畜産・この矛盾に満ちた存在 第3回 そもそも日本には、「畜産」などという分野はなかった!
先日、茨城大学の学生の皆さんにお話した時、私が「日本には元来畜産というジャンルというか、考え方自体がなかったんだ」と言いますと、ヘェーといういう顔をされましたちょっとしたトレビアだったようでした。トレビア風に言うとこうかな。あの間延びしたスローテンポでね。「ニホン人は~、牛乳を飲んだことが明治までなかったぁぁぁぁ(←エコー)」
事実なんですな、これが。幕末にわが国に始めて派遣されたアメリカの公使のハリスはミルクを飲みたいので、世話係の役人ともめるわけです。役人としてはできるだけ親切にはしてあげたいのはヤマヤマなんですが、言っている意味が分からないようです。「貴君に聞く。ミルクとはなんぞや?」、「あなたぁ~ミルクも知らないのですかぁ、牛の乳でぇす」。
ここで幕府のお役人、ゲッとのけぞるわけです。「牛の乳ぃ!そんなものを人が飲むのか!あれは子牛が飲むもんじゃろが」。そして真偽を確かめるために、牛(とうぜん農耕牛です)を飼うお百姓のところに行って訊ねます。聞いたお百姓も大ノケゾリ。今までうちの村で牛の乳さ飲んだ気味悪い奴などいねぇよぉ。牛になっちまうだで(なぜか茨城方言)。聞いてふたりしてダブルのけぞり。
まぁ、結局ハリスさんすったもんだの挙げ句飲めたようですが、たいそう時間がかかったそうです。ましてや肉に至っておや。やれ食べると獣臭くなるだの、四つ足になるだの、牙や角が生えるだの。
これは神道的な血を忌む「ケガレ」信仰から来たとも、仏教信仰的なアヒンサ(非殺生)から来たともいわれますが、そう大げさに考えないでも、私からみれば単に食ったことがなかっただけのことです。日本人は畜産品などまったく歴史的に食べていなかったのです。
その理由はややしつこいくらいに前回までお話してきましたね。日本の風土が畜産には適していなかったためです。
反面、コメに対する執着はそれはものすごいものがあります。日本の農村のありとあらゆる川や湖の辺はあたりまえ、山のひだ、谷の内、果ては今や銀座のビルの屋上に、アパートのベランダのバケツの中にも稲の穂は頭を豊かに垂れています(笑)。
徳川将軍は御膳を食する時に米粒を畳に落すと、自分で箸でつまんだそうな。尻すら拭かせる将軍様が、米には最大限の敬意を払たのです。米俵に腰掛けた黄門様が百姓娘に薪ざっぽうで叩かれたのも日本人好みの講談の一節です。
ベトナム戦争たけなわの時に、装甲車を田んぼに乗り入れ、平気で収穫間際の稲を引き潰す米軍のテレビの映像を見て、兵隊経験のあるわが父は「こりゃアメ公、この戦に負けるな」とひとこと仰せになっておりました。
そんな父に育てられた私は、食べる時はお茶碗に一礼して手を合わせ、「お百姓さんありがとうございます。いただきます」、茶碗に米粒が一粒でも残っていようものならド叱られる始末です。でもまぁ、当時は理不尽だと思いましたが、今になると米とそれを生みだす農家に対して敬意を払う良い食の教育を受けたのだと思います。
ああ、いかんコメ話なるとつい夢中になっちゃう。やや脱線したので話を戻しましょう。
この「畜産品を食べたことがない」という日本人の食生活は、江戸期で終ったわけではありませんでした。少量ながら食べられてはいきましたが、庶民の食卓に肉がデンっと乗るなど金輪際あるはずもなかったのです。
戦前の兵営というのはある種先取の気風がある部分があったとみえて、肉を食べるというのは陸軍の兵営や軍艦の中から庶民に拡がっていったようです。
たとえば、農村から来た一兵卒など、自分の村では肉など食べたことはおろか、見たこともないのですが、ごくごくたまにですが、肉が入っている汁、海軍では最近地域興しでメジャーになっているカレーライスなどで、畜産品を知ることができたと聞きます。
この流れは一貫していて、戦後も数十年続きました。昭和古老の聞き語り風に言えば、いちおう東京の小学生だった私が一年で肉を食べられるのは、誕生日とクリスマスくらい。学校給食が始まったのが小学校3年くらいでしたが、カレースープにチラチラと肉のカケラ発見!と思っても、それはジャガイモの皮で、あ、この話は前回もしたよね。よほど子供心にもクソォだったんだねぇ。しかし食い物の恨みは一生なんだなぁ・・・。今、食欲がない子供の話をお母さん方から聞くことがありますが、想像もつきません。
それはさておき、日本人が畜産品をそれなりに食べ始めたのは私が大学生の1970年代頃からじゃなかったかしら。私の大学生の頃の御馳走は新宿ションベン横町の鯨カツでしたから。許せ、シーシェバード!しかしうまかったぞ。学校給食は豚肉じゃなくて、クジラ肉の竜田揚げでした。日本の私たち世代の子供たちは皆んなクジラに育ててもらったのです。だからクジラには心から感謝しています。
今のようにもう飽きるくらいに肉を食するようになったのは1970年代後半から80年代にかけて、つまり円が対ドルレートを360円から変動相場制に変わったあたりからです。
この1ドル360円という対ドルレートの武器を使って、日本は工業製品の輸出攻勢を怒濤のようにかけました。ドゴールからは顔をしかめられ、デトロイトでは日本車をUAW(全米自動車労組)の筋肉モリモリのおいちゃんに鉄ハンマーでぶっ壊されて。
しかしめげることなく、わが日本はニューヨークのど真ん中マンハッタンにSONYの看板を立てるところまで頑張ったわけです。おお皆様、このバックグラウンド・ミュージックに「プロジェクトX」の中島みゆきのテーマ曲が聞こえてきそうではないですか。
これが日本人の戦後です。そして日本は世界第二位の経済大国になりました。それがどのように米と野菜の日本農業を変えてしまったのか、今まで存在すらしなかった畜産がどのように現れて、そして成長していったのかを次回にみましょう。
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