• 20241212-235901
  • 20241211-032939
  • 20241211-154712
  • 20241211-160322
  • 20241210-023508
  • 20241210-023758
  • 20241210-031101
  • 20241208-145048
  • 20241208-151315
  • 20241208-154842

« 2009年1月 | トップページ | 2009年3月 »

2009年2月

2009年2月27日 (金)

続 飼料米の難しさ 税金投入が前提なら、日本畜産の矛盾解決にはならない

_edited 去年の秋の大根の収穫風景です。今はガランとした畑で、春一番のカラ風を待っています。

私の生きる行方(ナメタ⇒○ナメタ⇒×)地方を東西に伸びる「開拓道路」という分かりやすい通称の県道があります。まっすぐに伸びたいかにも、いかにも計画されたような道なのですが、今は幹線になっていますが、実は大きな農道でした。

この道の周辺が平らで、ここをナメガタ台地のテッペンとして左右に褶曲の多い里山が拡がっています。去年から今年にかけてこの里山の利用状況と耕作放棄地がどのように実態として拡がっているのかを調査しました。今、とりまとめていますからそのうち機会があればご報告します。

_edited_2 さて、お退屈様かもしれませんが飼料用米についてもう少し続けます。左の記事はやや古いものですが、この飼料用米の取り組みを報じた日本農業新聞です。

読む限りチャチャを入れる余地のない素晴らしい取り組みのように思えますし、事実私の知り合い達が多く関わっているので、ひじょうにやりにくい。

しかし、な~んか引っかかるのだよな。喉にトゲが引っかかったような気分とでも言うのかしら。

私自身、一昨年から飼料用米には関心を持って調べたり、知り合いの米農家と話をしてきました。

その米作りの友人との座談時ネックとなったのは、やはり価格です。飼料用と食用米では天と地の差があります。これをこの常盤村養鶏農協は、街の産地作り助成金(農水省交付)と村独自の財源で「手厚い補塡」をしたのだそうです。「食用米と10㌃あたり6万円の価格差を補塡した」というのですから、う~ん、なんともかとも・・・・(沈黙モード)。

というのは、街の方にはなかなかわからないかもしれませんが、コメってどのていど儲かるとお思いでしょうか?平均して1.5ヘクタール(1.5町歩)として、おおよそ収量が130俵(7800㌔)です。それを売って、資材費をさっ引くと大体150万~140万円ていどのもの。つまり10アール(1反)の売り上げは15万~14万円なのですよ。飼料用米で価格補塡で6万円もつけてもらったら誰でもやるよな、こりゃ。通常の粗利の4割ていどは何もしないでも行政が出してくれると言うのですから!

ならば一俵3千円(通常茨城コシヒカリで13000円見当が相場)で、養鶏場が買い叩いても、失礼、買い上げても、その収量の多さもあいまってなんとか行くという算盤です。

_edited_3 では、この行政の実質4割もの価格補塡がはずれたらどうしましょう?ここなのです、農家経営的にみた場合の、飼料用米のネックの最大の問題点は!

私はフツーのサラリーマンでしたし、カミさんは東京下町の旋盤工の娘でした。ですから共に、オカミが4割も原料代金をロハで持ってくれるなどという超甘ったるい世界には未だなじめません。

この農業の世界は私が人生でもっとも長き時間を過ごした場所ですし、終の住処となることでしょう。この村に骨を埋めることもとうに覚悟しています。である私にして、今でも馴染めない、いや馴染みたくないのがこの税金をダブダブ使わせて平気であるという精神です。このような補助金漬け体質がどれだけ日本農業の自立を蝕んで来たのか、日本農民の根性を腐らせて来たのか・・・私はそれを見すぎてしまいました。

今、喰えないというならいい、しかるべき救援策を政府に要求するべきだ。しかし今、寒空の下で凍えようという労働者が生れようとしているその時に、「日本畜産の自立と改革」を旗印に掲げている私たちが税金補塡を前提とした展望しか持ち得ないではシャレにならないじゃないですか。それは私たちの理想とは真逆な方向ではないですか。

税金投入がなくとも、廻っていく仕組みを作るのが大切なはずです。初めの3年間は仕方がないとしても、それ以降は税金補塡ゼロという計画構想がなければならないと思います。

この新聞記事を読む限り、補助金補塡が終わってしまったら、この計画はポシャルでしょう。では永久に、日本の畜産に税金で補塡して「自立してもらう」のでしょうか。それはそれでいいでしょう。それはいままでさんざん日本農業が街の人たちに揶揄され、他産業から白眼視されてきたままの構造ですから。ただし、そのようなことを、私は「日本畜産の自立」とは呼びたくありません。

このブログ記事は、私の日本農業におけるいわば同じ志をもった人達への一定の批判をともなっています。もし、この記事がお目に止まったのなら、忌憚のない議論をしていきたいと思います。

 

2009年2月25日 (水)

共生関係・この世の中はとてもよく出来ています

Img_0001 写真は、昨年秋に咲いたヨメナという名の野菊です。白い花が可憐でしょう。

彼女は近くの野道からこちらに転居をお願いしました。野道を行く時は、小さなレジ袋とミニミコップ(定植ゴテ)を用意して下さい。

そしてできるだけ根の周りから土ごと袋に入れて、水をたっぷりとやった穴にお移り願うわけです。ぜったいに根を裸にしてはいけません。根の周りには、多数の土中共生微生物がたくさんついているからです。たとえば、いちばんのリトル・フレンドはVA菌根菌といって土中の栄養分、特にリン酸の吸収を助けることで知られています。ええっと、キンコンキンなどと言うと、また私がヨタを言っているようですが、ホントの名称なのよ、信じて。

リン酸は分子構造の結合がしっかりとしているために、なかなか土中で分解してくれんのですよ。これをキンコンキン(笑)は見事に分解して、植物の根に吸収させてくれます。

その代わり、植物の根はチビッとばかり光合成で生れた美味い蜜であるデンプンなどを出してキンコンキンにお礼をします。するとキンコンキンはいっそう励むという、まぁよくできた関係ですね。

_edited そうそう、私が今やった移植ということですが、これも実は単なるカッパライのように見えて立派な共生関係なんですぞ。

植物は当然と言えば当然ですが、動けません。動いたら東映映画の怪獣マタンゴです(←ふ、古い!昭和30年代育ちだけが知ってる植物怪獣)。ですから植物は種子を分散させるためにあの手この手を考えました。もうそりゃいじましいくらい。

その植物の手練手管を知る前に、なぜ種子を分散させるのでしょうか?これは案外難しい問いなんですぜ。種の拡大をしたいからぁ。まぁそりゃ確かだけど、なぜにかは応えていませんね。

親株にとってジャマなんですよ。親株は自分の自然界での競合者が仮に子孫であってもツライ場合があるのです。植物もそうですが、自然界の動物はもっとシビアです。うちのストーブの煙突で育ったムクドリ様のご一家は、子供の飛行訓練終了と共に、ガキ共は皆、きれいさっぱりと追ん出されて散っていきました。それはまた見事なほど。自然界にはニートなんか金輪際いませんから。

このご一家で一羽ドジな奴がいましてね。そいつはいつまでも飛べないんです。うちの電線に乗ってひねもすブラブラと揺れていました。母鳥が横に来てせっつく。飛んで見せたり、このデキンボウの頭の上を旋回すらしてみせるんです。そして兄姉はとうに飛んで言ってしまったある日、このデキンボウ、何を決心したのか東の空向けて飛び去って行きました。

と、まぁこのように種子は分散していきます。これを媒介するのが鳥や野生動物です。そしてついでに私たちニンゲン族。種子分散型共生というカッタルイ言い方をするそうです。果実が美味しいのは、鳥や野生動物に食べてもらうため。キレイな色は受けがいいように目立つ色をしているわけです。地味なドングリですら、リスや野ネズミなどの野生動物が食べ残したりすれば、ラッキーにそこで育っていきます。

たまに思うのですが、Img_0007 この世界はとてもよく出来ています。神がつくり賜もうたように精緻で、荒々しく、自らの種、あるいは個体が自らの生存を賭けて闘っています。時に依存し、利用し、利用され、必死に生きています。それは涙ぐましいほどです。

さて、あのデキンボウのムクドリがその後どんな生きかたをしていくのか、知りたくはありませんか。私の家の煙突から育った彼の子孫は今どこにいるのか、会ってみたい気もします。

そしてできたら孫鳥にこう伝えてあげたい。おい、あんたのジィ様は、そりゃデキンボウだったぞ。兄姉は優秀だったからな。さっさと巣を出て行った。あんたのジィ様はなかなか飛べなかったので、母鳥にせっつかれた。彼女は頭の上を旋回してせっついた。きっと母鳥はこう言ったんだろう。

「さぁ、飛べ、飛ばないならあたしは知らないからね。ここでくたばりな!もう親でもなければ子でもない」そして君らのジイ様はある朝、飛び立った。まっすぐに朝日の方角に向けてな。その飛び立った後ろ姿を今でも俺は忘れてないぞ、と。

2009年2月24日 (火)

飼料米の難しさ

_edited 先日のブログ記事を読んだ友人に、「ハマちゃんは飼料米は反対なんだね」と言われてしまいました。

う~、ちゃうねん、そう言われそうな中身だったから仕方がないが、飼料米そのものにはどちらかと言えば賛成です。あ、こう言う書き方がいかんのか(反省)。じゃあ条件付きで推進、あ、これも同じか(いっそう泥沼へと)。

飼料米についてはだいぶ前から関心をもってきました。なにより日本の風土に合っています。ですからそれを作るにふさわしい諸条件が完備しているのが大きいですね。

たとえば、生産基盤たる田んぼは既にあるか、再生すればいい(現実には、てな簡単なもんじゃないですが)、作る技術は文句なく世界一、品種だって飼料用好適米が既に東京農大によって作られています。なんと反17俵だそうです!

ではなにが私にためらわせているのでしょうか?農水省や大学研究者が、去年の飼料の大高騰を受けて突如として、この飼料米に飛び乗って来たからって言うのもあります。私は生まれながらのツムジ曲がりのヘソ曲がりで、人生をしくじってきた男です(←えばることか)。このように東京方向から風がビュービューと吹くと、なぜかすねたくなる(ガキか)。なに言ってやがんでぇ、自分の都合ばかりで話を進めやがって、カ~ペッ!と啖呵のひとつも切りたくなるのだから、我ながら困ったお人ですが、このような流行りを私は原則として信じていません。やがて状況次第でいくらでも風向きが変わるからです。

それと前回にも書きましたが、今までの米作りの真逆である「まずくてもいいから大量に作れ。それを家畜の餌にする」というのもヒトをなめた話です。私は畜産家ですが、人には誇りつうものがあろうが。今まで日本人は二千年以上の長きにわたって米を作って来ましたが、古米をドブロクにすることはあれ、家畜の餌にくれたことはなかったはずです。これは文化論になりますが、アメリカがトウモロコシを燃やして車を動かすに似た人の傲慢さをチラホラと感じてしまうのです。

_edited_2 そして今ひとつは、推進派のわが同業者に、本気にやっ気があんのけぇ(言葉尻をあげてね。茨城弁になっから)ということをお聞ききしたいのですよ。助成金つきの実験だから少しやるのはいいでしょう。華々しく都市の消費者にプレゼンできます。新しい飼料用米を使った商品ラインのひとつもできるでしょう。

しかし、3年くらいの間に、本格的な飼料米の生産計画-生産者の確保-栽培管理-文書管理・保管-収穫後の清算事務等を作くらにゃならん。結構たいへんですぜ。打ち上がるのは補助金と取引先の熱気でできますか、その後ホンモノになるのは。

実際に飼料米が根付くためには、自分の農場の穀物のせめて3分の1くらいの量は飼料米に置き換える展望というのか、その根性ががないとダメだと思います。その自信がないのならもう少し熟考したほうがいいのではと思います。もう既に始めちゃったわが同業者は意識の感度が高い人達、皮肉ではなく日本畜産業の舳先のような人達ばかりなので、余計なことかとは思いますが(←ここでいじけるな、ハマタヌ!)、3年たてば飼料米の助成金も立ち消えとなるかもしれません。助成金が消えてからこそ飼料自給、その手段としての飼料米のホンモノってもんじゃありませんか!

では、ちょっと試算してみましょう。

私は規模2000羽規模の吹けば飛ぶようなの零細ですが(泣く)、それでも月に7tていどのトウモロコシを消費しています。つまり米の換算で120俵(1俵60㌔)です。私ですら反あたり仮に飼料米最高収穫量が17俵(!)としても、7反必要なわけです。
通常の法人養鶏場さんなら、たぶん私の楽に百倍以上ですから、月にして70町歩要ることになります。年にして実に840町歩です。ほぼ私の地域の田んぼの総面積に等しいことになります。そして私の市の耕作放棄地は約100町歩ですから、まったく足りない。ただの一軒の中規模養鶏業者でわが市の水田面積を使い切って、それでも足りない勘定なのです。
仮に、全量使用でなく、3分1の使用に留めてもわか地域が相当面積を飼料用に転用しないと間尺にあいません。しかも、そのことによって飼料米生産者が経済的に成り立つというのならまだしも、飼料用米が飼料用として成立するための価格水準を考慮すると、17俵というアドバンテージは帳消しとなり、むしろ通常収量8俵の2倍という米の年間保管費用でむしろ赤字となるのではないかと思われます。
米農家にとって、「家畜に新米喰わせるバカは薪ザッポで殴ってやるだ」という百姓文化論はとりあえず置くとしても、経済的にもやる動機が見えてこないのです。
そしもうひとつは次回にお話しますが、減反政策との絡みも出てくるのですからややっこしい。

2009年2月21日 (土)

飼料輸入制限したらというコメントにお答えして

                                                                                                            先日の記事、「「合鴨ばんざい」という刺激的な本を読み始めました」_editedにコメントを頂きました。ありがとうございました。

ここのことろ論争的なコメントを頂かないので、寂しい思いをしていたところです。

以下引用

一度飼料穀物の輸入を禁止(大幅に制限)してみるのもいい手かもしれませんね。
で、肉類の輸入は完全自由化すると‥
「国産」畜産品の正体がよく分るでしょう。

引用終了

さて、おっしゃるような「飼料の輸入制限」政策がなされたと仮定してみましょう。たしかにすごい衝撃が走るでしょうね。これは間違いがない。「国産畜産品の正体」もあぶりだされることでしょう。これも間違いがない。教育的効果はメガトン級でしょう。

どうなるのか考えてみましょう。飼料は4半期ごとに価格を決めて、あらかじめシカゴ穀物市場に先物取引の形でリスクヘッジという危険分散をしています。今、おっしゃるような政策を日本政府がとったとした場合、次期の4半期分のシカゴ穀物市場価格は激動することでしょう。なんせ世界に冠たる日本の穀物輸入が消滅するというのですからその影響はハンパではない。

どうなるんでしょうね。正直、私もわからない。いったんは次期4半期の国際穀物相場はリスクヘッジをした先物取引であるとはいえ、暴落は免れないでしょうね。当然巨額の違約金を請求されるでしょう。そして大きくあいた日本への輸出穀物市場の穴を、穀物メジャーは埋めようと必死になることだけは確かです。たぶん中国にダンピングしてでも売りを掛けようとするのかもしれません。今、日本の開いた穴を埋められる外貨と経済規模を持つのはかの国しかないのは確かですから。

そして、中国はたぶん国策としても買いに廻ります。そして穀物メジャーは二度と日本をまともに相手にしなくなることでしょう。

_edited                                         一方、輸入禁止措置を政府が出す前段で既に、それを見越して国内の穀物市場は高騰を見越した買い占めと投機などによって価格がびっくり仰天の右肩上がりの大高騰を開始します。

なんせ、「今買っておかにゃブツがなくなる」んですから。我勝ちに飼料を買いあさるでしょう。うちですら半年先までストックします。まぁ、現実にはうちのような零細農家にはもはや買えないでしょうが。自給飼料といっても現状では焼け石に水の実験段階ですしね。

連動して、輸入制限前夜で畜産品そのものは大変な高騰を開始するでしょう。え?安い輸入畜産品があるって。米国からもっと輸入すりゃいいって、もっと自由化すればいいっておっしゃるのでしょうか。

残念ですが、このような甘い錯覚は農産物経済を知らない人の考えなんです。前にもコメの時の記事で同じようなことを書いた記憶がありますが、市場価格というものは、高いか安いかという市場力学で決定されます。高ければ、高い市場を狙って参入して来る外国農産品も高くなります。だってそうでしょう。日本市場が「高い」から、わざわざ来るんですから。

まぁ、この際安く売って日本市場を制圧したいという野望を持つ外国業者や日本商社もいるかもしれませんが、それは制圧した後に、妥当な額、つまり元の価格、ないしはより高い価格に戻すだけの話なんです。

ま、その時には日本の畜産業界は、この飼料高騰に耐えきれず、大方ぶっ潰れているか、ごく少数の生き残った大規模畜産業にだけとなっているでしょうがね。鶏卵ではイセファームとあと数社ってところかな。いわゆる寡占化の完了です。

かくして輸入制限の結果、日本は「妥当な」、すなわち外国の畜産業者と寡占巨人企業が勝手につける価格に服従するしかなくなるってわけです。コメント氏は外国畜産物の輸入自由化も同時に提言されていらっしゃいましたから、日本は輸入農畜産物をブロックする武器のひとつもなく、外国の食の植民地と成り果てることでしょう。

今でも確かに日本畜産は本質的にはそのように言えます。いわば飼料を握られていてそこに強依存しているので半植民地ってとこでしょうか。しかし、いちおうは、ヒト、モノ、カネの三要素でいうところの、労働力(だいぶ外国人労働者に依存を強めていますが)、施設、資金そして技術は自国のものなわけです。特に、労働力や技術水準はそれなりに世界有数のものを有しています。そして生産規模も大きい。いわば、日本畜産は飼料という背骨なき巨人なわけです。

ですから、大きな矛盾を抱えつつもなんとかやってきています。資金、施設、技術までもを外国に依存して、安い労働力だけを提供しているような中国や東南アジアなどとは一線を画することを理解していただかないと、正しい日本畜産の処方箋は出てきません。単なる奴隷的な植民地ではないわけです。それを丸っきりの植民地にまで自分をいっそう格下げする必要はないんじゃないでしょうか。

だから問題は複雑なのですよ。単なる飼料問題だけでどうなるという単純な問題ではない。今の日本の畜産はコメント氏の仰せのような強権的な方法でなんとかなる段階を超えています。このような輸入制限政策というマイナスではなく、どのようなプラスを身につけてつくのかが勝負なのです。

それはポンっと劇薬を投薬すればいいというのではなく、もっと広い農業の再建にまで考えを及ばせる必要があると思います。

2009年2月20日 (金)

さじ加減という鶏との会話

                                             _edited        里は春満開まであと少し。小高い丘に登ると正面には、円通寺の大きな伽藍の屋根を望み、小さな国道の脇には消防団の器材倉庫が時折走る車埃を浴びています。

この器材倉庫の脇の坂道をたどると村人の篤志で作られた小さな農村公園があって、私たちも収穫祭で使わせていただいたことがあります。面白いのは、この公園ですが、片隅には東屋の屋根をかけた土俵があることです。

手前の梅はまだ三分咲き。満開まであと2週間弱といったところでしょうか。清楚な梅が終わると村はむせ返るような春の陽光の中、桜の薄紅の海に没していきます。

ところで、「さじ加減」という言葉がありますね。いかにも日本人の感性そのもののような一見ファジーな言葉ですが、実は私たち鳥飼にとってファジーでもなんでもありません。厳然とした計量に基づく、的確な作業を意味します。

_edited_2毎日、私たちは飽きずに(まぁ、飽きられでもしたらトリさんも迷惑するでしょうが)、餌をやっています。私はほとんど無意識に行っている作業ですが、研修生に教えてみると同時に色々なことをしていることに改めて気がつきます。

まず、私は鶏舎内は、原則トリさんの自治区だと思っています。鶏という生物種は個体で生きることを本来しません。個体群という群で生きることが本能です。ですから、写真のような群で生きている時に、もっとも安定した生活を送ることができます。ケージ養鶏は、一羽一羽を檻(ケージ)に入れて生産効率を高めようとしますが、これが鶏の本来の生きかたとは真逆なものなのです。だからストレスが高まり、病気になります。

人間は管理者ですが、この空間の中では異物でしかありません。大きな顔をすることなどとんでもない。静かに、静か~に群の秩序を乱さずに。ですから、私が舎内に入る時には、この個体群を乱さないようにほぼ決められた動線上を静かに動いています。突如、奇矯に飛んだりなどは厳禁です。

また、よく素人が言いたがる「チッ、チッ」とか言うような余計な声は出しません。鶏はペットではないのです。その替わり、「見る」こと、観察することを無意識にしています。

食べにこない鶏はどこに何羽いるのか、いるとしたらどのような状態なのか、もう何日も食べられないのか、いじめられているのか、単に元気がなくなっているのか、あるいは、病気ではないのか・・・。病気にかかっているとしたらなんなのか、空気感染系か、消化器系か、肛門付近に下痢の跡がないか、顔色はどうか・・・これを心のメモ帳に書き込んでいきます。新人時代はノートに毎日記入したものです。

_edited_3 この餌やり作業は、あたかも人と鶏の朝の会話のようなものです。「おはよう、調子はどうだい?」、「おー元気だよ、腹が減ったよ、早くおくれよ」、あるいは、「調子が悪くってたべられやしない、あそこを改善しておくれ」といったような。

餌の量は正確に計ります。よく素人さんにやらせると、すりきりでやらず山盛りにしたり、逆に8分目で一杯分としたりします。やる容器がたんなるブリキのバケツですから甘くみるのかもしれません。とんでもない間違いです。一杯を正確にすりきりで計れないような人には、鶏とつきあう資格はありません。すり切り、つまり基準量に正確で初めて「さじ加減」が分かるのですから。

ここで「さじ加減」を理解するか、わからないままルーチンで作業を流してしまうのかで、作業者の資質がでてしまうでしょう。鳥飼になれるか、単なる農業労働者のまま終わるのかという境目です。ただの数キロの餌の差が、です。

何か悪い問題が発生している個体群では、必ず餌を食べる量に変化が生じます。てきめんに減っていくのです。逆に、成長と産卵開始を同時並行しているような若い雌の群では、毎日のように食べる量が増えていく場合があります。老鶏群は老鶏なりに、若い鶏はそれなりにケアをしてあげねばなりません。それの基本となる作業が、この餌やりなのです。

私の師匠である中島正先生は「餌やり一生。死ぬ前には鶏に餌をやって死ぬ」と教えてくれました。このわずかの差を「読む」、これがさじ加減なのです。

農業、特に畜産という生きもの相手の職種に向かない人は、何も見ていません。生きものを見る意志がないために、簡単にルーチン作業に馴れっこになり、毎日餌を余らせたり、逆に足らなかったりします。鶏が調子が悪かろうと、いじめられていようと眼に止まりません。そのような人に飼われてしまった鶏は気の毒です。その人間もやっていて面白くはないでしょう。

などとえらそうに言っている今でも、毎日完全な餌やりを決められたことなどないのですから嫌になります。餌やりとは、しょせん異種でしかない人間と鶏との間の数少ない会話であり、それが通じた時には幸福な気分になれます。この幸福な気分が、鳥飼の矜持なのでしょうか。「死ぬ前に鶏に餌をやって死ぬ」という私の恩師の境地には未だ遠い私です。

2009年2月18日 (水)

村上春樹氏のエルサレム講演全文と和訳

Img_0025

■私が今まで読んだ日本人のスピーチの最高峰である。この文章に感動しないなら自分の感性を疑ったほうがいい。

■ことに「僕は、立ちはだかる壁とそれにぶつかって割れる卵となら、その壁がどれほど正当でまた卵がどんなに誤っていようとも、卵の側に立つ」というくだりには、私は不覚にも目頭が熱くなった。

■彼はエルサレム賞をこの状況で受賞することで、パレスチナ支援グループからも批判を受けている。言論が保障されているイスラエルで今さらという批判もある。しかし、彼が受賞を受諾する理由はこのスピーチの中に完璧に、しかもこれ以上はない文学的な表現で言い尽くされている。文学の無力が言われて久しい。しかし、私はその力を信じたくなった。私はこのような同胞を持てたことを誇りに思う。

■以下エルサレム賞受賞講演和訳全文http://ahodory.blog124.fc2.com/blog-entry-201.html

別の和訳http://maturiyaitto.blog90.fc2.com/blog-entry-139.html

僕は小説家として - あるいは嘘の紡ぎ屋として、エルサレムにやって来た。政治家や外交官も嘘をつくけれど(すみません大統領)、小説家のそれは違う。

小説家の嘘は告訴されないし、またその嘘は大きければ大きいほど、賞賛も大きくなる。彼らの嘘と小説家のそれとの違いは、それが真実を明らかにするところ - 全体の中から掴み取るのが難しい真実をフィクションの世界で紡ぎ出すところ、にある。だが、小説家はまず、自分たちの嘘を明らかにするところから始めなければならない。

今日は真実を話そう。そんな日は1年のうちほとんどないことだけれど。
この賞を受けるのかどうか、僕はガザでの戦闘のことで忠告を受けた。それで自分にこう問うた:イスラエルを訪れるのは適切なことか?それは一方の立場を支持することにはならないか?

僕はいくらか考え、来ることに決心した。僕も多くの小説家と同じように、人に言われたこととは反対に行動しやすい。自分の目で見て、手に触れたものしか信じないような小説家にとって、沈黙するよりは来てみること、来て話すことのほうが自然なことなのだ。そして僕は、立ちはだかる壁とそれにぶつかって割れる卵となら、その壁がどれほど正当でまた卵がどんなに誤っていようとも、卵の側に立つ。

僕たちはみな、割れやすい殻の中にかけがえのない魂を持ち、それぞれに高い壁に立ち向かっている卵なのだ。その壁とは、人としてそぐわないはずのことに人々を強制させる「システム」のことである。
僕が小説を書いている唯一の理由は、人が持つ最も尊い神性を描き出すことにある。僕たちを巻き込む「システム」に対して、その神性のかけがえのなさで満たすことだ。- そのために僕は人生を書き、愛を書き、人々に笑いと涙を差し出す。

誰もが立ちはだかる壁に対し望みを持てない:それは高すぎて、暗すぎて、冷たすぎる、僕たちはそんな割れやすい卵なのだ。だから暖かみや強さを得るために、心を繋ぎあわせなければならない。僕たちは自分たちの「システム」にコントロールされてはならない。それを作り出したのは僕達自身に他ならないのだから。

僕の本を読んでくれたイスラエルのみなさんに感謝しています。この場が何かの意義をもつことができればと思う。僕がここにいる理由とともに。

■以下英文全文http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/26ca7359e6d2d15ba74bcdf9989bee56

So I have come to Jerusalem. I have a come as a novelist, that is - a spinner of lies.

Novelists aren't the only ones who tell lies - politicians do (sorry, Mr. President) - and diplomats, too. But something distinguishes the novelists from the others. We aren't prosecuted for our lies: we are praised. And the bigger the lie, the more praise we get.

The difference between our lies and their lies is that our lies help bring out the truth. It's hard to grasp the truth in its entirety - so we transfer it to the fictional realm. But first, we have to clarify where the truth lies within ourselves.

Today, I will tell the truth. There are only a few days a year when I do not engage in telling lies. Today is one of them.

When I was asked to accept this award, I was warned from coming here because of the fighting in Gaza. I asked myself: Is visiting Israel the proper thing to do? Will I be supporting one side?

I gave it some thought. And I decided to come. Like most novelists, I like to do exactly the opposite of what I'm told. It's in my nature as a novelist. Novelists can't trust anything they haven't seen with their own eyes or touched with their own hands. So I chose to see. I chose to speak here rather than say nothing.
So here is what I have come to say.

If there is a hard, high wall and an egg that breaks against it, no matter how right the wall or how wrong the egg, I will stand on the side of the egg.

Why? Because each of us is an egg, a unique soul enclosed in a fragile egg. Each of us is confronting a high wall. The high wall is the system which forces us to do the things we would not ordinarily see fit to do as individuals.

I have only one purpose in writing novels, that is to draw out the unique divinity of the individual. To gratify uniqueness. To keep the system from tangling us. So - I write stories of life, love. Make people laugh and cry.

We are all human beings, individuals, fragile eggs. We have no hope against the wall: it's too high, too dark, too cold. To fight the wall, we must join our souls together for warmth, strength. We must not let the system control us - create who we are. It is we who created the system.

I am grateful to you, Israelis, for reading my books. I hope we are sharing something meaningful. You are the biggest reason why I am here.

2009年2月16日 (月)

料理ということは、大事な人に食べてほしいから輝くのです

_edited わが農場のこの春一番めのタンポポです。まだひっそりと農場の路傍に照れくさそうに咲いています。

横には兄弟か、姉妹が、まぁどっちでもいいか、準備を終えています。

この何カ月か、少年を引き受けて農場で暮らしてもらっています。彼とつきあうと色々なことを教わります。私は子供に恵まれなかったので、子供という存在を日常で知ったのは今回が初めての体験でした。

例えば、もっともささいにして日常そのものに思えて、最大のことはやはり「ご飯」ということでした。すごくでかいですね、これは。私はいままでなんやかんやエラソーに食育だなんて消費者にくっちゃべっていました。いわく、日本の食や、農から構想できる食のあり方なんかです。それなりに自信もありましたし、今まで自分が生きてきた農の生活の体験や知見で語れることも多々あると持っていたわけです。

う~ん、今まで「消費者の皆さんよ、日本のスローフードとは」などと言っていたワタクシは、今急激に自信をなくしつつありますね。こら笑うでない。というのは、「食べさせるべき対象」とでもいうべきものが生れたからです。

少年に毎日、朝昼晩食させるという中で、初めて分かったような気がします。食は自分やパートナーはとりあえずいいのだと。親はとりあえず置こう。ガキになんぼのものを食べさせられて、初めて大人として背筋が伸びるのではないのかな、と。

もし、私がひとりだったら、夕飯なんかまさにテキトーでしょう。そこらの野菜と肉をチャっと炒めてわんら。酔っぱらっていたら、卵かけごはんでもいい。

しかし、食事に「誰に」という述語ができると違うでしょう。こんないいかげんなことはできない。自分のガキに今日の夕御飯は卵かけご飯ね、とは口が裂けても言えないでしょう。それは恥です。

Img_0013_3 ところで、昨夕はブリ大根をやりました。そう思うと、今まで、考えてみれば、実にお恥ずかしい話でしすがソバツユをうめて、ブリと大根をただ煮ただけでした(汗)。昨日はひさかたぶりに料理本にご登場願いました。レタスクラブ別冊だかなんだかの「和食の基本」です。

ブリのカマは塩をかけて30分間置きます。大根は米を少し入れて下煮します。ブリは血合をきれいにします。そ、ていねいね。ちょっとでも血が見えないくらいに。こういうしっかりとした下処理を今までやらなかったんだなぁ。いかん!

これを味醂と酒をハーフ&ハーフで煮立たせるんですが、これも今までやらなんかった(自己批判)。いったんアルコールを飛ばしてから、ここまでしっかりと下処理をブリと大根を煮込むわけです。まずいはずがない。完成まで実に2時間。

今までブリ大根はさんざん作ってきましたが、初めて真面目に作った気がしましね。おー、ブリのカマよ、来い!しっかりあか抜けたブリにしてやるぜ、この手間ヒマをかけおったブリ大根は、翌朝も冷えても美味しかった。

食べさせたい対象がいたから作るのが料理です。こいつが、この大事にも思うこいつが嬉しそうに「うまい」と言われれば、そう思わず自分も笑みくずれる。これが料理です。料理とはすぐれて関係的な存在なのです。このことに関して実感をもってそう思いますね。

食べること、あるいは、料理は関係の中で生れ、そして活きる仕事なのではないのではないでしょうか。それは私が大事に思う人と人の中で、その中で初めて本気でやる気になり、その人が食べて美味しかったと言って初めて完結するような心と心の関係そのものなのです。

う~ん、きれいにまとめすぎたかな(反省)。

2009年2月15日 (日)

「合鴨ばんざい」という刺激的な本を読み始めました

_edited 古野隆雄さんの「合鴨ばんざい」を読んでいます。
すさまじく面白い!今まで、ちゃんとアイガモ農法を知らなかったことを後悔しているほどです。

ひょっとして、日本の稲作の革命であることは当然としても、日本農業や畜産の革命ですらないのかと思います。

というのは、今、私のいる畜産業界では、飼料用米が先進的なトレンドです。アンテナが高い畜産家ほどこの飼料米にハマります。確かに反収量が10俵(10㌃当たり600㌔)を楽に超えるといいます。数字的にはスゴイ。普通の飯用はせいぜい8俵だから、2割増ですね。たぶんもっと伸びシロはあるでしょう。

しかし私は、はっきり言って、飼料用米の発想そのものが間違っていると思います。それは日本の米作農家の心理を無視して、強引に畜産に合わせようという気がしてならないからです。
まず、現実の問題として、米農家は飼料米をやらないと思います。自分のところの米の価値を落してしまう、という農民の心理的な抵抗感がすさまじく強力だからです。これまで、たくさんの矛盾を持ちながらも「うまい米を作る」のがテーマだった日本農民に、「うまくなくてもいいから大量に出来る米を作れ」というほうがどだい無理なのです。皮肉にも、日本全国でもっとも市場価格が低いと揶揄されているわが茨城コシヒカリの産地だからよけいに分かります。

たぶん飼料米を作ることによって、その地域の米全体の市場価格全体が下落してしまうでしょう。まずくて大量にできる米を作っているような地域の米に、市場が高い価格をつける道理はありません。ただでさえ、国内米市場での競合が激しい最中、飼料米は行政が農水省の助成がらみで後押ししているから出来ているだけで、実際に「民営化」されたとしたら、とても続きはしません。

それは現実の農家が動かないからです。これは致命的です。そして米農家だけではなく、それを依頼したはずの畜産農家すらも、この金融危機以降の飼料価格の一服感で、「そこまでしてやる必要もないべ」となりかかっています。

飼料用米の作付け計画の策定⇒作付け⇒栽培管理⇒収穫⇒収穫物の分配⇒支払いの清算⇒次年度の計画の策定・・・という工程は畜産農家が暇に任せて出来ることではとうていないのです。単年度ならともかく、畜産農家にはそれらを持続的に今後続ける管理能力はないと思います。

またなにより、_edited_2米作り農民の心理的な抵抗感を甘く見ないほうがいいと思います。これはほとんど日本農民のDNAの中にインプットされているようなことなのですから。

以上のような理由で、私はまず、飼料用米は普及しないと思っています。減反の水田を飼料作物に替えていくことが日本の畜産の変革につながるとも思えません。

確かにそれは一理ありますが、ただ飼料用を作ってほしいというだけでは、日本畜産の矛盾を米作りが弱っていることにつけこんで(というと表現は悪いですが)、転移しているようなだけですから。

古野さんのこの本の中に示唆されている雲南の輪牧体形、水耕⇒収穫後の田⇒里山(放棄地)という展開は示唆に富みます。う~ん、面白い!これならうちの村でも展開が可能なのではないかと思います。

従来の放牧はどうしても畜産が主体ですが、これに水耕は当然として、ひょっとして畑作や麦作などともコラボできるかもしれない。というのは、あくまでも主体はその地域の風土に合った「農業」であって畜産でも稲作でも、畑作でもないからです。

畜産のエサのためになんとかしろ、ではどうにもなりません。米作のためになんとかしろでもダメかもしれません。それをうまく風土と地形の中でつなぐ要素が大事なのだと思います。

その可能性の一つが「アイガモ」かもしれません。

2009年2月14日 (土)

春よ、来い、早く来い!

Img_0015                                                            今日はウソのような温かさでしたね。6月上旬の気温だとか。午前中など、農作業はTシャツ姿ですぜ。これでホゲとしていると、ゼェ~タイに3月の頭あたりでなごり雪が降るんですよ。まだ気をゆるめないゾ。

里山は一斉に芽吹き始めました。もうすごいくらいです。外で働いていると、わ~と芽吹きのパワーが押し寄せてきます。まるで時限装置がポンっと入ったようにありとあらゆる樹々が、野草が甦り始めました。

この時期は私たち鳥飼もやることがない。夏はバテバテで羽根を拡げてゼーゼーいっているトリさんに少しでも食欲の出る野菜をたべさせ、冷たい水を飲ませ、かと思うと、冬の間はやれクシュンといえばゾッとし、調子が悪そうなトリさんは隔離して保護し、凍った水樋を手入れし、まぁもっとも、今年は暖冬でほとんど凍らなかったけど。と、気が休まらない日々が続きました。

しかし春ともなれば、もう勝手に生んでくれる。それもおいおい大丈夫か、一日に2個うんだら身体に触るゾと心配するくらいに生んでくれます。鳥飼の楽園の季節到来です。

冬の間、暇をこいていたゴクツブシ(町では死語。村では現役)のパチンコ屋常連も、冬のセリ田んぼに胸まで漬かって必死にセリを収穫していたお百姓も、いつもは町の勤めの消防団も、そろそろ皆んな揃って田んぼ苗の準備にかからないと!

なんか浮き立つような気分、分かりますか。季節に追いかけられている気分。わくわくする気分。もし自分が鳥なら、そこかしこに舞いたい気分。しっかり働きたい気分。そしてそれが報われるであろう予感。この自然から追いかけられている空気、生きることに急ぐ季節、それが春です。

_editedこんな陽気が続くと,冬越しの小松菜は急いで収穫をしないと菜花になります。昔これを菜花といって出荷して、「菜花は菜種の花でしょう」と怒られましたっけ。

畑で収穫を忘れられた大根すら十字架植物特有の美しい十文字の可憐な白い花を咲かせます。

人間どもに手なずけられたわが野菜ですらそのていたらくですから、自然のあらゆる植物は、自分の中の季節のスイッチに「おー、待ちに待った春が来たぞい!それ皆の衆、いけ、ゴーゴー!」という信号を入力したはずです。梅は一斉に満開を目指します。となると一馬身遅れて開化する桜も黙ってはいられないでしょう。あたりをうかがいながら、おっちょこちょいの芽は大きく膨らみ始めます。これが一週間も続くと、梅と出始めの桜の共演という珍しい光景を見られます。

が、たぶんまた冬の野郎は、「残念でしたぁ。まだオレちょとだけ居すわるつもりにしたから、悪りぃな、ぶへへ♪」と皮肉な笑いと共にカンバックしちゃうんだな、これが。三寒四温とはよく言ったものです。すると気の毒にも早咲きの桜の立場や如何。

とまぁ、気を持たせながら春という日本列島でもっとも美しい季節がゆっくりと私たちの空を覆っていきます。春よ、来い、早く来い!

2009年2月13日 (金)

続 野菜は甘くて、柔らかくて、白ければいいのでしょうか? 農産物の美味しさとは

Img_0002 昨日、アイガモ農法で米を作っているイキのいい農家の方とお話をしました。このところ、私が頭にひっかかっている「うまさと甘さはちがうのではないか」ということを話すると、彼もそうそうとうなづきます。

私は米などの持つ美味しさを「甘い」という人はさすがにいないと思いますが、米のうまさを考えると分かりやすいのではないでしょうか。米の、特にふくよかで水分をたっぷり含んだ艶やかな新米は、確かに「甘い」とも表現できます。しかし、それだけでしょうか。複雑なうま味があって、ほのかな甘味が引き立つのです。

農産物の味は、このように変化するといわれています。うま味⇒甘味⇒苦み⇒えぐみ。この順で美味さが減っていきます。まずは、うま味という一番複雑なものが消えると、ただ甘味のみが表面に出てきます。そしてもっと粗悪な農産物になるとその甘味も消え失せ、ただ苦み、といってもゴーヤのような本来の苦みではない嫌な味の苦みが舌に残り、さらには最悪な農産物ともなると硝酸態チッソ特有の化学物質じみたえぐみだけとなります。こうなるともう食べないほうが無難かも。

ですから、農産物においてはまず大事なのは、農産物の「うま味」を知ることです。確かにうま味自体が何んであるのかを定義するのは難しいですね。というのは、皆さんもご承知のようにうま味という概念自体が日本独特のものだからです。

外国にはうま味自体を表す表現はないそうです。この日本独特のうま味を科学的に解きあかす中で、昆布などの中に含まれていたアミノ酸の一種であるグルタミン酸ナトリウムなどが発見されたのは有名な逸話です。農産物のうま味はこのグルタミン酸系うま味とは異なった、大地の豊穣から伝達されたものです。

大地の豊穣とは、おおきく三っつあると思います。ひとつImg_0004 は土壌の美味しさそのものから来ています。土壌の成分中の複雑なミネラル分、例えば鉄分、マグネシウムなどが、植物中に取り込まれていったものが味に反映された結果です。

次に水の美味しさです。どんなに土壌が美味しさの成分を多く持っていたとしても、水がダメだとやはりうまくないのです。それは、植物の身体がほとんど水分によって作られていることから容易にお分かりになるでしょう。里山の森が雨水を濾過して、たっぷりとミネラル分を含んだ水が美味しさの鍵です。

そして最後が太陽の恵です。太陽による光合成なくしては植物は成長ができません。土中にある養分を、植物は光合成によって硝酸態チッソに変換して、デンプンとして葉や実に蓄え込みます。この蓄えられたでんぷん質こそが農産物のうま味の本体です。つまり、でんぷん質のうま味を芯にして、それに多くのミネラル分が複雑な陰影を加えて野菜や米のうま味ができあがると私は思っています。

昔から日本人は、美味いということをまるでとろけるように「甘い」と表現したのかもしれません。未だ甘味が人工的にふんだんに食卓に上がっていなかった昔、人は甘いという表現を、美味いことの代名詞がわりに使ってきたのではないでしょうか。甘露とかの表現がそうですね。

それが、今に至るも「美味い」と、「甘い」の混同につながり、更には「食のオコチャマ化」と引き換えに、その香り、そのさわやかさ、ほのかな酸味、そしてわずかな苦み、つまりは野菜の本来の味が忘れ去られていったと思われます。

2009年2月10日 (火)

20世紀のロビンソンクルーソーたちの話 

_edited_4 野菜のうまさについて考えています。私はグルマン(大食い)ではありますが、決してグルメではありません(←誰もそんなこと思ってないって)。

むしろアジアの屋台とか、怪しげな市場の裏の食堂などで、店のオババといいかげんな現地語でやりあいながら現地飯を食べるのが人生の至福だと思っている人です。おかげで、純正メイドインジャパンの胃袋が反乱を起こして、なんど腹を壊したことか。

そんな私ですから、日本に帰ってくるとまっさきに泣きながら日本食を食べます。お~、なんて美味いんだ、米がピカピカじゃないか、茶色の米はもう当分いいな、とか情けないことを言いながらワシワシと和食を食べます。これまた至福。日本食のうまさを確認にしに、外国に行っているようなものです。

それはさておき、野菜、米、醬油、味噌、そして魚などの基本の味だけは、けちらないようにしようと思ってきました。なぜなら、それはなににも替え難いお箸の国の食の伝統だからです。

米と野菜、魚、味噌、醬油の味は、日本人が日本人でありつづけるためのアイデンティティのようなものです。これらがあれば、私たちは和食の世界を語ることができます。それは時間軸を縦に流れる精神の背骨のようなもの、あるいは、どんなに世界の果てを流浪しようとも、骨に染みついたいつか帰るべき場所のようなものです。

そのようなことを考えていたら、こんな話を思い出しました。Img_0010 戦争中に太平洋の孤島の戦場から奇跡の生還を果たしたあるご老人の話です。

ご老人のいた部隊は輸送船が沈んで、命からがら近くの島に流れついたそうです。武器は数丁の三八式小銃と手榴弾だけ。もちろん、食べるものなどほとんどありませんでした。

幸いその島は、あまりにも小さかったので米軍が無視して先に進出してしまったために、時間だけはたっぷりあったそうです。当然、食糧調達が一日の仕事となりました。

20世紀のロビンソン・クルーソーたちこの十数人の日本人は、どうやって生き残ったのでしょうか。このご老人の雑囊の中には野菜の種と米の籾、そして数本の芋があったからです。

このご老人が最初に作ろうと思っいたったのは、魚釣りではなくて畑だったそうです。魚は別な奴がやればいいや、自分は畑を作ろうと。そして歩兵用の小さなスコップで畑を始めました。堅く、石ころだらけの土にです。

そしてわずかに出来た畑には貴重な野菜の種を植えました。ひょっとして非常食になるかと思って持って来た数本の芋はふせ込みました。これは後に大いに役に立つことになります。いちばん困ったのは水だったそうです。隆起珊瑚礁の孤島では水は貴重でした。川は一本あったのですが、飲用には適さないので、苦労しました。

自然の湧水を発見したのもこのご老人でした。町の人ではなかなかわかりません。しかし、彼はこのあたりに沢山の樹が生えているから、ここを掘ってみんべぇと掘るとジワーと出る、スゴイぞと戦友。なんの、谷津田を作る時、さんざん親父にしこまれたべぇと照れ笑い。

この貴重な泉の水をナスにくれてやると、ナスの双葉が全身でありがとうというんだよ。この水運びは隊長も喜んでやっていたな。いつか双葉の水やりは名誉職のようだったよと、老人は笑います。ナスの芽が吹くと、汚いヒゲヅラの兵隊たちが周りを取り囲んで、まるで赤子を見るような眼で飽かずにその双葉を見ていたそうです。

唯一の小さな川のほとりのマングローブ林を拓いた水路の先に田んぼもできました。貴重な籾を発芽させ、苗を作りました。その苗を日本式に田植えまでしました。もはや階級の上下はありません。皆、泥だらけで代をかき、ならします。学徒出身の若い隊長は、「あ~オレは農学部に行ってりゃよかったよ」としみじみとお百姓に言ったそうです。ちなみに彼は神学部という、なんとも使えない学部出身でしたが。

そして板金職人と機械工は、収穫に備えて、ジャングルに落ちていた飛行機を分解して脱穀の金具や鍬を作り、大工は家や納屋、農業機械を作りました。これらの指導したのもほとんどがお百姓でした。ただの国民兵で引っ張られた上等兵でしたが。

そしてこの20世紀のロビンソンクルーソーたちは、終戦も知らず数年後にたまたま通りかかった船に発見されて帰国を果たしたそうです。流れ着いてひとりの死亡者もなく、完全とまではいきませんが、多少なりとも米の飯と日本の野菜を戦友に食わせることができたというのがこのご老人の誇りです。

そして日本に帰る船に乗り込む時に、この「ちいさな日本」の島にこうお別れを言ったそうです。

もう、来ることはあんめぇけんど、よく俺らを生かしてくれた。それにしても、芋は心配なかっぺが、米は野生化すっぺっか。したらいいな。おめいらも気合を入れて生き残れや。ありがとうな。ほんとうにありがとうな・・・。俺はもっと長くいてもよかったけんど・・・。

このご老人の話を聞くと、日本人にとって米や野菜というのは単に食糧以上の何かであるような気がします。また、この話は真偽不明ですが、どこまで行っても日本人は農耕民族だという気がしますね。

2009年2月 9日 (月)

野菜は甘くて、柔らかくて、白ければいいのでしょうか?

_edited 冬の露地野菜ほど美味しいものはありません。葉は光合成をしっかりとしていますから、美味しいデンプンをしっかりと蓄え込んでいます。

野菜の美味しさとは、よく誤解されるように品種でもなはないのです。

バカなテレビのレポーターは、「美味しい、甘~い!」などと日々絶叫していますが、まぁそう言っとけばどうにでもなるやね。だいたいテレビに出てくると農家はまず品種を言うようです。だって、私のテレビ取材の経験でも、アッチはそれしか聞いてこないから。いくら育てかたや、ここの風土と季節を詳しく言ってもなかなか短い時間ではわかってもらえないからでしょうね。

ですから、テレビの「ブランド野菜、ここにもこんなスゴイ野菜がぁ!」みたいな番組ですと、まず伊勢丹あたりの青果売り場の担当者が、「え~これは長野の糖度15以上のホワイトなんじゃらという特別なトウモロコシで、一日わずかしか入荷できません」とか、「四国どこじゃらの糖度14のトマトです。まるで果物のようです。売れに売れています」みたいなことを聞いて、現地に行くと大体が農家の「マル秘スペシャル品種」の自慢が大部分。

_edited_2 誤解のないように言っておけば、私は野菜のブランド化というのはいいことだと思っています。今までのようなナショナル・ブランドをどこでも作っているより、地元の風土に適した、特長のある品種を作ることは農業の生き残りをかけた大切なことです。

しかし、その呼び文句が皆んな「甘い」はいかがなもんか。能がないじゃないかというのが私の不満なんです。たまには「どうだこのトマト酸っぱいだろう。どうだ、この大根甘くなくて、堅いだろう」という自慢が出てもいいと思いませんか。

実際、私たちのグループはやりました。樹熟麗玉(きじゅくれいぎょく)という品種で、糖度と酸味の比率である糖酸比率が理想的なのです。ですから今のようなひたすら「果実のように甘い」を追求する品種の真逆なわけです。どう言うことかっていいますとね、トマトは元来そんなに甘いもんじゃないのです。なんせ原種はアンデスの瘦せた土地にしがみついていたような健気なミニトマトですからね。

_edited_3 私ぐらいの世代なら知っていますが、昔は子供がトマトを酸っぱくて食べられなかったもんなのです。そこで母親はお砂糖をすこしかけてダマくらかして食べさせたものです。トマトの美味しさとは思うに、適度なさわやかな酸っぱさと、ほのかな甘味が持ち味であって、甘ければいいというものではないと思うのです。大切なことは、そのバランス、ハーモニーなのです。

トウモロコシもひたすらハードボイルド。堅くて、甘くないので、お醬油をつけ焼した焼トウモロコシが美味しいんです。今のトウモロコシの品種は惰弱に柔らかくて甘いので、焼トウモロコシには向かないのです。

明日は本来の野菜のもっていた味と、今の野菜がどれだけ変わっていったかを考えてみます。

2009年2月 7日 (土)

必要とされる有機農業・伸びない有機農業 その7 官僚統制の強化としてのJAS有機認証

_edited こちらの地方でも梅が寒風の中で揺れています。まだ満開というにはいささか早く、蕾あり七分先ありとてんでの季節です。

梅はいわばわが県の県の県花。桜より愛されているような気がします。水戸の偕楽園など色とりどりの梅、また梅。

農家でも何本かの梅を植えている農家があたりまえです。私の農場にも3本ほどあります。美しく実は利用価値が高いという可愛い樹ですね。

梅干しは毎年漬けているのですが、どうにもハードボイルドに辛い。涙が出るほどに辛いのでどなんしようと思っていたら、友人の農家に聞くとなんのことはない、塩出しをするとそれだけでも食べやすくなります。潰して甘味を足し、味醂と酒、好みで鰹節を加えて仕上げます。味噌バージョンも美味しい。桃屋の「梅好み」のようなものになります。

Img_0002 これを熱々のご飯にかけたり、お蕎麦に乗せたり、クレープに巻いたりと楽しめます。ただし、いったん塩出しをすると保存性が悪くなりますので、お早めにお食べください。

さて、JAS有機認証はなにがいけなかったのだろうと考えると、各論では限りがありません。資材という項目を立てただけで、かなりの問題が摘出できることでしょう。それはそれで、農家が現実にぶちあたる障害ですが、今日はもう少し離れた位置から見てみることにします。

私は今や、2001年4月に本格施行となったJAS有機認証とは有機農業に対する官僚の権限の強化の道だったと考えています。官僚の本能的な性向として、自らの権限の拡大を限りなく求めていくというものがあるらしいのがこの一件を通じて分かってきました。

官僚は、自らの政策の思惑に当てはめて、対象に対して飴と鞭を繰り出します。飴とは助成金であり、鞭とは規制と罰則です。JAS有機認証に関しては、飴はなし、ただひたすらあるのは鞭!飴にあたる支援は、JAS有機認証成立のはるか後の2006年12月に制定された内実のあいまいな有機農業推進法まで待たねばなりませんでした。しかしその時まで、JAS有機認証によって有機農業界は疲弊しきっていたのですが。

_edited_2 このJAS有機認証は、官僚の思考方法をよく物語っています。まず規制があります。重箱の隅をつつき回すが如き基準-規則を作り上げます。

そしてより重要なことは、基準-規則と一対になった法解釈権限にあります。官僚はこの法解釈の権限を一手にわがものとすることで、その対象業界を絶対的な管理下に置くことができるわけです。

土に触れたこともない霞が関の官僚が、農民に対して使えるJAS有機認証許容の有機資材はナニ、やっていい技術はコレと、指導という名の教えを垂れるのですから笑止ではありませんか。

つまり、本来有機農業を育てていかねばならないはずの農水省の立場を忘れさ去り、生きている農業を基準-規則-罰則で縛り上げ、その解釈権限を我が物とすることで支配下に置こうとしたのが、JAS有機認証の本質なのでした。

かくして、今まで多くの在野の有機農業者によって作られてきた小さいながらも自由であった有機農業の世界は、一夜にして官僚が隅々まで監査し、パトロールをする世界に変わり果てたのでした。

■本記事は私の所属する団体の公式見解とは異なりますことを言い添えます。本記事は私の責任において、私の主宰するブログに掲載したものです。

2009年2月 5日 (木)

必要とされる有機農業・伸びない有機農業 その6 日本農民の土づくりの歴史をJAS有機認証は否定していった

Img_0033_edited 昨日に大地を守る会の茨城県の生産者の新年会がありました。私がはしなくも幹事となってしまって、まぁそれなりに気ぜわしくも、楽しいひと時をすごさせていただきました。

おまけに、翌朝帰宅時に車をぶつけるという椿事も引き起してしまい、イヤ~参った、参った。

新年会の折りに、横に居た生産者に「JAS有機認証はどう思うよ」という問いを投げられました。耳が痛い。私は正直にこのようなことを応えたと思います。

「外国産有機農産物に道を開いてしまった法律で、有機農業にはなんの助けになるどころか障害物と化してしまったと思っています。ですから、今有機農業者にボディブローのように効いてきて体力を失わせています。これなら取らねば良かったという声さえ上がっているほどで、苦労して取った認証を自ら辞退のする人が私のグループでも出始めました」

「私自身、かつて10年ほど前に反対の立場から、旗を振った立場に変わったことを今は間違ったと思っています。ですからその総括をキチンとせねばならない立場です」

ま、実際は酔っぱらってもっとクドクドしていましたが、「まぁ責任とってガンバレや」と一献をいただき、いや、まったくありがとうございました!私にとってこんな重苦しい記事を書くのも、責任の一端を果たすためなのです。ああ、シンド。けど、ヤンド。

Img_0003_2というのも、私が知る限り、JAS有機認証を実際取得した農業者やグループの責任者が総括をしたことをついぞ読んだことはありません。流通で、宣伝めいた書き方で説明してある本はいくつか存在します。あるいは、もともと取得しなかった人達の皮肉めいた見解はたまに風の便りで聞きます。

しかし、JAS有機認証の立ち上げ初期に組織的に全力をふり絞り、結果、その矛盾を力一杯背負ってしまった立場で書いている人の話は寡聞にして知りません。酔狂にも私のこのブログ記事がかなり初めのほうではないのでしょうか。たぶん、これすらも公的な文書としては発表する場所もないのも確かで、個人の責任において自分のブログでひっそりと書くしか方法がないのもこれまた確かです。

もうそのくらいJAS有機認証は農業の中や市場に浸透してしまったということですし、今さら廃止しようもないほど存在感があるということでもあるわけです。ただイヤミをひとこと言えば、唯一浸透していないのは、かんじんの消費者の中にだけじゃないですか!(笑)。

Img_0002上の写真は私の出身母体のヤードの写真です。「農林規格JAS有機認証取得」とうれしそうですね。そう、実際この看板をかけた2001年の頃は嬉しかった。「2001年有機の旅」なんて高揚した気分がありましたっけね。

足掛け2年にも及ぶわけのわからない法律文言の理解があり、それを現場運用するにたいする理解、そしてそれを仲間の生産者や流通と共有する困難さ苦労と、何重もの困難なバリアーを乗り越えての取得でした。考えてみれば、日本農業で前代未聞の基準作りだったのですから、当然です。ですから、嬉しさのあまり看板まで出しちまったってわけです(苦笑)。

さて、数々の障害を乗り越えてJAS有機認証につきあってみると、コヤツは実に性悪の法律でした。なんつうのか、ガチガチに頭の堅い、ひねこびた優等生タイプというかんじでしょうか。ほら、クラスにいるじゃないですか、体育とか遊びではまるっきりダメだが、お勉強が大好き。その勉強も丸暗記系が大好き。友達づきあいは苦手だけど、教師には受けがいい。成績は1番だが、人望がない。ゼッタイにお友達や、ましてや飲み友達などにはしたくないよな、こんなタイプ。これがJAS有機認証クンでした。

最大の問題は、そのお役人様的杓子定規さにあります。それは「使用可能な有機資材」という農業のある意味、実際の運用の核心でいかんなく発揮されました。やや専門的な領域なので、できるだけかみ砕いてお話をしたいと思います。

Img_0010 昔、そうですね、かれこれ15年ほど前かな、私の尊敬する篤農家の稲作栽培ノートを頭をすりつけるようにして見せてもらったことがあります。

そこには、元肥として、骨粉、カニガラ、ナタネ粕、米糠、そして中期の追肥としては、硫安を20㌔、穂肥(*出穂しての最後の追肥)として過石(*過リン酸石灰/リン系の肥料)などが上がっていましたっけ。その場で必死に暗記したものです。

結論から言いましょう。この篤農家が長年使ってきたこの資材は、JAS有機認証においては米糠以外すべて「使用禁止」です。あるいは使えるとしても、その製造工程において一切の化学物質を使っていないという証明書を、製造元から正式に発行してもらう必要があります。

過石は、戦前から使用されてきた長年日本農業で堆肥作りで活用されてきた貴重な肥料です。原料は自然の鉱石ですが、その製造工程で唯一硫酸を使用してしまうために化学肥料へと分類されてしまったのです。ナタネ粕、苦土石灰、尿素などとというオーソドックスな肥料もすべて同じ理由で否定に等しい扱いを受けました。

これらは長年日本の堆肥作りの中で、安全性が確証されてきたものです。単に製造工程で硫酸を使ったことで安全性が損なわれますか?ありえない。ぜったいにあえない。むしろこれらの単肥(*たんぴ/単一の成分で作られている肥料)は、有機質の厩肥(*きゅうひ/家畜の糞尿由来の肥料)や、落ち葉、バーク(*木屑)、のこくずなどの植物質の肥料を混ぜ合わせる中で、非常に優秀な肥料となっていったのです。

この長い日本農民の土づくりの歴史をJAS有機認証は頭から否定していこうとしたのです。その替わりとしての代替物として許容したのは、例えばフィリピン産のグアノ(*アホウドリの糞が鉱物化したもの・孤島で採れる貴重な鉱物なため今は入手困難) などの外国産の高価な資材でした。国内の石灰から出来る資材を禁止し、CO2をまき散らしながら輸入する高価な外国産資材に依存せよというわけです。

JAS有機認証には「軽重の論理」がないのです。なにが大事で、なにが軽いのかという生きている農業を判断する基準を支える真の価値観がないのですあるのは、ただ「化学物質を使ったのか、否か」という硬直した規範だけです。これですべての農の営みをビシッバシッと断罪するのだから、現場の農業者はまったくたまったもんじゃありません。

あ~、頭の悪い秀才ほどタチが悪いものはないと私は嘆息しましたね。このようなJAS有機認証の基準の内実が明らかになるに伴って、むしろ真面目に土づくりに取り組んできた篤農家はそっぽを向きました。「苦土石灰の何が悪いのか?」という私の師匠に対して、私はひとことも弁明できなかったのです。師匠は、その技術と精神においてもっとも優れた有機農業者でありながら、このJAS有機認証には来ることはありませんでした。

2009年2月 2日 (月)

必要とされる有機農業・伸びない有機農業 その5  有機農業は21世紀の主流になる!・・・はずだった

_edited                                                    今日は一転して快晴です。抜けるような雲ひとつない蒼天が、里山の上にどこまでも拡がっています。2月から4月にかけて私たちトリ屋にとってのかき入れ時で、まぁ野鳥ですら卵を産もうかという季節ですから。

この1年ちょっとしたミスから玉突き的に農場全体の生産が低迷してしまって、「ジタバタしてもしゃーねぇ」と思いつつやや憂鬱でした。農家なんか成績がいいと機嫌がいい単純な生きものなんですよ。この春のパワーをお借りして、なんとか盛り返していただけないでしょうか、という切ない季節様へのお願いです。何卒よろしゅうお願いいたします、春の女神様(ペコ)。

春の女神様にペコペコしていたかと思えば、いきなり脈絡もなく大ぼらを吹きます。私は21世紀、しかもそんなに遅くない時期に有機農業が絶対的に必要とされる時代が来ると思っています。地球環境にとって究極的に低負荷な農業技術はこれ以外存在しないからです。その時に、有機農業は人類の最後の選択として取りうる唯一の農業形態のモデル(理念型)になるはずです。

それは単に農業技術一般にとどまらず、人と自然の関係、人と共同体との関係、人と自然界の生物との関係、そして人と人との関係にまで及ぶ膨大な前世紀の価値観の転換をもたらすものとなるでしょう。

この要請される条件はとうに来ているのです。しかし、私たちの力があまりに弱い。そして国が本気でEU諸国のように国策として有機農業を支援する気がないためにさんざんなことになっています。なんと有機農業はわが国では衰弱しているのですから!

もし、日本という底力がある国が、国策として本気で取り組むのならば、いや、もっと有体に言ってしまえば、日本が国力を消耗させない前に真剣になって取り組むのならば、その結果は下図のEUのような増大を必ず示すと思われます。EU諸国では国策として有機農業への転換を既に10年以上前の1990代に行ってきています。結果は、ご覧の通りです。90年代初頭からほぼ10倍にも有機農産物の生産は増大しました。

10_zu06 また下の図は国政モニターで見た国民がどの段階で安全が必要かを問うたことに対する答えです。圧倒的に生産段階における安全性が飛び抜けて要請されていることがわかります。

10_zu01中国産農産物が激減したことは各種のデーターで明らかになってきています。

輸入野菜は、生鮮野菜において10年ぶりに70万tの大台を切りました(「日本農業新聞」1月30日)この原因は言うまでもなく、青菜にシロアリ駆除剤をぶっかける如きの非常識な農薬使用法、製造工程でメタミドホスが混入するような非常識極まる加工段階、そして居直りを決め込み恥を知らないような生産物責任皆無な意識のあり方が、自ら墓穴を掘ってしまったのです。

それはさておき、今の国産農産物への追い風は、いわばライバルの敵失によるもので、残念ながらわが国の実力が増した結果ではありません。わが日本有機農業は、この国民の期待にまったく応えきれていません。それは前々回の記事で見た有機認証取得者の停滞状況を見るデーターを見ても、私の狭い知見の中でも、この数年有機農業を目指す農家は減りこそすれ増えてはいないのです。ことに去年あたりからの落ち込みは目を覆うばかりです。JAS有機認証を新たに目指す農業者はほぼ皆無になってしまったのです! >

はこの有機農業の停滞と落ち込みの最大の原因はJAS有機認証制度にこそあると思ってきました。有機認証制度は後の回に書くように、有機農業者というそもそも様々な農業形態の中で、よりによって最も営利性が薄い業態に対して、嫌もウーもなく、過大なコスト負担を強要し、農業経営の手足を縛り、まるでボディブローのように有機農業者を窒息させていきました

■本記事は私の所属する団体の公式見解とは異なりますことを言い添えます。本記事は私の責任において、私の主宰するブログに掲載したものです。

2009年2月 1日 (日)

必要とされる有機農業・伸びない有機農業 その4  JAS有機認証前夜

_edited_2                                                   毎日、零下の朝が続きます。大霜が毎日大地に降り注いでいます。この中で、菜種や麦の双葉はしぶとく顔を出しています。夜間はガチガチに凍結し手でこの幼い葉を手折るとパリっとガラス細工のように分解してしまいそうです。しかし、朝になり、太陽が出て気温が上昇するとゆったりと自ら回復して蘇生いくのです。こんな連中の命を見ると、簡単に諦めてなるか、投げ出してなるかと励まされます。こいつらの百分の一でもいいから、力を分けて欲しいと痛いくらいに思います。

さて、お退屈様ですが、昨日からの続きです。できるだけルサンチマン(怨念)にならんようにするからネ。J AS有機認証が2000年に制定される3年ほど前からその研究を重ねてきました。当初は私は、JAS有機認証に賛成ではなかったのです。というか、ハッキリ言って反対でした。

Img_0003

なんで私たちが自在にやっている農業をオカミが作った基準に規定されにゃならんのだ、まぁこのあたりが本音だったでしょうね。

そして急にそのような有機農産物に対する規制が出てくるのかいぶかしくもありました。当時の有機農産物の市場占有率は1%以下。99%の慣行農法(化学農法)農産物を放置して、なぜまずわれわれ有機から規制するのでしょうか?筋が違う。まずはデタラメな農薬を使っている既存の農産物にメスを入れろ、と有機農業者は皆、思っていたはずです。

一方、当時私たちの悩みの種は、偽装表示の「有機」でした。当時、太田市場という日本最大の青果市場にいけば「有機農産物」というシールが束で自由に売り買いできたという、実にのどかというか、真面目にやっているほうがバカバカしいような時代でした。ニセモノのほうが多いんですからちゃーならん(←沖縄方言でしゃーない)。いちおう「農水省ガイドライン」などというしろものがあるにはあったのですが、これがまたひどいザルでして・・・。生産者が農場の主で、確認者が取引先の量販店だったりしている農水省ガイドラインなど、誰が信じますかって。有機農産物など、単なる商品の付加価値としてしか考えていないのが当時の日本の農産物を取りまく水準だったのです。

この中でとりあえずは、本物の有機とニセ有機を峻別する法的規制がかかるのは、一定の前進ではあるのかな、という肯定論もありました。しかし、それにしてはなぜグローバルな農産物の自由貿易を旗印にしているWTOが黒幕であるのか、私は眉に唾をピチャピチャつけてみたものです。なんか裏には必ずあ~るゾと。

_editedそのくらい私たちのオカミ不信は強かったのです。なんせ鼻も引っかけてくれないのはともかくとして、時として「有機農業は日本では出来ない」くらいのことを平気で農水省はほざいてきましたからね。そしてやることといったら、「出荷に関しての農水省ガイドライン」のような、本質的に有機農業を共に一歩一歩考えていこうとするのではなく、表示法の枠内で有機農業を処理しようという狭量な役人根性だけしか見えてきませんでした。

このなかでJAS有機認証を賛否は別にして、ともかく研究していこうやという流れができたのは、私がポラン広場と関わっていたからにすぎません。ポラン広場は1997年頃に既に、この有機認証法が必ず日本でも制定されると予測していました。それは先進諸外国で既に多数存在しており、ないのは逆にわが国くらいなものという情勢だったからでした。 そしてこの推進者がほかならぬあの「世界をまんべんなく平べったくする」ことに異様な情熱を燃やす総本山であるWTOならば、日本に上陸することは必至と読んでいました。上陸必至であるなら、農水省やJAは私たちをゼッタイに守ってはくれない以上、自分たちで自分を守るしかないわけです。ま、農水省は当事者たる私たちが聞きに行くまで情報すらちゃんと寄越さないのですから幻想はないですよ、ハイ。ああ、いかん、また怨念(←猫がおんねん、かな?)になる。

だから自分たちで研究して、動向を調べ、対策を練るしかなかったわけです。好むと好まざるとに関わらず確実に上陸して来るというなら、受けて立つしかないだろう、やるなら徹底的に「敵」の腹中に飛び込んでやるゾというふうに考えが変わっていったのが、1998年くらいの頃ですか。

かくして、私が作ったグループはJAS有機認証をヤルゾ!という方針でまとまっていきました。いや、その言い方は正確ではないな。まとまりきれず、私たちのグループの生産者のほぼ3分の1に等しい30数人が脱退していったのですから。これが私たちが払った有機認証前夜の凄まじい出血でした。

■ なんでか文字に大小が出てしまいました。修正をかければかけるほどおかしくなるのでそのままアップします。皆様、広~い心で。

« 2009年1月 | トップページ | 2009年3月 »