有機トマトの秘密 第3回 私は不幸な野菜を見たくはない
トマト話の3回めです。トマトがアンデス山系の山肌に咲く小さな可憐な黄色の花から生れたミニトマトのような赤い珠玉がご先祖だというところからお話を始めました。
そしてこのような瘦せた雨のない土壌が彼女たちの生命力を引き出せるもっとも適した土地であることもわかってきました。彼女たちはそのために適した身体の作りと生理機能を持っていて、それが全力で使われる時こそが「幸福」なのだと私たちは考えています。
時折、私はわが同業者が今年のナニナニが「よく出来た」、「いい成績だった」といばる時に、わずかな違和感を覚えてきました。デキタのは野菜がすごかったのであって、人の手柄ではないよねぇ、とチャチャを入れたくなります。まぁ、私も常識人ですので言いませんが。それこそ俵万智さんの句ではありませんが、「勝手になっている畑のトマト」(例によって不正確)なのではないんかと思う次第です、はい。
失敗すれば、、野菜は弱く、不味く、香りのない野菜の形をしたモノと化してしまいます。まず、野菜の香りが失せ、うま味がなくなり、甘味が消え、そして舌にはえぐみすら残る、そんなモノになってしまいます。その姿も、根や茎は細く、葉は張りがありません。科学的に分析をすると、あるべき栄養素やミネラル分は半分にも満たず、逆に硝酸態チッソなどの有毒な物質がべっとりと多量に残存することになります。
私たちお百姓が野菜を「作る」のではありません。勝手に野菜が「できる」のです。私たちヒトは野菜が「できる」ことのほんの一部に手を貸しているにすぎません。野菜が「幸福」であることの手助けをしているにすぎないと思っています。私は不幸な野菜を見たくはない。その意味で、謙虚に私たちヒトは、ただの脇役にすぎないことを自覚するべきでしょう。
こんなあたりまえのことから、有機農業というより広く農業を見直していきたいと思う昨今です(お~なぜかしみじみするなぁ)。
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コメント
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こんにちは♪
コメントをありがとうございました♪
実は、私もコメントをしようと思っていました
ブログ主さまに・・・と言うより、以前このコメント欄でお会い?した66ssさんへ♪
目に留めていただけるかわからないけれど。
丸元淑生氏著の「何を食べるべきか」を是非読んでいただきたいな~
農業に競争原理を持ち込むことがいかに危険で、それは決して消費者のためにはならず、それどころか環境破壊にまで及んでしまうということ。
お米の自由化&日本では高いお米を買わされていると言ったことに関しても、実際のアメリカでの動きはどうだったのか・・・
などなど、とても納得できる内容です。
是非!ご一読を♪
投稿: ゆっきんママ | 2008年11月24日 (月) 13時15分