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2008年11月

風土と畜産について考えてみた 第1回 紅葉と虫の音

Img_0012_edited_edited 昨日はすごい雨でしたね。ちょうど私たちが表で作業をしている時が、豪雨で、もう横殴りの雨。こんな時は、わが生業も因果だなぁと思ってしまいます。しかも表の作業を終えたあたりで雨が上がったつうのは、なんてイジが悪いんだ!

もう、わが里は紅葉のまっさかりです。夜ともなるとまさに満天の星の下に何種類とも知れない虫の声です。今、「虫の声」と言って、ふと和辻哲郎さんの「風土」(岩波文庫)という本を思い出しました。

和辻さんは欧州に行った時に、欧州の夜に「虫の声」が聞こえないことに気がつきました。そして欧州人が、私たち日本人がこよなく愛する(扇風機にまで虫の音モードをつけてしまうくらい!)虫の音を単にノイズとしてしかとらえていないことに驚かされたことを書いていらっしゃいます。

紅葉も同じことで、欧米人には、紅葉を愛でる感性が希薄です。ましてや日本人のように、紅葉の季節ともなれば、大挙して紅葉の名所にもみじ狩りに行くなどという習慣は、彼らの想像を絶するのかもしれません。私たち日本人は、この列島の褶曲の多い、霞たなびく山がちの島国の中で特異に発達した感性をもった民族なようです。

そう言えば面白いことに、日本人は外国に移民してしまうと、日本で生まれ育った1世の世代は頑として日本人そのままですが、2世、3世ともなると急速に現地化が進みます。現地の人に溶け込んでいってしまうのです。これは同じ中国や韓国系の移民たちと比べると分かるそうです。

Img_0022_edited_edited 一方、日本に移住した韓国系のひとたちなど3世ともなると、民族意識はあるもののどこから見ても日本人です。どうやら日本人、あるいは日本に住む人達は、この日本という風土に居る時において「日本人らしさ」を持っているのかもしれません。

和辻さんは、日本の「風土」をこのように美しく説明しています。

「気候もまた単独に体験せられるのではない。それはある土地の地味、地形、風景などとの連関においてのみ体験せられる。寒風は山おろしであり、からっ風である。浜風は花を散らす風邪であり、あるいは並をなぜる風である。夏の厚さもまた旺盛な緑を萎えさせる暑さであり、子供を海に雀躍せしめる暑さである」

「我々は花を散らす風において歓び、あるいは痛むるところの自身を見いだすごとく、ひでりの頃に樹木を直射する日光において心を萎えさせる我々自身を了解する。すなわち我々は風土において我々自身を、間柄としての我々自身を見いだすのである」

私たちが愛する日本の風土と、すぐれて風土の産物である農業の関わりを、新たなシリーズとして「日本風土と農業」として始めます。今回のシリーズでは特に私の専門である日本畜産に焦点をあてます。日本畜産の特異性と問題点、それがなぜ形成されたのか、できれば風土との関わりの視点から見れたらなと考えております。

解決まで踏み込めないかもしれませんがいくつかのトライ&エラーを紹介していければと思っています。

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餓鬼と般若心経を背負って

Img_0025_edited_edited_edited 2日ほど更新をさぼってしまいました。おかげさまをもちまして、順調に回復をしております。先日、退院1週間めで担当医に見てもらい、「すべての数値でかなりよくなっていますよ。よしよし」とのお褒めの言葉をいただきました(パチパチ)。

ただ、入院時から数えてそろそろ1カ月にもなる制限食はこたえます。小鳥のご飯ていどしか食べられません。ほぼ菜食で、ありとあらゆる野菜、きのこ類、乾物、コンニャクなどがメーンです。一食が、だいたい500キロカロリー見当で、労働をすると眼がくらみます。先日はあんまり頑張りすぎて、とうとう本格的な低血糖症状を起こしてしまい、眼がくらみ、強烈な空腹感とともに全身から力が抜けていき、この世からサヨ~ナラ~かなぁという感じかな。亡くなった両親が輝くトンネルの先でニコニコとお出迎え(冗談ですよ)。

入院で落ちた体力を再建するために一日に最低で5キロを歩く鍛練を始めました。それもかなりの速歩で行きます。般若心経を「カンジダイボーサツギョージン、はんにゃ~ハラミタ~」と二拍子で唱えながら田舎道を風のように(当人談)行きます。やや不気味かも。そのうち、かねてからの夢である四国のお遍路完全走破に挑んでみたいですね。

かつて玄米食(今まで3回もトライして、新米の魔力に負けてあえなく3回とも挫折)をやっていた時の経験で、一回食べては箸を置き、くちゃくちゃとテッテイ咀嚼をするという方法を始めました。この方法ですと、軽く盛ったご飯もたっぷりと時間をかけられるのです。いっそうのこと、玄米食にとも思いましたが、この米が一年でもっともうまい時期にその勇気もなく、毎日クチャクチャ、ムニャムニャと食べています。なんかラッコか山羊にでもなったようです。

脳ミソにもブドウ糖がいかないためか、とんと記事が書けません。大好きなゆっきんママさんのブログにも、うまそうな料理の写真がテンコ盛りなので、見るのがつらい。昨夜などとうとう大盛りのお肉をデッカイ丼に入れて、わしわしとかき込んでいる夢を見てしまいました。これを軽く食べ終わり、次はこれまた大盛りの揚げヤキソバをぺロリ。

50を過ぎてこんな夢を見るとはなんともかとも(苦笑)。どうやら腹っぺらしの餓鬼が一匹背中に張りついてしまったようです。そして今日も私は餓鬼を背負って、般若心経を唱えながら一心不乱に田舎道をスタスタと歩くのでありました。ああ、しんど。

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農業はつれづれ織りに似ています

Img_0014_edited_edited_edited さてさて、考えてみれば、私たちお百姓にできるのは、その季節季節に、その作物や家畜に合った最良の条件を整えるお膳立てをするところまでです。そこから後は、正直に言って、作物の「生命力」次第なのです。

な~んて書くとなんか妙に悟ったみたいでちょっとイヤですね。ハマダの奴め、ちょっと病気になってナマ悟りしたなとお思いでしょう。たはは、多少そのケはあります。病院でたっぷり考える時間がありましたもんで、すいません。ただ、やっぱり今までデレスケやってきた自分の農業を多少見直すきっかけにはなったのは確かなようです。気をつけよう、50過ぎてのアホな病気とナマ悟り。

実際に農業をやっていると、事故が起きてしまうとそこからリカバリーするのはそうとうに至難ですなぁ。一回失敗すると、、化学農薬をふってもダメ。もうアウト。だから、予防防除という病気が出る前に、とりあえず出そうな病気の予防薬を全部バカスカ散布しちまおうぜ、というのが近代農法です。ガサツだなぁ・・・。

ところがギッチョン。自然というのは、その一部である生物も含めてそうなっていないのですなぁ、悲しくや。栽培や飼育における事故は、ひとつの失敗が、次の失敗という結果を招き、それがまた別種の原因を形成し、やがてグルグルと渦巻きのようにして全体が崩壊へと向かいます。

Img_0643_editedカッタルイ表現をお許し願えば、農業はアレ⇒コレといった単純な線型な因果関係によってあるのではなく、気候風土、品種、栽培方法、栽培者などが複雑に、ある時は原因に、ある時は結果となるようなつれづれ織りに似ています。結果と原因は常に固定している立場にあるわけではなく、その時によって役割を変えていきます。

近代農業(畜産)はこれじゃあマズイだろう、失敗が多いだろうと思いました。そこで生れたのがマニュアル化です。万人がいつどこでもやってもあるていどできるというふうな農業にしたかったのです。例えばコメや麦であるならば、この時期の何月何日に播種して、何日と何日にになんという農薬を撒き、何日に中耕管理をし、何日に収穫する・・・ま、こんな感じです。

これがうまく行くかというと、これがいかないのですな、ガハハ。なぜなら毎年、律儀にも自然条件が変化しますから。自然条件といっても、単なる気温だけではなく、その時の品種の選び方、それを植えての種の出来具合、苗の出来具合・・・種だけでこれだけあるんですぜ。その後の栽培の途中や、人の要素で、どれだけ変数があることか!

ところで、日本農民は、江戸期に各地で作られた農書に残されているように、農業の細やかな観察を延々と続けてきました。語弊がありますが、ほとんど道楽の域ですな。好きなんです、土を味わうことが、風を知ることが、水の流れを見ることが。

地温を計るために、冬でもしばれる裸足で計った先人。川の水量の計測のために、大水でも体を杭に縛って計測した先人。様々な大豆の種をその土地に合う品種に数十代に渡って改良した先人。

米を作るために、自分が食べることのできるはずのない先の世代に手渡す植樹をし続けた先人。湧き水の位置克明に記した地図を作った先人。

このような先人、偉人と言おうと思ってやめました。そうではない。彼らはただ好きだったのです。自分の生きる土地と生きものが。

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有機トマトの秘密 第3回 私は不幸な野菜を見たくはない

Img_0644_2 トマト話の3回めです。トマトがアンデス山系の山肌に咲く小さな可憐な黄色の花から生れたミニトマトのような赤い珠玉がご先祖だというところからお話を始めました。

そしてこのような瘦せた雨のない土壌が彼女たちの生命力を引き出せるもっとも適した土地であることもわかってきました。彼女たちはそのために適した身体の作りと生理機能を持っていて、それが全力で使われる時こそが「幸福」なのだと私たちは考えています。

時折、私はわが同業者が今年のナニナニが「よく出来た」、「いい成績だった」といばる時に、わずかな違和感を覚えてきました。デキタのは野菜がすごかったのであって、人の手柄ではないよねぇ、とチャチャを入れたくなります。まぁ、私も常識人ですので言いませんが。それこそ俵万智さんの句ではありませんが、「勝手になっている畑のトマト」(例によって不正確)なのではないんかと思う次第です、はい。

失敗すれば、、野菜は弱く、不味く、香りのない野菜の形をしたモノと化してしまいます。まず、野菜の香りが失せ、うま味がなくなり、甘味が消え、そして舌にはえぐみすら残る、そんなモノになってしまいます。その姿も、根や茎は細く、葉は張りがありません。科学的に分析をすると、あるべき栄養素やミネラル分は半分にも満たず、逆に硝酸態チッソなどの有毒な物質がべっとりと多量に残存することになります。

私たちお百姓が野菜を「作る」のではありません。勝手に野菜が「できる」のです。私たちヒトは野菜が「できる」ことのほんの一部に手を貸しているにすぎません。野菜が「幸福」であることの手助けをしているにすぎないと思っています。私は不幸な野菜を見たくはない。その意味で、謙虚に私たちヒトは、ただの脇役にすぎないことを自覚するべきでしょう。

こんなあたりまえのことから、有機農業というより広く農業を見直していきたいと思う昨今です(お~なぜかしみじみするなぁ)。

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有機トマトの秘密 第2回 トマトの水への執念・それが生命力

Img_0029 有機栽培のトマトのお話の続きです。

上の写真は「有機農法G」の栽培風景です。写真の足元を見て頂くと、乾燥した地面が分かりますでしょう。これこそがパフパフ土壌、生育が始まるとまったく水はやりません。ですから、月面よろしく足跡が素直についていきます。

この「水をやらない」という農法に辿り着くまでには、いろいろ紆余曲折がありましたが、なんと言っても一番大きかったのは、心理的な抵抗感でしょうね。なんせ「水をやらない」んですぜ。われら日本農民は、毎日作物や家畜の顔を見て、「おはよう!おー元気かい?喉渇いていないか?新鮮な水やろうな」というのを美徳としていました。

その真逆の「元気か?あ、そうか、水いらないんだったよな」というのはこれもこれでツライものがあったわけです。ましてや肥料も最小限しかやらないときているんですから、篤農家ほど頭で分かっていても、やっぱりねぇ・・・という感じでした。

誤解されないように言えば、水はまったくやらないわけではありません。植えつけの前に深耕といって通常より深く耕します。そしてその時に水をたっぷりとくれておきます。つまり水を含んだ層は地下数メートルにあり、表面はパサパサとお考えになるといいでしょう。

そこにトマト苗を植えつけていきます。ただし、何度も言っていますように、いったん植えたら栽培終了時までほぼまったく灌水はしません(状況を見て、最小限の灌水をする場合もあります)。するとトマトはこの厳しい環境の中でどう生きていくのでしょうか?

深い層に水がありますから、主根は地下数メートル下の水を含んだ層に向けて、「水をくれぇ」とばかりにグイグイと根を伸ばしていきます。これが水を常にたっぷりと含んでいる土壌ならば、根はこんな苦労はしやしません。ノンベンダラリと地下数十㎝あたりで天下泰平のアーバンライフを決め込むことでしょう。かくて地上数メートルに延び何段にも渡ってトマトの果実をつける土台であり、かつ、栄養汲み上げポンプであるはずの根は、ゆるく、力弱く、そして惰弱になっていきます。

一方、主根からまるで白い網のように無数に伸びる毛根は、地下にも、また地表にも延びていきます。地中にわずかに含まれるわずかな水分や、地表表面の大気中の水分も一滴たりとも逃すまいとばかりにその両腕を伸ばしていくからです。収穫が終了し、トマトを撤去する時に引き抜くと、根から数メートルの白い毛根がまるで大きなネットのようにからみついて出てきて、なかなか抜けません。それはまるでトマトの抜かれてたまるかという生への執念そのもののようです。お百姓はナンマンダム、許せと唱えながら抜くはめになります。

では、今度はトマトの葉を見てみましょう。通常の作物、そうですねホウレンソウなどにあるツルっとしたクチクラ層は見られません。まるで産毛のような繊毛が生えているのが分かります。触ってみるとちょっとチクチクするかんじです。この繊毛の一本、一本からもトマトは空気中の水分を取り込もうとしているのです。

トマトは自分が生き抜くために必死になって毛根や産毛を伸ばし、空気中の水分を取り込もうとし、乏しい養分の中から栄養を取り出し、子孫を残そうと踏んばります。この厳しい環境で、いやだからこそ、自らの力を最大限発揮して個の生命体として生き残り、そして子孫にその命を松明のように託そうとする力こそを私は「生命力」と呼びます。

もともとあらゆる作物の中にはこの「生命力」が眠っています。それを眠らせたたままにするのか、それを開化させるのかは我ら人次第なのです。これが有機栽培トマトの味が濃く、香り高い美味しさのほんとうの理由なのです。

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有機トマトの秘密 第1回 次代につなぐ実、子供という顔を持つ希望

Img_0095 皆様、温かいコメントをありがとうございます!もうなんて言っていいのか。心の底から温まりました。ブログというものはこうして皆さんという旅の仲間とテクテクと歩いていくものなのだとかんじました。

ところで、今、わが農場には17歳の少年が寄宿しています。もうかれこれ1カ月間にはなりますか。

大変に面白い・・・なんて言ったらいいのかな・・・ユニークさにストレンジ風味を数滴垂らしてみましたってな個性の少年です。

日常の動きは、「オズの魔法使い」に出てくるブリキ人形みたいなかんじですが、それでいて見るべきものは、しっかりと見ているのです。時々驚くような観察眼を発揮してくれます。頭の良さと、日常の動きのちぐはぐさが同時に彼の中に宿っているようです。

さて、彼はそれはそれは良くお食べになられます。今日の昼食など焼き飯の超大盛りを軽く平らげ、その上に昨日のカレーの残りを楽々と一杯。食事制限がかかっている私も、ダイエット中のツレアイも、「見ているだけでお腹一杯」状態です。それも同年代の子と違ってかき込む風でもなく、草地に放した山羊のように淡々と同じ速度で悠然と40分、ときには1時間(!)かけて平らげていきます。ウエップ、胸が焼けるぜ。

Img_0026_edited_edited さて、彼の喰いっぷりをみていたら、なぜか、有機栽培のトマトのことが頭に浮かんできました。トマトは私が就農した20数年前には有機ではムリと言われていた作物でした。

ある者は、外国文献を手にイオン転換をどうたらするために、トマトの茎に銅線を差し、微弱な電流を流してみたり(涙)、EM菌がいいと聞けば高価な微生物を散布し(悲鳴)、なんとかという品種は強壮だというので必死になって取り寄せて栽培してみたり(汗)、まぁありとあらゆるトライ&エラーを百種類以上やった挙げ句、ようやく十数年めにして成功。なんだったと思います、成功の秘密は?

トマトの秘密その壱。絶対にトマトを雨に当てないこと。土ボコリがパフパフと足元から出るようなくらい乾燥した舎内で生育させるのです。今まで石油製品の使用拒否と志高く露地栽培に挑戦していたために、トマトの原産が南米のアンデス高地の山肌であることを失念していたのです。

アンデスの高地の降雨量は年間数㎜、その徹底した乾燥こそがトマト嬢の快適な環境だったのです。雨がビチャビチャな日本の露地など、トマト嬢にとって拷問的環境だったんでしょうな。ごめんよぉ、トマトぉ、こんな簡単なことに気がつかなかったって、オレがいけなかった!殴ってくれ!(トマト嬢が殴れないから、安心して言っている)

トマトの秘密その弐。地味が瘦せた土地のほうがトマト嬢は好き。なんせ生れが雲の上のアンデス高地ですから、日当たりはいいのが好きなのは当然として、多少石のあるような、肥沃でない土地のほうが向いているのです。そう考えると、日本農民の本能とでもいうべき、多肥料などもってのほかだったわけです。

Img_0020_edited_edited まさにコロンブスの卵、眼からウロコ。こんな単純な真実に到達するまで十数年かかっていたのです。しみじみしますなぁ。

この瘦せた土地が好きな作物はトマトだけではありません。実は、サツマイモやカボチャやソバ、アワ、ヒエなどの雑穀類も似た好みをもっていますし、果樹ではぶどうがそうです。

ぶどうが山梨でうまく出来るのは、山がちの瘦せた土地(怒るな、山梨県人の諸君)のほうがぶどうに向いているからです。゛

面白いもので、茨城の肥沃な平地作ったぶどうと山梨のそれを比べてみると、香りもコクも山梨産のほうがはるかに芳醇なのです。同じように栗も、栗園で栽培されたものより、そこらの裏山で勝手になっている山栗のほうがずっと甘くて美味しいのですから参ります。

そう言えば、ヨーロッパの葡萄酒も、わざわざ肥沃な土地を選ばす、石まじりの瘦せた土地を選ぶのだとか。たぶん作物はギリギリの条件でこそ自分の生命力を取り出そうとするのでしょう。逆にいえば、そのような条件に追い込まれないと、作物は自分の隠れた生命力、生き残る力を開化できないともいえます。

イモは肥沃な土地で育つとツルや茎のみが徒に育ついわゆる「ツルボケ」現象を起こします。全ての地味の滋養が成長栄養のみに費消されてしまい、かんじんな実に届かないからだと言われています。しかし、こうも考えられます。

イモは自らの成長を抑制され、自らの限界を知った時にわずかに得た土からの滋養をその次の世代に渡そうとして実を着けるのだといいます。擬人化することが正しいのか迷いますが、自分の個としての限界にさらされて、それを骨身で知る状況に置かれて初めて子を育てる真の資格が手に入るのかもしれません。

絶望と希望。正確にいえば、「正しく自分に絶望」する勇気と希望とでも言うのでしょうか。次の世代に自分の持てる滋養すべてを手渡そうとする涙ぐましい意志とでも呼ぶのでしょうか。子供という顔を持つ希望を育てようとする愛情という深い意志。

子供というのは色々な意味で刺激的な存在です。私は子供がいない人生を送ってきました。ですから、「正しく自分に絶望」できなかったともいえます。今回の病気や子供を預かるといった体験から、子育てをする人々の気持のほんの一端にずきませんが、それを感じる幸せを得ることができそうです。

いや、人生って面白いものです。

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ただいま!

Img_0003_edited_edited_edited_edite ただいま!戻って参りました。ほんとうはもう何日かいなければならなかったのですが、あんな場所に居ると、かえって悪くなるとばかりに、医師や婦長さんにご無理を言って強行切り上げ退院を敢行してきてしまいました。

一緒に同室した御老人は、鼻から管で繋がれてシュルルー、シュルルー、そしてウンチョは垂れ流しで、あの独特の薬クサイ芳香(てなもんか)が室内に常に淀んでいます。実に臭い。

方やお若い腸閉塞のお人は看護婦(士)さんがくればグチを垂れ流し、食事ともなればお粥の米粒をヒーフーミーと数えて陰々滅々。土日ともなれば見舞いの客に我が身の不幸を切々と訴えます。実に暗い。

今ひとりのお方は、全身赤いベルサーチのロゴのジャージ(ホンモノか?)に、よく手入れされた薄い髭で決め決め。いつも思うんですが、あの薄ら髭ってどうやるんでしょうね。私も年季の入ったヒゲ族だが、ボーボーだ。で、彼、一日鏡を覗いてはシナを作り、髪をすいたり、ニカッと笑ったり、横顔を写したりとひねもすナルシズムの小部屋に浸っておいでのようです。実にサブい。

さて、ご心配をおかけして申し訳がありませんでした。あらためて励ましのお言葉ひとつひとつに心から感謝いたします。皆様、ほんとうにありがとうございました。弱った時には、その一言が、いつもの数十倍に感じます。古い言葉で、今や手垢まみれになってしまいましたが、「人情」という言葉を心の奥にしまいこみました。

未だ薬漬けですが、なんとか復調しつつあります。医者にいわせれば、そもそもお前さんはこんな病院なんかに入るタマではないそうで、「出ます!」と宣言すると、仕方がないなと苦笑しながら「もう二度と入りなさんなよ」と刑務官のようなことを言われました。

私も殊勝に下を向いて、「へい、生まれ変わったつもりでがんばりますぅ」と言って出て参りました。病院の近くの食堂で「幸せの黄色いハンカチ」(タイトル、例によって不正確)の高倉健さんのように、たった一杯のビールを震える手で飲んだことは言うまでもありません。タハハ!

病院で読んでいた長田弘の「一日の終わりの詩集」の一節。

笑う。怒る。悲しむ。

それだけしか、

人生の流儀はない。

ふりをする人間はきらいだ。

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イチジクじゃなかった、石榴が弾けました(笑)

Img_0001_edited_2 秋空の中、イチジクではない、石榴(ざくろ)の実が次々に弾けました。ルビーのような実がお日様に輝いています。

改めてこんにちは。5日に再開の予定ですが、農場に新たな人(少年!)を受け入れたりしていて、なんとも気ぜわしくPCの前に落ち着いて坐れないんです。

私のブログの特徴は、気まぐれに日々の流れや風景を点描していていくのではなく、主題をもったテーマを1週間ほど続けていくという方法です。正直言ってくたびれます(苦笑)。それなりに調査して資料を収集し、咀嚼し、できるだけ分かりやすい文章に仕立てて一回分の記事にまとめるとなると数時間かかります。

この長い文章というのもわがブログの特徴で、これが読者を減らしていると自覚をしています。時事系セミプロのような人には及びませんが、一般の3倍以上あると思われます。よく友人に「長いんで読む気になれない」とあけすけなことを言われてしょげています。しかし、これも難題で、分割すると今度は回数が増えます。

テーマだけは山ほどあります。富山さんのシリーズは、日本の山-川-水田-沿海という流れでエコシステムを解きあかしていくつもりでしたが、途中で止まってしまいました。申し訳ない。また再開しますのでお許しを。トリインフルエンザの記事は、新型インフルエンザのところになって、資料を収集して考えていくと、今までの私の見方を修正するべきかと思い始めているところです。私は間違いを間違いとして修正することにはためらわない方なので、しばし時間を下さい。地球温暖化問題もぜひ再開させます。

また、このところ沖縄の記事がめっきり減りました。あれも「幻の村」にモロミザキさんが来たという、いわば序章段階で止まったきりです。あのあとエンエンと話は続くのですが・・・。

とまぁ、自分の非力を嘆いていても始まらないので、ぼちぼち再開しようかと思います。その前にあとしばらく時間を下さい。長年の疲れからか、来週12日から1週間ばかり入院することになりました。なに、たいしたことはありません。入院前の仕事の追い込みなどで、明日から11月20日まで再度のお休みをいただきます。

病院でじっくり想を練ってきますので、またお会いしましょう!

■皆様の温かいコメントに感動しています。ありがとうございます!

ユッキンママ様、イチジクなわけないもんな。ありがとう、苦笑しながら、訂正させていただきます。

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