農業はつれづれ織りに似ています
さてさて、考えてみれば、私たちお百姓にできるのは、その季節季節に、その作物や家畜に合った最良の条件を整えるお膳立てをするところまでです。そこから後は、正直に言って、作物の「生命力」次第なのです。
な~んて書くとなんか妙に悟ったみたいでちょっとイヤですね。ハマダの奴め、ちょっと病気になってナマ悟りしたなとお思いでしょう。たはは、多少そのケはあります。病院でたっぷり考える時間がありましたもんで、すいません。ただ、やっぱり今までデレスケやってきた自分の農業を多少見直すきっかけにはなったのは確かなようです。気をつけよう、50過ぎてのアホな病気とナマ悟り。
実際に農業をやっていると、事故が起きてしまうとそこからリカバリーするのはそうとうに至難ですなぁ。一回失敗すると、、化学農薬をふってもダメ。もうアウト。だから、予防防除という病気が出る前に、とりあえず出そうな病気の予防薬を全部バカスカ散布しちまおうぜ、というのが近代農法です。ガサツだなぁ・・・。
ところがギッチョン。自然というのは、その一部である生物も含めてそうなっていないのですなぁ、悲しくや。栽培や飼育における事故は、ひとつの失敗が、次の失敗という結果を招き、それがまた別種の原因を形成し、やがてグルグルと渦巻きのようにして全体が崩壊へと向かいます。
カッタルイ表現をお許し願えば、農業はアレ⇒コレといった単純な線型な因果関係によってあるのではなく、気候風土、品種、栽培方法、栽培者などが複雑に、ある時は原因に、ある時は結果となるようなつれづれ織りに似ています。結果と原因は常に固定している立場にあるわけではなく、その時によって役割を変えていきます。
近代農業(畜産)はこれじゃあマズイだろう、失敗が多いだろうと思いました。そこで生れたのがマニュアル化です。万人がいつどこでもやってもあるていどできるというふうな農業にしたかったのです。例えばコメや麦であるならば、この時期の何月何日に播種して、何日と何日にになんという農薬を撒き、何日に中耕管理をし、何日に収穫する・・・ま、こんな感じです。
これがうまく行くかというと、これがいかないのですな、ガハハ。なぜなら毎年、律儀にも自然条件が変化しますから。自然条件といっても、単なる気温だけではなく、その時の品種の選び方、それを植えての種の出来具合、苗の出来具合・・・種だけでこれだけあるんですぜ。その後の栽培の途中や、人の要素で、どれだけ変数があることか!
ところで、日本農民は、江戸期に各地で作られた農書に残されているように、農業の細やかな観察を延々と続けてきました。語弊がありますが、ほとんど道楽の域ですな。好きなんです、土を味わうことが、風を知ることが、水の流れを見ることが。
地温を計るために、冬でもしばれる裸足で計った先人。川の水量の計測のために、大水でも体を杭に縛って計測した先人。様々な大豆の種をその土地に合う品種に数十代に渡って改良した先人。
米を作るために、自分が食べることのできるはずのない先の世代に手渡す植樹をし続けた先人。湧き水の位置克明に記した地図を作った先人。
このような先人、偉人と言おうと思ってやめました。そうではない。彼らはただ好きだったのです。自分の生きる土地と生きものが。
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読ませていただき、共感します。
つれづれ織りとは 粋ですね。
人生を歌で綴るシャンソンのよう…。
投稿: bianca | 2008年11月25日 (火) 23時02分