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減反・この日本農業の宿痾 その2 なぜ谷津田は捨てられたのか?オジィの証言

_edited かなり昔の話ですが、ある宵のこと、私の田んぼのお師匠のジイ様と酒を酌み交わしたことがあります。この田んぼの師匠には前にもご登場願ったことがありましたね。

*2008年8月8日記事 「湧き水の教え」http://arinkurin.cocolog-nifty.com/blog/2008/08/4_d62b.html

わが村だと、鯉の甘露煮や野菜の精進揚げ、漬け物などで、ジィ様の田んぼの宵など眺めながらチビチビやるわけです。見上げる長押(なげし)の上には賞状がズラリ。この賞状とご先祖様の写真、ついでにいえばいろんな所から貰った美人カレンダー各種が、農家の居間の飾りの定番ですね。

さて、このズラっと並んだ賞状ですが、孫の書道展の優秀賞から嫁さんのカラオケ大会準優勝まで幅広くあるのですが、その中でひときわ立派大型なのは県知事から頂戴したという大きな額でした。かなり古いもので、昭和20年代だったでしょうか。「貴殿は水稲の生産増加に寄与され、右のごとく優秀な成績を収められたことを表します。ウンヌンカンヌン」

茶碗で冷や酒を飲みながら、その県知事の表彰状に話を向けると、ジイ様はちょっと得意そう。しかしなぜかフンという顔をします。なんだこの複雑そうな表情は?ヒヨッコ百姓としてはビビるぞ。

「ああ、あれか。オレの米作りの腕がこの地方一だったで、貰ったもんだぁ。作れ、作れ、増産して飢えさ追放しろって、お上からハッパをかけられてた時代だっぺよ。工夫して、工夫して、毎晩水回りをして、朝一番に田んぼに行って、腰がまがるほど働いて米サ作っただ。金肥(化学肥料)も農薬も機械もなかった頃だぺよ。稲刈りが終わると、隣組で集まって一晩中飲んだもんだぁ、楽しかったぁ」

「今は作らねぇとよく生産調整に協力したと賞状をもらっちまう始末だで・・・オレには考えられねぇこったよ、作らねぇほうが、褒められるんだべ。作ると怒られる。腕がいい百姓も、下農(*げのう・だめ百姓のこと)も同じだけ面積を減らせと言われる」

「あの減反以来、オレはもう米さやる気が半分失せた。息子も大きくなったし、米はみんな任してしてしまった」と最後はいまいましげに語って、冷や酒をグビリと一口。タクワンをボリっ。ジィ様、歯はいいのです。

ちなみに、息子さんもちょっと顔を出しました。彼は市の職員です。とてもかんじのいい温厚な方ですが、もう農家臭はありません。米だけであとは農業に関わっていません。ネクタイが似合う実直な勤め人といった人です。消防団をやっとお役御免になったと嬉しそうにしていました。消防団の現役の頃は、出火となると、職場にいても緊急動員がかかり、上役にペコペコ頭を下げながら、消防車にふっ飛んでいたのだとか。

_edited_4 今になると、ジイ様が私のようなわけのわからない都会から来た文無しの若者を面白いと思った気持はわかります。当時誰も村でやりたがらなくなった田んぼを、いやむしろ重荷のようにさえ思われていた田んぼを、こともあろうに鍬一本で開拓しようという無謀さ、ハッキリ言ってバカさかげんが気に入られたのでしょう。それにかつての自分を重ねていただいたのかもしれません。ありがたいことです。当時既に、こんなバカは村で死滅しつつあったようですから。

さて、かつての農家は、先祖代々の畑を増やすというのが勲章でした。少しでも土地を買い増すと嬉しくて祝宴を張ったそうです。だから、とんでもない里山の奥の奥まで、樹を切り、抜根(ばっこん)し、泥だらけで耕して、耕して何年もかけて谷津の田んぼにしたものでした。更に言えば、その里山に植樹したのもご先祖様ということになります。

しかし、このようなところは大体が大型機械が使えないわけです。耕運機がやっと。それもフネ(*耕運機の両輪にタイヤ代わりにつける幅の広い水田用車輪)をつけてやっとの所が大部分でした。ひどい場所では泥が腰まで来るような猛烈な深田もありました。こんな所まで、日本の百姓はコツコツと耕して水田に変えていったのです。

_edited_3しかしある時代、1970年前後の頃を境にして、国の方針が大転換しました。そう、減反です。食管財政が逆ザヤになっていることを理由に、一転して「作らせない米作政策」に変わっていったのでした。

このような谷津田は徐々に捨てられていきました。まだそこを拓いた当人がいるうちは意地でも耕作していたのですが、代が変わるともういけない。労力に合わないために、減反対象のやり玉に上げられて真っ先に捨てられていきました。水田も集約化され、ため池からパイプラインで一挙に結ばれるという基盤整備が進んでいきます。

用水から田んぼまで段差があるためにメダカが田と小川を往復できなくなり、激減していきます。兼業化のための労力削減で農薬使用量も増加し、アキアカネ(アカトンボ)やカエルが姿を消していくようになりました。水田はかつてのように、様々な生きものが生れ、育っていった生物種多様性の王国ではなくなり、単なる米の生産基盤に変化していきました。

今、問題となっている38万6000ヘクタール(2005年農業コンサス)と言われる不毛な全国の耕作放棄地は、このようにして生れたのです。耕作放棄地をそれだけでとらえようとしても理解できません。農村の高齢者問題もそれだけではつかめません。里山の荒廃、生きものがいない沈黙の春の問題もそうです。

これらを一つ一つ取り出しても解決できません。それらの問題点は互いに因果関係をもっていて、一点で収束している箇所があります。 それが減反なのです。減反問題を避けて、現代日本の農業や農村の現在と未来を語ることは出来ない、そう私は思っています。

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