• 20241212-235901
  • 20241211-032939
  • 20241211-154712
  • 20241211-160322
  • 20241210-023508
  • 20241210-023758
  • 20241210-031101
  • 20241208-145048
  • 20241208-151315
  • 20241208-154842

« 2008年11月 | トップページ | 2009年1月 »

2008年12月

2008年12月30日 (火)

本年中ほんとうにありがとうございました

Img_0020_2 今年もいよいよわずかで終わりとなってきました。

この拙いブログをご覧になっていただきました皆様、そして温かい励ましを頂戴いたしました皆様に心からの御礼を申し上げます。

去年から今年にかけて私は激変の時期にあたっていました。昨年夏から、茨城県の有機農業を更に発展させる運動の発起人と責任者をしておりました。しかし、残念ながら極度のストレスによりある病気が発症し、あえなくこの秋に入院という面目ない有様となってしまいました。倒れた段階で、代表を仕事なかばで降りざるを得ませんでした。心身ともに満身創痍といった状況でした。

私自身、今までの農業生活25年の集大成と、この農の世界に生きられた恩返しといった気持で関わっただけにこの衝撃は大きく、しばらくは一切の外部世界から自らを遮断して、自分だけの世界に自閉してしまいたいという誘惑に常にかられていました。

_edited この前後の時期にブログを立ち上げることができたのは幸運でした。ブログを書くことで、私はかろうじて外の世界と折り合いをつけ、自分の中でともすればムクムクと黒雲のように頭をもたげようとする絶望感への何よりもの処方箋となってくれました。

ブログを書くという作業を通じて、私は今まで生きてきた農業の世界を思い出し、再び手の内に取り戻せそうな気がしたのです。

また、今まで忙しさにかまけてまっ正面から挑んで来なかった現代日本の農業問題や、日本の素晴らしい農と自然の有り様にも改めて気がつくようになってきました。

そしてなにより、このブログを書くことで温かい気持の交流を得ることができたことです。ゆっきんママ様、余情半様、野生のトキ様、ぶんぶんこ様、ブリンカ様、たクこ様、そしてここに名を挙げられませんでしたが、未だお顔も知らない多くの皆様、ほんとうにありがとうございました。ことに入退院時にいただいた数々のご声援には涙が出ました。「黄色のハンカチを振っています」との言葉に、50の半ばで子供のように泣いている自分を発見しました。

もし皆様のご声援がなけれは、このブログは、いやこの私は、袋小路の中で未だに迷い続けていたことでしょう。

Img_0035_edited さて、来年、さまざまなことがこの日本と農業に襲いかかることでしょう。それは何十年に一回という大津波かもしれません。そのまま日本の農と食は暗夜に沈んでいくのか、それとも再生のきっかけを摑むことが出来るのかだれにも答えは出せないでいます。

ただひとつ言えることは、農業というものは元来、その地場の農業や人々に根ざしていて初めて価値を持つこと、地場の自然と共存し、その一部であることで輝くものであることです。そのためには大都市のみに生産物を送ることでよしとする現在の農業のあり方から、この地域の中で農産物を循環させ、更には様々な人々に来てもらうような「農の幸福」を分かち合える機会と場を絶えず作っていくことです。

農は常に開かれており、農こそ人を絶望から救う最後の希望の依代であることを信じて来年も生きていきたいと思っております。

末筆ながら皆様のご多幸を心からお祈りし、本年の筆を置くことにいたします。

皆様と出会えた喜びと感謝を込めて

2008年12月30日

濱田拝

2008年12月27日 (土)

畜産・この矛盾に満ちた存在 第4回 1960年代からの畜産の上昇と、農家戸数の減少の怪

Img_0020 日本人は、つい半世紀前まで、そうですね(←浅田真央ちゃんの口癖みたい)1960年代の前半まではベジタリアンでした。既に当時は1億近い人口がいましたので世界に冠たる宗教的戒律によらないベジタリアン国家だったのではないでしょうか。

私と同年年輩のお百姓と酒など飲んで昔話になり、うっかり私が、「クリスマスくらいしか鶏肉食えなかったよなぁ」などと言おうものなら、♪じゃじゃじゃじゃーんと白子海苔風白け音と共に、「浜ちゃんや、俺らそのクリスマスなんかしたことなかったぞ」とのとのこと。いや、どうもすまんこって。

農村ではたまに来客が来て鶏をつぶすくらいで、カレーライスすら大人になって知ったという強者もいたほどです。では何を食べていたのかと言うと、野菜の煮染め、翌日は煮っ転がし、翌日もまた煮染め、たまに鯉の煮つけ、客が来ると精進揚げが御馳走・・・以下略。

それを下図の統計数値(典拠・引用/つくばリサーチギャラリー)でみてみましょう。横軸の1960年までは統計数字上無視できるていどの消費量しかないのがわかりますね。鶏卵ですと、消費量が60年代から急カーブを描いて上昇していくのがわかりますね。(一番下の赤線)そして1970年代をピークにして頭打ちになっているのがわかります。

一方、幕末の頃米国公使ハリスさんがあれほど飲みたかがっていた牛乳や乳製品の伸びは80年代からそれ以降も伸びを続けて21世紀に入ってようやく頭打ちになりました。_edited_3

このように日本人はわずかこの半世紀という短い期間で劇的に食卓のあり方を変えてしまったことがわかります。

_edited_5

では、これに伴う鶏の飼養羽数の統計(左図)をみてみましょう。

これは非常に面白い表です。鶏卵は比較的小規模の農家養鶏が戦前からありました。その数は1950年代後半にピークを迎え、以後一気に80年代に向けて急降下で減少しているのがわかります。黄色の線にご注目下さい。

それと対照的に紫色の線である飼養羽数の急上昇していく線は、60年代後半で飼養戸数の下降線と交わり永遠に分離していっています。つまり、生産量は急激に上がって行ったが、生産者数は激減していったということになります。

この対照的な曲線はなにを意味するのでしょうか。次回に考えてみましょう。

2008年12月26日 (金)

畜産・この矛盾に満ちた存在 第3回 そもそも日本には、「畜産」などという分野はなかった!

_edited 先日、茨城大学の学生の皆さんにお話した時、私が「日本には元来畜産というジャンルというか、考え方自体がなかったんだ」と言いますと、ヘェーといういう顔をされましたちょっとしたトレビアだったようでした。トレビア風に言うとこうかな。あの間延びしたスローテンポでね。「ニホン人は~、牛乳を飲んだことが明治までなかったぁぁぁぁ(←エコー)」

事実なんですな、これが。幕末にわが国に始めて派遣されたアメリカの公使のハリスはミルクを飲みたいので、世話係の役人ともめるわけです。役人としてはできるだけ親切にはしてあげたいのはヤマヤマなんですが、言っている意味が分からないようです。「貴君に聞く。ミルクとはなんぞや?」、「あなたぁ~ミルクも知らないのですかぁ、牛の乳でぇす」。

ここで幕府のお役人、ゲッとのけぞるわけです。「牛の乳ぃ!そんなものを人が飲むのか!あれは子牛が飲むもんじゃろが」。そして真偽を確かめるために、牛(とうぜん農耕牛です)を飼うお百姓のところに行って訊ねます。聞いたお百姓も大ノケゾリ。今までうちの村で牛の乳さ飲んだ気味悪い奴などいねぇよぉ。牛になっちまうだで(なぜか茨城方言)。聞いてふたりしてダブルのけぞり。

まぁ、結局ハリスさんすったもんだの挙げ句飲めたようですが、たいそう時間がかかったそうです。ましてや肉に至っておや。やれ食べると獣臭くなるだの、四つ足になるだの、牙や角が生えるだの。

_edited_2 これは神道的な血を忌む「ケガレ」信仰から来たとも、仏教信仰的なアヒンサ(非殺生)から来たともいわれますが、そう大げさに考えないでも、私からみれば単に食ったことがなかっただけのことです。日本人は畜産品などまったく歴史的に食べていなかったのです。

その理由はややしつこいくらいに前回までお話してきましたね。日本の風土が畜産には適していなかったためです。

反面、コメに対する執着はそれはものすごいものがあります。日本の農村のありとあらゆる川や湖の辺はあたりまえ、山のひだ、谷の内、果ては今や銀座のビルの屋上に、アパートのベランダのバケツの中にも稲の穂は頭を豊かに垂れています(笑)。

徳川将軍は御膳を食する時に米粒を畳に落すと、自分で箸でつまんだそうな。尻すら拭かせる将軍様が、米には最大限の敬意を払たのです。米俵に腰掛けた黄門様が百姓娘に薪ざっぽうで叩かれたのも日本人好みの講談の一節です。

ベトナム戦争たけなわの時に、装甲車を田んぼに乗り入れ、平気で収穫間際の稲を引き潰す米軍のテレビの映像を見て、兵隊経験のあるわが父は「こりゃアメ公、この戦に負けるな」とひとこと仰せになっておりました。

そんな父に育てられた私は、食べる時はお茶碗に一礼して手を合わせ、「お百姓さんありがとうございます。いただきます」、茶碗に米粒が一粒でも残っていようものならド叱られる始末です。でもまぁ、当時は理不尽だと思いましたが、今になると米とそれを生みだす農家に対して敬意を払う良い食の教育を受けたのだと思います。

_edited_3 ああ、いかんコメ話なるとつい夢中になっちゃう。やや脱線したので話を戻しましょう。

この「畜産品を食べたことがない」という日本人の食生活は、江戸期で終ったわけではありませんでした。少量ながら食べられてはいきましたが、庶民の食卓に肉がデンっと乗るなど金輪際あるはずもなかったのです。

戦前の兵営というのはある種先取の気風がある部分があったとみえて、肉を食べるというのは陸軍の兵営や軍艦の中から庶民に拡がっていったようです。

たとえば、農村から来た一兵卒など、自分の村では肉など食べたことはおろか、見たこともないのですが、ごくごくたまにですが、肉が入っている汁、海軍では最近地域興しでメジャーになっているカレーライスなどで、畜産品を知ることができたと聞きます。

この流れは一貫していて、戦後も数十年続きました。昭和古老の聞き語り風に言えば、いちおう東京の小学生だった私が一年で肉を食べられるのは、誕生日とクリスマスくらい。学校給食が始まったのが小学校3年くらいでしたが、カレースープにチラチラと肉のカケラ発見!と思っても、それはジャガイモの皮で、あ、この話は前回もしたよね。よほど子供心にもクソォだったんだねぇ。しかし食い物の恨みは一生なんだなぁ・・・。今、食欲がない子供の話をお母さん方から聞くことがありますが、想像もつきません。

それはさておき、日本人が畜産品をそれなりに食べ始めたのは私が大学生の1970年代頃からじゃなかったかしら。私の大学生の頃の御馳走は新宿ションベン横町の鯨カツでしたから。許せ、シーシェバード!しかしうまかったぞ。学校給食は豚肉じゃなくて、クジラ肉の竜田揚げでした。日本の私たち世代の子供たちは皆んなクジラに育ててもらったのです。だからクジラには心から感謝しています。

_edited_4 今のようにもう飽きるくらいに肉を食するようになったのは1970年代後半から80年代にかけて、つまり円が対ドルレートを360円から変動相場制に変わったあたりからです。

この1ドル360円という対ドルレートの武器を使って、日本は工業製品の輸出攻勢を怒濤のようにかけました。ドゴールからは顔をしかめられ、デトロイトでは日本車をUAW(全米自動車労組)の筋肉モリモリのおいちゃんに鉄ハンマーでぶっ壊されて。

しかしめげることなく、わが日本はニューヨークのど真ん中マンハッタンにSONYの看板を立てるところまで頑張ったわけです。おお皆様、このバックグラウンド・ミュージックに「プロジェクトX」の中島みゆきのテーマ曲が聞こえてきそうではないですか。

これが日本人の戦後です。そして日本は世界第二位の経済大国になりました。それがどのように米と野菜の日本農業を変えてしまったのか、今まで存在すらしなかった畜産がどのように現れて、そして成長していったのかを次回にみましょう。

2008年12月25日 (木)

畜産・この矛盾に満ちた存在 第2回 「やめてしまえ」では解決にならない

_edited 先日、このようなコメントをいただきました。ありがとうございます。コメントをいただくとほんとうに刺激になります。

引用開始■僕を含め、ベジタリアンとして生活している人は畜産業を必要としていません。
煙草栽培とか、酒造りとか、そういった類と同じ、「嗜好品」に関る産業です。
飼料を事実上100%海外に依存している以上、国民を飢えから守るといった意味もありません。
「実は自分達はサービス業に従事しているんだ」といった認識が、少し欲しいですね。                                                                                     引用終了

まことに正論であります。しかし、ある種の正論にありがちな極論のかんじもいたします。正論であるというのは、事の反面の本質をズバリと指摘しているからです。

これはこの前半シリーズである「風土と畜産について考えてみた」の中で、ヨーロッパと日本の風土の違いから来る農業の形の違いから考えてきました。煎じ詰めて言えば、ヨーロッパは牧畜向き。ですからその食の形も肉食をメーンとして、サイドに麦を粉にしたパンを配する食事となりました。

一方、わが国は高温多湿のために米作と野菜を中心にした農業と食のあり方が出来上がってきました。また極めて長い沿岸を持つために沿岸魚が食卓に並ぶというのが和食の基本です。

後に詳しく触れようと思いますが、日本において牧畜はそもそも「なかった」概念、ジャンルなのです。少なくとも、江戸時代までは完全にそうですし、戦後ですら私たち昭和20年代生れの30年代育ち、いわゆる「三丁目の夕日」世代は子供の頃に肉などほとんど食べていなかった気がします。あったのは魚肉ソーセージやクジラ肉(許せ、グリーンピース!)などです。カレーライスには肉かと思うとジャガイモの皮だったりして、私は長期に渡ってカレーのジャガイモの皮を肉だと信じて健気にも生きてきたのです(涙)・・・あ、こんな話を書き始めると長くなるぅ。またそのうちゆっくりと。

_edited_2 それはさておき、このような貧弱な日本の牧畜のあり方はある意味正常でした。餌である穀物生産の後背地がないのに牧畜だけがあるはずがないですもんね。このコメント氏の仰せ「飼料を外国から輸入しているんじゃあ、国民を飢えから守っている意味もない」はその意味で当たっています。

ではどこが、私の考えと違うのでしょうか。私はこのコメント氏のお考えの真逆な考え方をよく知っているからです。え~そうですな、竹中平蔵サンあたりがややかん高い声でしゃべっていると思ってお読み下さい。

■日本の工業も原材料は外国にほぼ完全に依存している。日本国内では原料となる資源に乏しいし、仮にあったとしてもコスト高で話にならない。安い原料を輸出する国、それを加工して高度な工業製品を作る国に分かれて、互いに得意な分野で自由貿易を結ぶのが、もっとも効率の良いグローバル経済のあり方なんだ。

ならば、現代農業もそうしたらよい。現代の農業は先進国いずれも充分に機械化、大型化しており、国内の条件に捕らわれている国など少ない。ならば産業としての農業を目指すべきだし、それが安価で優良な国産畜産品を供給することで国民の幸福にも繋がるのだから、これぞ最善な方法である。チャンチャン♪

Img_0033_edited このような意見はたぶん今の企業畜産の最大公約数的な考え方でしょう。コメント氏のようなご意見と真逆な位置にあるようでいて、私は両端が繋がってループになった紐のようなものだと思います。

なぜなら、コメント氏の一見ラジカルなご意見はよく消費者意識の高い方や、氏のようなベジタリアンから言われますが、私たち現場で働く畜産家としてはこうお答えすることにしています。

ならば日本畜産をゼ~ンブ潰して、全部外国産にしますか。そうなると、なにをどう作られてもイヤと言えなくなりますよ。中国産豚肉のように赤身の色付けにスーダンレッドという絨毯染色用塗料を使われても分かりませんよ。アメリカで良く使われるステロイドなどの成長ホルモンも、使われていても分かるのはズッと後のことですよ。また外国にはその国で許容されていて、わが国では許されていない薬剤、抗生物質など山ほどありますよ。それでいいんですか?

価格も国際市場価格が意図的にヘッジファンドなどに介入されれば、メチャメチャな値段をつけられたとしてもグーの音も出ませんよ。今年のように飼料価格や原油価格が超高騰しても、ともかくこのていどで済んでいるのは、問題も大ありだけれども、まがいなりとも国内畜産があるからで、それが歯止めになって国民の食卓を守っているのは確かなんです。

_edited_3 ベジタリアンや玄米正食の方々に対しては、ご自分の理念としての食のあり方の非妥協的で思想的な追求には敬意を惜しみませんが、それが国民の今の食のあり方とイコールではないことをどこかで心に留めて頂きたいのです。

今のわが国の食のあり方は歪んでいるというベジタリアンの方々のご意見には納得することがおおいにありますが、皆さんのようなラジカルな食体系に移行できる人は極めて希なのです。私も玄米食に3回もザセツしています(汗)。

私がグローバリズムに首までどっぷりと浸っている現行の日本畜産のあり方を批判する時には、その解決方法をひとりの畜産家として提示し、微力であっても実践をしていかねばならないと思っています。そうしないと無責任だからです。ですから、そのような私にはグローバリズム経済の中に安住する日本畜産業が、今年資材の高騰で地獄を見たように、そしてその反対の「やめちまえ」という全否定もまた、解決の道ではないように思われるのです。

2008年12月24日 (水)

畜産・この矛盾に満ちた存在 番外篇 中島紀一先生の授業でしゃべってきました

_edited_edited こんにちは、再開いたしましょう!

このところ毎年のように大学でしゃべる機会をいただいております。一昨年は一橋大(ドエリャ~遠かったぁ!)、去年は立教大(やや遠かったぁ!)、そして今年は茨城大学農学部(ベリー近かったぁ!)の中島紀一先生の授業でしゃべらせて頂きました。

今まで農業を社会的な起業の側面からお話する機会が多かったのですが、今回はバッチリと本業の畜産をお話することができました。学生諸君を相手にお話をするのはなかなか楽しいことで、まぁ、彼ら農学部の学生といっても現実の農業現場のことは、な~んも知らないわけですよ。

実際に昔は農学部といえば、農家の子弟が多かったそうですが、今はとりたててそのようなこともなく、就職先はもっとそのようなこともなく一般企業へ就職というのがあたりまえだそうです。あんがい遺伝し組み合えなんじゃらとか、情報管理うんだらという授業が多いようですね。私の勝手なイメージでは、大根を持って学祭で踊ってくんなきゃなぁと思っていますが、残念。

中島紀一先生は知る人ぞ知るというか、有機農業界で知らなきゃモグリという研究者です。いや、研究室に閉じこもるタイプではなく、パワフルに全国を駆けまわっておられています。しかしそれでなくとも、「農を変える全国集会」や、全国有機農業協議会のリーダーをおやりになっています。かてて加えて、それでなくともたいそうお忙しいのに、今年は茨大農学部長までおやりになってしまって、もう身体壊しても知らないぞというパワフルな研究者です。

ご専門は地域の中での農業の役割りを非常に懇切丁寧に解きあかしていらっしゃいます。著書に「食べ物と農業はおカネでは測れない」(コモンズ)などがあります。私も頂戴致しまして、タダでもらったからという訳では決してなく、膝を打ちながら拝見しております。お勧めの一冊です。

さて、学生さんの感想ですがこんな感じでした。まぁご好評のようでほっとしております。_edited_edited_3

_edited_2

2008年12月13日 (土)

鎌田實 先生と中川恵一先生の癌対談

がん対策基本法の狙い

東大の放射線科の准教授、中川恵一先生と毎日新聞の仕事で対談をした。
中川先生とは『がん 生きたい患者と救いたい医師』(三省堂)という本を共著で出している。
今まで対談もやっており、今回が4回目だ。
がん対策基本法をつくるうえでは、かなり大事な役回りをした一人だと、僕は勝手に思っている。

乳がんは、1センチの大きさになるのに15年かかる。Gan_ikitaikanjya
直径1センチから10センチになるにはさらに5年、そのころには手がつけられなくなる。
1センチ以内で見つけるのはとても難しい。
だが、1センチから2センチになる1年半の間に、見つけることはできる。
だから、年に一度、がん検診が必要ということになるのだろう。

日本のがんの検診率は20%。
これを何とか50%以上にしないかぎり、がんでの死亡率を下げることは難しい。

たばこをやめること、健診を受けること。
そして、大腸がんなどは、軽い運動をすることが、あきらかに効果があることがわかっている。
赤や黄色、緑の色素の入った野菜を多く食べることもいい。

がん対策基本法の話になった。
この法律そのものが、「がんばらないけど、あきらめない」ことだと中川先生は言った。
僕のフレーズを使いながら、うまく説明をしてくれた。

がん対策基本法は、がんの三大治療である、手術、放射線治療、化学療法をバランスよく充実させることを一つの大きな目標にした。
手術や化学療法はがんばる治療であるが、放射線治療はがんばらない治療だ、と中川先生は言う。
脳に転移があっても、骨に転移があっても、あきらめずに放射線治療をすることで、しばらくの間、いい時間を過ごすことができる。
前立腺がんや食道がんでは、手術と放射線治療はほとんど効果は同等というデータが世界中で報告されている。
だとすると、高齢の場合は放射線治療を選んだほうがメリットが多いという場合が出てくる。
まさに、がんばらないけど、あきらめない治療なのだ。

放射線ががんに効くしくみというのも、意外に知られていない。
喉頭がんの放射線をあてると治るが、これは免疫なんです、と中川先生は言う。
がんは自分の細胞からの突然変異なので、免疫はなかなか異物とみなすことがむずかしい。
がんと闘うマクロファージなどは、がんを異物と同定することができず、見逃してしまうのだ。

だが、放射線をあてることによって、がんの隠れ蓑であるステルスを消してくれる。
それによって、がんがはっきりと異物と同定できるようになり、マクロファージががんを必死に食べ始める。
そして、喉頭がんが消えていく。
放射線で被爆をさせて、がん細胞を壊しているのではなく、
ステルスを消して、マクロファージに食べさせているのである。
なかなかわかりやすいなと思った。
もちろん、悪性リンパ腫のように、がん細胞にアポトーシスという細胞の自死をおこさせるものもある。

がんの痛みに関して、ぼくたちの国は、積極的ではなかった。
モルヒネは、カナダやオーストラリアの7分の1の量しか使用されていない。
医療用麻薬の使用量は、アメリカの20分の1である。
日本の医師は、患者の痛みに関して鈍感であった。

これをがん対策基本法では改善し、患者さんを痛みで苦しませないようにしようというのが、二つ目の大きな狙いだ。
そして、がんを早期発見するために、検診率を上げ、がん登録を推進して、がん治療の効果判定が科学的に同定できるようにしようというのが、がん対策基本法の考えなのだという。
がん対策基本法では、緩和医療の充実を強く後押しをした。
がんを治療をする外科医も内科医も、5年間に10万人が学ぶことを目標に、現在すすめられている。

だが、現実はまだまだ厳しい。
がん患者を救うはずのがんの拠点病院で、がん難民を生み出しているという現実を、中川先生も鎌田も指摘している。
この指摘にご不満のある厚労省の局長もおられたが、中川先生もぼくも、たくさんのがん難民が、大学病院やがんセンター、癌研、そのほか多くの拠点病院でつくられていることはよくわかっている。
いまの在院日数が病院の収入に影響するようなルールがあるかぎり、がん難民はある率、生じてしまうのである。
医師が忙しすぎることも、大きな原因である。

お産難民が母子の総合医療センターなどでつくられている。
救急医療のたらいまわしで、救急医療難民もつくらている。
この現実をきちんとふまえないといけない。
患者を救うのは、医者の仕事だけでは限界がある。政治の仕事が必要だ。
医療費の抑制政策をしていては、この問題を治すことはできないだろう。

■鎌田實先生のブログ「なげださない」から転載させていただきました。ありがとうございました。

「なげださない」http://kamata-minoru.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-1bcd.html

2008年12月11日 (木)

書くこともまたひとつの百姓仕事だと思っています

Img_0023 余情半様、ゆっきんママ様、いつもの温かいお気遣いありがとうございます。いやたいしたことないのですよ。ただ腹が減って、運動のレベルをちょっと上げすぎてヒーヒー言っているだけです。

余情半様、大丈夫です。貴兄のジャブはフックとなっていませんって(笑)。実は、私はこのブログを書き始めた時に、これは私の一種の百姓仕事のひとつだと思ってやっていこうと思いました。貴兄からかなり前にいただいて心から感動したコメントに「このブログは同時代の農業の現代史なのだ」といったものがありました。

そのようにすごいものは到底私の任に余ります。ただ、たまたまこの村に来て、農業という、それも畜産などという辺地に来た者としてそれなりに見てきたこと、見ていきたいものはあります。それをできる限り私の体験と、客観的なデーターを添えて語れることができれば、私の農業生活もあながち無駄ではなかったのかと思う次第です。

また、貴兄の心配していらっしゃる「パソコンの前に座りづめでは」ということですが、たまたま筆と巻紙の時代、はたまた、ペンと便箋の時代ではなかっただけだと思うことにしています。

私も昭和27年生れという充分にアナログ世代ですので、なんか自分でも「たまらんなぁ~、キイボードとモニター相手かい」という感じは常にありますし、その微妙な違和感をなくしたくはありません。

その意味で私はモニターという便箋に、キイボードというペンで、自分の農業観や、多少の体験、知見を書いている百姓にすぎないのです。江戸期の緻密な農書を作りあげた農民の足元にも及びもつきませんが、農民は田や畑だけで汗を流す事のみが百姓ではなく、それを観て、書き残し、そして伝えることもまた百姓仕事の百の仕事のひとつだと思っております。ことに私のような年齢に達した農民にとって課せられた仕事は、ただ畑や畜舎で汗流すことではないと思っております。

あ、それと、けっこう書き溜めてアップ日を先の日に設定したりしています。私のブログは日記ではないもんで、そのテができるんですよ。

ありがとうございました。

2008年12月10日 (水)

日本畜産・この矛盾に満ちた存在 第1回 日本の畜産は「農業」なのか?

_edited_4 前回の「風土と畜産」の続きとして、よりわが国の畜産に踏み込んだ新シリーズを開始します。

題してやや自虐的で恐縮ですが、「日本畜産・この矛盾に満ちたもの」です。

私は畜産家、それも養鶏を専門にしています。畑や田んぼはありますし、かつては出荷もしていましたが、まぁ自給ていどの規模にすぎず、片手間の域を出ません。現金収入は平飼養鶏を柱にしています。それは今でこそ2町歩(2ヘクタール)ちかい畑をもっていますが、それもここの何年かの話で、長年わずか5反歩(50㌃・約1500坪)、それも実質的にはその中の母屋や庭、果樹園などの部分を抜かすと、たかだか3反歩という水飲み百姓の5反歩にも満たない超ミニサイズの農家だったからです。3反歩の畑では天地が逆転しても食べられるはずもありません。

さて、畜産をやって25年にもなりますが、私は日本畜産という分野は果たして「農業」なのか、それとも違うのか自他ともによくわからない位置にいると思いつづけてきました。いちおうJAや農業委員会、行政、農林公庫などは堂々と農業の範疇に入れてくれています。ありがたや。しかし、先鋭な消費運動家や有機農業の論者の中には、「畜産などは輸入加工業にすぎぬ」と一刀両断にする人も多々います。このブログ゙でもそのような内容のコメント投稿を頂戴しました。

私もある有機農業関係の集まりで日本農業についての意見を言った時に、ある畑農家から露骨に「でも、ハマダさんはヨウケーでしたよね」と妙に小馬鹿にしたような表情を受けた時もありました。かの米沢郷牧場の故伊藤幸吉さんという農業界の巨人ですら「今まで畜産をやっているだけで、なんども悔しい思いをしてきた」と親しい人に述懐しているのを人伝てに聞いた時に、今まで遠くにいたこの巨人が奇妙に身近に感じたことを思い出します。

Photo あえて誤解を受けることを覚悟で言えば、日本の畜産家のもつ非修理主流は差別意識はそうとうに根深いものがあります。時にそれは、耕種農家(畑専業農家)に対する対抗心として出たり、人一倍の権力志向や成功への欲求へつながる場合もあります。

ではなぜ、日本の畜産家が正門から堂々と「我らはこの国の農業の一部である」というアイデンティティを持ちにくいのでしょうか?たぶんヨーロッパや米国の同業者にはそんな悩みは皆無なはずです。むしろ欧米の農業の正統派、メーンストリームは、俺らだくらいの意識すらあるはずです。前回のシリーズをお読みになっていただいた皆さんにはおおよそその理由の見当はつくかと思います。

彼ら欧米の畜産家には自らの飼料の後背地がしっかりと存在します。ヨーロッパにおいては、みずからの圃場の大部分は飼料用の穀物や牧草だったりするのも珍しくはありません。米国は飼料用穀物の自給率300%という途方もない規模の穀物生産量を抱えて、まさに売るほどあるのは存じなとおりです。ただし、怪しからぬことには連邦政府の輸出補助金という竹馬を履いてですが。

つまり、欧米では国内の飼料用穀物生産があって、はじめて畜産があるという順接の関係なのです。ところがわが国では、飼料用穀物生産がほぼゼロなのに畜産があるという逆接の関係があります。これはハッキリと言ってしまえば、ありえないことです。そもそも農業ということ自体が、その国の風土と土地の中から生れてきているとすればこそ、その国の食の形は、いいにつけ悪いにつけ、その国の風土の形によって決定づけられているはずでした。

ところが、世界の中でたぶんわが国のみが、ある時代から自国の風土と食との関係を見失っていきました。それが当初は小さなものであったものが、半世紀の間に巨大ないわば食の背骨の歪みとなって現れてきているのが現代です。

そして痛苦をこめて言うのですが、その先駆けを引き受けたのが、不幸にもわが畜産でした。畜産の「毒」が全身に回るようにして日本農業と食の関係は少しずつおかしくなっていきました。そのことも含めて畜産の特殊性について次回以降ふれていきましょう。    

2008年12月 9日 (火)

風土と畜産について考えてみた 第6回 豊かな日本、貧しいヨーロッパ?

_edited ヨーロッパと日本の農業のスタイルの大きな差は、牧畜中心であるのか、米作が中心であるのかによります。

言い方を変えてみましょう。ヨーロッパの農地の生産性は非常に低く、日本の農地の生産性は比較にならないほど高いのです。これを下の図でみてみましょう。このデーターは播種した種子に対して、どれだけの収穫の倍率があったのかをみたものです。ちょっと専門的すぎるかもしれませんが、かなりハッキリと米と麦の差が出ていますね。日本のコメは110倍にまでひと粒の麦が、増産されているのに対して、アメリカの小麦に至ってはわずか23倍にしかなっていません。ヨーロッパの効率がいい小麦ですら51倍程度です。エン麦などわずかに7倍にすぎません。

_edited_2実はこのデーターは現代の化学肥料、化学農薬が登場しての農業革命が起きてからのもので、13、4世紀の中世ヨーロッパでは平均して3、4倍がせいぜいであったと言われています。19世紀のはじめでようやく5、6倍の向上にとどまっています。小麦の恐ろしいまでの、生産効率の悪さがおわかりいただけたでしょうか。

それに対して、日本の水田は江戸期には上田、中田、下田と3段階に分かれて租税をかけられていました、江戸期の農書の緻密な記録(これがまたオタクチックに緻密なんだな!)、平均の中田ですら30~40倍で、上田などは50倍を前後しています。

かつて江戸時代の農村のイメージは、暗く、貧しく、百姓はいつもボロイ着物で地にはいつくばっているというのが通説でしたが、近年の研究で大きくそれが覆されました。特に各地の農書や、幕末期に日本を訪れて女性一人でなんと東北の奥地まで旅行をしてしまったイザベラ・バード「日本奥地紀行」(平凡社)などの記述によって、同時代のヨーロッパ農村よりはるかに栄養状態がよく、治安も安定して、こざっぱりとした着物を着て穏やかに外国人に接している日本農民の姿がわかってきました

これは誇るべき日本の農業の姿です。日本は米作中心を選択した農業スタイルにより、米の生産性を奇跡的に飛躍させることに成功していたのです。それに対して、ヨーロッパは、気候的ににコメを作る条件がありませんでした。つまり、コメの生育期に3カ月以上摂氏20度以上、年間1000㎜以上の降雨量という最低条件に満たなかったため「麦を作らざるを得なかった」のです。

また、麦は現代日本においても10㌃あたり収量が300キロ超(約6俵)、米は480㌔超(8俵)と3分の2ていどであるばかりでなく、コメと異なって連作ができないために(コメは300年間同じ水田などザラにあります)、一作ごとに耕地を換えていかねばならない二重のハンディがありました。このためにヨーロッパでは、秋まき麦(ライ麦・小麦)⇒春まき麦(大麦、えん麦)⇒牧草という3ツに農地を分けて、3年間で一巡させざるを得なかったわけです。このようなヨーロッパの農業スタイルでは、牧畜を選択するしかないでしょう。

_edited_3 言い方に語弊がありますが、「貧しいヨーロッパ」は牧畜をするしかなく、「豊かな日本」は米を中心として生きてきたのです。ヨーロッパ人は近世、豊かであるがために大航海時代を作り出したのではなく、むしろヨーロッパの低い生産性と、それを巡っての戦乱と荒廃に押し出されるようにして、アジア、アフリカに進出したのです。その証拠に、これら武器をもった冒険商人たちは、自国のものをアジア、アフリカに輸出したのではなく、東洋の茶や絹、香辛料、磁器などをヨーロッパに持ち帰り巨利を稼ぎ出したのです。

16世紀当時の東洋貿易において西洋からの輸出品はほとんどが銃火器の類であるのに対して、東洋からはあらゆる農産物や高度に発達した美術品が輸出されています。果たしてどちらが文明国家なのでしょうか?

この植民地を絞り上げた巨大な利益によってヨーロッパの現代の繁栄の基礎が築かれたともいえます。これが、ヨーロッパ白人種による非白人種の300年にもおよぶ非道苛烈な植民地支配、あるいは、非文明による文明の収奪の起源です。

それはさておき、ヨーロッパでは生産性の低い農地⇒小麦、牧草中心の農業⇒牧畜中心の農業スタイル⇒肉食という食の形を作ってきました。これは今に至るも本質的にまったく変わりがありません。

一方、わが国では生産性の高い農地⇒米中心の農業⇒米作中心の農業スタイル⇒米と菜食という食の形が長きにわたって定着したのです。

日本に、そもそも「畜産」などという概念やジャンルはなく、それは明治以降人工的な輸入技術でしかなかったということについては次回にお話しすることにしましょう。

2008年12月 8日 (月)

風土と畜産について考えてみた 番外篇 ムシュ・フランクとムシュ・アマダ

_edited                                                                                                                                                                            ムッシュ・ フランクの思い出をもう少し。たしかピエール・フランクっていったとおもいました。

とても温厚で、彼女が日本人の暗黒舞踏で有名な(?)白虎社の舞踏家という関係で日本に来たようです。

暗黒舞踏って知ってますか?前衛舞踏でならした、全身白塗りの裸身で真っ暗な舞台で踊るという、お好きな方にはたまらないものです。フランクさんが居た時に、入植仲間と近在のお百姓の前で一度踊ってくれたことがありましたが、なかなかスゴイ、というかコワイ。彼女は暗黒舞踏は、「舞踏界の有機農業だ」とおっしゃっていましたが、私にはよーわからんち。近在の農家さんは、どちらかというと女子プロレスを見るようなかんじでした。

それはさておき、ムシュ・フランク、いやピエールはファーストネームで呼ばないと怒る。ちなみに私のHAMADAのH音は、フランス語では発音されずにAMADA・アマダとなります。ムシュ・アマダが私のフランス名となります。

フランス人がフランス語以外はまったくダメだというのを初めて知りました。英語なんてまったくわかりませ~ん。日本人も英語ができないからと下を向く必要なんかありませんよ。だから会話はお互いにフランス語と日本語と、あとは絵をかく。これで通じるんだからたいしたもんだ。

_edited_2 彼は実に温厚で、そのくせなんにでも好奇心を燃やすという人でした。たまたま神社の巫女舞があった時には、前衛オバさんといっしょにかぶりつきで鑑賞していましたっけね。ま、だからフランスの田舎のお百姓でありながら、日本人の前衛舞踏家を友達にしているんでしょうが。どんななれそめなのかは聞きそびれましたが。

彼が私たちの農場生活に関心を持ってくれたのは、やはり当時私たちが建設途中で鶏や山羊を飼いながら、井戸を掘ったり、電気を引いたり、トイレをつくったりとよろず生活作りの真っ最中だったからでしょう。彼は気軽に電動ノコでブンブンと材を切って手伝ってくれました。

彼の父親がアビニヨンの田舎にベトナムから帰ってきて入植し、彼も子供の頃から家畜小屋や果樹園を作る手伝いをしてきたそうです。だから手慣れたもの。ホイホイと鼻唄まじりで小屋が組上がっていきます。

フランス人のコロン(入植者)は、初めから3代、100年に渡って構想をするんだそうです。まず初代目は、ともかく寝る場所と最低限のいきるための畑を作るわけですが、その時にすごいなと思ったのは、初めはハンチクなものでいいそうです。あまり中途半端にいいものを作ると後から困るんだそうです。

なぜってハンチクな家を作ると、後で始末に困るということらしいのです。初めはムシュ・アマダの当時の納屋の二階暮らしのようなものから始めて、母家はしっかりとあーでもない、こーでもないと練りまくる。そしてその中央部分のみを作るのだとか。しかし、構想図には後のウイング(中央部分から左右に伸びる両翼棟)までかき込まれていて、これを作るのが2代目、3代目の一家をあげた聖なる仕事なんだそうな。

また、初代は経済基盤をしっかりと作るのも大切な仕事です。2代目はその経済基盤を充実させて、そしてかたわら母屋の片翼棟を作るわけです。そして庭などもにも手を入れる。しかし肝要のは、完成は考えていないことです。次代が手を入れることができなくなるようなことはしないのです。

日本でも3代がひと単位といいますが、まったく同じ発想はフランス百姓にもあったのには驚きました。同じ「農業」という言葉ではくくれないと前回に書きましたが、ちょっと訂正。西も東も百姓はどこか似ています。それは時間が味方だということです。それも百年単位の。

ムシュ・フランクはニコニコとわらいながら分厚い手を差し伸べて握手を求め、私がプレゼントしたゴボウの種の缶を大事そうにバックに入れて帰っていきました。ごぼうは、私の農場で彼の大好物になったフランスにない野菜だそうです。

2008年12月 7日 (日)

風土と畜産について考えてみた 第5回 フランス農家は田んぼでたまげた

                                                                                                    _edited              前回でヨーロッパと日本の気温と湿度の差からくる風土の違いをお話しました。

そして「農業」という分野には世界共通などはないのだとも書きました。

ヨーロッパの農民がこれが「農業」だと思っている概念や技術も日本のそれとは大きく異なっているかもしれません。

もかれこれ20年ほど前になるのですが、フランクさんという南仏のアビニヨンで農家をやっているフランス人が私の農場にひょんなことで訪れて滞在していったことがあります。ちょうどその時は夏の田んぼの真っ盛りの時で、私は除草を手伝ってもらったことを思い出します。

真夏の除草は田車といってガラゴロと畝間を人力ロータリーで引っかき回してコナギやヒエなどの野草を取っていくのですが、ホントにしんどい作業です。足は田んぼに埋まり自由が効かず、だんだんと足がず~んとおもくなってきます。徳富蘆花が「農家は草との合戦です」(「みみずのたはこと」)と書き残していますが、草を「取る」などという生易しい表現よりも、草と「格闘」しているという気にすらなる作業です。

除草剤が登場した時に、日本農民は歓呼して迎えたのは当然です。除草剤は生態系や田の生物に悪影響を及ぼすのは皆さんもご存じなとおりですが、この盛夏の田んぼの草取りをやってみてから批判して下さいというのも、私の気持ではあります。

Img_0027_edited_edited さて、フランクさんはこの仕事を丸一日泥だらけになってやって、夕刻のビールを酌み交わしながら「こんなことを日本の農家はあたりまえにしているんですかぁ!フランス人なら1週間ももたないで~す。日本農民、とれびぁ~ん」と感嘆していました。彼に言わせれば、彼の農園の麦など耕して、施肥して、麦の種をぶん蒔いて、後は収穫までなんもすることはないのだそうです。

牧草に至っておや、です。私は低く生え揃った牧草が丁寧な管理によるものだとばかり思っていたのですが、違うようです。放っておいても雑草は生えないのですから。

_edited_2この過酷な水稲の労働は驚くような米の奇跡を取り出しました。横の図をご覧下さい。これは無肥料でどれだけ収量が低下するのかを見た実験データーです。水稲はまったく肥料をやらずに連作をしても74%にしか収量が低下しません。一方同じ稲でも陸稲(おかぼ)になると麦とほど一緒の35%ていどにまで落ち込むのがわかります。つまり、水耕栽培という魔法により、絶えず田に流れ込む水の中にある里山から染み出す養分やミネラルによって収量が保たれ、連作障害を起こす物質も水で流されていっているのです。

方や陸作では、毎年施肥をし、圃場を変えなければなりませんでした。それをしてすら麦などの陸作は水耕栽培の米と比べて悲しいような収量しかなかったのです。それを次回に見ていきます。

2008年12月 6日 (土)

風土と畜産について考えてみた 第4回 ヨーロッパの自然と日本の気候は真逆だった

Img_0001_edited_edited ヨーロッパと日本の気温、湿度の違いを比較した面白いデーター(下図)が鯖田豊之さんの名著「肉食の思想」(中公新書)にありましたのでご紹介しましょう。

東京とパリを比べたデーターです。上の実線が東京、下の破線がパリです。まず気温ですが、東京のピークは8月中旬、パリはそれより一カ月早く7月です。驚くのは、東京が26、7度であることに対して(今はもっと上がっています)、パリはな~んと20度にも達していないことです。

一方、もっとたまげたのは湿度です。同じ夏にもかかわらず、パリの温度が最も高い7月には湿度70%ていどです。東京は80%を超えています。

これからなにがわかるでしょうか。そう、ヨーロッパの夏の暑さのピークの山は、湿度のズンドコなのですよ!日本のように気温のピークと湿度のピークが重ならないんです!真逆なんです。

_edited_2野草は暑くて、湿度という水分があればあるほどボーボーと生育します。ですから、私たちが見慣れた日本の自然風土では、夏はちょっと放置しておけば、庭でも畑でも草だらけになってしまいますね。

ところが、ヨーロッパではそうではありません。いったん温度が高くなって盛んな生育を開始し始めた野草(牧草)は、湿度(水分)が不足するために中途で生育を止めてしまうのです。つまり柔らかい若草の段階で成長がストップしちゃうんですね。

ヨーロッパの野草や牧草が家畜にとってちょうど食べるに適した硬さの若草である秘密はこの、夏の気温最高、湿度最低というところにあったのです。これこそが、ヨーロッパが牧畜に最適な環境をもたらしたわけだったのです。

フランスのラベル・ルージュ(赤札高級付加価値農産物)にブレス鶏というものがありますが、その生産基準の中に確か10アールあたり300羽の野外草地における放し飼いという規定があったことを思い出しました。写真で見ると、ダダーっと広い背の低い草地に点々と鶏が放されているのが見えます。

日本では現実問題として無理でしょう。単に空き地があるないではなくて、草の伸びる生産力に、鶏が草を食べる勢いが追いつかないからです。丈の高い草の陰から襲来するキツネや野犬の餌食となってしまいます。

これがアジア・モンスーン地帯の日本の風土です。モンスーン地帯では、高温と多湿が同時に来ますから、野草の根はガッチリと大地をつかみ、一気に背丈を伸ばします。そして一夏の間に、人の身の丈を超えるほどまでに成長してしまうのです。こうなってしまうと家畜の餌(粗飼料)には硬過ぎて向いていません。ひっきりなしの草刈りという作業という日常的な手入れが日本では必須なわけです。日本で唯一ヨーロッパ型牧畜が可能なのは北海道だけなのではないでしょうか。

畜産のみならず、有機農業と一口に言っても、欧州は日本のような野草との戦いがありません。野草の草陰で繁殖する害虫もいません。われわれ日本のお百姓とは比較にならない簡単さで有機農業を実践することができるのです。

私がグローバル・スタンダードであるJAS有機認証制度に深い疑問を持ち始めたのは、ひとつには欧州と日本の隔絶した環境風土を、世界共通の単一基準で裁断することのおかしさに気がついたからでした。

このようなまったく対照的な風土は、根本的に大きく異なる農業のスタイルを生み出しました。次回はそれを見ていきましょう。

2008年12月 5日 (金)

無理をしない、こだわりすぎない

  _edited_3                                  2日ほどのお休みをいただきました。実は、このところ健康再建プロジェクトを始めています。

入院の前の私ときたひには体力は落ちる所まで落ち、仕事で配餌車を引っ張るのも息も絶え絶えという有様でした。私はこう見えても、体力自慢だったのです(苦笑)。体力自慢の男がそれを失うと、なんか自分がほんとうに腑抜けになったような気持がしました。

また、それまでやってきた有機農業運動やエコビレッジ作りの活動も、それを支える体力、気力が崩壊するのに連れて耐え難くなっていきました。・・・そして入院。一生投薬から離れることが出来ない人生となることが決まりました。正直に言って、精神的に落ち込まなかったと言ったら嘘になりますね。

ようやくチャリンコ(クロス・バイクといいます)で毎日数時間、村や湖の周りを走り回ることができるていどにまで回復してきました。ま、念仏を唱えながら村中を歩かれるよりは、村の衆には不気味ではないかと。だ、はは。

調子に乗って昨日など2時間以上も走ってしまった挙げ句、今日など股関節は痛てぇは、脚が.パンパンに張るはともう大変。でも、「ビョ~キよ、飛んでけっ!」と張り切っています。

でも、かつての私とはちょっと違うのは突っ張らないことです。思い込まないことです。ようやく、そうやっとですが、「いいかげん」なことも大事かなと。諏訪中央病院の院長であった鎌田實さんのご本「いいかげんがいい」を読んで救われました。自分の信じる理想があり、が故に社会的な責任を持とうとし、体も心も疲れ果て、結果耐えられず、すべてをダメにしてしまうのがもっとも悪いのではないのでしょうか。まさにちょっと前の私のように。

鎌田さんはこう言います。無理をしない、こだわりすぎない。欲張らない。突っ張らない。悩みすぎない。求めすぎない。

そのように考えると、病気と「闘う」というのは私が好きな思考パターンでした。「闘う」という対象は、思春期には学校という器であり、青年期には国家社会であり、農業を始めてからは今の農業のあり方や、時には自然そのものでした。そして今は病気です。

つい先日でしたか、もうこのような発想に立つのはやめようと思ったのです。退院した時には「病気と闘ってやる。負けてなるものか」とうなっていました。だから鼻息荒く強行退院などをやらかしてしまったわけです。恥ずかしい。これは病院や医師、ナースをどこかで「敵」とみたてています。このような「戦い」と対になった「勝つ」という考えにいる限り私はまた「入院」してしまうことになるのは必至でしょう。

どこまで行っても自分。どこを切っても自分。他人の気持も愛情もしっかりと受けとめない。そのような身勝手な人間に救いや光があるはずがないではないですか。

仮に毎日運動ができなくとも、ブログが毎日更新できなくとも、はたまた、たまにハメをはずして食べすぎても、「ま、いいんじゃないか」と思おうと考え始めました。カンペキを追い求めるのはもう止めにしようと。自分を追い詰めるのだけは止めよう、と。自分を追い詰めるのは他人に迷惑をかけると。なによりも家族に。

肩の力を抜いて「いいかげん」に生き直してみるのもオツかな、と。それともうひとつ鎌田さんのひとこと。これが重いんだ。

「あきらめない」

2008年12月 2日 (火)

風土と畜産について考えてみた 第3回 ヨーロッパはもともと寒い?

前回の表を見て、私はため息が出ました。欧州各国の中で最も一戸あたり農用地が少ないドイツでさえ、その6割しか畑(耕地)に回していないのです。イギリスに至っては36.8%にすぎません(*現在はもっと耕地の割合が大きくなっているはずです)。残りの農用地の大部分は麦を主として牧草などを栽培しています。

そう言えば、ドイツに温泉療法の留学した女性から話を聞いたことがありました。彼女の言うには。

「森の国ドイツなんてウソよ、あ、はは(豪快に笑う)。グリム童話に出てくるような深い森なんかとっくに皆んな切っちゃってもう一部しか残ってないの。確かに都市の中の公園や街路樹は立派だけれど、私たち日本人が考えるような里山の森なんかぜんぜんないわよ。あるのはどこまでもダラダラと続く牧草地だけ。初めは絵葉書みたいでキレイだけど、単調なのですぐ飽きちゃうのよね」

下の写真がドイツの農村風景です。20080911 うちのカミさんも同じようなことをイギリス旅行で感じたと言っていました。彼女はイギリスを鉄道で旅行したのですが、車窓から見える風景は、低い起伏の丘に続く牧草地、羊、たま~に畑と村が点々ってかんじだったそうです。

私もさすがにわか百姓も25年めともなれば、「もしその土地で農業生産をするとしたら」って百姓根性で風景を自動的に見てしまいます。すまんこって。

で、批評的に上の写真の風景を見ることにします。まぁ、キレイちゃあキレイですが、牧畜をするには向いているでしょうが、「奇跡の穀物・コメ」を作ることは無理だと思われます。その理由は温度が低そうで、降雨量もたぶん乾燥気味だからです。これはこの写真が撮られた9月中旬に雑草ひとつない風景であることで分かります。

雑草というのはその土地を見るとてもいい目安です。雑草が生えるほど豊かなのか、雑草も生えぬほど瘦せているのか。これはその土地が温かいのか、寒いのか、はたまた湿潤なのか乾燥しているのかを見るいい指標です。

時は9月、この写真を撮られたドイツは夏の終わりとはいえまだ夏が力を持っている季節のはずです。しかし、雑草はまったくみえません。まことスッキリと牧草のみが低く生えているだけです。

このドイツの9月の農地の風景は、私たち日本の10月下旬か、11月の初めのようです。このようなヨーロッパの寒さがどんな農業を生み出したのか、次回考えます。

2008年12月 1日 (月)

風土と畜産について考えてみた 第2回 欧州は農用地のうち6割しか畑にしていない!?

Img_0009_edited_edited_2 え~皆様、なにがバカバカしいかと言って、比べようがないことを比べる愚かさです。え、なにを言っているかと申しますと、もちろん農業の話です。

なにかと言えば、日本の農産物が「モ~レツに高い」ということをブツブツ言い、国際農産物価格なるものを尺度にして我ら農民に講釈を垂れます。だいたいが、たとえばの話、ドイツと日本の農産物価格を比べてなんの意味があるのでしょうか。こんなことは少なくともグローバル化とやらがない時代にはありえない発想でした。今、このいびつにグローバル化した世界経済そのものが問い直されている時に、農業のみが蚊帳の外に居ていいはずがありません。

こんなリクツを良く聞きませんでしたか?まずは国土が狭い⇒農地が狭い⇒大規模化ができていない⇒小規模農家が過剰な機械化をしていて非合理的な経営をしている⇒その非合理的経営を価格に転化して消費者に高い農産品を押しつけている⇒農産品の自由化をすれば農産品は安くなる、とまぁざっとこんな論理です。

この論理のキモは、一戸あたりの農用地面積です。日本の農用地はドイツの20分の1、イギリスの38分の1、イタリアの26分の1と来て、最後に参ったかぁとばかりにアメリカの数百分の1というもはや天文学的差を突きつけられます。農水省までもが、自分の農業政策がさんざん失敗したことを棚に上げて、日本農業の国際競争力のなさの根拠にこの数字を持ち出すんですから、なんともかとも、はぁ~(ため息)。 

この数字はひとり歩きをしていて、日本農業をバッシングする際になにかと使われます。私はこれに疑問を感じて検証のシリーズをしたことがあります。その時に素朴な謎につきあたたったのです。調べてみて分かったのは(本ブログ8月9日記事を参照下さい)ドイツあたりだと農産物価格が日本のそれとほとんど変わらないという事実でした。「日本には農業なんかいらない派」の方々はこの事実を見てなにも疑問にかんじないのでしょうか?

なぜなら、日本とEUは機械化などの近代化において、あるいは所得水準などはほぼ同一の水準だと思われます。農用地の広い狭いが生産性や価格と直結するのならば、なぜ、EUの農産物価格が日本の20分の1にならないのかと。  

_edited その理由が氷解したのは、左の資料を鯖田豊彦さんの「肉食の思想」(中公新書)で発見した時です。表の2番めの項目の「農用地のなかで耕地の占める割合(%)」という項目に注目下さい。日本は約8割までが耕地、つまり畑と考えていいでしょう。一方、ドイツなどは約6割、アメリカにいたってはたった約4割しか耕地で使用していないのです。ですから野菜を作る畑でEUと日本を比べれば、極端な農産物価格の差が出にくいということです

これを見た時に私は、眼からウロコがコンタクトレンズのように一枚ポロリと落ちました。なんのこたぁない、諸外国は農用地が広い、広いと言ったって、その6割ていどしか畑に使っていないのです。では何に使っているかというと、表の項目の3番めの「食糧自給率」をみれば納得します(*この資料は1960年代の古いものですが、本質的には変化がないと思われます)。ドイツの小麦の自給率は90%、アメリカなど約300%、わが国はたったの4割に過ぎません

これは、はっきりと彼我の国の農業の作られかた、スタイル、国情を物語っているのです。わが国では農用地は米と畑専用であるのに対し、欧州は4割までもが小麦を生産し、アメリカに至っては自国が必要とする実に300%、3倍もの小麦生産をするという初めから輸出指向の農業スタイルをとっているのです。

次回はこの小麦が何に対して作られているのかをみていきます。すると、欧州、米国は日本とまったく異なった農業の姿をしていることがもっとよくわかってくると思います。

■ 今年の秋野菜は豊作。白菜も丸々と太っています。白菜漬けを早速作りました。

           

« 2008年11月 | トップページ | 2009年1月 »