、毎日引っ張り出されるは、家には野菜や漬け物の手土産をもってご近所が、これまた毎日毎日「見学」にくるわけです。まぁ、要するに暇で、好奇心ムンムンなのですよ。悪気はゼロです。

ちなみに季節の野菜、漬け物と揚げ餅はわが村の地域貨幣のようなもので、さんざん行き来します。うちの冷凍庫には向こう1年間分のかき餅の材料が眠っています。

あ、そうそう蛇足ですが、村に入って、他人の家に行く時は必ず手土産を持参のこと。出来た作物や卵ていどでいいのです。頼みごとがある場合は、酒一本が村の常識。都会の感覚で空手で行くと、陰で「なんだべぇ、礼儀さ知らないっぺ」とやられますからね。

話をもどしましょう。毎日やられたほうの奥さんは、いたって普通の都会のサラリーマンの妻ですから、半年持たなかったですね。旦那も、これまたいたって普通の都市のジェントルマンでしたから、同じくぐったりとへばった。今はぐっと距離を開けて静かに暮らしているようです。

ただ、これもまだ純農村だからいいので、山間部に入ったら逃げることはまず不可能。私の友人ですが、ラジカルな就学拒否主義者だったのですから、さぁ大変。小学校が子供不足で廃校になろうという時に、入ってきた彼が子供を学校に通わせないのですから、大騒動でした。非常にタフな個人主義者ですから耐えましたが。

というわけで、村とは親しくすることは大いに結構ですが、一線を引くこと。同じ日本語をしゃべる外国の人ていどに思って付き合い始め、やがて肝胆合い照らす友人も多く生まれていくことでしょう。

Img_0024 入った当座はなにせ、あちら村の衆は私ひとりを認識すればいいのですが、こちらは覚えきれないわけです。だから知らないので軽トラで行き過ぎようものならあーた、「挨拶もできない馬の骨」とやられます。ですから、私は道場橋という私の字に入る橋を渡ったら最後、全員に軽く会釈する習慣をつけました。橋を渡ると、誰かは知らなくとも、「おはようございます!」と会釈する。なかなか大変。

あ、書き忘れた。ママさんバレーとか、ダンスサークルとかは非常に貴重な村との絆ですので、機会があれば入ったほうがよろしいかと。

まぁ、無理をしないことですね。どうせ骨まで村の人になりきるのは無理ですから、一線を画して礼節をもって、村という新天地に根を張っていって下さい。

写真は、村の祭礼風景。

2008年8月28日 (木)

皆んな百姓になれ!実践的就農マニュアル 第7回 われら村に舞降りた孤独な落下傘兵

Img_0002 今朝哀しい訃報が入ってきました。アフダニスタンで拉致されていた伊藤和也さんが殺害されて発見されました。自動小銃で無残に撃ち殺されていたようです。

実に4年も現地に入り、50度の荒野の中で、現地語を覚え、ひたむきに農業を支援してきたこの青年の死にいいようのない憤りを覚えます。彼のような宝物のような青年が殺されねばならない理由がわかりません。

ペシャワール会は高名な中村哲医師が率いているグループです。井戸を堀り、灌漑設備をローテクで現地の人と一緒に作り、乾燥に強い農作物の指導など、非常に優れた業績を残してきいました。また、現地で今回の拉致事件でも村の人が大勢捜索に加わるなど、現地の人と一体となった農業支援をしてきました。2008082700000043yomintthum000_3 この殺人者たちが殺したのは日本の良心なのです。

中村氏の親タリバンの姿勢が、今回の事件とどのように繋がるのかはまったく不明です。私自身、パキスタンとアフガン国境の近くまで行ったことがありましたが、治安がいい悪いというより、「ない」地域です。すべての男が自動小銃を持ち、すぐに発砲をする。警察も軍も寄りつかない無秩序な地域でした。いや、警察が山賊をしているような場所です。

そのような中で4年間も農業指導をして非業の死を遂げた伊藤和也さんの死を心から悼みます。農業と子供を愛した優しい青年だったといいます。魂よ、安らかに。あなたの志は決して忘れられることはないと思います。合掌。

さて、今日も気持も新たに新規就農マニュアルを続けます。少し具体的なことに突っ込んでみましょう。

よく農地を買う場合、どのくらいの規模を考えたらいいのでしょうか?という質問をよく受けます。私は最低で5反は確保することを勧めています。というのは、借地が出来たとしても、自分の根城は最低限確保する必要があるからです。

Img_0042 全部借地という落ち着きの悪さは、やってみればわかります。手を入れて、手を入れて、ようやくいい土にした頃に地権者さんがコロっと逝き、相続した息子が売って宅地にしたいので返せと言われたなどという就農仲間もいます。法的には占有権が発生していますが、実際は村中の力関係で決してしまいます。当然私たちは話にならないくらい弱い。村内に突っ張って「占有権」の法的講釈を垂れれば垂れるほど、あなたは嫌われます。それが村という摩訶不思議な存在です。

私の友人で、金がスッテンテンだったために勇敢にも借家と借地というダブルで借りることをした奴がいますが、借家は村内だったためにえらいメに合い、借地もお前のように草だらけにする奴には貸さないと言われ、3年がかりでじんわりと叩き出されました。

ですから、自分の農地を最低限確保しておくことをしておけば、精神的にも楽になります。それはあなたの農の拠り所になるからです。この土地だけはなにがあっても、村人がなにを言おうと、ここはオレのものだという心強さは、なによりもの安らぎになるはずです。かく言う私も、村内と悶着をおこしては、自分の農場に泣きながら逃げ込んでなんとか生きています(笑うな)。

新規就農者は、いわば「農民」という異人種の中に落下傘降下した孤独な兵士、在来菌の中にただの一滴落された外来株の菌です。負けないように、簡単にくたばらないように。くたばりそうになっても、セーフティネットを張っておくように。

で、最低のセーフテヌネットは5反です。1反をハウジングエリアとして住居+庭を建てたとしても、残り4反あれば生きられるからです。その他に可能ならば水田は1反があれば、なんとかしのげます。

自分の農場とは、この内でただ生きていける漫然とした経済的な空間ではありません。もちろん経済基盤に違いはありませんが、それとともに異質な農村社会の中での自分たちの具象的な精神的、物的な根拠地です。そしてそれはあなたと家族の生きる根拠地でもあるのです。

Img_0001自給的農業を目指す人は 、3反+水田1反もあればいいでしょうが、現金収入がまったくないという生活は、子供が学校に行くようになるとかなり厳しいものがあります。

やはり1ヘクタールの耕作地は欲しいところです。それに3反~5反程度の畜産をくっつけると、かなりバランスのいい有畜複合経営が可能です。

作つけはその人の希望する農業の形次第です。大きく幹となり、手がかからない換金作物であるジャガイモ、ゴボウ、サツマイモ、大根などを大面積植えて、後は細々とした四季折々の作物で囲むというやり方もあります。これはかなり合理的なやり方で推奨できます。

この場合、大面積の作物だけをJAS有機認証を取得し、他はあえてしないという方法もあるでしょう。JAS有機についてもよく聞かれますが、はっきり申し上げて農民の敵の悪法です。あのような馬鹿げた書類の山を作る時間があるのなら、畑に出て土をいじって下さい。そのほうがよほどいい。出荷先が生協などで向こうが商取引の条件にする場合ならば取るていどで考えて下さい。

Img_0003_1 作物についてひとこと。わかっていらっしゃると思いますが、ほうれんそう、小松菜などの葉物は作るのは簡単で、回転も速いのですが、選別に時間がかかります。

おなじようにキヌサヤ、インゲンなどの豆類も収穫との競争になります。そのわりにはたいした収益にはなりません。

新規就農者は夫婦ふたりというケースが多いので選別に時間がかかりすぎると負担が大きくなります。もしおばあちゃんがいれば助かります。農業で老人の位置は巨大ですよ。

その点、大根やごぼうなどの土ものは作るのも比較的簡単ですが、土壌が出来ていないと、せん虫でボロボロにされます。冬にトンネルで作るのが間違いありません。

トマトなどの果菜類は種類によって一概に言えませんが、なす、ピーマンは比較的簡単でしょう。きゅうりは私がやった感じではちょっと難しかったかな。トマトは有機の技術は有機の先人たちの血の滲むような努力で、ほぼ完成されていますが、大規模な施設が必要です。

初心者は、平飼養鶏やバークシャーのミニ養豚のような小規模畜産を現金収入の基礎として3反、それに1ヘクタールを3~5分割して輪作体系を作り、大規模な換金作物を3~5品種、そして細々とした野菜畑を3反ていど、そして水田1反というのがバランス的にいいかなと私は思いますが、いかがでしょう。

今、私がお話ししたモデルですと、ハッキリ言って労働的にはシビアですので、夫婦で良く話て作物や面積は決めて下さい。絶対に無理をしないこと。特に、初めの年は無我夢中でがんばりすぎて身体を壊したり、夫婦仲が悪くなったりする場合もありますので。

就農離婚じゃシャレになんないよ。就農というのは、どちらかが強引に引っ張って田舎に連れてくるというケースも往々にして見られますので、連れ合いといえど丁寧に(←あたしを大切にしろと後ろでカミさんがつついています)。まぁ、夫婦仲ということを、これほどまでに感じる職業はないでしょう。農業という世界の中では、夫婦という関係は子供や家庭以外にも絆があり、それは恐ろしいまでに強いことを知ると思います。

それと、草ボーボーを恐れない!有機農法でやれば、必ず草ボーボーになります。これは一種の宿命です。仮に種を落としても、あきらImg_0012 めること。野草と共存するのが、わが日本という湿潤なモンスーン気候の地域でやる有機農法のリアルな姿なのです。

輪作体系は考えて下さい。これは長くなりますので、別に一稿もうけます。また適地適期適作といって、夏にキャベツやホウレンソウを作るなどという天を馬鹿にしたことはなさらないように。10割で失敗しますから。

写真は、カブトムシ、伊東さんの遺影。村の道。中段はまいまい、下はアマガエル。最下段は赤く実った山椒の実。

2008年8月27日 (水)

皆んな百姓になれ!実践的就農マニュアル 第6回 安易な共同をしてはならない  

Img_0022最初のボタンを掛け間違えると、最後のボタンが締まらない。この典型的なケースが私の農地取得の経験でした。

初めに土地の法的な権利を安易に譲渡するという不平等条約にサインしてしまったツケは長期に渡って私たちを苦しめました。

それでも最初の3年間ほどは穏やかな日々が続きました。私も、Kさんの共同農場に別れを告げ、沖縄から通算して3年間にわたる研修生生活から、独立農家への道をふみだしたのです。その感激は大きかったし、面倒をおかけしたKさんに対する感謝の念は深いものがありました。

そして3年間、倉庫を建て、そこの狭い屋根裏に住み、そこから鶏小屋を建てたり、畑の開墾を開始し始めました。当時の写真を見ると、当時の私たち夫婦は、無邪気なはじけるような笑顔をしています。まったく何もない広野に、スコップひとつで穴を堀り、杭を打ち、柱を建てという作業が楽しくてしかたがないという表情をしています。高い倉庫の屋根張りをして得意そうなカミさん、オンボロのジープを買って悦に入るふたり。当時の写真をスキャンしてデジタル化する予定ですので、そのうちお見せできるでしょう。

農場建設ほど楽しいことはないと思います。私たちの場合、単に農場だけを作ったのではなく、生活一切をすべて構想し、家づくりまで行こうと考えていました。手作りの母屋ができたのが、それから8年後です。ある意味、私の人生のもっとも濃縮された季節であったと思います。この時期を30歳代という、体力がもっとも溢れんばかりの世代にすごせたのは幸福でした。

Img_0017しかし、例によって禍福はあざなえる縄の如し。最初のボタンの掛け間違いの結果は3年後のある日に何の予兆もなくやってきました。

二分割して入植をしたFさんが私たちに「約束は履行出来なくなりました。名義は変更できません」という驚くべきことを言い出したのです。

暗転。理由は農林公庫が返済期間中の名義の変更は許さないからだというのです。二度驚愕。そのようなことは、3年たってから分る性格のものではなく、借り入れた時に担当者に問えば分かっているべきことではないですか。意図的だとしたら、非常識というよりむしろ悪質です。

当然私たちは怒りました。そしてなんとか対策はないのか、最悪の場合、土地の名義が変更できないのなら、差額の350万円を割賦でもいいから返済してほしいとFさんに申し出ました。しかし、これも出来ないということで、まったく解決不能な状態に立ち至ったのです。

以後の不毛な交渉の経過は省きます。今まで、共に同じ土地に入植し、協力し、酒を呑み交わしては夢を語ってきた両家に大きな亀裂が走り、狭い土地の中での反目が始まります。そしてこれを本来は調停すべき立場のKさんも無作為の立場から出ず、やがて入植仲間全体までをも巻き込んだトラブルにと発展していったのです。

Img_0032

結局、それから3年後、様々な事情でF氏はこの入植地を離れ、農業すらも捨てて郷里の九州に帰っていきました。まことに慙愧に耐えません。F氏自ら招き寄せたこととはいえ、このような結末になるとは誰も予測すらつかなかったことです。

このF氏の離農事件をきっかけに私への非難が強まり、私は就農仲間と距離を開けるようになりました。それが結果としては、新規就農者の集団から訣を分かち、既存の村の農民との共同への道となっていきます。後のシャモ農場や大型有機農業グループ作りはその結果だったともいえます。

これから農業の道に入ろうという人にひとつ重要なアドバイスがあります。どうしても未知の農業の世界に飛び込もうという時に不安や恐怖が湧いてくることでしょう。その時に頼れるのは、自分と家族しかないということです。自分の体力、知力そして家族、ここにしか拠るべきものはないのです。

Img_0001_1 安易に「共同」や協働を求めないこと。近隣の仲間と協力することはいいことです。しかし、それも一線を引くこと。結(ゆい)のような相互扶助はそれ自体は素晴らしいことですが、借りた労働力はきちんと対価で返すこと。

よくあるのは、私のような土地の共同購入は特別な事例としても、新規就農者同士での農機具やお金の貸し借り、共同耕作、そして共同出荷などがあります。

これらは皆、トラブルの種だと思って下さい。借りた機械が故障したなどという例はよくあることです。壊された方は余裕がない経営基盤ですから、むっとなるでしょう。しこることすらありえます。だから、借りない、貸さない。自分で無理をしてでも、中古でもいいのですから買うことです。

ましてやお金の貸し借りは、もっとも友情が破壊される近道です。相手から頼むと頭を下げられればついその苦衷に同情してしまい貸してしまうかもしれません。友情を壊したかったら貸しなさい。金と土地というのは、永遠にトラブルの種なのです。だから安易な共同はしないことです。

今日は冗談をいう気にもなれないつらい経験をお話しました。私が言ったことを単なる精神論だとは思わないで下さい。私は共同するためには、しっかりと自分が自立する必要があることを言いたかったのです。さて、明日から、気持を切り換えて、明るくいきましょう!

写真は、今日の記事とは裏腹の明るいものばかりを集めました。上から熱帯果物。さてなにか名前はわかりますか?解答は明日に。次はキューバのサンバ奏者の人形。次はグアテマラの豹のカルナバル(謝肉祭)に使う面。下段はメキシコの陶器の大猫。

2008年8月26日 (火)

皆んな百姓になれ!実践的就農マニュアル 第5回 必ず良い仲介者を立てよ 

Img_0012 昨日は化蘇沼稲荷神社での祭礼でした。なかなか由緒ある神社で、正一位なんですよ。村人の自慢です。

この祭礼の特色はなんといっても奉納相撲!村の力自慢の大人から、少年まで白まわし(フンドシではないぞ)で相撲を取ります。その前には相撲甚句。相撲甚句の倶楽部もあるのです。

上の写真の裃姿は、氏子の役員さんです。これは地区(字)での回り持ちとなります。地区ごとに分かれて、弁当(にぎり飯にタクワンと質素)とお神酒の券を配られて、芸能や巫女舞、奉納相撲に一日興じます。こういう村中集まった祭礼に来ると、一種独特の雰囲気で、やはり四半世紀も村にいても自分はまれ人だなと少々寂しくはありますが。

さて、昨日の続きです。私の人生3大失敗のひとつをお話していました(3ツじゃ済まないだろう。10大失敗、いや20大失敗だろうの声あり、うるせぇつうの)。簡単に言えば、入植農地を2人で分割して買って、おまけによせばいいのに、地権者名義と、支払った額が大きく異なるという禍根の不平等条約を結んでしまったことでした。そして、仲介者に白タクが地権者から指定されていたことです。今日はこのことをお話しましょう。

Img_0007 土地を買う時に、なぜ私が行政、JA、あるいは地元不動産屋を絡ませたほうがいいと言う理由は、このような第三者が立ち会うことによって、私が被ったような非常識な条件で売買がなされることがなくなるからです。

実践マニュアル的に言えば、農地は地権者と相対で買うことは極力避けましょう。不動産仲介手数料3%を支払ってでも、正規の資格をもった不動産取引の資格を有する仲介者か、地元の行政、JAに必ず立ち会ってもらいましょう。これは重要なことですからよく聞いて下さい。

相対取引(*あいたいとりひき・地権者と買う側が仲介者なく直接に売買取引をすること)だと、えてして地権者が圧倒的に有利な立場になります。こちらの欲しいという気持がよ~く見透かされているからです。すると、向こうは恥知らずなまでに、自分の有利な条件を言ってきます。

Img_0018たとえば、仲介者を自分の息のかかった者に指名します。そして価格や条件などは丸呑みにさせられて、後から悔しい思いをすることになります。

仲介者は審判ではなく、売り手側で、時には審判自らがこちらのゴールに球を蹴りこんでくることすらやらかします。村の排他性がいかんなく発揮されるのはこういう時です。村に入りたいという私たちは、それに対しても卑屈にニコニコしていなければならなかったのが、当時です。今はだいぶ違ってきてはいますが。

多少、参考までに彼らのやり口を教えておきましょうか。相対取引をしてしまった場合、地権者は税金対策として「裏契」(裏契約)を言ってくる場合が多々あります。通常はありえないことですが、今でも日本の農村ではまかり通っています。こちらが仮に100万円で1反を買ったとしても、契約書や領収書には60万円で切ってくれとぬけぬけと言ってくるわけです。土地売買の税金対策です。私の場合、7掛けでやらされました。言うまでもなく、こんなことは堂々たるリッパな脱税行為ですゾ。

Img_0029 また、通常は地目の境界は地権者側が公図をI明示せねばならないのですが、村では国調標識杭がない場合が圧倒的です。これがないと地目の確定ができず、事実上売買はできません。ところが、売るほうは懐手しています。「お前のほうがやれや」ということを平気で仲介者が言ってきます。かくして、買う私の側のほうが、多額の金と時間を費やして測量士を雇い、周辺の地権者にお百度を踏んで、お酒を持っていって境界を確定してもらわねばなりませんでした。

ちなみに村の土地標識は大部分いいかげんで、公図にあっても実際はなかったりするがあたりまえです。そうなると公図と照らしあわせることが出来ないので、確定しているかなり遠方の他の人の土地の標識から、測量を出さねばなりません。その人にお百度をして頼み、次の標識の人にも頼み、森を抜け谷津を抜け、そしてようやく測量ができたのです。1カ月かかり、しこたま料金をとられ、境界は全面的に相手の言い分を呑み・・・。ゲホっ、よ~やったよ。私の後に続く皆さん、こんなことはやってはいけないからね。これは地権者が明示するものだからね。境界があいまいな土地などは買ってはダメだからね!

Img_0022 今考えるとありえないような一方的な不利益を口を開けられて流し込まれた感があります。

そしてそれだけではなく、この白タク仲介者は、私たち新規就農者同士の不平等条約をよく知っておきながら、それを放置しました。

白タクは仕事に責任を持ちません。売って金を欲しいだけの欲の皮がペキンダックよろしくパリパリの人達だったからです。しっかりとした仲介者なら、後の紛争の種は抜いておくものですが、そのようなことには無頓着でしょう。

皆さん、土地は多額の金銭のやりとりをともないます。私の場合ですら1400万円もの資金を土地代金だけで支払いました。実際は、それだけで足りず、農場建設費、母屋建設費などで、ぬぁ~んと2000万円超を借りることになりました。途中で借増しをして最終的にはその倍ちかくになったのです。えへん、若い衆、ちっとは借金王の私を尊敬するように(無理か)。

全額返済はつい去年のことでした。カミさんと抱き合って喜びました。あ~、これで普通の生活ができる、と。今でも農林公庫と国民金融公庫からの完済通知は事務所の額の中に入れて恭しく飾ってあります。われながら実に健気だと思いますImg_0027 (グスっ、いい話だろ)。

まぁ、現代日本で百姓になるほど贅沢はないと私が何度も言い続けているのは、その精神的な豊かさだけではなく、家が一軒、ときには2軒建つていどの資金が必要だということにもあります。

例えば2千万円あれば、ちょっとした都市でのスモールビジネスが充分に可能です。農業はすぐに収益は見込めませんが、都市での起業ならはるかに早い時期に回収が見込めるはずです。 農業とはそのような気長な、じっくり地表から芽が出るのを待つような「仕事」なのです。

もしあなたが就農しても、あなたが理想として思い描いた「農場」ができるまで最低で10年。子供が継いで30年、そして孫があるていど完成して60年、ときには100年。そんな時間尺の仕事だと思って下さい。

逆に言えば、先祖代々の土地もあり、農家を継ぐというだけで新築の家や車を親から買ってもらえるような農業後継者とは、スタートからして私たち新規就農者の迫力は違うのですよ!

私たちは初代だと心すること。初代の重みは楽しいこと、苦いこと、酸っぱいことに満ちています。私は現代日本で開拓者の名にふさわしいのは、われらが新規就農者だと思っています。いかに多くの失敗をしたとしても、これは私の人生の誇りです。

写真は、化蘇沼稲荷神社の祭礼。上段は羽織袴の氏子さん。次は祭礼に近づいてきました。向こうではにぎやかな声や歌が聞こえてきました。次は相撲甚句。甚句倶楽部があります。次は奉納相撲の皆さん。まわしが凛々しい。そして御手洗(違っていたらごめん)。最後は奉納幟。幟の裾には奉納者の名前が記してあります。幟は、この祭礼への寄付があった人が立てられます。

2008年8月25日 (月)

皆んな百姓になれ!実践的就農マニュアル 第4回 僕たちの失敗  

Img_0001 今日は書くのがユーウツだなぁ・・・。ま、これから農に入る人たちの参考になればということで、心に鞭打ちましょうゾ。

農地の収得に私は大失敗をしました。まず、結論から言えば、「共同」という方法を安易に使ってしまったことです。第2に、土地の仲介者に白タク、つまり無免許の札付きの男を立ててしまったことです。第3に、その経緯の中で妥当な調停者を立てられず、結果として就農仲間から孤立する道をえらんでしまったことです。

「共同」という言葉ほど、当時の私にとって輝かしい言葉はありませんでした。同じ帰農をめざす若者たちが、互いに助け合って、新たな都市と農の文化の融合をめざし、旧弊な地域を変えていく、まぁそんな夢とも理想ともつかない「気分」を持っていたわけです。私が30歳を少し出た当時でしょうか。

Img_0099 当時、私はKさんが運営する共同農場の研修生2年目でした。いわゆるトリサマ亭時代(7月15日号を見てね)です。鳥小屋生活からもそろそろ足を洗って、自分の自立した農場を考えねばならない時期です。土地の物色は各方面にしていたのですが、当時は「新規就農」という言葉自体がなかった時代です。世間はまったく無理解で、都会から来た毛色の変わった奴ら程度の認識でした。

いまでこそ、私たちの世代が四半世紀やってきて、有機農業団体を作って都市流通と大規模な産直事業を興したり、この土地にあった有機農業の技術を定着させたり、あるいは地元の特産品を作ったりと、それなりに地元に残すべきものは残してきていますから評価が変化してきています。しかし、当時は完全な白紙状態、あるのは奇妙な生きものを見るような好奇の視線だけだったような気がします。この雰囲気を理解いただけないと、なぜ私が失敗をしてしまったのか、おわかりにならないかもしれません。

私は沖縄でまったく土地が買えなかったこともあって、農地取得には必死でした。農業というのは、あたりまえですが農地がなければどうにもならないのです。また借りるといっても、今のように地主さんのほうから借りてくれという時代でもなく、偶然に出てくる物件待ちの研修生時代でした。

このような時に、まったく天の恵のように農地物件が出たという話が持ち込まれました。面積は1.6㌶(1町6反・4800坪)、筆は分割されておらず一筆、北に向かっての緩斜面、周囲に既存の農地や家屋なしという、まぁ誂えたような条件でした。そして、初めから価格も提示されていて、反あたり170万円、ただし、分割は認めず、一筆の購入のみだという条件です。トータルで2700万円という価格です。

Img_0001_2 私たち夫婦は狂喜しました。やっと出てきた!これで晴れて本物の百姓になれる、と。しかし、問題は土地価格です。1反あたりの170万円という価格は当時(1985年バブル期初期)としてはまず妥当に思えましたが、なにせ30そこそこの収入もない青年にとって2700万円は天文学的数字でした。

当時、なにせ私たちは共同農場から研修費として月に5万円を頂戴して生活をしていたわけで、2700万円などというのは、これでラーメンが何杯食べられるの?の世界です。今となれば、農林公庫から低利で借りるなりなんなり、方法はいくらでもあるのですが、当時は哀しくや5反歩を所有し、営農実績が必要という農業者資格もなく、借りるに借りられなかったのです。

くく~、もう一生自分の農地を持てないのかとガックリきた時に、農場の責任者のKさんからこんな案が出されました。当時の彼の友人で就農して2年目の東京農大出の若手農業者のFさんという人がいる。彼と土地を二分割して買ったらどうか、自分が仲介に入って悪いようにはしない。

分割するとひとりあたりの面積はそれでも8反です。充分とは言えぬものの、どうにか農家経営が可能な広さです。後から借りるなり、買い増すなりをしていけばいいと考えて、K氏に感謝をして受諾しました。

Img_0089

ところがこの案にはとんでもないオマケが着いていたのです。資金集めを始めて数カ月後、Fさん側から、資金集めで大口の金融公庫から農用地として1町歩を担保物件としてほしい。ついては1町歩を自分の名義にしてもらえないかだろうか。

よくご理解いただけないかも知れませんのでもう一回リピート。Fさんがいう私への追加提案は、要するに、自分は8反歩分の金しか出さないが、名義は1町分ほしい、と!

今考えてもそうとうに強心臓な提案ですなぁ。土地は法的には、とうぜん名義が先行しますから、いくら金を出したなどというのは当事者間の内輪の話に過ぎず、常識はずれもはなはだしいわけです。F氏はこの不平等な資金と名義の関係を、責任を持って3年以内に等価交換などの方法で修正をするからと強調しました。

この非常識な提案を飲んでしまったのは、ひとえに私の心の中に根を張っていた共同への憧れと、既に土地を探し出してから3年間にもなり、Kさんの共同農場にもそうそう長居ができないというあせりからでした。

Kさんの「悪いようには しないから、自分が責任をもつ」という言葉に後押しをされるように、この不平等条約にサインをしてしまい、私は自分の資金集めに奔走することになったのです。しかし、その数年後には大きな落とし穴が待っていることになります。

写真は、農場の四季。上からヤマザクラ咲く春。菜花の葉が出てきた3月。菜花燃える5月。そして秋の播種風景。これが今回の話の舞台です。

2008年8月24日 (日)

皆んな百姓になれ!実践的就農マニュアル 第3回 農地価格は年間収益の5年分まで

Img_0012 昨日、カミさんが大地を守る会の女性農業者全国集会に行き、大変に面白かったといいます。

女性の全国集会というのは、いい意味でのリクレーションなのです。みな、年に何回か羽根を伸ばしに東京にやってきます。ああ、今日は仕事もご飯もせずにすむ、仲間の生産者と会議の翌日はぎりぎりまで東京に居残って、映画にでも行っぺよ!浅草はどういくのですか?いや赤坂のなんたらというデパートじゃなかった、あ、ミッドシティだったっけが、どっちにしよう。楽しい悩み。

明るくて、エネルギーに溢れていて、好奇心旺盛で大好きだなぁ、彼女たち!この人たちがいるかぎり日本農業は潰れません。オリンピックを見ても分かるように、わが瑞穂の国は女性によって支えられている国なのですよ(とほほ)。それにしても星野ジャパン、帰って来なくていいぞぉ!

このブログも案外大地の職員の間で読まれているそうな。とてもうれしいです。長いから斜め読んでますとはYグループ長。ブログを書かれている人にはおわかりでしょうが、誰かがどこかで読んでいてくれるということほど、頼みになることはないのです。

さて前置きが長くなりました。就農実践マニュアル第3回です。今回は農地をどう取得するのか考えてみました。農地の前提として、どのような地域を就農に選ぶのかから、考えてみましょう。

Img_0010 ひと口に地域といっても、日本ほど変化の豊かな国土はありません。私は初めに沖縄に入り、結局農地を取得できなかったため、全国を旅した後に、この茨城に定住しました。候補地もいくつか見てきました。

ひと口で就農といってもどこに入るのかで、それ以後の農業の形や経営がまるで違ったものになってしまいます。

私が仮に沖縄で農地が買えたとしたら、どうしてもサトウキビを中心にせざるを得なかったかもしれません。そしてコメとの巡り合いもなかったことでしょう。沖縄はコメはまったくと言っていいほど作っていませんから。また、亜熱帯の有機農業の難しさから、有機農業の門を叩いたかどうかもわかりません。

のっけからナンですが、私は土地の選定にはまずまず成功したのですが、後の経過でホームラン級の失敗をしてしまいました。どんな大失敗をしたのかは次回にゆっくりとお話します。ホントはあんまり話したくないんだけど、ま、いいか。

入植ということは人生を賭けての飛躍ですから、運命のサイコロを簡単に振らないように。必ず候補地を複数持ち、地型、気候風土、経済圏、村の有り様をよく見てから、熟考して下さい。大失敗をやらかしたこの私が言うのだから間違いはありません(胸を張る)。

Img_0032私の帰農仲間には、黒潮に面した温暖な伊豆半島や房総半島に入った者もいますし、内陸部の栃木、群馬、山梨、長野に入った人もいます。初めは似たような考えでしたが、10年、20年たつとまったく異なった農業の形になっています。それほどまでに農地の選択ということは決定的なことなのです。

いくつか選定にあたってのポイントを記しておきましょう。まず第1に、市場までの距離と、農地価格は反比例するということです。また、入植後の農業経営もまた、反比例するのです。私の住んでいる地域は、東京まで100㌔半径内でしたので、土地は決して安くはありませんでした。25年前当時で175万円/10㌃(300坪)でした。今はずっと下がって、とうとう100万円を切りました(たはぁ~大損した!)。水田なら30万円~50万円前後が相場です。

このような大きな都市に近い農村の農地価格は山間部の数倍はします。ただし長野県などは山間部でも相当に高いようですが。また、なかなか出物もありません。茨城県八郷などは50軒もの新規就農者がひしめいていますが、土地価格を聞くとゲッというほど高価です。まさに需給関係そのものです。

Img_0031一方、山間部は行政の方からきてくれというラブコールをする地域もあり、様々な補助金や支援策が準備されています。廃屋などを斡旋する村もあります。憧れの伝統家屋に安価で入ることもできるかもしれません。ただし、禍福はあざなえる縄のごとしで、農業経営は至難であるとお断りをしておきます。

むしろ山間部は林業が盛んな地域ですので、無理に農業を追うより、木工とか紙漉き、家具づくり、陶芸などの工芸関係をやってみたい人にふさわしいと思います。工芸ならば、毎日出荷をしなくとも済みますし、美しい環境の中で思う存分創作に打ち込めます。

では第2に、どこから買うかですが、まず行政の農林課と農業委員会、農業改良普及センター(旧改良普及所)に当たって下さい。昔は相手にもされませんでしたが、あんがい今は親身で相談に乗ってくれるようです。

また、行政関係は耕作放棄地の情報を集約しているので、そこを借地することも可能です。現在の当地茨城南部の農地借料は年間1万円ていどです。無理せずに、自宅周り+5反程度だけを購入して、あとは耕作放棄地を借りるのも賢いかと思います。

次はJAかな。これも一昔前は新規就農者など「どこの馬の骨」扱いでしたが、今は新規就農者に好意的な所も多いようです。JAやさとのように就農者支援政策を持って、資金や住居や売り先も支援しているすごいJAもあります。またJAは土地バンクといって、不要な土地情報をプールして、利用したい人に斡旋などをしているところもあります。そして地元の農業団体も、ツテがあれば尋ねて見て下さい。

田舎の土地物件を扱う不動産屋は、茨城・石岡近郊だとあるようですが、まず吹っ掛けられます。反単位ではなく、坪単位で物件を出してきたら即帰りましょう。農地を坪単位で買っていては農業になりません。都会や地方都市の不動産屋は、宅地を基準にしているようですから、とてつもない馬鹿げた額を言ってきます。

Img_0012 例えば、皆さんが都市部にお住まいならば、平均で坪50万円くらいでしょうか。この感覚で農地を「坪1万ですぞ。超格安!」と言われると心が動くやもしれません。

り~ん、鳴り響く警報の音!農地の売買単位は反(たん・10㌃・300坪)ですから、坪1万円ならば、反あたり300万円となります。これは、現在の茨城県の農地相場の約3倍です。3倍などいいほうで、坪2万、ときには5万などというイスタンブールの絨毯商人もびっくりの価格を吹っ掛けるトンデモ不動産屋すらいます。

実際、うちの村に入ったある人など都会の不動産屋から、相場の6倍もの額で買ってしまい、後から相場を知ってコサックダンスよろしく地団駄を踏んでいました。もし、不動産屋の暖簾をくぐるのなら、村の不動産屋に、地元の人と一緒に行きましょう。まずボラれません。村内は信用ですから、無垢な都会の人を吹っ掛けたとバレたら商売になりませんから。

農地を取得する価格の目安は、手取り年間収益の5年間分がめどです。それ以上農地購入にかけると、入ってからの返済圧力で経営に負担がかかりすぎます。たとえば、コメなら平均年間収益が手どりで10万円ですから、その5年間分で50万円以上出して買ってはならないということになります。

第3に、農地はだいたい天気がいい日に見に行くことが多いのですが、仮に一回目が晴れだとしても、かならず雨の時に行ってみましょう。というのはこのブログ5月22日にも書きましたが、晴れだとなにもかも良く見えるのです。

空は高く澄み渡っており、春ならヒバリやホトトギスが歌い、初夏ならツバメが低く飛ぶ、「おお!わが終の住処はここにあり!」と気が動いてしまいます。しかし、これが大雨の時には、斜面に雨水でうがたれた小川がくねり、崖は崩落し、そもそもその農地に行くアクセスの道が泥沼となって通行不可という場合すらあります。絶対に、決める前に雨の日に行くことをお勧めします。そのドジをこいた私が言うのですから間違いはない。

次回は私の懺悔の記録をご紹介します。いやー、失敗談は尽きませんよ(泣く)。百の成功談より、ひとつの失敗談を大事にして下さいね。

写真は、農場の日の出。4時50分くらい。次も同じく。太陽がでかかっています。次は蛾ですが、すいません名前を調べておきます。実に妖艶に美しい。次はセージの花房に首を突っ込む蜂。八角堂のステンドグラス。イギリス製のアンティクというと聞こえがいいですが、買ってから合成樹脂製だとバレた(涙)。

2008年8月22日 (金)

皆んな百姓になれ!実践的就農マニュアル第2回 就農三要素 

Img_0020 いきなり秋風が立ちました。毎日のように雷雨で、なかなかすごい天候ショーが毎日見られます。

つんざく落雷、たちこめるオゾン臭、のしかかるような雨雲。

宮沢賢治が花巻農学校で、生徒にこう教えたそうです。うろ覚えですが、こんなことです。

「稲光はお稲荷さんの、シデだ。落雷が落ちた所はよく米ができるだろう。あれは高圧の電磁波のためなんだ。だから、古代の人はそれを知っていて落雷が落ちると豊作がくると手を合わせたんだ」収穫前の落雷は豊作の前兆、ほんとうかどうかわかりませんが、そうであるといいですね。

さて、就農(私たちの時代には帰農と言いましたが)の三要素+oneというものがあります。なんの勝手に私が作ったのですが、「農地、資金、技術、そしてもうひとつおまけに根性」です。こらこら、根性などといちばんほど遠い私が言うのを笑ってはいけない。先生だぞ、今回は。

Img_0004 これから何回かにわけてこのひとつひとつを、私の経験をまじえてお話していきます。「農地、資金、技術」と三つ並べましたが、なにを優先順位にするのかは、その人の状況によります。

たとえば、こういう並べ方もあるでしょう。資金がなければ、農地は取得できない、技術は農地の条件でつけていけばいい。資金を起点とした就農の方法ですね。非常に現実的です(ややつまんないけど)。

一方、こういうアプローチもあります。農地がたまたま手に入った。あるいは、貸して貰えそうだ。この農地は村内にあるので畑作しかできない。逆に周りが人家がないし、畜産にも理解がある。その農地の条件と大きさ、価格によって違いますが、農地を起点にすることも又可能でしょう。

では、技術はというと、これもまたありえます。私など研修期間中ひととおりの畑作全般(サトウキビまでやっちまったぁ)、米、牛、豚、鶏(山羊まで!)と習う中で、最終的には小規模農地での畜産を選びました。それもいちばん小資金と狭い農地で出来る平飼養鶏が私の生業となりました。資金に限界があったからです。また資金面だけではなく、生きものと毎日接して面倒をみるという仕事が私という人間の性にあっていたようです。ですから、私は小規模平飼養鶏ができる農地を中心にして探し回りました。

Img_0010 最後の+oneの根性ですが、これは前三者を支える自分の中の柱のようなものです。私の経験からいえば、就農失敗者の大部分はこの部分から崩れていっています。えてして思っていた夢と、現実が違いすぎ、借金がかさみ、旧弊な体質も残る農村で生きていけなくなったからです。この失敗のケーススタディはどこかでしたいと思っています。

というわけで、「農」はいかなる場所からも切り込めることはたしかです。次回は農地をどのようにして取得するのかから始めていきましょう。

(この稿続く)

写真は、野草界の花の女王であるカラスウリのレース状の花。下手な栽培種などかないません。これで終わりではないのです。まだレース部分が伸びていきます。どうしてこんな地味な野草にかくも華麗な花が咲くのか、天は不思議な采配をするようです。

Img_0013 中段はムラサキツユクサ。放射能を被曝すると変色することで有名になってしまいました。きっと不本意でしょうね。

次は、自生種のホオズキ。いまや満開。ぼんぼりが重いとみえてみな倒れてしまいます。草むらにホオズキが転げ回っている不思議な光景が見られます。

最下段はヘクソガズラ。ひどい名前ですが、この花をちぎってもむと臭いのです。なんとも愛嬌のある花を咲かせています。

私は野草の花が好きです。栽培種より可憐で清楚です。まるでバ゙レリーナのようなカラスウリも目が覚めるように美しいし、ボツンと咲いているヨメナの白菊のてらいのない美しさも心に染みます。

よく人は、この世は醜いと安易に言います。そうでしょうか。そのようなことはないと思います。足元を注意してみれば、野草が、眼を上げれば樹が精一杯に自らの美しさを誇っています。雲は瞬時に形を変えて万華鏡と化します。

どんな小さな、足で踏みつぶしてしまうような草ですら、十全に美しい。むしろ私は思います。どうして地上はかくも美しいのか、と。

2008年8月21日 (木)

穀物を使ってのバイオエタノールの嘘 

Img_0017エタノールは炭水化物を含むものであればなにからでも出来ます。生産効率からだけで、ブラジルのサトウキビとか、米国のトウモロコシ、欧州ではテンサイが浮上しただけです。

木屑や米藁、パルプ廃液、モミガラ、バカス(サトウキビの搾りかす)などのセルロースの多糖類からもできます。東京農大では残飯(食品残さ)からも出来ることが証明されています。この分野は日本の得意な発酵技術が活躍することでしょう。これらは、食品の廃棄物ですので、人間の食とまったく競合しません。

Img_0023そう、ここなんです、トウモロコシやサトウキビ、あるいは菜種、テンサイなどの食料を使ったバイオエタノールの最大の問題点は。

トウモロコシのバイオエタノール化は、トウモロコシの可食部分、つまり実を使って行われます。まったく愚かの極みです。人が食べれば、そのまま食料となるものを、燃やして自動車燃料にしてしまう、世界で飢えている10億人(ボトム・ビリオン)がいる時に、正気の沙汰とは思えない。それもエコの美名のもとに。

 (この稿続く)

2008年8月20日 (水)

皆んな百姓になれ!実践的就農マニュアル 第1回 就農は起業である

Img_0002 野性のトキ様からのリクエストで、都市生活者のための実践的就農マニュアルを作ってみようと思います

あらかじめお断りしますが、ここでは「農の心」といった理念はとりあえず省略いたします。意味がないのではなく、まったく逆に、それだけで話が終わってしまうくらいに私の大好物だからです。

もうひとつ、いわゆる「田舎暮らし」がしたいという方も除外します。都市と田舎の二重生活をしたい方も、すいませんが今回は対象からはずします。このシリーズで語りたい対象は、本気で農業に飛び込みたい新規就農者の人達に絞らせて下さい。

まず、都市生活者が、農業にいきなり飛び込むのはベリー・デンジャラスだとご忠告をいたします。確率8割で失敗します。私が知っているだけで、ひい、ふう、みい、よー・・・6、7人の失敗した人を知っているほどです。彼らは皆、せっかくいったんは入った農の世界を捨てて、Img_0003 再び都会に戻っていきました。

その原因はいくとおりもありますが、ひとことでいえば、準備不足です。この傾向は特に農の心や、農的生活をロマンチックに求めるタイプに偏在しています。

農業で起業しようという人にはほとんど失敗する人はいません。

農的な生活は、実はしっかりとした経済基盤とそれを支える技術がないと成立しないのです。このリアリズムが分からない人は、単なる夢追い人に終わってしまいます。夢が夢なうちは夢に過ぎません(なんのこっちゃ)。夢が身体をもってこそ、ほんとうに自分の人生を変える夢になるのです。

よく週末農業で猫の額ほどの土地を耕して百姓になったと勘違いしている人もいますが、はっきり申し上げて、5反(1500坪)以下は「農業」とはいいません(妙にきっぱり)。鶏でいえば、1000羽以下は養鶏といいたくありません。われながらまったくロマンチックではないのですが、農業とはそれで喰えてなんぼなのです。個人で事業を興すこと、つまり起業なのです。

農業とは、語義どおり「農」で「生業」(なりわい・生活)を立てることを意味します。週末に土にふれ、気持のいい汗を流すことと、それで生業を立てることとは一見よく似ているようでいてまったく次元が違うことです。アマチュアとプロの差と言ったらいいのでしょうか。ですから、私は就農希望の人には現実主義者になれと言っていつも嫌がられています。

Img_0005 農業はいつも天気の日にだけできるわけではありません。どんなどしゃぶりの日にも、酷暑の夏にも、台風が荒れ狂っていようと、あるいは大雪の冬にでも、ついでに言えば二日酔いの朝にも、「生業」を継続することは、想像以上に大変なことです。

注文がくれば、身体が調子が悪かろうとどうしようと、子供に熱があろうとなかろうと、大雨だろうが、雪だろうが、夫婦喧嘩をしていようと、這ってでも出荷に間に合わせなければなりません。「今日は出ません」という言い訳は、農業者としての信頼を落してしまい、やがて注文が来なくなります。そして食えなくなります。言い訳がきくのは両親の葬式だけだと思って下さい。

それが嫌なら、法人を作り労働の回転システムをつくらねばなりません。

Img_0001 とうぜんのことですが、「農業という仕事」は、しっかりとした農産品を出荷してはじめて成立します。私は、都市で週末農業をしていた人のほうが、かえってこの「農業という仕事」に入りにくいのかもしれないとさえ思っています。

というのは、自分で作って自分の家族で消費する分には、規格や出荷量、出荷日などということは念頭に置く必要がないわけです。好きなものを、好きなだけ、好きな時に、作ればいいわけですから。週末農業は一作失敗しても苦笑いで済みますが、グループ出荷をしている農家がそれをやると、次回から作付けが回って来なくなります。

就農するということは、週末農業の延長にはありません。一回どこかで頭を根本で切り換えて臨んで下さい。今までやってきたのは趣味、これから立ち向かうのは農業を本職にすることなのです。この区別がつかないと、多額の借金をして都市に逃げ帰るはめになります。

週末農業は、それ自体充分に農的世界の中にあります。むしろ単作農業や重油を炊きまくって初めて成立する園芸農業より、よほどまっとうな農のあり方かもしれません。そこから、一歩を踏み出すべきか否かは、その方その方の人生に対する考え方や、暮らしの条件によるのです。ぜひじっくりお考え下さい。農は逃げませんから。

第1回はことさら厳しくお話しました。ま、私のようなグータラに出来たくらいですから大丈夫です。次回はもう少し具体論に入ります。

写真は、3日間の人生を終えたせみの亡骸。次は蝉のぬけがら、背中から割ってでていきます。見ましたが、なかなかすごいシーンですよ。次はカラスウリ。そろそろ実ができてきました。最後は秋の野草のヨメナの最初の一輪。

2008年8月19日 (火)

署名ブログになった理由

                                                                                               Img_0001                                                                                                                                   私の農の心の師でした福島正信先生に哀悼の意を捧げます。享年95歳でした師の業績は巨大過ぎてひとことでは言えません。また気持が落ち着いてからということでお許し下さい。

さて匿名ブログから署名ブログになりました。その第2回です。各方面(・・・なにをオーバーな)から、「ようやるな」、「勇気がありますね」などという声を頂きました。

だからというわけではなく、ブログの匿名性についてちょっと考えてしまいました。

現代のブログ文化の大発展のひとつの大きな理由は、その匿名性にあることはご存じのとおりです。なんと言っても気楽に書けます。通常の社会関係から、仮想電脳空間の中で「遊べる」という愉快さも手伝ったのかもしれません。極端にいえば私が、オレはフランス外人部隊出身だぁ、ジブチにカトリーヌが待ってるぜ(爆笑)などとダホラを吹いても、ひょっとしてまに受ける人が1万人にひとりくらいはいるかもしれません(いねぇよ)。Img_0006 あ、カミさん、今の記述は、単なる例で願望ではありませんからね!

社会的な場所にいる人はためらわず匿名を選ぶべきです。さもないとなにも言えません。

では、今私のブログは何を目指しているのでしょうか。かなりはっきりと基調低音とでもいうべきものが出てきました。

ひとつは現代の日本農業の過去と現在、そして未来に眼を凝らすことです。ジャーナリストでも学者でもなく、ただいま現在、農業を営んでいる農業者のはしくれとして、日本農業に誠実に連れ添うことです。

これはコメのシリーズから続けて自由化問題に行く2週間の間に腹が坐ってきました。私はこう思ったのです。

もう「農民にはなれない」などとは言うまい、仮に現実はそうであったとしても、自分を受け入れてくれた村、その人々が享受する運命のごく一部でもわがものとしよう、と。そのために今自分ができるこのブログを使おう、と。

もちろんこのブログはオフィシャルなものではなく、私個人のものであり、その責任において作られています。個人的な生活もこれからどんどん書いていくつもりです。しかし、基調には日本農業の過去、現在、未来に眼を凝らそうという私がいると思って下さい。

Img_0016 つまんない~と言われそうですし、少ない読者がいっそう減りそうですが、大丈夫、たいしたことも書けませんから。そしてどこまでいっても、私は半分は町っ子で、町っ子と農民のF1なのです。

このような街と農の間に私はいます。

そのように思うと、匿名性には違和感が出ました。

私は、日本農業に対する意見に最大限耳を傾けようと思っています。私の考えと異なっても切り捨てたりはぜったいにしません。真正面から愚直に受けとめます。たとえば、この間の66ss様のご意見は、拝聴に値しました。なぜなら、そのように思っている都市生活者は、その過半数に及ぶからです。氏の背後に膨大な都市生活者の「農業不信」の厚みが見えるからです。

ですから、私は私の能力が可能な限り、論証とデーターを積み重ねるという客観的な方法でお話しました。それが成功したか否かの判断は皆様にお任せします。

Img_0022 そして、残念ながら、都市生活者をしてそのような「農業不信」を持たせる原因も、日本農業の中に多く内在しています。このようなことにひとつひとつ丹念に答えていかないと、わが日本農業は持ちません。

私は非力な、まったくイヤになるくらい力のない人間ですが、自分の愛した対象に対する言説には責任を持ちます。そして、気障なようですが、私が人生をかけて愛したのは農業です。

だから、匿名ではなく、私の名と顔を出すことにしました。それが私の流儀なのかもしれません。

2008年8月18日 (月)

農的食育の勧め 五味のプリンシパル(原則)から始めよう

                                                        Img_0001_3

5月22日にブログ創設以来、昨日初めてお休みをとりました書きたいことは山ほどあるのですが、ちょっとくたびれました

くたびれた弾みで、プロフィールをカミングアウトしました。

ま、大部分の人は私が誰かなどとうにご承知でしょうが。写真もうちのタローという愛犬のアカンベーから私本人のものに変えました。タロー許せ、長らくあんな写真をさらしていたオレが悪かった(笑)。彼はけっこうハンサム犬なんですよ。別に名乗って不利益になることはないと腹をくくっています。もともと匿名とか、覆面は性に合いません。

ついでにペンネームというか、ハンドルネームも「ハマタヌ」から「ブナガヤ」に変更しました。現行だと実名とかぶるからです。ブナガヤとは沖縄やんばるに住むキジムナーの一支族で、キジムナーに負けずにヘンな樹の精霊です。住む所も大宜味にいるそうです。

ところで、農業政策的な議論は嫌いではありませんし、あまり農業者でやる人も見受けないので、「オレがやらんで誰がやる」みたいな気分で引き受けるとついつい「大作」となってしまいます。しかし、虚空で足を踏ん張っているような虚しさが一抹残りました。

少し、視点を変えて足が地についた話題をお話していきましょう。あんまり気負うとロクなことになりませんから。Img_0002_3

見るからに酢っぱそうな梅干しです。ちょうど1年目になりました。材料は塩以外、全部わが農場産です。おそるおそる摘むと、それはそれはハードボイルドの酸っぱさ!

最近やたら変に甘かったり、ハチミツ漬けだったり、減塩にかこつけてしっかりと干していないで調味液だけで作った梅干しが多いとお嘆きの皆さんに、これぞ背筋がまっすぐに伸びた梅干しです。

なんせこの農場レシピの原型は、昭和30年代の農文協の「農家の手作り食品」という今や茶色になってしまって、手荒く扱うとバラバラになるようなレトロ本ですから。じっくりと写真をご覧下さい。見るだけで唾が湧いてきますでしょう。都会の人にわけても、皆食べられないよォ、などと情けないことを言ってきます。

ほぐして刻んで、冷やっ汁にとか、漬け物のカクヤに混ぜるなり、青菜のみじんやシラスと混ぜるような工夫がないんですかね。

Img_0004 さて、梅干しがハードボイルドの「酸っぱさ」ならば、一方「しょっぱさ」というのもあって、たとえばそれは農場仕込みのタクワンです。

これのしょっぱさはそうとうなもので、通常の厚さに切ると食べられません(苦笑)。それはそれは薄切く切って、お日様が透けるていどにスライスして食べます。例によって刻んで混ぜるという食べ方もよくします。

おそろしいまでに保存性がいいので、うちの農産物用冷蔵庫(などというものがあるのだよ)に入れておくと、えんえんと食べられます。タクワンが嗜好品ではなく、農家の保存食として冬中かけて食べたというのがよく分かります。

作り方もなんと20日間以上天日干します。完全に頭と尻尾がくっつくまでテッテイ的に干してお日様から美味しさをもらってから、糠と塩、柿の皮、昆布、鷹の爪で仕込みます。薄塩指向などという現代的な配慮は眼中にありません。美味い!確かに美味い!しかし、しょっぱい!市販品の梅干しやタクワンとは違う食品とお考えください。

あとは米や野菜は当然として、味噌という大きなジャンルがありますが、大き過ぎて別稿でじっくりとお話ししたいですね。

Img_0001_2 これらには私たちの農場の食べ物に対する考え方が反映されています。それは「高級である必要はない、まっとうな食べ物を食べる」です。

しょぱいものは、しょぱいように、酸っぱいものは酸っぱいように、苦いものは苦いように、甘い、塩辛い、辛い、酸っぱい、苦いという五味を大切にしています。あとはうま味がありますが、これも大ジャンルなので、またの機会に。

たぶんあなたの子供は、いやあなた自身うへぇというでしょう。それでいいのです。味覚における甘い、しょぱい、辛い、酸っぱい、苦いという、いわば日本橋にある「ここより日本路標始まる」みたいな最初の「味覚の杭」がいると思います。この杭が揺らいでいるから食の最初の座標が狂い始めたのだと私は思うのです。

天然の素材をまっとうに加工して、そこから得られる五味を大事にします。その中から座標軸原点を舌に覚え込ませていきたい。それが私にとって日本で一番格好のいい男と思う白洲次郎風にいえばプリンシパル(原則的)な味の原点です。そのプリンシパルな味を子供の世代につなげていけたらと思います。

写真は、村の峠から見た風景。同じ角度の2カ月前撮った写真と比べて下さい。次は去年からちょうど14カ月めの梅干し。ね、しょぱい顔しているでしょう。次は昼顔。はにかんだ少女の頰のような清楚な美しさです。カラスウリに巣をかけてお仕事中のクモさん。たまに風でどこかに飛行しています。フーテンのクモさんとも言います。

2008年8月16日 (土)

上海風バンコック経由ゴーヤ焼きそば

Img_0025 お盆が過ぎようとしています。私も年に何回も行けない東京の墓参りに行ってきました

村の蓮田の蓮が咲き始めています。この花が散ると、いよいよ蓮の地下茎が大きくなっていきます。蓮はこちらに来ているタイの人が大好きな花で、遠くからわざわざ牛久大仏を見た後で茨城まで見学ツアーに来るそうです。さすが、東南アジア一の仏教国と言ってあげたいが、牛久観光大仏と蓮根田んぼってのはややハズしてる気もするぞぉ!

タイのことを書いたら、いきなり食べたくなった上海風バンコック経由ゴーヤ焼きそば、いきます!これは今、僕が食べているもので、フツーの焼きそばに飽きた時、そして作るのがめんどうな時にお試し下さい。

上海風焼きそばって知ってますか?炒めないんです。確かに最初は軽く炒めるんですが、すぐに水(スープ)をひたひたに入れて弱火で煮て、麵と具に味をしみ込ませる焼きそばです。

Img_0004 これは焼きそばの王道である冷蔵庫のかたづけに最適です。実はこの写真を撮った時には、冷蔵庫がカラッポで、わずかにキャベツとカチカチに凍った豚コマくらいしかないので、あわてて農場に行ってゴーヤとタマネギをとって駆け戻って来て作っています。材料はなんでもありで、シシトウがあればゴキゲン、インゲン(しまった入れ忘れた!)、ナスもよいし、なくてもいいし、モヤシ、使いすぎるとうるさいがまたよし!ニンジンは火の通りが悪いので細めの千切りで投入!ニラやニンニクメもウェルカム。ワケギもハラハラ散らすとグレードアップ。しいたけやキクラゲがあればジョウトー(沖縄語で上等)。

Img_0026しかし、なければないで今回のようにそれなりにサマになるというテーゲー(いいかげん)料理です。上の写真など具は3種類しか入っていません。特に豚肉がカチカチの時にいいですね。

油をテキトーに引いて材料と焼きそばを軽く炒めます。油に香りをつけたければニンニクを軽く炒めるていどで。ひたひたの水を入れて、中華スープを入れて煮ます。火はとろ火。軽く塩こしょうして、本日の主役のナンプラをかけます。

ナンプラはわが家の定番調味料でして、ラーメンに野菜炒めにとタイ料理の枠を離れて重宝しています。新潟(ゆっきんママ様から正しいご指摘。秋田であります)のしょつると似ているといいますが、国内のものは知りません。ごめん。軽くかける分には、タイ風というよりたぶんうま味が増したていどにしか分からないとと思います。アミノ酸系化学調味料より味がギュっと濃縮しているかんじで好きですね。

Img_0017 もっともタイではゲッ、ゴカンベンというほど屋台のオバチャンは化学調味料を入れて下さいますが。だいたいが、屋台のテーブルにパクチー(香菜)やにんにく、酢、砂糖(!)、粗く砕いたトウガラシなどと平然と一緒に乗ってますもんね。「味王」という現地製品もあるくらいです。タイに沈没した長期旅行者ともなるとあの舌がしびれる感じがいいなぁ~どと言っていますが、いかがなものでしょうか。

ちなみにわがウチナー(沖縄)でもそれはそれはよく使います。チャプルーには小さじでドンというかんじで入れますから、化学調味料がイヤダという皆さんは、あらかじめ入れないでね、と言っておきましょう。けげんな顔をされるでしょうが。

Img_0018 さて、味付けですが、まったくいいかげんで、今回はナンプラとテンメンジャンを使ってみました。もちろんオイスターソースでもいいのですが、あいにく品切れでした。隠し味ていどにウースターソースをちょびっと。なければ醬油でもかまいません。ただし、ちょびっとね。味つけはお好みで増減して下さい。タイ人なら酢と砂糖を入れてしまうでしょうが、あまりお勧めできませぬ。

蓋をしてスープがなくなるまで煮きります。途中で豚肉と麵をバラしてあげましょう。ゴーヤやナス、シシトウなど色鮮やかな野菜は、一緒に煮るとせっかくの鮮烈な色がなくなるので、別途電子レンジでチンをするか、塩少々を入れたお湯に通しておきます。余裕があるのなら、あらかじめやっておくとタイミングが合います。僕はメンドーなので同時にやっています。

最後に、ワケギかニラ少々を放り込み、別途に湯通しした野菜類を一緒に混ぜ合わせてワンラ。セージのパープルの花を添えます。なければなんでもいいです。紅生姜もきれいですが、いきなり日本風になってしまうのが難。アカバナー(ハイビスカス)を飾るとまったくのトロピカル料理に、ならんか。

麵を春雨やビーフンに変えると、材料は一緒でもまったく違う料理になります。

本日の写真は蓮特集。「蓮の花は泥田に咲く」という言葉があります(うろ覚え)。いいたいことはわかりますが、これは都会の人が作った言葉に相違なく、たぶん昇華された徳や美というものは、泥の中のような世の中から生まれると言いたいのでしょう。しかし、田んぼはそれ自体宇宙なのです。単なる「泥」ではありません。このあたりについてはまた別な機会に。

2008年8月15日 (金)

日本農業が自由化されれば価格が下がるのか?最終回 中国輸入農産物の崩壊

Img_0003 とりあえずよかった星野ジャパン。すごいに尽きる北島!仕事を中段して中継を観てしまった!

逆になんなんだ男子柔道!こんなに強かったのか男子卓球、逆にどうした福原!航平カッコいいぞ。

さて、いよいよシリーズ最終回です。野菜類の自由化を具体的に考えてみることにします。

まずホウレンソウなどの葉物やトマト、キュウリ、ナスなどの果菜類は鮮度が命の日配品扱いです。納品翌日の夕方には割引、3日目夕方で半額以下、そして返品、ないしは廃棄です。あまりよろしい商習慣ではないと思いますが、現実にはそうなっているようです。

こうなるとチルド(冷蔵)で運ぶしかないでしょう。冷凍野菜もあるにはありますが、議論の外としましょう。日本の農産物市場が冷凍野菜一色となるのは、想像するとかなり面白い風景ですが。

チルド輸出対応ができるのは、近隣諸国しかありません。中国、ロシア、韓国、台湾といったところでしょうか。わざわざ太平洋をまたいで、安いホウレンソウを運ぶためにバカ高い航空燃料を使ってまで米国や豪州から運ぶことなど絶対にありえないし、 露は論外、韓、台は耕地が狭隘なのでたいした輸出力がありませんので除外します。

Img_0007 ここでやや脱線しますが、農水省は欧州とわが国の農家一戸あたりの所有農地の大きさを比較したがります。そしてイタリアは日本の26倍、ドイツはと20倍とか言って、日本がいかに国際競争力がないのか、自給率がなぜ低いのかの論拠にしています。

農水省ですらこの有様ですから、この数字のトリックに引っかかる人は実に多くて、特にエコノミストという人種はコロっと引っかかってしまい、日本農業の生産性の低さの批判の根拠としています。農業現場と農産物流通現場を知らない人たちの哀しさなのです。

日本の耕地が狭いからと言って、だからなんなのです。こんな耕地面積の大小は、国際競争力を判断することについて無意味な数字です。だって、日本の農産物はEUへほとんどいかないでしょう。逆にドイツのホウレンソウがこちらに来ますか?イタリアの缶詰トマトくらいじゃないでしょうか。農産加工品は多少来ますが、たいしたことはありません。輸入農産物で来るのはNZのにんじん、豪州のカボチャ、米国のブロッコリーなどに限られています。後は保存性がいい玉葱、ジャガイモが少々かな。

つまり、遠隔地にあって、現実に相互に貿易を行いえない地域間で競争力を論じあっても現実には無意味なのです。日本のコメの競合関係にある外国産のコメが世界中に存在しないのに、その価格差を論じるのと同じです。

となると、現実には日本の農産物市場が開放された場合、国内市場を攻略できる国はただ一国しかありません。かつて日本商社に資金と流通を提供され、国内農産物市場を瞬く間に席巻し、日本の農業関係者を恐怖のどん底につき落とした、かの中国だけです。

結論から先に言いましょう。今や、もう中国農産物を中長期的に脅威だと思っている日本の農業関係者などひとりもいません。ある大手量販店の仕入れ担当役員と話したことがありますが、こう言っていました。Img_0006

「私たちの量販店チェーンは中国産農産物と加工品が地雷源だと認識しています。中国農産物はいつなにが起きても不思議ではないと思っています。

また、水と土壌の汚染が限界まできていますから、商社の担当者が言うように製造管理だけでどうかなるというレベルを超えてしまっているようです。

それでも中国とつきあわねばならない漬け物などの加工業者や冷凍食品業者は、そうとうに苦労しているようです。現在オリンピックがらみであちらが輸出規制をかけていますが、今くらいの輸入量くらいが適当です。伸ばす予定は今のところありません。一時的な増減はあっても中長期的には中国場離れは止まらないでしょう」

実は、中国農産物が過剰に安いのには理由がありました。「訳あって安かった」のです。ひとつは、人民元為替相場の不当な人為的なコントロール、第2に、農民に対する暴虐同然の収奪政策、第3に、安全性を省みない自然破壊的な収奪農法、第4にホウレンソウにシロアリ駆除剤を散布するようなコンプライアンス(規範)無視の体質、そして第4に、毒餃子事件に典型のように、明らかな人為的な事故が起きても、シャラっと居直り、あろうことか被害国側に責任をなすりつける中国特有の傲岸不遜なキャラまで暴露されてきています。

Img_0005 結果、中国農産物は自分で自分の首を締めてしまいました。農民反乱は相次ぎ、日増しに大きく拡大しています。数万人規模の農民反乱もあったそうです。また頼みの人民元は諸外国の切り上げ圧力に直面してジリジリと切り上がってきています。遠からず、中国製=安価という神話は崩壊することでしょう。

そしてなにより、食べる人、住む人の安全性を一顧だにしない水と土壌のすさまじい環境汚染により、農業生産自体が崩壊の危機にあります。あの国には膨大な数の水俣病、イタイイタイ病などがあると考えるべきでしょう。たぶんかつての日本の高度成長期の数百倍、いや千倍以上もの数で。考えるだに恐ろしいことです。

しかもかの国ではいかなる団体結社、言論、宗教の自由が認められていないという前近代的な国家です。ですから日本であったような反公害闘争や住民運動、農民運動など起こる余地がなく、あるとすれば追い詰められた困民による暴動となってしまうのは、この間明らかです。

中国が今の愚かしい環境破壊をただちにやめない限り、いや仮に止めたとしても中国の国土の公害汚染からの回復には気の遠くなるような時間と費用がかかると思われます。何度か申し上げているように、中国産輸入農産物を輸入し続けるということは、そのまま中国の極度に汚染された水と土を輸入することと同義語なのです。

また、中国の国内食糧市場の逼迫により、輸出力が急激に鈍化しています。食料を売るどころか、買いつけに必死なのです。農産物輸出どころか、自分の国の内需すらまかなえない状況に立ち至っています。

このようにひとつひとつ具体的に見て来ると、私には農産物自由化⇒価格が低下するという楽観的な構図は迷信にすら思えてきます。日本の農産物の流通や生産方法の改善をすることはいうまでもなく必要なことです。しかし、それはどのような新しい農-流-消の関係を作り出していくのかという見取り図を作っていかなければなりません。それなくして、農産物の一部の要素でしかない「価格」のみを論じるのは果たして正解なのでしょうか。

Img_0017 以下、蛇足というかあとがきというか・・・

続けて、2本の長期シリーズをやってしまい、昔、登山で縦走をしたことを思い出しました。息が上がっています。コメはまだまだ語り足りませんので、またいずれ再論いたします。自由化問題はとりあずこれで幕ということで。

しかし、調べてみると「日本の食料品は高い」という人はがっぽりいるのですなぁ。だいたい比較の対象はアメリカですが。あの国は世界一特別で異質な国なのですがねぇ。アホみたいに広大な国土と、ヒスパニック系の低賃金農業労働者によって成立しているんですが。個別にデーターを調べないで、数字も出さず高い安いをいうんだから困る。

ちなみにアメリカの野菜はうまいですよ。意外ですが、ジャガイモ、インゲン、ニンジン、カリフラワー、ことごとくへぇ~というほど美味しい。また逆に、キューバは「有機農業大国」として喧伝されていて、住みたいような国ですが、野菜はどしぇ~というほどマズイ。

6回にわたって長々とお話してしまいましたが、日本農業を囲む国際的な状況が少しでもご理解いただけましたら幸いです。明日からは軽いテーマで行くことにします。ゼーゼー、とうぶん農産物自由化のことは考えたくないや(笑)。

写真は、早朝に巣を張るクモ。ほんとにう美しい生物です。ただしタランチュラとジョロウグモは除く。次はカラスウリの花。まだ開花していません。乞う、ご期待。次の黄色の花は、すいませんわかりません。調べておきます。次はホオズキがぶら下がる台所の窓辺。下段は栗。

2008年8月14日 (木)

日本農業が自由化されれば価格が下がるのか?その5 日本にコメを輸出できる国などない

Img_0040やっぱり負けたか星野ジャパン。くそ、キューバは強いよなぁ。

あの国はスポーツ用品店に野球道具しかないというラテンアメリカ諸国とは思えない国なんですよ。フツー、中南米はサッカー一色。野球なんてカケラもないのに、キューバはカストロさんからして大の野球好きで、ちょっと前まで自分でもバット振ってたもんなぁ。次回のロンドン大会は野球は消滅しそうで、次は勝ってくんないと後がないんだよォ!

しかし、キューバのエルナンデスを上野がみごとに一本勝ちしてくれたからいいことにしようか。柔道はやっぱり一本勝ちじゃなくては。野口さんはショックだなぁ。陸連のバカヤロー。補欠までダメとは危機管理できてない!あー、たまにはこんな雑談もいいかもしれませんね。あっと言うまに一本書けてしまいますもん。

あ、忘れてはいけない。北京においてスチューデンツ・フォー・フリーチベット(SFT)http://www.studentsforafreetibet.org/article.php?id=1632が果敢な抗議行動をしました。一瞬で公安に暴力的に拘束されましたが、ペマ・ヨーコさんという父親を亡命チベット人に持つ日本女性も含まれているようです。選手村は装甲車で固められ、メーン会場にはミサイル、報道規制はすさまじく、市内での一切の意思表示も許さないという戒厳令オリンピックは異常としか言えません。2759420342_f252e1a6d9_b

では気を取り直して、そろそろ本題に。ここまでしつこく議論をすると(←私がこんなに粘着質だとは自分でも思わなかった)、そうそう「農産物市場の開放」が簡単にできないというのが分かってきたかと思います。いいかげんな「開放」なら出来ますが、その結果、日本人の食がグチャグチャに破壊されかねないというのがお分かりになってきたかと思います。

どうせやるなら、アジア統一基準、アジアGAPくらいは構想しないとならないでしょう。アジアGAPに近いものはありますが、最大の農産物輸出国の中国があの前近代的状況ですから。

今日はコメ自由化いきます。関税障壁と日本の農産物自由化の壁の象徴のように言われています。論者によっては、コメを日本の悪しき農業体質そのもののように言う人すらいます。そうであるかどうかは、前回の「奇跡の穀物 コメ」のシリーズで私なりにコメを丹念に論じたつもりでいます。日本文化と自然そのものであると結論づけました。経済的な側面は7月29日と8月4日に論じたつもりです。

Img_0025 繰り返しになりますが、単純に経済的側面だけで見た場合、「日本のコメは高いのか」といえば、アップした7月29日の記事でも述べましたが、世界中を見渡しても、日本に対してコメを輸出できる国など事実上「ない」以上、比較対照できない食材だということを抜いて議論できないのではないかと思われます。

正確に言えば、コメは世の中真砂の数あれど、日本人の繊細なコメに対する味覚を満足させるものなど世界には存在しない以上、高いも安いもないだろう、というのが私の感慨です。1993年の凶作の折、日本人がタイ米に見向きもせずに、今に至って思い出しては「あんなものは食べられなかった」と慨嘆する体験世代すらあります。

賭けてもいいですが、仮にベトナム米が10㌔1000円で売られたとしても誰が買うのでしょうか?在日の東南アジアの人しか買わないでしょう。というより仕入れる所すらないんじゃないかな。ですから、事実上流通する可能性がかぎりなくゼロのものと、比較することはできないのです。Img_0009

ちょっと脱線しましすが、個人的な嗜好でいえば、タイ米は捨てたものではなくて、93年の凶作時に大喜びした珍しい日本人が私です。特にタイ料理のグリンカレーにはあのパサパサ感がたまりません。また、ジャスミンライスというのもあって、少し混ぜて炊くと実にいい香りがします。

コメは文化そのものでして、たとえば日本のカレーライスが小麦粉でねっとりしているのは、日本米にあわせて発展したからです。南インドの、たとえばマドラスカリー(現地ではカリーとはいいません。なんとかマサラといいますが)は米と一緒に食べますが、とうぜんのこととしてカリーはサラサラ、米はパサパサです。だから手ですくってたべられるわけですね。日本米でやったら手がグチャグチャです。

閑話休題。世界でone&onlyのジャポニカ米の競合商品はカリフォルニア米ですが、これが輸出余力がないのはご存じのとおりです(米国内の空前の日本食と寿司ブームだそうで、慶祝)。

では、本気でカリフォルニア米が生産を増大させたらどうしましょう。なんせ穀物生産では、良くも悪しくも世界一の米国(なぜコメの国なんだぁ!つけた奴、出てこい!ちなみに中国では美国、これにも苦笑)ですからね。

Img_0020 実は米国精米組合みたいな団体がだいぶ前に日本に陳情に来てはいるのです。開国しろみたいな陳情ですね。しかし、これはたぶんに米国内部向けのデモンストレーションで、あまり熱意が感じられませんでした。

というのは、調べるとすぐにわかるのですが、カリフォルニア州は水田を増産すること自体が難しいのです。カリフォルニア農業はロッキーの雪解け水で農業をしている地域です。もともとが乾燥地帯ですので、水量が豊かな地域ではない。水争いすらかつてはあったそうです。ですから、この地域では葡萄やオレンジのような果樹が盛んで、インペリアルバレーでレタスなどを作っています。

たしかにコメも作っていますが、膨大な水量を必要とするために大幅に増産できないでいるのが悩みなようです。生産量が増えないので、今の価格(約2000円/10㌔)で東部に売れるというのがミソで、増産すれば、すぐに値崩れを起こしかねません。ですから米国のコメ生産者は今ていどを少しずつ伸ばせたらいいね、ていどであると思われます。

米を栽培できる条件は、生育期に20℃以上が90日間(積算気温1800℃)、年間1000㎜以上の降雨量ですから、これをを満たす地域は、米国ではわずかにカリフォルニア、ジョージア、フロリダ、ルイジアナ、アラバマ、テキサスの南部諸州くらいなのです。そして、穀倉地帯の中西部は寒冷にすぎ、麦作とトウモロコシ類などしかできません。ですから、米国で米作をしているのはカリフォルニア州とルイジアナ州、そしてフロリダ州くらいです。ガンボスープにインデカ米がパラパラみたいな使い方か、ジャンバラヤでしょうか。ね、私たちにとって脅威足り得ませんでしょう。

ですから770%もの関税をかけずとも、コメ市場は「開けてもまったく平気」というのが、私の変わらぬ意見です。多少は喰い荒らされることがあっても、日本のコメが壊滅することなど絶対にありえません。日本人数千年のGohanの歴史を甘くみてもらっては困ります。

もし開放した衝撃があるとしたら、コメ市場を「開けた」ことによる農民の精神的なショックでしょうね。これは確かにあるかもしれない。しかし、やがて自分が作っているコメがじゅうぶんに国際競争力があることがわかって自信がつけば大丈夫ですって!政府や農政族、そしてJAが開放に反対するのは、もっと国内政治がらみのことだけにすぎません。

次回で最終回とします。

写真はノカンゾウ。水辺を好みます。北京五輪に対するプロテスト。次はわが村の田の風景。オシロイバナ。下段は収穫間近の芋畑。いずれも昨日撮影。

2008年8月13日 (水)

日本農業が自由化されれば価格が下がるのか?その4 EUと日本は単純に比較できない 

Img_0032                                             

こんにちは、66ss様!いつもコメントをありがとうございます!いや、暑いですね。

当地は昨日から雨が少し降って救われました。干からびかかったカエルも元気になり、セミは短い生を謳歌しています。しかし、降るようなセミの声とはよく言ったもんで、カナカナ、ジージーと騒がしいこと、騒がしいこと、そちらはいかがですか?

さて、あなたのコメントは、色々の意味で励みになります。一見私と反対のことを言っているようで、反面ズバズバと都市住民の見方をしっかりと持って切り込むあなたに感心していました。

さてImg_0012_2 66ss様、今回のあなたのコメントは、かつて海外安宿旅行が好きだった私にはよく分かりました。日本の農産品は「高い」と・・・。しかしそうかなとも思いました。私の経験を少しお話しましょうね。

1993年だったですかね、イギリスに行った時には1£(ポンド)180円でした。ですから、ヨーロッパは物価が猛烈に高いや、というのが印象です。今もけっこうこれに近いレートでしょう。いったんドボンしてしまえばそれなりに感覚が馴れるんですが、初めはキツイよね。特にアジアや中東からヨーロッパに入ると、いきなり生活費が数倍になりますもんね。

一方、95年にアメリカに行った時には、その正反対です。1$(ドル)なんと80円ですぜ!そこのけ、そこのけ「円」が通るって気分です。輸出企業にとっては深刻なショックでしょうが、申し訳ないことには、私たち外国にいる日本人は嘘のような物価安を享受できましたよね。

66ss様、しょせん海外での物価感覚なんてそんなもんなんですよ。絶対化はできない。為替レート次第です。あるいは、あなたは多分長期ステイか、留学をなさったのかもしれません。となると、交換レートには疎くなるでしょう。手持ちの円はすべてポンドに換えてしまってポンド世界にどっぷり漬かりますからね。

しかし、現実の国家間貿易は、為替レートが基本です。あなたのイギリスにいらっしゃった時代はいつか分かりませんが、為替レートがある以上、ある国とある国の農産物市場価格を比べるのはけっこう大変なのです。あなたが「安い」と思ったのは、あなたがた在英邦人に対してなのか、あるいはイギリスのサラリーマン庶民の所得に対してなのか、そのあたりもお考えください。Img_0007

そしてもうひとつ、これはとても重要なことですが、EUは日本のモデルにならないのです。なぜでしょうか?

それはEU域内でのような、無関税,、統一生産物基準、統一生産物規格、それによる域内流通があってこそのEUの物価があることです。

このEU域内流通の自由化のために気の遠くなるようなルール作りを欧州諸国はやってきました。

マーマレード・ソーセージ論争という話があります。交渉の席でイギリスは「オレンジの皮だけで作るのが正しい」と言い、フランスは「とんでもない。果汁とスライスも入れないマーマレードなどありえない」と反論します。すると、フランスはソーセージについて「肉と香辛料のみで作るのが正しく、イギリスのようなパン粉など入れたのはソーセージの枠内に入れられない」と言い返すわけです。

パン粉入りのイギリスソーセージ、モソモソして相当にすごい味です。B&Bでずいぶん食べさせられました。しかし、これをソーセージの農産物枠内に入れられないと英国内では大変なことになるわけです。域内輸出に「ソーセージ」として出荷ができないからです。ま、あんなもんはイギリス人しか食べませんがね(苦笑)。

決着はどのようについたかはわかりませんが、これは欧州各国が皆、農業国で、その上食文化はお国柄ということをよく物語っています。こんなことを膨大な時間をかけてすり合わせたのですから、まぁ欧州人はタフというか、気が長いというかですよね。

Img_0002 こんな例を出したのは、いくら宗教や民主主義を共有し、生活レベルが同じ西欧諸国でさえもが、域内自由化がいかに難しいかということです。

たとえば、ジャガイモのEU域内での残留農薬数値、そうですね、硝酸態チッソの数値は2000㎎、保管したものは2500㎎と決まっていて、それを超えると域内流通ができません。とうぜん、ジャガイモだけではなく、すべての農産物にビシっと子細なEU域内基準体系が存在します。これに違反すると域内流通ができなくなります。

また、単に生産物基準だけポンとあるわけではなく、これに対応した検査・認証システムであるユーレルGAP(欧州小売店適正農業規範)があって明確に規定しています。このGAPなど、EUにとどまらず、今や世界各国の規範に発展しているほどです。ちなみに、日本にもJGAPがあります。

そして次に欧州は、地続きですから(英仏もトンネルで繋がっています)、シリーズ第2回で述べた大量安価輸送ができます。いちいち飛行機か船舶を使うしかないないわが国とは大きな違いです。

このような統一EU基準があって、それを裏付けるGAPがあり、域内無関税流通があり、そして陸上輸送が可能であるという諸条件があって、初めてEU諸国の農産物価格が存在するというわけです。ね、なかなかすごいでしょう。これがほんとうの「農産物市場の開放」という意味なのです。

66sst様、「農産物市場の開放」と言えばひとことですが、都会の皆さんはやや簡単に考えすぎておられます。ただ関税障壁をなくせばいいわけではないのですよ。入ってくる国と、受け取る側の国で先ほどでのEUのような相互の「地ならし」が必要なのです。それをしないで商魂だけで突っ走ると、この間の中国産農産物と加工品のような深刻な被害を出して、やがて消費者から総スカンを食って自滅してしまうことになりかねせん。

そしてあえてもう一点付け加えれば、EU域内では自由化しながらも、EU全体として、外国、特に米国に対してはきちんとブロックする姿勢を崩していないことです。域内は自由化し、外の地域にはあの手この手でブロックするというダブルスタンダード(二重規範)を百も承知でしているのもEUです。やってくれるなというか、見上げたものだといったらいいのでしょうか。

66ss様、これらEUに存在する農産物自由化のすべての条件がないわが国で、「農産物市場の自由化」をするということが、そうそう簡単なことではないことをご理解頂きたいと思います。

次々回で中国に触れますが、EUとは天地の差が存在します。ではまた明日。

写真は、稲穂。感動的です。出穂(でほ)から40日。収穫は9月なんにちと決まってきます。中は葛の花。いつも思いますが、こんなクズのでさえ美しい花をつけます。気がつくかないのは私たちだけです。下段は今から咲こうとしているサルスベリの花。これから満開です。やや暑苦しいけどね。野草の花は栽培種と違って、つつしみ深く爽やかです。下段は蝉の脱け殻。もう農場中脱け殻だらけです。

2008年8月11日 (月)

日本農業が自由化されれば価格は下がるのか?その3 日本の農産品が高いというのはデマです

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悲しいことに、頭から日本の農産物が高い!と断罪する人達は後を絶ちません。

日本国民が不当に高い価格の食料を買わされていて、多大な出費を強いられているという人すらいます。そのような論者の中の過激な人は、非合理的な日本農業はなくなったほうがましだとさえ唱えています。ほんとうにそうなのでしょうか、そこでデーターを調べてみることにしました。

では、具体的な数字を出して比較してみましょう。まず、2003年に総務省統計局が出した「世界の統計2003年版」に家計消費支出の食料支出の占める割合のデーターが出ています。日本は25%弱です。この数字はカナダ、ドイツ、イタリア、イギリスとまったく一緒です。特に日本の食卓が不利益をしているという証拠はありません。先進国としてはいたって妥当な水準です。

Img_0002 次に、ドイツと比べた野菜の価格を調べてみました。ゲッチンゲン市の青空市での価格調査のデーターがあります。青空市で生産者自身が売っていますから、流通コスト(卸と小売)が省かれているので、実際のスーパーではこの2割増しとお考えになればいいと思います。こちらの道の駅と比較するのが適当だとは思いますが、まぁいちおうの目安にはなります。

ドイツ・ゲッチンゲン市では、ピーマンが300㌘ひと袋で156円。卵が1個36円。平飼卵は42円。トマトは300㌘で95円。ブロッコリーが1個で246円。カリフラワーが1個150円。この価格をご覧になって、ドイツって農産物が安いと思われる方があれば、ハイ、手をお挙げ下さい。

ものにもよりけりですが、ほとんど同じ価格水準か、品物によってはもう俺、ドイツに移住したいと思いましたもん。平飼卵が42円ですぜ、俺なんか平均29円だぞウルウル、泣くな、泣いてはいけないハマタヌ(笑)!

たしかに農地一戸あたりの広さはドイツは20分の1ですが、だからと言って20倍安いなんてことはまったくないのは、今のゲッチゲン市の調査でお分かりになりましたね。もしそうならば、日本ではピーマンひと袋を3千円強で売っていることになります(笑)。Img_0016

話を戻しましょう。さて、国産「高級」ということの筆頭によく上げられているコメですが、スーパーで流通するコメの最も安い相場が2000円/5㌔で、1合換算にすると60円、1合で茶碗3杯分ですから、一杯で20円となりますね。魚沼コシヒカリはこの約倍ですから茶碗一杯あたりで40円。これが高いですかねぇ。日本最高、つまりは世界最高級のお米が、お茶碗3杯で120円、缶コーヒー1本120円と同じ価格です。

高いと思うのはコメ一回の購買支出が5㎏単位だからで、5㎏あれば小家族でそうとうに持つでしょう。それはコメが保存がきく特性があるからで、パンを一時に5㎏買えば同じことです。同じ国産「高級」といってもホンマグロの大トロの「高級」とは同次元の問題ではないのです。

Img_0007 ここで注意しなければならないのは、輸入農産物を日本円に換算する場合、その時々の為替レートに左右されることです。

極端に言えば、かつて80円台までもっとも円安が進んだ時と、かつてのような固定相場制の時のように360円台とは比較にもならないでしょう。輸入農産物が「安い」と言う方は、この為替相場が生きものであることをどこかで忘れているような気がします。

大手商社が海外駐在員に、コメの現地価格の統計を出してもらったデーター(「データーブック世界の米」)があります。北米での価格差が面白いのです。1986年に1217円/5㎏だったものが、99年には3200円にと倍になっています。同じ北米コメの価格がどうして円換算するとこれまで違うのでしょう。

答は為替相場の上下です。輸入に頼ると上下し続ける為替相場により食料価格が上下してしまいます。まったく品質と関係がないところで国民生活が左右されてしまうのです。もし、またもや円高にふれて170円にでもなったらどうするんでしょうか。

あるいは、中国が元高になった場合(たぶん遠からずなりますが)、今の価格が3割、5割値上がりということもありえます。特に現代はデリバティブマネーが為替相場を左右する傾向がありますから、今がたまたま円安だからと言って、こんな水モノの為替相場に国民の命の糧を預けていいとは思えません。

さて皆さん、ここであらためてお聞きします。果たして日本の農産物は果たして「高い」のでしょうか、と。

写真は、モロヘイヤの畑。このネバネバがたまりませんわい。次はベネゼエラで買った仮面舞踏会のキザ男。ちょっと私の愛聴のビギンのライブ大全集が見えます。次はイランで買った錫の大皿。これを背中に背負って飛行機に持ち込みました。お客が来た時には、この大皿の上に色々な料理を乗せます。なかなかステキですよ。下段は朝もやの霞ヶ浦。朝5時に眠い目をこすりながら撮影。なにか印象派の絵みたいですね。

2008年8月 9日 (土)

日本農業が自由化されれば価格が下がるのか? その2 日本の関税外障壁とは

Img_0014 ここで、日本の農産物輸入市場の特徴を考えてみましょう。

まず第1に極東の島国だという地理的な条件があります。

ここをあんがい見落とす人が多いのですが、日本市場に農産物を運ぶとなると、欧州域内や北米大陸と違って、鉄道やトラックという安価大量輸送機関を使えないのです。農産輸出国である欧州からはるかに遠く、米国や豪州からさえも太平洋やインド洋をはるばるまたいでこねばなりません。これは生鮮農産物の輸出にとって致命的です。

日本の農産物市場の大部分を占める日配品市場が事実上ダメということになるからです。あえてやろうとすれば、航空機か船舶しかないのですから。しかし、たとえばほうれんそうや大根をサーチャージをガッポリ取られてまで日配チルド空輸して、しかも輸出検疫料まで払うとすると、ビジネスとして合いますかね?

では、船舶はといえばのんびりしすぎて、穀物や常温で長期保管できる品物以外には間尺に合いません。となると一部の農産品を除いて、日本市場を狙えるのは東アジア域内諸国ということに限定されてきます。中国については別途一回を使ってお話しますが、韓国、台湾はその絶対的な耕地面積の狭さから、パブリカなどの高付加価値農産物しか狙えないでしょう。あえてタイ、ベトナムまで範囲を拡げてもいいですが、鶏肉や海老などのように冷凍が効かない農産物は同列に扱えません。

Img_0009 たぶん66ss様の脳裏には、ひと頃の輸入農産物の雪崩的制圧の光景があるのかと思います。あれはまさに私たち日本の農業者にとって「華寇」そのものでした。

農産物市場が完全開放されれば、あのような超安価な農産物が日本の農産物を駆逐すると思われているのだと思います。よく考えて頂きたいのですが、あの時の主力は中国産農産物でした。その時の輸入農産物の超安価のイメージがまだ残っているのだと思います。

しかし、あのような飢餓輸出まがいのダンピング的な価格で来られて耐えられる先進国はどこもありません。血の気の多いフランスやイタリアで同じふるまいを中国がしたら、冗談ではなくほんとうに農民暴動がおきますよ。特にフランスは実際米国農産物に抗議して、マクドナルドをぶっ壊したお国柄ですからね。

そうなったら第1回で述べた防御措置をEUは発動することにためらいはないでしょう。それほどまでに世界的に見て、異常な安値だったのです。あれをスタンダードにしてはいけません。しかし、今はその内部の矛盾から中国産農産物は一時の勢いを完全に失っています。それについては次回にお話しましょう。

第2に、日本人の爛熟(らんじゅく)したといいますか、異常にウルサイ味覚と視覚です。これは「ジャパンスペック」(7月31日)の記事で書きましたのでお読みください。

Img_0006 確かにゴマをピンセットでより分けるようなことを課すジャパンスペックは私は日本農業の悪しき風習の金メダルだと思っていますが、皮肉なことに見方を変えれば、日本の農産物市場を「守っている」ことは確かなのです。禍福はあざなえる縄の如しです。

第3に、日本の農産物が質的にも高水準にあることです。これには品目によって多少のデコボコがありますが、かなりの作目では確実に世界最高品質です。特にコメ、果物、一部の野菜などでは、これまた文句なく金メダル級です。他国の追随を許しません。

つまりは良くも悪しくも、日本の食品市場は世界に冠たる成熟しきって、今や腐り始めているような高度爛熟市場なのです。この特異に成熟してしまった日本の農産物市場こそが、日本の関税「外」的障壁そのものなのです。

ですから諸外国で、この日本独特の三つの大きな関税「外」的な障壁をよじ登ってまで襲来する国はそうそういないと私は見ています。そこまでしてやる経済的なメリットが少ないですから。

写真は、私の母屋の台所の窓際。こうして撮るとほんとうは雑然としているのに不思議と綺麗ですね。次は霞ヶ浦の早朝風景。

2008年8月 8日 (金)

日本農業が自由化されれば価格が下がるのか?その1 完全自由化などというものはない

Img_0082 実は、今日はコメの最終回を書く予定でしたが、66ss様から、「日本の野菜は高いのか?第2回 ジャパン・スペック」(7月31日)に対して投稿を頂いたので急遽変更をいたしました。コメント、ありがとうございます。

(引用開始)
煩雑な流通経路に関しては、輸入される農産物も同じでしょう。
何しろ、同じ店頭に並んでいるのですから。
それも含めて、競争です。それでも、国産の方が高いなら、それはやはり生産者の効率の問題ではないでしょうか?「俺のせいじゃない!」と叫ぶのは自由ですが、それでは何にもならない気がします。
もし、「自分達の方が正しい」と信じるなら、完全に自由化してみてはどうでしょう?結果は、市場が出してくれると思いますよ。

(引用終了)

66ss様のご意見は、毎回刺激的な内容でインスパイアーされることしきりです。私はこのブログを「自分たちのほうが正しい」と信じて押しつけているつもりはさらさらありません。むしろ一種の農業を語り合う談話室のようなものだと思っていますので゛反論、対論大歓迎です。とてもよく勉強をなさっている方だとお見受けしますので、またコメントくださいね、お待ちしています!

Img_0029 ではまた、このご意見を反論ということでなく、考えてみましょう。まず66ss様ほどの方ならば、今ちょうど終了したばかりのWTOドーハラウンドの状況はご承知のことと思います。最後はアメリカと新興工業国の中印の対立という構図になってしまって、日本の要求であった重要品目の関税が、日本側要求の10~15%は一蹴され、4%で落ち着きそうな状況が紛れてしまいました。

ま、ドーハラウンドは全面敗北です。かろうじて、コメ、ムギ、乳製品などを守ったってところでしょうか。実のところ、66ss様には腹立たしいでしょうが、JAを中心によかった~っという安堵感が流れているのは事実です。

さてここで、66ss様の誤解を解いておかねばなりません。私は日本農業開放否定論者ではありません。むしろどちらかと言えば、「世界の時流の流れの中でいつまでも関税障壁をやっている場合じゃないだろう」という考え方です。ですから、66ss様の「ならば関税自由化してみたら、結論がでるのでは」というご意見には半分賛成です。

Img_0031_2 ただ、「完全自由化」などということが、いわばありえない空論だと私は考えています。国内の農業という自国の基盤的部門を軽々に「完全」自由化して喜ぶ国は、かの米国 まで 含めて皆無ですから。

米国は輸出補助金という悪名高い反則技を繰り出し、一方、EU諸国は関税外的障壁の常連さんです。遺伝子組み換え農産物の輸入拒否は、農業の理念的な問題であると同時に、関税「外」的障壁の一部でした。米国産の農産物を入れないということにかけては、EUは日本の人後に落ちません。いや、はるかにタフなネゴシエイターでしょう。

そもそもが、EUという地域国家間連合体は、米国の津波のような農産物輸出に対するブロックとして生まれました。安全保障だけなら既にNATOがありますでしょう。あえてEUを屋上屋をして作らねばならない動機の最大のものは、農業でした。

EC時代から、小はマーマレードから、大は牛肉、ワインまで恐ろしいほどの時間をかけて基準、規格をすり合わせて今のEUがあります。ですから、その手練手管において、欧州ほど手強い国家群はないでしょう。

Img_0049 さて66ss様、現代の世界ではあなたの仰せの「完全自由化」という概念自体が、ありえない空論なのです。他国に対しては「自由化」という鉾を使い、自国の楯としては関税「外」障壁を使い分けているのが世界の国々なのです。しょせん農産物の市場自由化といっても、WTOで開けてしまっても、防ぐ手段はゴマンとあるわけです。

もし仮に、かの中国が欧州に雪崩的な農産物輸出をして、欧州農業を圧迫したとした場合、EUは日本のように関税という方法を使わずに、たとえばその安全性と環境破壊問題を楯にして輸入禁止措置とするかもしれません。自国民の安全性の保護から見て当然の措置です。あるいは中国農民の悲惨な状況を「飢餓輸出のためのダンピング行為」だと指弾するでしょう。欧州人ならぜったいそうします。農産物に人権問題をからませるくらい平気の平左です。

つまり、「農産物市場は開放していますよ。原則はいささかも変えていません。しかし、こんな危険で非人道的な農産物は、自国民の保護と人権上の観点から改善が見られるまで輸入禁止としますよ」という便法です。

お分かりになりましたでしょうか。農産物交渉はジュネーブだけでは決まらないのです。よしんば完全自由化となってしまっても、やりようはいくらでもあります。

では、次回は、現実の農産物市場の自由化をした場合の具体的シミュレーションをしてみたいと思います。

写真は、ポールで作ったカボチャ。底が白くなりません。カボチャと干しているたまねぎの情景。中段はソーメンカボチャ。下段は自慢の堆肥。

米、この奇跡の穀物 その5 湧き水の教え

Img_0042 参って、地主さんに酒一本を手土産に相談すると「あそこはオレもてを焼いたんだぁ。じゃあ井戸でも一本掘ったらいかっぺよ」、ご冗談でしょう。井戸一本掘ったら60万円はしますよ、まったく~。私がムッとしたのを見て、「ならば、新宅のジイ様に相談すりゃいかっぺ。あのジィ様はあのあたりの湧き水にくわしいぞぉ」。

そしてこの新宅のジィ様に酒2本を手土産に(本数が増えた)教えを乞いに行きました。このジィ様とひと晩飲んだあげく快諾。そして翌早朝、さっそく現地に行くと、ジィ様田んぼはさっと見た後でいきなり、山に入っていくのです。足拵えは地下足袋、軽快そのもの。とてもジイ様とは思えません。ちょと沖縄のチョーイチさんに似ていなくもありません。オタオタしていると私が遅れます。

腰には鉈(なた)を吊るし、手には刃の厚い鎌を持ち、バサバサとかき分けながら見て回ります。なにを聞いても、「う~」とか「あ~」しかいいません。そして正午ちかくかれこれ数時間も山を歩いたあたりで、見つけました最初の湧き水です。それから面白いように数か所の湧き水を発見しました。

Img_0021 湧き水というのを見たことがおありですか。もちろん蛇口がついているなんとかの名水ではありません。まったくの人が触ったこともない天然水です。

沖縄でも源河(ゲンガ)という河の源流まで行ったことがあるのですが、森の湧き水はもっと小さくたよやかです。わずか30㎝くらいの大きさの砂まじりの窪地の底からふっふっと透き通った水が湧き出しているのです。

ジィ様は塩を白い小皿に供えて、手を合わせました。ジィ様に言わせると、この湧き水は神、水神様なのだそうです。そして、田んぼは水神様にお願いして作るものなのだそうです。ひと昔前には、早春の田作りの開始の時には、皆、湧き水の水神様に来て祈りを捧げたのが風習だったそうです。人によっては祠(ほこら)も作ったといいます。今でもその跡は残っていました。このような湧き水が私が借りた谷津田の両脇に数か所にあることを発見しました。ジィ様せは至極満足げでした。

そして夕方になろうとする時間になって、私にこの水を田んぼに引く技術的な方法を教えて頂きました。え、どんな方法かって。現物を見ないで説明するのは難しいのですが、やや湧き水がある場所からの勾配を工夫し、水の道を用意すること、そしてもっと田んぼをたがやして柔らかくしたら、呼び水として下の小川からボンプで毎日水を引いてやること、ただし、あまりやりすぎぬこと。

田への水の引き方もただ角からパイプで水を流してもまんべんなく行き渡らないので、あるていど耕して平らになったら縦横に溝を1尺(約33㎝)幅に切って、そこに順次流し込んでいく。そしてあとはひたすら「待つ」ことだそうです。「ここは昔は湧き水だけで田んぼさ作った場所だ。ぜったいにできる!」

毎日のようにジィ様は見に来てくれて、時には湧き水を点検に山に入っていきました。「大丈夫、まだ水神様はあのあたりにいる」と森から田へと伸びる斜面の中程を指さします。ほんとかいなと思いながら、ひたすら呼び水をして、待ちます。

そして1週間ほどたつと水が確かに増えているのがわかりました!そして思い切ってポンプの呼び水を切ってもさほど減らないのです。涙がでるほど嬉しかった記憶があります。コメと水との関係、更には湧き水を頂いている森林との関わりが肌身でわかった瞬間です。Img_0025

コメは水でできています。水は森林で蓄えられます。そして腐葉土と土中微生物により各種ミネラル、栄養素を与えられ、磨き上げられた水となり、田んぼに注いでいくのです。コメは田んぼの中だけで見ていてもはわかりません。その水がどこから来るのか、何が源なのかが分かってくるとコメが、日本の生態系の中心に位置していることがおわかりになるでしょう。

写真は、わが村の田んぼ。ペットボトルの風車が回ります。そして月見草。最下段は図鑑で調べます(笑)。

2008年8月 7日 (木)

米、この奇跡の穀物 その4 田んぼの底は焼かない陶器

Img_0038 書き始めて、コメを知る旅のシリーズ第1回としようかなと思っています。

コメを考え始めると単なる穀物の域を超えて、生きものとの曼陀羅、そして日本という不思議な島の文化の作られ方にも及んでいってしまいます。こうなると本一冊書けそうな気さえしてきます。それほどまでにコメというのは奥ゆきと拡がりが深いのです。

さて、昨日投稿いただきました余情半さんがご自身のブログhttp://kantannihasinjinai.blogspot.comでバケツ栽培のコメ作りに挑戦されたことを書いています。私からみれば、本職の農家のやっている田んぼのほうがよほど簡単なんです。規模がまったく違うだけです。

私はバケツ栽培をやったことはないのですが、たぶん水管理が大変だろうなとは容易に想像がつきます。本物の田んぼの床は粘土です。それに対してバケツは鉄板です。この違いがわかりますか?そう、鉄板は水を吸わない。より正確に言えば、吸収したり、吐き出したりしないのです。天然の粘土は、顕微鏡でみると、多孔質といって無数の微小な孔があります。そこから空気や水を吐いたり、出したりしている天然のフィルターや弁の役割をします。過剰ならば吸収し、少ないと吐き出します。

大雨の後などは、田んぼの堰を切って放流すればいいわけですし、渇水の時には堰を開けて水を取り込みます。ですから、水管理は馴れれば楽な仕事で、むしろ田んぼの状態や稲の観察することが農家の仕事だといえます。

Img_0106 ただ、このように練り込まれた床土になるまで、大分手間がかかっています。先祖代々、毎年春には水を入れ、代かき(しろかき)といって床土を練っていく作業をします。これによって、言ってみれば、毎年陶土をこねている状態になっていくわけです。

陶芸家がなぜいい田んぼの粘土を珍重するのか、その理由がお分かりになりましたでしょう。田んぼの底は焼いていない陶器のようなものなのです。だから水がこぼれず、しかも空気と水が行き来出来ます。

では、この水がどこからくるのでしょう。実は、若い農家はここが分かりにくくなってきています。初めから基盤整備されて、汲み上げポンプ場から地域の田んぼ全体にパイプラインで水が送られるようになってしまったからです。確かにこれで、農家の朝と夕の日課だった水の見回り作業から解放されたことはたしかです。

しかし、同時に「うちのコメを作る水がどこから来るのか?」、「どこの湧き水や川の水が自分のコメを育てているのか」ということが理解できなくなってきています。かつてはきれいな水でコメを育てるためにした冬の裏山(里山)の手入れや河川のメンテナンスがどんどんと忘れ去られていくのは悲しいことです。Img_0002

ところで、私は帰農した最初の年からえんえん数年間も「田んぼ作り」をしたことがあります。え、珍しくないだろうって?う~んとね、私の「田んぼ作り」は文字どおり何もない原っぱを耕して、水を川から引いて田んぼにしたのです。

私が最初に借りた昔「田んぼ」だった原っぱは最上段の写真の棚状の段々畑の上5枚でした。だいたい20アール(2反)くらいだったかな。ここは地主さんも手を焼いていて放り出してあったところで、ここなら年貢(賃貸料)はいらなかっぺというご好意で貸して頂きました(後から考えるとアタリマエだ)。

しかし、すぐに後悔しましたね。だって、腰まで野草が伸びているただの原っぱだもん。桑の木さえはえています。これを刈るだけで一大事。しかもトラクターなどなかったのですべて人力です。刈り払ってから、一本一本根を抜くのですが、春といっても今思い出しても大変な重労働でした。抜根しようとして、マンノウという鍬が1本柄の根本からバキッと折れたこともあります。金属部分など毎日のようにグニャと曲がって、うちへ帰って玄翁(トンカチのこと)でたたき戻すのが日課となりました。

Img_0004 そしてその後に「田んぼ」に水を呼び込むのですが、その田んぼもどきの土地には近くに川や農業用水がないのです。たしかにこりゃ、貸してくれるはずだ、とため息が出ました。方法としては50mほど遠くにある小川から水路を作るか、そこからポンプで汲み上げて、大きなホースで送るかだと初めは思いました。しかし、高低差があって高い所に低い所から水を送るのはそうとうに大変なようです。しかたなしに断念。ああ、水がなければ田んぼは出来ぬ、田んぼが出来ねば、コメは食えぬ。

写真は典型的な段々の谷津田の6月。次はハーブ畑。バジルです。次は昨日の頁トップの田んぼを別な角度で見た光景の5月。中段はヤマツツジ。

2008年8月 6日 (水)

米、この奇跡の穀物 その3 田んぼは生命の曼陀羅

Img_0006 上の写真を見て下さい。ここは私の農場のすぐ側にある典型的な谷津田(やつだ)です。谷津田という言葉はあまり聞き慣れないかもしれません。写真を見ていただくとわかると思うのですが、両側から小高い森に挟まれた谷のような地形のことを言います。

この谷津田の左奥の森の2本伸びている樹には、トビの家族が営巣しています。この時期、まだ一人前にならない子供たちが何羽か羽根を拡げて、谷に吹く風に乗ってソアリング(滑空)の練習をしているのが見られます。昨日はめずらしくも夕方に黒っぽいゴイサギが人相わるくやや前のめりで田んぼをあさっていました。まことにヤー公のナワバリ巡回ようです。かれらは夜行性なのでめったにお会いできないのでラッキーでした。

Img_0005_2 この頃は、わが村でも低毒性の除草剤を田植えの前に一回だけ散布という減農薬の取り組みが盛んになってきています。また農薬の空中防除は15年前頃に私たち有機農業者が村に働きかけてやめさせたので、確かに田んぼの生きものが増えてきています。するとそれを食べに野鳥が沢山来るようになりました。

いちばんうれしいことは、この谷津田の数か所でヘイケボタルが出るようになったことです。夜ともなると、昼間は樹や草の葉の裏に隠れていたホタルはいっせいに夜空から降るように空中を浮遊します。荒らされるので、あまり人には教えたくないのですが、それは人生観が変わるような素晴らしい風景ですよ。

つい最近まで左手の斜面には野つつじが咲き、左手にはノカンゾウのオレンジの花が沢山見られました。昨日行ったら、ヤマユリが満開でした。秋ともなると、小道にはヨメナという野菊の一種が清楚な白い花を咲かせます。驚いたことに、今朝の散歩の時に自生のホオズキをみつけてしまいました。栽培種ではないようですので、図鑑で調べてみましょう。Img_0033

わずか1㌔くらいの短い谷津ですが、田んぼという水系が中心にあることで、飛躍的に生物種が多様化します。それは田んぼが単純なコンクリートの池ではなく、水系から乾燥した淵に続く地形を持っていることにあります。

このようなゆるやかな自然の淵である畦(あぜ)にかけてもっとも豊かな動植物相が見られます。土地と水の間を往復して両方に生きる場所を持っているカエルなどの両生類、ミズスマシのような水面を生きる生きもの、稲の茎に網を張るクモ類、水中に生きるメダカ、そして水系の生物連鎖のいちばん基層を作っている植物性プランクトンや動物性のプランクトンが生きています。そしてそれらを捕食しにくる様々な野鳥たちもこの谷津や湖、河川を中心に活動しています。

Img_0019 それは、生きている曼陀羅。地球上でもっとも多様な生物種を支える空間です。和辻哲郎の有名な「風土」(岩波文庫)という本に、和辻さんが欧州で秋にもかかわらずまったく虫の音を聞かなかったと言っています。そして欧州人が虫の音を「うるさい」と感じることも書いています。私たち日本人は扇風機にも虫の音モードをつけてしまうくらい、それを愛してきたことと対照的です。

このような生きもの曼陀羅を愛でる心を忘れずにいる私たち日本人にとって、「コメ」を作り続けていることのもうひとつの価値がここにもあるようです。

写真は上から谷津田の情景。自生しているミントのパープルの花房に蜜を吸いにきた在来種のミツバチ。ごくろうさん!そしてこれも自生しているホオズキ。赤くなり始めてきています。最下段はヤマユリ。野性種とも思えないケバイさ。上段の写真(5月撮影)以外、今朝撮りたてのホヤホヤです。

2008年8月 5日 (火)

米、この奇跡の穀物 その2 世界で最もスゴイ穀物

Img_0038 今度は生産者の側から米をみてみましょう。

米の驚くべき特長は、連作が可能なことです。連作障害がでないのです。

これは消費者からみればふ~んていどのことかもしれませんが、ほんとうはすごいミラクルなのです。だって同じ場所で、同じように作り続けられるんですよ。別の場所に同じ規模の圃場(ほじょう・畑のこと)を用意しなくていいのです。小麦の場合、連作障害が出ますから、三圃農業(さんぽ)といって、小麦⇒大豆⇒牧草を回して作ってきました。つまり、同じ穀物の収量を安定して得るためにはその3倍の農地が必要なのです。今でもアメリカ中西部の穀倉地帯はそのような回し方をしています。

一方、わが村では50年、60年の田んぼなどザラです。江戸時代から同じ場所で稲づくりをしてきたという田んぼもいくつか知っています。うちの相棒などそのひとりで、自慢たらしく「わが田は江戸城献納米であったのだぞよ」ともう30回は聞きましたかね。

Img_0007_1 これは水耕栽培により、常に水の形で必要な栄養素やミネラルが補給されていて、また汚染物質が加水分解されたり、流れ去っていくからだと言われていす。そしてこの水もタダものではない!都会の水道水とは大いに違います。

ではここで皆さん、美味しいコメができる地形をご存じでしょうか?私は有名な南魚沼郡に行ったことがあります。新潟の平地のように田にくるぶしが水に漬かるていどの浅い平野ではなく、高度こそ低いのですが山また山の地形の中の深田です。山の岩盤と、豊かな里山の腐食土を通してとても美味しい水が湧いています。水がうまくなければ、いいコメがとれません。そしていい水とコメができる地形がいい酒ができるところです。

また、南魚沼でうかがった話では、山がちの地形特有の朝と夜の寒暖差がいいとおっしゃっていました。面白いもので、コメは亜熱帯が原産ですが、ただ暑いだけだと美味しいコメになりません。なんというかダラけてしまうのです。夜にキュっと冷えると、コメは「子孫のためにいい蓄えを残すぞ」という引き締まった気分になるようです。そして豊かなデンプン質を蓄えてくれます。日本の山がちの地形は、まさに美味しいコメができる最高の条件を備えていたわけです。Img_0014

米はまた、大量の肥料も必要としません。むしろ大量のチッソ系肥料は腰折れと言って、倒伏の原因にさえなるほどです。ですから過剰施肥→富栄養化による水質汚濁の原因を作りにくくしています。

そしてそれだけにとどまらず、小さなダムまるまる1個分くらいの水が、ひとつの地域に田んぼの形で保全されているのです。豪雨の時には水を蓄えて逃がさず、逆に旱魃(かんばつ)の時には水をキープします。このような水の保全、水量調整も果たしています。そして更には、田んぼのサブシステムとして多くのため池があります。これらの水のコントロールシステムがなかりせば、日本は台風や豪雨のたびに出水していることでしょう。

そして・・・なにより、田植えの後の水を湛えた田んぼの美しさ、盛夏の青い穂波、初秋の黄金の海・・・。私はこれほど美しい田園風景を知りません。これが日本人の心の原風景なのです。

Img_0037 コメはこのように収量、食味、収穫後の作業工程の簡単さ、連作障害のなさ、保管性の良さ、環境保全などあらゆる視点から見ても、世界の穀物の最上位にあるミラクル穀物です。

縄文時代から稲作跡が発見されています。なんという長きに渡ってコメ作りに情熱と愛情を傾けてきた瑞穂の民!

さてもう少しで、世界一美味い瑞穂の国の新米が食べられるぞ!台風よ、来るな!

お断り・先日アップした記事を加筆修正していましたら、どんどん膨れ上がってしまいました。とほほです。しかたがないので、分割して、第2回といたしました。ご了承下さい。

写真は、私の村の風景。2番目は消防団の器材倉庫。消防団があるうちは村は滅びないと言われています。次は旧庄屋さんの家。冠木門(かぶきもん)が立派です。

2008年8月 4日 (月)

米、この奇跡の穀物 その1 稲の花が咲きました!

Img_0005_1_2上の写真をご覧下さい。これが稲の花です。昨日撮ってきたのです。もう少し前には満開でした。田んぼに稲の白い花が咲き乱れる・・・というほど華やかではありませんが、小さくとも可憐で繊細な花をつけるのです

その前の時期に行ってみると、そうですね7月の初めくらいかな、稲の瑞々しい茎をカミソリで切ってみると、中には次に展張する葉がクルクルと巻き込んで準備されているのが見えます。そして8月、一斉に田は水を干し上げて、ラストストレッチである籾の中にデンプンを蓄え始めました!今、まさにこの時期です。

ここから極端な高温、例えば連日40度を超えるような温度はダメですが、夏らしい気温がないと美味しいふっくらとしたお米にはなりません。米ができるまでの積算温度表というのもあるくらいで、田植えから稲刈りまでの毎日の温度を積算して何百度という目安があります。

また日照時間の積算数値もあります。気温があってもお天道様がないと米は光合成によるデンプン化ができなくなります。カラっと晴れて夏らしい気温がお米は大好きなのです。

Img_0003 ご承知だと思いますが、米はあらゆる穀物の中で最大の単位当たり収穫量を誇っています。10アール(1反・300坪)あたり平均480㌔~500㌔(8俵~9俵)は収穫可能です(有機栽培だと420キロくらい)。飼料用米だと600キロという馬鹿げた量がとれるそうです(うまくないけど)。

この米の豊かな収量に対して、一方の雄である小麦の平均収量はは、300㌔/10a程度ですから6割ていどにすぎません。まして他の雑穀類、キビ、ヒエ、ソバなどはとうてい米の収量の足元にも及びません。この収量の豊穣が、米作文化地域の豊かさそのものでした。わが国の「瑞穂の国」(みずほ)という雅名は、この米の豊穣への感謝の現れです。

それになんといっても美味い!あらゆる料理に合います。ジャポニカ種はジャポニカ種の日本料理に、インデカ種はパラパラした食感を生かしてタイ料理やインド料理にと、ほぼ万能でしょう。これほど相手を嫌わない食味の穀物は米を除いてはない思われます。日本のコシヒカリが欧米のグルメをうならせていることは皆さんもご存じでしょう。Img_0002

しかも、麦と違って粉化する必要がありません。これスゴイことなんですよ。ヨーロッパ文明と日本文明の差がここから発生したという説もあるくらいです。麦は脱穀した後に、いったんミルにかけて粉(小麦粉)にしなければ食べられません。米のように脱穀して炊けばそのままで食べられるというわけではないですよ、気の毒!

麦は収量が少ない上に、粉挽屋に持っていって挽いてもらって小麦粉にしてから、初めてパンになるというひと手間がかかります。農家は自分の家ですべての食べるまでの工程を出来ないのです。おまけにパンを各々の家で焼くにはかつては大きな石窯が必要で、ヨーロッパは16世紀くらいまで、村共同のパン窯で週に1回くらい村の女衆総出で焼いていました。

また、米は低温暗所で玄米のまま保管すれば、一年でも二年でも保管可能です。縄文時代の炭化した米が残っていたほど保存性がいいのです。これは玄米が炊いた後でもびっくりするほど痛まないのをみればお分かりかと思います。戦国時代も、あるいはまた大戦当時も日本の兵は俵を担いで転戦していたようです。日本人と米は切っても切り離せない関係だったのです。

(この稿続く)

写真は、私の村の昨日の水田風景。

2008年8月 3日 (日)

農業は深く広い風呂敷

Img_0001                                                    普通、工業といえば工業です。工業生産とその施設や技術、人事や資本構成を見ておけばいいわけです

ところが農業という分野は農業生産の技術や施設を見ていても農業のなんたるかは分かりません。

私は農業というのは、人々の生活にまつわるありとあらゆることをつなげ、包み込む風呂敷のようなものだと思っています。たとえば、教育、福祉、環境、工芸、演芸などは皆農業の中にもともとあったもので、それが分化して農業から出て行ったものだと考えています。かつて農業は生活の核として、大きくゆったりとすべてのことを包み込んでいたのです。農業の懐はほんとうに深く、広く国民はなにかしらの形で、農業と繋がっていたのです。

農業は、かつて失業者人口の吸収する場所でした。今でも沖縄はそうですが、自慢ではないが、日本最高の失業率を誇ります(えばることか)。しかし、なんかお気楽なんですね。単なる亜熱帯的楽天も大いにありますが、それだけではなく自分の村に帰って百姓の手伝いでもすればなんとなく食っていけるからです。今まで歴史的に農村ほど時の景気のクッションになってきたところはありません。Img_0023 どんなに疲れて傷ついた人でも、やさしく受け入れてきたのが農村でした。

また、障害者でも、その障害に応じてやる作業はいくらでもあります。老人にも子供にもたっぷりと向いた仕事があります。こんな分野がどこにあるでしょうか。

神経を病んだ人ですら、毎日淡々と草むしりをして、土をいじっているうちに快癒してしまったという例もたくさんあります。有名な森田療法という精神療法は、病院に農園を併設して患者さんに農作業をさせる中で、土をいじることによる心の落ち着き、植物の成長を助ける楽しさ、虫や鳥と生きる意味、収穫の歓びと言った農の癒しを大きく利用して、治癒していくという方法です。単なる抗鬱剤の投与で事足りさせてしまっている近代精神治療とは雲泥の差です。

工芸は元来が、農閑期の冬に竹細工や藁細工、紙すき、陶芸などをやったもので、原料そのものからして、田んぼから出る藁、裏山を手入れしての竹、里山の漆、紙の原料の楮(こうぞ)、田んぼの床土から採れる粘土に至るまで農業の中で取れたものです。様々な工芸は農業の中で生まれて育ち、やがて枝分かれして専門化していったものです。備前焼など、今でも粘土はその土地の田んぼのもの、そして窯に藁をくべてあの独特の焼締めが完成します。

演芸はわが村の子供お神楽などのように代々農村で受け継がれてきたものです。民謡にしても、謡いにしても皆、大元は農業にありました。いや、祭自体が神事です。そこで祭られる相撲なども、もともとは豊年を神に祈願し、感謝するところから来ています。

Img_0010 そもそも神道という日本の民俗宗教そのものが、農業から生まれてきた農業宗教、ないしはCWニコルさんに言わせれば森林宗教だそうです。だから、明文化された教義がなく、都会の真ん中の神社ですらうっそうとした森に囲まれています。あれは農村の森の中の社が源流にあるからです。

うちの村の化蘇沼稲荷神社(けそぬま)では8月25日に恒例のお神楽と奉納相撲があります。村の人は8月の声を聞くと、仕事が手に着きません。夜になるとお神楽の笛の練習の響きが聞こえてきます。小学生は汗だくになってお神楽の練習をしています。

Img_0020 教育というのは、このような様々な農の豊かさを通じて人としてまっとうに生きていく道と技を子供に教えていくことでした。

教育は単に方程式を覚えることでも、英語のイデオムを暗記することでなく、世に出た時に人として恥ずかしくないあり方を教えることでした。そのために、農の中で学び、里の山や川で遊んできたのでした。

そのように考えると、農業の衰退とともに、国民が今までどこかで共有してきた農的な風景が失われ、また農業もそれと呼応するように、生産性の向上、機械化の拡大、大型化、兼業化に転じていってしまいました。それ自体がどうのという気はありません。いたしかたなかったことです。しかし、結果、農業はもっとも大事なハートを失っていきつつあります。

農業が国民の共有のハートである限り、農業は国民の財産であり続けます。しかし、単なる農産品生産部門だとしたら、国民はせいぜいが食糧自給率のテーマの時に農業を思い出すに留まるでしょう。農業は日本人が日本人であり続けるための拠り所なのです。このことを21世紀の国民的なテーマにしていければと思います。

そう、農業とは風呂敷のように変幻自在に形を変えて、人々の文化や生き方、歓び、哀しみを包みこむ不思議な存在なのです。

写真は上から、蓮田んぼの夜明け。2段目は農場の冬の曙。3段目は化蘇沼稲荷神社。最下段は村の道。

2008年8月 2日 (土)

街をオーガニックで包みませんか?

Img_0106 都会に行くと不思議に思うのは、公園や集合住宅の庭の景観の寂しさです。

ドぺェ~と芝があって、樹がチョボチョボあって、パンジーなんかの外来種のおざなりな花壇。それでお終い。

想像力のかけらもない。これでは、なんの潤いの空間にもならないし、第一子供が遊んでも面白くないんじゃないでしょうか。

そこで、私はこんなことを考えました。なんの役にもたたない芝生をひっぺがして、レンゲやクローバーを植えれば瘦せた都市の土壌が豊かになります。クローバーはなんと空中のチッソを固定するという驚天動地の能力があるのです。ですから、私はこの農場を開いた時に、真っ先に大量のクローバー(シロツメクサ)を蒔きました。いまでもそここに白い小さな花を咲かせて、勝手に増えています。レンゲは田んぼの秋に蒔いておくと、早春にあの綺麗な花を咲かせて、地味を肥やします。

それとクローバーやレンゲは、芝と違って他の植物と共生関係を持ちます。一緒にニンジンやホウレンソウ、小松菜などの野菜や花の種をかき混ぜて蒔くと、そここに野菜や花が芽を出します。これは私がよくやるイタズラで、東京に行く時にビンに入れたクローバーと野菜や花の種のチャンポンを公園やアパートの庭にテキトーにまき散らしてきます。除草剤さえまかれなければ、絶対にそここに芽がでてきますよ。ちょっとした花咲爺の気分です。

Img_0033 芝を集合住宅の庭に貼る理由は簡単。手間の問題です。芝の植物的排他性を利用して管理を簡単にしたいというニンゲン様のご都合なのです。だからどこに行っても芝だけ。

そして芝は大量の水を必要とする困ったヤツでして、アメリカのような庭に芝を貼ることがコミュニティの景観義務みたいな国だと、水不足だろうがなんだろうが、スプリンクラーでぶわ~っと水をやっています。バッカじゃなかろか。クローバーはまったく水をやる必要はありません。勝手に生えて、勝手に自分で肥料を空気から作り出すという魔法のような植物です。

ひまわりや菜種も植えましょう。5月には菜種畑が咲き乱れる黄色の波を見せ、8月にはひまわりが優雅に頭を風になびかせることでしょう。ここから子供たちが種を採って、絞ってみたら面白いですね。油なんか外国から買わなくたって自分らの庭でできるんだゾと分かります。こういうのをほんとうの「理科」といいます。

もうこうなると、ビオトープもほしいなぁ。何種類か作って、ひとつはアイガモ様用にして、大きな土管を置いてバチャバチャやってもらいましょう。上はカラス除けの網がいります。見ているだけで楽しいですよ。

もうひとつの池には鯉を飼いましょう。アサザやマコモ、葦(よし)などを植えて川辺や湖の自然植生を再現してみます。今多くの学校で作られていますが、この管理の役目は子供たちの間で奪い合いになるくらい楽しいのです。Img_0005

となると、次はメダカ池かな。メダカは地域に固有の品種がありますから、その地域の品種を入れてみよう。そしてここにも蓮やマコモ、ガマなどの水辺の植物を植えます。うん、いいぞわくわくする!

共同のミニ菜園には野菜やハーブを一杯作ったり、山羊(おとなしい日本ザーネン種)を飼ったり、トリも駆けまわっているし(囲いはいるけどね)、ああそうそう、蜂も飼いたいですね。たぶんニンゲンの母親の過保護が最大の天敵でしょうが。私なんかおとなしい黒毛和牛をの自然放牧を都市でやってみたいんですが、これはちょっとムリかなぁ~。

キューバでオルガニポコス(耳で聞いた言葉なので、違ったらごめん)というのを見せてもらいましたが、おもしろいですよ、つまんない花壇なんかじゃなくて、そこここに菜園があって、例えば、そうですね、職場の庭やアパートの庭にはあたりまえのようにして野菜やハーブが植わっています。おお、そろそろ昼飯にすっか、となるとそこらのトマトやキュウリとハーブをテキトーに摘んで、オリーブオイルと塩をかけてチャチャとゴハンにしてまう。こんなこと、日本じゃ農家の特権だよね。これをなに喰わぬ顔で首都ハバナの人がやっているんです。Img_0001
とうぜん、それを管理する職場や集合住宅、学校の各種オルガニポコス組合があります。だから荒れません。
ガキも、失礼お子さんも宿題で生物天敵の研究なんかをしているらしいんです。日本の学校もこういう夏休みの宿題を出しなさいって。
そして週末ともなるとみんなで揃いのネッカチーフをしてポンコツ・バスにうちまたがって田舎に行き、農家を手伝ったり、自分の研究成果を試したりしています。単なる日本の食育よりズッと身が入っているようです。
キューバの有機農業の技術水準そのものは、失礼ながらたいしたことがないと思いましたが、そのような市民生活の中にしっかりと浸透して、衣のようにむりなくオーガニックを生きているライフスタイルはいいですね。

都市を有機農業の衣で楽しく包みませんか!有機農業は単に農法、技術一般ではありません。人と生物、人と植物、人と土、人と水、そして詰まるところ人と人の関わり方や生き方までを包むものだと思います。
写真はボリビアのボトシ。かつて栄えた銀鉱山都市。4千60mという世界最高度の空中都市。スペイン的な風情があります。ただし、海抜36mに生きている私らには生きるのがやっと。次は何回か登場しているウユニ塩湖。下は氷ではなく岩塩です。下段は昼顔のシェード。これによる遮温効果はとても高いのです。わが農場の鶏舎や自宅はこれを利用しています。この自然利用の遮温についてはまたそのうち。最下段はクローバーの上の私の農場のバスケット。

2008年8月 1日 (金)

時代おくれ

Img_0105 ふっと行ったこともない

シッキムやブータンの子らの

襟足の匂いが風に乗って漂ってくる

どてらのような民族衣装

陽なたくさい枯れ草の匂い

なにが起ころうと生き残れるのはあなたたち

まっとうとも思わずに

まっとうに生きているひとびとよ

「時代おくれ」 茨木のり子

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