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2009年5月

2009年5月30日 (土)

ノギャル嬢、色々と楽しませて頂きました

_edited_5テレビであのノギャルにまた出会ってしまった。いやはやなんとも面白い。

ノギャル嬢がシブヤから行った先はなんとあの大潟村だった。へぇ~田んぼならシブヤから1時間以内でもあまたあろうに、あんなに遠くまで御苦労様でした。

30年前のノギャル、今はノババのカミさんとふたりで、遠慮なく笑いころげながら見物させていただいた。まずはお約束のシブヤ駅頭でのシブヤギャル(←まだこんな言葉が生きてたんかい)にボードで「この中でお米はどれから採れるのでしょう?」とのテレビの質問。ボードの写真には、麦、すすきまであったな、プハっ。よもやと思ったが、半数以上が麦、中にはススキが米だそうだ!これには大爆笑!すすきからコメが出来れば、お百姓は笑いが止まらない。確かに食育がいるわけだと納得。

ちなみに、シブヤギャルの皆さんの農業に対するイメージは「暗らーい」、「キタな~い」、「ダサ~い」の三拍子で、まぁこれは毎度のことで特に驚かない。ある意味、ちょっとムッとするが当たっていないこともない(←おいおい、勝手に納得すんなって)。

_edited_2昨今の小学校では総合教育の中でけっこう田植えなんかをやるので、その前のギャル世代のほうがダメなんじゃないかな。そしてギャル嬢におかせられては、もはや米なんか食べないんだそうだ。パスタだそうだ。米は無洗米をたまに、くらいだとか。

第一、今や水嶋ヒロも言っているように「おばぁちゃんは和食を教えてくれた」時代なのだ。もうひとこと天道、「まずい飯屋と悪の栄えたためしはない」のだ。ムハハ、ノギャルの諸君、イタリアンなんてダサくはないか。(筆者注・DVD「仮面ライダーカブト」参照)

ねぇシブヤギャルの皆さん、伊太利ではパスタは米が食べられない貧乏人が食べるんだよとウソを教えたくなる。伊太利はヨーロッパ最大の米の産地。とてつもない大面積(平均20ヘクタール以上)を一軒の農家が大型機械でダーッと耕作している。リゾットとピラフ用の2種類だったと思った。

それはともかく、ノギャルの皆さんの田植えへ行くファッションが素敵だ。とりあえずゴム長(死語みたい)はいいぞ、しかし、シルパーメタリックで丈も短いから、こりゃ全没して靴の中にまで泥が入るなぁ。お、今度は白いパンツか、いいぞ頑張れ、泥汚れって落ちねぇんだよな、一枚ダメにする気でガンバレ。モンペと日除けボンネット着せたかったねぇと、旧ノギャルは大喜び。歳を取ると意地が悪くなるのであります、はい。

ノギャルのカリスマのなんじゃら嬢のインタビューがふるっていた。「シブヤ米を作って売りまくる」(確かに売れると思うよ。ただ実際ほんとうに君らが作っているかどうかだがね)、そして「潰れかかっている日本の農業にノギャルが農業革命を起こす!」のだそうだ。その意気たるやよし!

しかし、そのての「地域農業の支援」だとか、「農業革命」だとか、はたまた「農村に都会の若者を連れてくる」とか、私のほうは聞き飽きてるんだけどなぁ。単純に、「農業で遊ばせて下さい。そのかわり広告しちゃいます!」ってほうが可愛いぞ。なにかスポンサーを当てにしているみたいで下心が透けてしまう。

そして、「農業革命」を起こすべくノギャル軍団、現地大潟村に到着。一角にしっかりとノギャル様専用田んぼが既に用意してある。いちおう種まきと、トラクターは少数の有志がやったようだ。やったといっても、農家の手取り足取りだが。

_edited_4                        じつを言えば、援農というのはけっこう農家の負担になるのだ。田畑に来ていただくことはほんとうに嬉しいし、実際交流していると疲れも吹っ飛ぶ。視野も拡がる。消費者の殺し文句である「美味しかった」なんて言われればニコニコしてしまう。

しかし、来て頂く人達にスケジュールを合わせて作業暦を調整せねばならないし、田や畑に入ってもらうための段取り、作業用具、食事,トイレ、送り迎えなどそうとうに大変な農家側の仕事となる。勝手にやって勝手に帰る市民農園との違いだ。

それでも、きちんとした仕切れるリーダーがいて、何回も通うリピーターが現れるようになればしめたもので、ほんとうによく働いてくれて、駆け出しの農業研修生など足元にも及ばないほんとうの意味の援農となってもらえる。そのためには最低で半年、毎月2回は通ってもらわねばならないが。

さてシブヤのノギャル軍団御一行。白いパンツにケバイ厚化粧という姿でドブドブと無造作に田んぼに入る。たちまち、おーとっと、よろける。カエルに悲鳴を上げる。そして横に一列に並んで、紐か板を出して統制してやらないもんだから、♪右に左に兎のダンス。通常は、田んぼの左右に紐を出すか、板を出して、それに株間の印を打って、一斉に植えていく。

馴れれば、あらかじめトンボで引いた縦横のラインに合わせてなんとかなるが、初心者はテンポも体力もバラバラだからせーのという統制を取らないとなかなか難しい。ま、小学生だって紐も使わずにやってるけどな。

昔の田植え歌や早乙女の民謡は伊達にあるのではなく、労働のリズムを統制するためにもあった。農民の知恵はたいしたもんだ。

Img_0006 田植えの後の交流会で、ノギャル連中ががおにぎりを頰張って「甘~い!」。ボギャ貧だが、微笑ましい。美味いは甘いか。なるほど、田んぼで足も手も、全身が丸ごと疲れたから、美味しかったろう。どうだノギャル、甘い米はパスタより美味いだろう。

この企画を作って、これだけ大勢のメディアを呼んだノギャルのカリスマ嬢、なかなかやる。時流を読んでいることは確かだ。もちろん本気で農業をやる気などさらさらないだろう。そんなことに期待するのはヤボな大人の考えというもんだ。ただの遊びにしては念がいっているので、一種の農村を借りたイベント業、広告業といったとこだろうか。まぁ、それもよし。

きょうびお菓子系もありよと元祖ノギャルのカミさんになぐさめられた。ノギャル、あの田植えの後のニギリメシの甘さを忘れんじゃないぞ、と遠吠え。ちょっとあいつらの不器用さを好きになった。

■写真上 今が旬。新茶の若葉。この若葉を摘んで蒸して揉みます。

■写真中 シロツメクサ。クローバーです。

■写真下 アヤメ。

2009年5月28日 (木)

賢治と莞爾

Img_0644 ある旧友の手紙で、友の息子が石原莞爾に関心をもっていることを知りました。そしてその息子によると石原莞爾と宮沢賢治が入っていたという「秘密結社」があるとのことでした。
ひさしぶりに賢治と、莞爾のことを考えてしまいました。
ここでいう賢治も莞爾も入っていた秘密結社とは国柱会のことです。別に秘密結社じゃありません(笑)。立憲養正会という政党をもっていて衆議院にも議席がありました。法華経を基にした社会運動体で、まぁ区分すれば日蓮宗系土俗仏教型右翼とでもいうことになりますが、そのような区分けは私にはあまり関心がありません。でも、おどろいたことに、確か今でもその流れは現存します。
賢治は、ある意味、複雑怪奇な人です。国柱会は彼が上京していた20代の前半に入って、死ぬ間際の有名な永訣の手帳のメモにも法華経を配って欲しいと書き残しているくらいですから、その意味では筋金入りです。
しかし、作品面にはまったくといっていいほどその影響はありません。これが賢治の面白いところで、作品だけ読んでいると賢治は当時流行のトルストイ主義者、白樺派、あるいはコスモポリタリズムのようなかんじがします。今風にいえば大流行のエコ(←猫もシャクシもで、やや食傷ぎみ)。
「銀河鉄道の夜」など、そうですねたとえば、中欧の作家が書いて賢治がどこかでそれを知って訳したと言われればそうかと思います。しかし彼の芯にはこんな土俗的な彩りの法華経的農本主義があったのですから、人というのは面白いもんです。
一方、莞爾は彼の軌跡自体が、あの戦争に転がり込むことと同義語で、かえって彼の人となり、思想なりを分離することが難しい部分があります。賢治は生前は無名のまま葬られましたが、莞爾は日本を、というか世界史の大きなターニングポイントを動かしています。
しかも彼がトリッキーな手段で作った彼一個の作品とでもいうべき満州帝国は、複雑な国際政治の中で王道楽土たりえず、日中戦争の火種となり、そしてあの大戦争へと発展していきました。その中で彼が考えていた凡亜細亜主義、すべてのアジア人が白人帝国主義を押し退け、自由で平等でたおやかに生きるという理想はズタズタになっていきました。
「大東亜戦争」の理念部分、つまり八紘一宇などを作ったのが莞爾なのです。そしてそれをあの戦争を理念もクソもあったもんじゃないものに仕立て上げたのが、彼を退役に追い込んだ軍事官僚の東条秀樹でした。
ちなみに莞爾は退役に追い込まれた後も権力者・東条を「上等兵」と堂々と呼んでいたそうです。上等兵なみの国家観しかないのに、一国の舵を握ったことに対することに対する強烈な皮肉です。
そして、東条は権力志向のある能吏であったが故に、その時点に権力中枢に居合わせ、無能が故に日本を地獄に落としてしまったのです。
_edited_2
賢治と莞爾。同時代に生き、まったく異なった社会的な生きかたをしました。一方は名もない農民作家として、一方は帝国陸軍作戦部長として。
賢治は病弱な身体で畑仕事をし、貧しい教え子に「稲が君の胸の高さになったら、このような肥料を上げなさい」と教えます。「今日からぎしぎしとなる手を持つ」と決意します。(「春と修羅第3集」)
当時の農村に西洋風のチェロとバイオリンの文化を持ち込もうとしました。もちろん農民は見向きもしませんでした。
結局、賢治は農民にはなれませんでした。彼の晩年は、酸性の土地に苦労していた農民に、いかに安価に石灰を届けられるかで費やされました。くたびれきった身体で彼はあえて会社員となり、石灰を配り始めます。そのことは賢治の身体をいため続けました。
「雨にも負けず」という絶唱は、「なりたい」であって、「である」ではないのです。とうてい農を通じた悟りになどに至れない自らをうたった哀しくも美しい詩です。
賢治は幸運にもあの大戦を知らずに死にます。
莞爾は戦後まで生き延びました。たぶん不本意だったことでしょう。自らが楽土と信じた満州帝国が、日本を泥沼の日中戦争に引き込む原因となり、それがあの大戦の引き金となってしまったのですから。
彼は自分を極東軍事裁判に呼べと叫びました。そこで彼は自らが信じる大東亜戦争の本義を世界に向かって叫ぶつもりだったのでしょう。あの大戦の「義」は彼以外に万全に語れる者はいなかったはずです。彼は表現者でもなく、政治家ですらもなく、テロリストの如き研ぎ澄まされた精神を持つ実行者だったのですから。
しかし彼は死に場所を与えられることなく、イデオローグであるはずの大川周明すら痴呆のまねをして責任を回避する中、かつての仇敵東条秀樹はその責任を引き受けて絞首刑になりました。天皇の能吏は無能ではあったが、誠実だったのです。
その後の莞爾は多くの旧軍人が自衛隊に職を求める中、それに背を向け庄内の西山農場でかつての同志と農作業を続け、そして農民として死にました。
莞爾の最後の政治的発言は変化しました。戦前の主張である被抑圧人種あるアジア人種と植民地でのさばる白人種との間の最終戦争である日米の戦争ではなく、日本は身を挺して、米ソ間の最終戦争を阻止すべきだとしました。日本が生んだ最高の軍事戦略家にどのような心境の変化があったのか窺い知れません。
賢治と莞爾。このふたりは法華経というところから始まり、農で己の人生を閉じます。国柱会で交差した賢治と莞爾は、ここに完結したのではないでしょうか。そこに不思議な縁を感じます。

2009年5月27日 (水)

隔離か共存か 第2回 大量生産-大量消費社会の背後で進んだもの

_edited BSEの原因、異常プリオンは100°以上の高熱にも高気圧にも耐え抜きます。

このような変異したウイルスはなぜ生まれるのでしょう?この原因が草食で草を好む牛に肉骨粉を与えるという摂理に反した飼育方法にあったことは知られています。

しかもその肉骨粉とは、グロテスクにも、牛自身の骨と肉だったのです。カニバリズム(共食い)です。このようなモノをなぜ飼料として与えたのか、理由は簡単です。肉骨粉は安くて、タンパク価が高いので、安上がりで太ったからです。これが「経済の法則」でした。

 ところで、世界最大の鶏卵会社であるイセファームは「ウインドレス(*窓がなく密閉した鶏舎のこと)こそが安全を保証する。徹底的に鶏を隔離しなければだめだ。開放型鶏舎は防疫上弱い。ウインドレスこそが国際標準だ。鶏には日光などいらないのだ」とまで言い切っています。

私たちは鶏を坪に10羽で飼っています。ウインドレスの収容坪羽数は、約60羽/坪、いや、最近は10数段ケージ重ねるタイプもありますから、多分私たちの十倍以上のトリを詰め込んでいる場合も存在するでしょう。私たちの10倍の経済効率というわけです。

好むと好まざるとにかかわらず、人間は大量生産、そしてそれに見合った大量消費の社会構造を作り出してしまいました。「大量に生産する」、「より安価に製造する」、「他の生きものや資源はすべて人間のためにある」ということがあたかも人類の常識のように唱えられてきました。これが20世紀という時代の精神でした。しかし、これ実は迷妄なのではあって、実は自分たちはとんでもないことをしているのではないかと人が恐れを感じたのはつい最近のことです。

_edited_2 さて、ここで、皆さんにお聞きしたい。牛丼が280円で食べられることが、そんなに素晴らしいことですか?ハンバーカーを80円で食べられることがそんなにいいことですか?

卵がワンパック80円で買えることがそんなにもいいことですか?キャベツが1個70円で食べられて幸せですか?携帯電話に月に2万円もかけても、野菜に月に5千円出すことすらイヤなのはなぜなのですか? そのような「豊かさ」と「便利さ」が許される陰で、もっと大きな「なにか」が進行していることがわかってきました。例えば、80円バーガーを作ることの代償に「地球最古の先住者」であるウイルスの怒りを解き放ったのが誰なのか、そこに私たちヒトは思いを巡らせる時期に入ったのではないのでしょうか。

■写真上は、実がなりはじめた山椒。この時期に摘んで佃煮や塩漬けにします。下は、ジャガイモの花。白いものとムラサキがあります。品種によって違うようです。

2009年5月26日 (火)

隔離か共存か 第1回 「地球最古の先住者」の復讐が始まった

_edited                                    大きな不安が世界を静かに包み始めています。事態は未だ深刻ではありません。まだ凪の水面のように静かに波立っているだけです。

それはなにもなく終わるのかもしれないし、嵐になるのかもしれない、ただ、私たちは水面の下の動きを注視しなければなりません。

一連の感染症と、その総決算とでも言うべき今回の新型インフルエンザには大きな特徴が2つあります。

ひとつは、人の「食」に直接むすびつく家畜が原因であることです。今回の豚由来の新型インフルエンザ、BSE、コイヘルペス、トリインフルエンザ、豚コレラ、ニバウイルス脳症などがあてはまります。今ひとつは、「人獣共通感染症」だということです。これは人間と動物(鳥も含む)が共にかかる感染症のことです。

Img_0002東大の山内一也名誉教授(ウイルス学)の説明では、これには2種類あってもともと人が体内にもっていたものが動物に移るもの(人由来感染症)と、自然宿主である鳥や動物の体内にいたものが人に移るもの(動物由来感染症)があり、去年からひんぱんに出る感染症はこの後者、動物由来感染症にあたるのだそうです。

SARSは元来中国の広州ハクビシンを自然宿主としていたものが、なんらかの理由で、たぶん食用にした悪食のためだと言われていますが、人に感染したものだと思われます。また、エボラウイルスはザイールの猿を自然宿主にしていたものが、人に感染したものです。HIV(エイズ)もアフリカの森に潜むレトロウイルスが原因と思われています。そして、トリインフルエンザは、自然界の鳥類は大部分発症しませんが、家禽、つまり飼われた鶏、アヒルなどは発病しました。豚は鳥類とヒト共通のウイルスの宿主ですが、ブタインフルによって豚の自然界の親類であるイノシシが死ぬということは考えにくいことです。

これらのことを考えると、背後にひとつの「流れ」が見えてくるのではないでしょうか。

国立国際医療センター研究所の切替照雄研究部長はこう言います。「病原体は基本的には宿主を選んで生存しています。そして宿主どおしでも、動物は森に住むもの、人は人里に住むものと明確に分かれていたのです。ところが乱開発や土地開発で今までなかった接触がおきて、新しい病原体を生む原因となってしまったのです」。

感染症を引き起こすウイルスは地球最古の生物です。それは実に40億年前から地球上で生き抜いてきた原初的な「生命体」なのです。

より正確にいえば福島伸一氏が言うように、ウイルスは細胞膜も外形ももたないタンパク質とRNA遺伝子のみの「生物と無生物の間」の存在です。

このようなウイルスを、ある生物学の研究者は、「古き先住者」と呼ぶほどです。彼らは自分自身では生きられず、必ず他の生物の細胞内に寄生して生きる性格をもっています。「古き先住者」を侮ってはいけない。いや、侮ってきたからこそ、今の事態があるのではないでしょうか。

ウイルスは通常、自然界では無害なまま静かに自然宿主と共存しています。エボラウイルスも森の猿の体内にある段階では発症しなかったし、トリインフルエンザも自然界では発症できないが、なぜか鶏舎では発症する、SARSは自然界のハクビシンは発症しないが、人には感染する、これはなぜなのか人間は立ち止まって、胸に手を当てなければならないでしょう。

2009年5月24日 (日)

新型インフル・マスクに対する大きな誤解

_edited_2  世の中、右を向いても左を向いてもマスクだらけです。 マスクは完全に売り切れで、本来必要な妊婦などの免疫力が弱まっている人達への提供さえままならない状況だそうです。社会全体が不安神経症になっています。

私たち茨城の養鶏に関わった者たちは3年前のトリインフルの巨大発生という事件で、たぶんイヤってほどインフルという感染症を身をもって知ってしまいました。わが農場のわずか3キロ先まで接近したのですから。

ですから、今の世の中のマスク依存症はどこかおかしい。この写真はわが家にある家畜保険衛生所から配布されたN95サージカルマスクです。まぁ、こんなものが配布されるのですから、茨城がいかに凄まじいインフルの嵐の渦中にあったのかご想像下さい。おかげさまで、うちには大量の在庫があります。

ええっとですね、サージカルとは「手術用」という意味です。通常「マスク」というのはフルフェースマスク、あの防毒マスクのように顔面全体を覆うものを指します。これに対してサージカルマスクは、手術用、あるいは軽度の感染危険性しかない場所での使用を前提に作られています。ちなみにこのN95というマスクが、世界で最も強力なウイルス用マスクで、防疫関係者はすべてこれを着けているはずです。

ついでに言うと、これに白い防護衣(これを着るとサウナスーツのようにクソ暑い!)、薄手のゴム手袋(イグザミネーショッ・グローブ)、ゴーグル、白ゴム長靴一式で完全防備の出来上がりとなります。うちいちおうこれ一式あります。こんなもんが一式ある民間人なんて、そうそういませんぜ!これを一式着用して、首からIDらしきものをぶら下げて「あー、どいてどいて消毒しますから」とかなんとか言いながら乗り込んだら、私、まるっきりそちらの筋の役所の人に化けられますよ。_edited_3

さて、マスクの話ですが、結論から言ってしまいましょう。日本人は大きな誤解をしています。マスクはインフル患者が着けるものであって、そうでない人が予防的に着けるものではないのです。

ですから、猫もしゃくしもマスクを着けて通勤している日本社会の姿をテレビで見た欧米の防疫関係者は、ウソかマコトかこう思ったそうです。

「どひゃ~、日本ではこんなに新型インフル患者がいるのであるか!しかも何で皆、元気そうに通勤しているのであるか?日本人は阪神大震災の時にも、瓦礫を乗り越えて通勤してたであるからして、きっとタミフルを飲みながら、解熱剤を打ちながらでも会社に行くのであるか。おお、なんという驚くべきワーカホリック国民であるか!オー、ピティフル、オーマイガッド!」

マスクを着けることによってインフルを予防することはあまり期待しないほうがいいのです。確かに至近距離でインフル患者がゴホンと大きなくしゃみをすれば、数メートルに渡ってウイルスをたっぷり持った唾液や鼻水がミスト(霧)状になって飛散しますから、病院の臨床などのような濃厚な接触状況では着ける意味もあるかもしれません。

しかし、WHO、アメリカのCDC(疾病センター)は揃って、「マスク着用によるインフルエンザ予防の医学的な根拠はない」とまで断言しています。患者か、あるいはインフルで入院した患者の臨床でマスクは使うものなのです。これを受けてか受けないでか、先日の厚労省の会見では従来どおり手洗い、うがいの励行は言われたものの、マスクについては一言の言及もありませんでした。

_edited_4 それともうひとつ。患者数何人という発表も無意味です。日本はそれでなくても、判定キットやDNAから判定するPCR検査設備が、市町村レベルまであるという世界でも希有な検査大国なわけです。

検査大国日本が、レベルが違う諸国と比べるほうがおかしい。日本人特有の几帳面さもほどほどにしたほうがいいと思います。

日本でその気になってPCR検査(遺伝子検査)の国民皆検査でもしようもんなら(そんな予算も暇もないでしょうが)数千人のオーダーでクロ判定が出てしまうかもしれません。中国で日本と同じ検査を実施したら億のケタでクロ判定が出るんじゃないかというのが防疫関係者の内輪のジョークだそうです。

ですから、こんな数字を公表すること自体、徒に国民の不安を煽り、それでなくとも大きく落ち込んでいる経済社会活動を更に低下させることにつながります。また、日本を国際社会に世界3位の感染拡大国だと誤発信しています。

今、国がやるべきことは、すでに破綻している水際阻止や、「一人の患者も国内で出さない」ことではなく、「いかに広がりを抑えるか」です。このためには今の無駄な「検疫」を止め、持てるすべての防疫能力を国内患者の拡大阻止に注ぐべきです

現職の厚労省防疫官である木村盛世さんは、ご自身のHPで、政府の対応をおおむねこう批判しています。現職技官という立場も嚙みしめて、傾聴に値する意見です。

■木村盛世オフィシャル・ウェッブサイト

http://www.kimuramoriyo.com/25-swine_influenza/

[以下引用]

そして最も重要なのは、隔離、学校閉鎖、集会の禁止などはインフルエンザの広がりを抑えるには無効なだけでなく、経済活動に大きな影響を与えるということです。

 (1)咳を伴う熱があれば職場や学校に行かない、(2)咳をするときには口を押さえる、(3)重症になるまでは医療機関を受診しない、ことを政府の広報を通して徹底させることがこれからの広がりの程度を左右する事項です。

 薬は家族や友人にもらってきてもらえるよう、重症な患者が受診できるよう、「発熱外来」と「プレハブ陰圧室」の整備にお金と人をつぎ込むことです。

[引用終了]

私も現段階での新型インフルは季節性のインフルとなんら変わらない、むしろそれより毒性が低いものだとかんがえています。今、こんな初期の段階でパニくってしまい、経済や社会のマヒでも引き起こしたら、これから万が一にも起こり得る可能性のある強毒化、タミフル耐性の出現の時にどうするというのでしょうか。

今は慎重に感染のレベルと拡大状況を見極める時です。マスクを買いあさるような不安神経症に陥らず、国民ができる最低限のことをするしかありません。うがい、手洗い、バランスのいい食事、簡単で素朴ですが、結局まっとうな家庭生活を送ること、これが最大の新型インフルへの防御なのです

■写真最下段は芽吹いたミントの葉。パンっと手のひらで叩いてお茶に煎れたりします。もう少し暑くなれば、大量に摘んで大きなグラスに入れて、グチグチャに上から潰してラム酒とライム、砂糖、氷を入れれば、これでキューバ名物のモヒートの出来上がり。

2009年5月23日 (土)

新型インフルエンザ、次の危機・強毒化とタミフル耐性・そのシミュレーション

_edited_4 ウイルスは生物ではない以上、感情を持ちません。愛はもとより、憎しみも怒りもありません。あるのは自己を保存し、増殖するという本源的な使命のようなものです。
彼らウイルスは、地球最古の「存在」です。現在の地球を覆い尽くさんばかりのヒトという種と均衡を保とうという意志のようなものを持っているでしょう。ウイルスとヒトとの均衡とは、なにを意味しますか?この恐ろしさに私は心底恐怖します。

さて、前回を受けて新型インフルのウイルスの特徴である急速な変異を中心に考えていきます。

現在の状況は、ヒト-ヒト感染となってしまった以上、感染拡大はあるところまで進行せざるを得ません。
人類はこの新型ウイルスに対して抗体をもたず、ワクチン製造は到底間に合わない以上、拡大は防疫体制とせめどあいながらも、東京や関東地方にも侵入するのは時間の問題です
ただし、現段階では政府が言うように弱毒で、家でタミフルも飲まないで治癒した高校生もいるほどです。現時点では、恐れるにたりない風邪ていどの毒性にすぎません。発熱も低く、患者によっては普通の風邪と思った人も多いほどです。これによる死亡者はわが国では考えにくいと思われます。
ほんとうに危険的な事態とは、ウイルスの「次の変異」へのジャンプです。ウイルスは変異することを特徴とします。ウイルスは転移、感染を繰り返す内に、必ず毒性と感染力を増大させることが知られています。
が、これすらも単なる毒性と感染力の増大ならば、対処可能なはずです。世界屈指の現代日本の防疫衛生水準においては確実に対処できるレベルの危機です。
では、もっとも警戒せねばならない「変異のジャンプ」とはなんでしょうか?それはインフルの特効薬であるタミフル耐性をウイルスが得てしまうことです。これが真の危機的事態です。既に季節性インフルにおいてはタミフル耐性を得てしまっている株が多く発見されています。
*旧記事「タミフルが効かない耐性インフルが急増」
もう一点老婆心ながらつけ加えるならば、今年の秋は国民が待ち望んだ衆院選が行われることです。結果、民主党と中心とした政権が、相当な確率で誕生することになると思われます。防疫体制の指揮中枢がスムーズに新政権に移行せねばなりません。いずれにせよ、政局あってもガバナンス(国家統治)の経験がない民主党民主党は、政権につくやいなや国家規模の危機管理に遭遇することはまちがいありません。村山政権の阪神大震災の轍を踏まないことを切に祈ります。
これが最悪の事態のシミュレーションです。巨大な人命の損失と社会システムの崩壊、金融危機と相まって長期に渡る暗黒の時代を覚悟せねばならないかもしれません。そのようにならないことを心から祈ります。

2009年5月22日 (金)

ありがとうございます。1周年を迎えました! そして新型インフルのことなど

_edited こんにちは。この拙いブログは、今日5月22日をもってちょうど1周年となりました。
途中、入院による中断の時期などもありご心配をおかけしましたが、今や私の重要な毎日の励みとなっております。ご支援頂きました皆さま、特にメンドーだ、メンドーだと逃げ回る私に強くブログ作成を勧めていただいた野生のトキ様には厚く御礼申し上げます。
さて、新型インフルが神戸を中心にしておそろしい拡大の仕方をしております。インフルに関して私は特別な想いがあります。かつて私はトリインフルを3年間に渡って追跡してきました。これは茨城が殺処分560万羽という未曾有のトリインフルの被害を受けたことによります。これはイセフーァームという巨大企業の醜悪な犯罪でした。以来私は、このブログの前身である「グラウンドゼロ」というメールマガジンを作り、農水省に陳情するなどのたったひとりの戦いを続けました。しかし3年間にも及ぶ追跡で精根尽き果て、矢折れ、刀尽きるようにして、これ以上の追及を断念したのが、2007年12月の暮れも押し迫った頃のことでした。
*旧記事「茨城トリインフル戦争」4回連載
以来、私にとってインフルエンザは決して追及を忘れてはならない仇敵のような存在となりました。そして今回の新型インフルの世界的大流行と上陸、感染拡大です。
私はこれまでこのブログでは静観をしていました。しかし、大きく感染拡大してしまった今、記事をアップすることにしました。
Img_0009_2
 
今回の新型インフルはH1N1と呼ばれています。これはウイルスの「株」のタイプ名称です。H1からH16まであります。
次に来るN1はそのウイルスの感染力が強いか弱いかの度合いを示しています。N1が一番高く、これもN1からN9まであります。ですからH1N1は、H1というインフルエンザ・ウイルス株の仲間で、N1つまり一番感染力が強いということになります。毒性そのものではないことにご注意下さい。
ところで、通常、トリ型やブタ型のインフルエンザはヒトに感染することはありえません。
それはなぜでしょうか?実はこれがウイルスの面白さです。
インフルエンザ・ウイルスは原則として、ひとつの自然宿主しか持てません。ヒトならヒト、トリならトリ、ブタならブタ(*ただし豚は鳥類とヒトの両方の宿主)だけです。ウイルスはひとつの鍵孔に一つの鍵というほど、宿主とする対象の生物種は限定されています。これを「種の壁」といいますこの「種の壁」という自然界の掟を超えてしまったのが新型インフルです。
Img_0015
次に、インフルの原因であるウイルスとはなんだということがあまり知られていないようです。TVや新聞を見ても触れていないようなので、ここでおさらいをします。
ウイルスは地球最古の「存在」のひとつです。「存在」と言ったのは、生物でもなく無生物でもないからです。バクテリア、プランクトンや微生物はれっきとした生物です。しかし、さらに微小なウイルスは無生物なのです。しかし、だからといって鉱物などとも違う、地球でウイルスしかありえない特殊な形態をもっています。
最大の特徴は、ウイルスが自分の固有の細胞の姿を持たないことです。タンパク質と核酸しかなく、本来自分の姿であるはずの細胞膜すら有していません。自らのコピーを量産させる8本のRNAリボ核酸を遺伝子として、タンパク質(RNAポリメラーゼ)の中にあるという奇怪な形状をしています。
そして自己増殖はできません。ウイルスは宿主の気管支に侵入し、宿主のDNAに干渉して、自分を大量にコピーさせるという方法で繁殖していきます。これが感染の拡大です。
Img_0004
そしてもうひとつのウイルスの特徴は、固有の外殻がないために変異するスピードが驚異的に速いということにあります。A型と思ったらAの変種株、あっと思ったらB型となっているような変幻を見せます。これはウイルスが自分独自の姿形を持たない強みによります。
もしこれが通常の生物ならば、とても怖いでしょうね。映画のCGよろしく犬から虎に、虎から豹に、はたまた鼠にと変異するのですから。しかし、彼らウイルス一族にとってそれがあたりまえなの姿なのです。
長くなりました。ウイルスのおさらいはここまでにして、この変異性の強さというウイルスの特徴をキイワードにして、次回でもう少し踏み込んだ新型インフルの「眼の前にある危機」に踏み込んで考えてみましょう。
                   ~~~~~
■写真上 何の花だ?わかったらえらい。ブルーセージ、はずれ。正解、コンフリーです。
■写真中段 これもわかりにくいでしょう。でも豆科特有の花です。今が旬のさやえんどう?はずれ。正解カラスのエンドウです。
■写真下段 角度を変えて正面から見たコンフリーの花房です。

2009年5月21日 (木)

農業は都会人のお花畑でもなければ、経済の草刈り場でもない

_edited 私は今まで、自分の農場でも2組の研修生を受け入れました。一組は無残な失敗。あろうことか多額の借金を踏み倒して、四方に不義理をした挙げ句夜逃げしてしまいました。私の取引先を紹介したために、その後始末に追われ、私自身の信用も傷つけられました。

そしてもう一組はすったもんだの挙げ句、今や子供を2人作っていつの間にか村の一員になっています。毎朝、チャリンコの後ろに子供を乗せて村の保育園に送る若い父親の姿が見られます。経営的にも儲かりこそしないものの、しっかり安定しているようです。

この二組の明暗を考える前に、農業の中でなぜ後継者が出てこないのか考えてみましょう。前のブログ記事で、大きな車を買ってやって、若夫婦の新居を作ってやる農家のことをお話しましたね。どうしてこんなに優遇されて農業ができないんだ、とも書きました。

でも、出来ないのです。プロの農家が減ってパートの農家、つまり兼業農家のほうが今や多いともどこかで書きました。なぜなのでしょうか?原因は単に減反政策だけではないのです。

あるいはこんなことも村ではよくみられます。農家の娘は農家に嫁がないのです。農家の母親は娘が農家に嫁に行くというと必死になって止めます。娘も高校のボーイフレンドが、農家を継ぐとなった瞬間お別れとなったなんてケースはよくあることです。

理由?簡単です。農業が食えないというのは一面の真理、リアルな現実だからです。知恵を絞り、汗をかいて、ようやく食えるのです。

ですから私はあえて、都会から来る新規就農希望者にお聞きしたい。何代も続いたプロの農家が辞めていくのに、あなたがたひ弱な都市の人に農業が務まると思いますか?この農村という因循姑息ななにもかにも都会と違う社会で生きていけますか?

_edited_2 ひ弱と私に言われてむっとなった人、手を挙げて。おやおや多いですね。

「ひ弱」の意味は「土地なし、金なし、技術なし」の三大要素のことですが、その前にもうひとつ大きなことが実はあるのです。

大部分の新規就農者がふわふわとした夢のような就農を考えていることです。「田舎暮らし派」はいってみればこんなイメージでしょうか。

「朝、野鳥の声で目覚めると妻がいれてくれたタンポポコーヒーの芳香がキッチンからした。薪オーブンから焼きたての自家製小麦で作ったライ麦パンが取り出される。農園で採れた新鮮な野菜と柚子のジャムで朝ご飯。さぁ、今日はなにをやろうか、畑のかぼちゃの手入れでもしようか、それとも山菜取りにでも。午後は菜の花畑でヨガでもやろうか」

一方、昨今流行の「農業で一発起業派」バージョンで走ってみますか。

「イチゴを作ってみたい。しかも加工-販売まで一貫してやりたい」、あるいは「バラの切り花をやりたい。オランダからいい品種を輸入すれば市場は大きいはずだ」、「牛をやりたい。オーストラリアのような品質管理がしっかりした牛肉生産してみたい」

_edited_4 こちらの方の夢は、田舎暮らし派より一見リアルなようですが、詰めて聞くと資金手当て、苗の手当て、保管、デリバリー、市場のリサーチなどほとんどしないままに開始して、多額の金融の圧力で自転車操業を続けている場合も少なくありません。農業経営の実際を予習しないまま、都市の激烈な競争社会より農業のほうが楽だろうくらいな気持で参入しているのです農業を舐めています。後者の「一発起業派」の方は「田舎暮らし派」がせいぜいが夜逃げですむのに対して、下手をすると数千万円単位の大ヤケドを作りかねません。

就農はオーダーメイドの服のようなものです。百人いれば百人のイメージがあるようなものです。だからこそなにをしたいのか、それを現実に手にいれるためにはどうしたらいいのかを真剣に考えて欲しいのです。

たとえば、ライ麦パンを作るためのライ麦の10アール(1反)あたりの収穫量はどのくらいなのか、自給だけではなく売ることは出来ないのか、米と麦は組みあわすことは出来ないのか、そこからの自給分を引いた販売用はどのていどなのか、そしてその収益で家族を養えるのか。

事前に調べられることは多いはずです。都会から農村に通うか、私のような経験者に聞くか、あるいは今は専門の窓口すらあります。ところが大部分の人がそれをしない。感覚的にとらえて、現実を見ようとしない。なぜなんでしょうか?プロの農家が逃げている現代に不思議ではありませんか。そんなことも調べてこない人に農業ができるはずもありません。

就農は夢だけで語っているうちは単なる夢にしかすぎません。だから夢を見たまま飛ばないように。こんな腰つきで「見る前に飛べ」をやったら、確実にあなたは飛んだ結果、谷底に落ちることでしょう。農業は都会人のお花畑でもなければ、経済の草刈り場でもないのですから。夢は経済から崩れていくのです。

■[写真上) 地上7mの納屋の屋根のトタン張りをしているヨーコ女史。このくらいの高さがいちばんコワイのです。

■[写真中) 納屋の柱組みを作業。右がヨーコ女史。腰の釘袋が様になっています。手前に見えるのがU字溝で自作した土台。これを地下80㎝ほどに埋めて、周囲をコンクリートで固めて固定し、その上に柱を乗せます。入植から10年間は、大工仕事とお別れできなませんでした。経費の削減が目的でしたが、やってみるとそれなりに面白いことに気がつきました。最後は自宅まで作るはめに。

■[写真下]まだ小犬の愛犬モモをうんしょ。彼女は中形犬にもかかわらず18歳まで生きた長寿の犬でした。驚くほど賢く、しとやかで優い犬でした。

2009年5月20日 (水)

お帰りなさいと農は待っていてくれる

_edited_4このところ、私のまわりで農業に飛び込む人が激増している。

自分が創業した有機農産物流通のエライさんを退職して北軽井沢で百姓をやるという今井さん。

どうせ市民農園ていどだろうとタカをくくっていたらギッチョン、ドンっと本格的な面積で、そのために西村先生について研修もどきもするそうだ。あいかわらず勉強が好きな人ではある。

顔は「つのだひろ」(知っていますか?あのメリージェーンだよ)のようだが、根はすこぶるつきの繊細な男で、しかもポップだ。若い頃は若松孝二監督の助監督などやっていたそうである。

有機農業界随一の文化人といえばまず彼であろう。文学はあたりまえ、映画を語り始めると、実に長い、詳しい。だから飲んだ時には、彼に映画の話は振らないことにしている。私が新作のハリウッド映画でわ~い、わ~いといっている時にこの男は、それはそれは渋いスペイン映画なんぞをこまめに見ているのである。

とうぜんのこととして理論派で、やったこともないくせに(やーい)有機農業はなんでも知っていて、現役農業者だということだけが唯一の看板の私の先生でもあった。しかし、同じ農業者になっちまえば、こっちのもんよ、と手ぐすねを引いて待っている。

奥さまはお菓子づくりの名手なので、そのために工房も併設するという。私と一緒で、まったくカミさんには頭が上がらないのが親近感を呼ぶ。この数年、彼の優しい神経がズタズタになることばかりだった。 どうせもうかりっこない農業をやるに違いないのだから、ぜひ奥方ともども農のハンモックでゆったりしてほしい。

そうかと言えば、同じ有機流通界に居たこれまた友人の松岡さんも昨年末に帰農してしまった。彼とはもはや腐れ縁といってもいい仲だ。町に住んでいた28の歳からなんやかんやでつきあってきた。美味い酒も泥水も飲んだ。偶然だが、茨城で再会した。

重度障害者の子供と生きて、とうとう帰農という長年の夢をかなえてしまった。まったくたいしたものである。脱帽。ところが、帰農したやいなや、あろうことか自宅が火災になるという悲劇に見舞われてしまったが、タフな男なので乗り越えたようだ。「つくば“風”農場」という素敵な名の農場を興して、今は夏作の準備におおわらわの時期だろう。

山が好きで、多忙の中でも週末には必ず山に登っていた男だ。昆虫と熱帯魚、そして野の花が大好きな少年のような奴だ。特に、悔しいが野草の名が詳しい。歩きながら、路傍の花の名をふと口にしたりする。うちのカミさんとカルトクイズQ野草版でもやったらいい勝負なのではないだろうか。

しかし、野草名はともかく、いちおう本職ヅラしている私より畑に詳しいのは可愛げがなさ過ぎるではないか(くそぉ~)。これから週末アウトドアーズマンから、フルタイム・アウトドアーズマンだ。農の暮らしと土を楽しんでほしい。

_edited_5 そして、これまた、またまた有機流通界で私の担当をしていた和知さんも、帰農するといって、ほんとうに会社を辞めてしまった。ふわーとした可憐な女性で、見たところ農業という野蛮な異世界に来るという雰囲気ではない。

しかし、人は見かけによらないもので、学校は北海道の畜産大学で羊や牛の面倒を見てきた。私など農業の専門教育なんぞとはまったくの無縁だったので、うらやましい。私も漫画「もやしもん」の影響で、農業大学に入りたい。

ついでに暴露すると、彼女の趣味は和太鼓である。あの筋肉系和楽なのだ。ズンドコズンドコ、あの撥を叩く。たよやかな外見にだまされてはいけないと思う今日この頃である(なにしみじみしてんだ)。

で、和知さんはかの有機農業流通の輝く名門「大地を守る会」(←出荷先なのでヨイショ)に数十倍の難関を突破して入社したのに、あっさりと未練なく辞めちゃったのだ。まったく酔狂である。若者なべてお平らに公務員指向のこのご時世の若い人とも思えない。

そのまま会社にいれば、給料もよく有機農業をサポートできるというカッコいいポジションから、軽々とピョンと農業へ飛んでしまったのである。こうなったら私の好きなタイプの酔狂というべきだろう。親御さんはたぶん反対したと思う。しかしあの軽やかさはなんだ。彼女を見ていると、酔って狂わなければ農業になど来れないなどというのは、私たちオールド世代のたわごとなのかと思えてくる。

まぁこのような人たちは、就農というより「帰農」という昨今はやらない言葉のほうがより似合う。「帰農」なんて言葉、昨今の農ギャルのボキャブラリーには単語登録されてないだろう。

しかし同時に、農業をひとつの就職先と思うのは新たな流れだ。否定しようもない流れだ。農業の魅力は今やかつての農的暮らしにのみなくなってきているのは事実だ。ビジネスチャンスと思って来る人もいるだろう。都会の職業に疲れて来る人もいるだろう。色々な人が、雑多な思いで今一挙に農業に流れ込んでこようとしている。

お帰りなさいと農は待っていてくれる。どんな人でも、どんな過去があろうとも、何が目的であろうとも。

私の出来る範囲でアドバイスをしていこうと思う。できるだけ実践的に、雑誌記事のようにきれいごとばかりではなく。リアルに、泥臭く。それが、今農業に入ろうとしている人が鼻垂れだった、あるいは生れてすらいなかった時に農業という異界に入ってしまった私の義務なのかもしれない。

■上の写真は私たち夫婦の最初の家。あの優雅なカーブがヤマギシ式鶏舎の特徴である。この空き部屋を改造して、暮らし始めた。2年も住んでしまった。

■したの写真は手作りの第一世代の私の鶏舎でニンジンの間引き菜をやるカミさん。巨大ホークでうんとこしょ。腰にきます。

2009年5月19日 (火)

サクランボが色づく季節

_edited 沖縄がやや遅れて梅雨に入ったそうです。そして本土が梅雨に入る頃には、もうピーカンの夏が始まっているというわけです。

あ、そうそう沖縄の桜の季節は、2月でしたね。名護城址の石垣の八重桜が、ボテボテと咲いています。なぜか沖縄には桜は似合わない。

うちの農場のサクランボが色づき始めました。もう2週間ほどで食べ頃になるでしょう。この樹は、今でこそわが家の2階に届かんばかりに成長していますが、ほんの30センチほどの苗を植えたものです。

たいした手も入れずに、勝手に成長しています。いや、単に成長しているどころか、この実をついばむ野鳥によって思わぬ所に、彼女の子孫が芽を出して、今や立派なサクランボの樹に伸びていたりします。樹はダテに実を着けているのではないのですな。野鳥も実を食べることで、恩返しをしているんですね。かったるい表現で種子分散共生というそうです。

樹はクローン繁殖をします。自分の形質をそのまま種に遺伝子情報として忠実にコピーし、鳥や風などの手段で繁殖していきます。クローン繁殖なのに、まったく同じにならないのは、置かれた環境が異なるからです。

Photo 上の写真は、わが家の屋外トイレの横のミズナラ(←違うかな。わかった方は教えて下さい)ですが、これも植えた記憶がありません。勝手に飛来して、居すわったあげく、ズンズン大きくなり、今や母屋の屋根を超えるほどの大樹になってしまいました。まったく図々しい奴です。

この屋外トイレを作る時に、ジャマなので、少々枝をかっ飛ばしてやったら、すねて逆の側の枝を大きく伸ばして意趣返しされてしまいました。

この屋外トイレは、下の菜の花畑の鑑賞用を兼ねて作ってもので友人の中村直人さんの設計施行によります。まったく独創的なトイレで、畑に面した側は完全なガラス張りです。2面がガラス張りという、都会で作ったらやや変態チックな建物ですが、うちの農場では畑側には誰もいませんので、女性の方もご安心を。

_edited_2 次の写真でちょっと右側にその問題の屋外トイレのガラス壁が見えます。菜の花畑が満開の4月下旬には何時間でもトイレに居たくなるような素晴らしい眺めです。ウグイスのアリアと、ミツバチの羽音に包まれます。

左の屋根は八角堂です。これも中村直人さんの作品です。モンゴルのパオをイメージした八角形という変わった構造をしています。ここの窓からも菜の花畑が見渡せます。

この3060平方メートルの菜種畑から約280ℓの菜種油が搾油できました。菜種の種子1キロあたりの搾油量は0.6ℓといった実績でした。菜種は栽培自体は簡単ですが、その後の工程がかなり大変な作業となります。油の自給が可能なことが実証されたのはひとつの成果でした。これについてはそのうちじっくりとご報告をいたします。

2009年5月16日 (土)

ブログ仲間のうれしさ・ゆっきんママのリビングと余情半さん劇場

_edited 私の同期生のブログがふたつある。

まずひとつは、「はぐれおいどん余情半」、そして「お野菜を食べよ~ん」のゆっきんママさんのブログだ。

それから一年。同時期にブログを立ち上げたゆっきんママさん、余情半さん、そして私、一年たつとかなり性格がはっきりしてきた。

ゆっきんママさんは、午後のゆったりとした彼女のリビングでの気持のいい友人との語らいの部屋だろう。そこでかもされる温かい会話、家族のことや、畑のこと。空の綺麗だったこと。そして細やかな家庭料理やお菓子。

だから彼女のブログという部屋にくると、私はほっとする。身軽になる。重い上着を脱いでお茶を飲み、会話に加わる。

唯一の心配は、彼女がそのうちカリスマ主婦でブレークしそうなことだ。栗原なんとかさんみたいに。ゆっきんママさん、第一美人だし。今のうちにサインをもらっておこう。

_edited_2 もうひとりの同期生余情半さんは、
たぶん小劇場。

脚本、監督、助演、時に主演までしてしまうようなちいさな個人劇場。
たとえば、アルバムを広げて、懐かしむようにその一頁、一頁をめくる。そこからそのひとが生きてきた道が赤々と照らされる。夫婦のたどった道とか、子供との道とか。あるいは会社との涙と汗の道とか。

私だったらそれを論説にしてしまう(苦笑)。時代の解説をしたり、その小状況を「説明」してしまうだろうと思う。おほん、私はちゃんと自分の欠陥を知っているのであるぞ。

もちろん余情半さんは鋭く分析するのだが、私よりもう少し体温が温かい。

このあたりはもう体質としかいいようがない。もし私が鹿児島で育っていたのなら「議を言うな!」と張り倒されまくっていただろう。亡くなった父親からよく言われた。それは今でも耳にこびりつく。
「弱い者にはやさしくしろ!ダンシはギばいうな。チェストひっ飛べ!


余情半さんの部屋(ブログ)は、小津安二郎のような生活のひだに織り込まれた哀しさや喜び、呻吟する庶民の怒りと共感。
奥さんの箪笥の話は、鼻の奥がツンとなった。古女房をどう話していくのかで、「男」の重さが決まるとすれば、彼は重い。
そしてそれは彼の情の重さなんだろうかと思う。

■「お野菜を食べよーん」http://oyasai-tabeyon.no-blog.jp/

■「はぐれおいどん余情半」http://kantannihasinjinai.blogspot.com/

■追記 え~すいません。ゆっきんママさんのブログは私よりもう一周先の2年めでした。余情半さんご指摘をありがとうごだいます。

2009年5月14日 (木)

専業滅びて、兼業栄える・この奇妙な日本的光景

_edited_2 柿の若葉の緑は独特です。なんとも言えないような透き通った薄い緑色。太陽に透かしてみると、心が日向水のように温まってきます。

さて、昨日自分で書いていて、稲作が兼業農家にとって農業との最後のご縁なのだなということが改めて分かってきました。

私は専業農家だし、25年前に農家になりたくて都会から来たわけですから、兼業に対して理解が及ばない部分がありました。私にとって農業とは、文字通り一から土地を買い、家を建て、鳥小屋を作り、農業機械を揃え、畑や田んぼを野原から作ることだったわけです。自慢話ではなく、それしか知らないのです。

それに対して先祖代々の大きな家を持ち、広い整備された畑や田んぼ、ありとあらゆる農業機械がズラリとあり、後継者ともなろうものなら親から新車とバカでかいトラクターすら買って貰える(←う~ん、だんだんひがみっぽくなってきたぞ)境遇で、農業が出来ないと言うのは、この口か、この口か、くぬくぬと思ってしまいます。

しかし、現に今の村ではそうなのです。グラフがありますので見てみましょう。

_edited_3 先進国で農家戸数が減少する傾向にあることはどの国も一緒です。喜ばしいことではありませんがそれ自体は致し方のないことなのかもしれません。

しかし日本の場合の農家の減少パターンは世界の中で異質中の異質です。1960年代と比べて農業就業人口が4分の1になったのはわかりますね。1196万人から、252万人へ、各種の就業人口の中で、農業の占める割合はわずか4%弱です。

ここまでは悔しいがとりあえずいいとしましょう。問題はその先です。農家戸数は同じく606万戸から、285万戸と約半分にしかなっていません。となると、なんと2006年には、農家戸数が農業就業人口を上回るという椿事が発生してしまいました。

え、農家戸数だろう、問題ないじゃんって。すまんこって、農業統計では「農家戸数」とは農業を専業とする農業者がいない戸数を指すのです。ええい、ややっこしい表現するんじゃなんいよ、まったく!実はかく言う私も初めはなんのこっちゃと思いましたもん。

このグラフで分かることは、今や週末や田植え、稲刈りの時のみ農業をするパートタイム農家、つまり兼業農家(農業所得より他の収入が多い第2種兼業農家)のことですが、パートが本職を上回ってしまったという、なんとも奇妙な農業世界がわが国の農業です。_edited_4

同時に農地もガンガン減少の一途にあります。61年に609万ヘクタールあった農地が、今や463万ヘクタールにまでなっています。当然GDPに占める農業生産の割合も60年代から半世紀でたった1%にまでなってしまいました。これ以上減ると、コンマいくつになってしまいます。嗚呼。

この兼業が異常に増えて、専業を追い抜き、農業全体が衰退していくという構図は、実はわが国独特のものです。他の先進国、たとえば私が敬愛する痛快暴れん坊ジョゼ・ボゼの祖国フランスと比較してみるとわかります。

同じように60年代から農家数は減少する傾向がありながらも、農業生産は伸びています。とうぜんのことですが、パートタイム農家などというコウモリのようなあいまいな存在は極小です。足腰がしっかりとした根性のあるジョゼ・ボゼのような農家が育ったのです。これをして「フランス農業栄光の半世紀」と言うそうです。「日本農業衰退の半世紀」とはえらい違いです。やれやれ。

しかし、普通に考えるとフランスのほうが常識的なのです。もっとも機械化の進んだ稲作においては、手植えがなくなり、機械植え一本となりました。手植えしているのは貧乏な私たちくらいなものです。今時泣きながらクワで耕しているのは入植時の私たち夫婦くらいなもんです。肥料は重い堆肥や厩肥(家畜糞尿)から、金肥、つまり化学肥料に変わりました。今時堆肥をやっているのは貧窮問答歌の私たちくらいです(←ああ、しつこいこと)。

_edited_5 というわけで、単位面積あたりの労働は大幅に軽減されたはずで、通常の国ではより大きな面積を耕作管理していくことになっていきます。

実際、私たちですらもそうで、入植当時は耕作面積わずか30アールだっものが、いまはいちおう2ヘクタールに増大してきています。まぁ、大部分荒らしてますけど(汗)。私たちのようなグータラはさておき、そのような農地の拡大、経営体質の強化にと日本はつながりませんでした。

なぜなら、1970年から始まる減反政策は、減反をベタ均一に集落に割り当てるということをしたからです。ですから皆、チョビッとずつ田んぼを減らしてしまったわけです。デコ山さんはどこそこの谷津田の奥の方、ボコ山さんは水はけの悪くてこまっていた田んぼという具合に捨てていったのです。それでなくても村の中でアッチコッチととっ散らかっている農家の田んぼに、一律減反を強制すればそのようになります。

さて、農水省の中に脈々としてある二派、小農(小規模農家)堅持派と、日本農業の強化を目指す「集中と選択」派の確執がこの減反政策の背後に存在したはずです。

小農派はベタ一律減反をすることで、痛みを分かち合う方針を考えたのだと思います。村と字(あざ)の共同体でそれを背負って、皆んながんばって米価を維持しようや、ってところでしょうか。

一方、「集中と選択」派は、この減反のプロセスをやる中で、必ずふるいにかけられるようにしてダメ農家は田を手放して、それがやる気のある農家か 借りて時間をかけて集約されると考えたのだと思います。

そして、笑えることには両派ともその目論見は破れました。なぜなら農家は田を手放さないで兼業にドーっと走り去っていってしまったからです。小農は食えないので小農のまま真っ先に兼業に走り、一方やる気のある農家は営農意欲を削がれて、これもまた農業から去っていきました。

本来なら、この田んぼのこの部分を1ヘクタール、ここを1ヘクタールと計画的に整理し、それをやる気のある農業者に一括して貸し出すような農政であれば、70年代の終盤には農家体質はそうとうに強化されていたはずです。

_edited_6 しかしそうはならず、一律減反をし、しかも減反の痛み止めとして減反奨励金という飴までつけて!

農家は揃って体質強化には向かわず、減反奨励金の飴を頰張りながら町に働きに出てしまって兼業化まったのです。こんなことをやっていて、しかもクルクルと3年ごとに思いつきのように変化する猫の目農政を半世紀やってしまえば、まぁ日本農業は瀕死状態になって当然すぎるほど当然でしょう。農水省は日本で最低レベルの脳死官庁です。

かくして、今でもまったく状況には変化ないどころか悪化の一途を辿り、とうとう票ほしさに農家の所得補償までしてくれるという民主党の政策まで登場する始末です。今までの自民党農政は、とりあえず生産にかかるコストを助成したものでしたが、民主党は農家の財布にお金を直接入れてくれるのだそうです。ありがたくて涙が出そうです。民主党にとって農家はもはや乞食に見えるようです。農業は福祉分野か、安楽死をさせたいのか、馬鹿にするのもいいかげんにしてほしいと思います。ああいかん、今日は素で怒ってしまった(苦笑)。

このような兼業農家にとって米作こそが農業とをつなぐ最後の絆であることはまちがいありません。減反政策が終了すると同時に、日本の兼業農家は一挙に消滅してしまうことになるでしょう。これをどのように評価するのか、私も今悩んでいるところです。

いずれにせよ、2006年の専業農家数約250万人は、まちがいなく10年後には120万人レベルまで減少してしまいます。これは年齢的に避けられない事態です。この私ですら青年で入植して既に25年、もう中ブルです。昨今、あっちこっちの部品が故障しています(とほほ)。

新規就農者がどんなに増えようと、100万人のオーダーで増加することなどありえない以上、不可避です。それに伴って当然のこととして、耕作放棄地も激増するでしょう。放棄するスピードに新規に耕作する手が追いつかないからです。

たぶん農業は土地の所有と耕作権の分離という時期の前段にあり、好むと好まざるとにかかわらず、農業生産は法人形式に移行していくでしょう。そして小農主義は農業経営ではなく、農的ライフスタイルとして生きつづけると思います。

これから農業の大変革の時代が始まります。今回の農地法改正は、従来農家のみにしか許さなかった農地の売買をそれ以外にも認めました。かくして一般企業の参入が始まります。今はその前夜です。農業を農村の中でしか見てこなかったツケを、私たちは払わされることになるでしょう。

そんな時に、私たちは所得補塡飴などしゃぶっている暇はないのです。

2009年5月13日 (水)

さすが大地を守る会!減反反対をキッチリ言ったぞ!

Img_0040 今日届いた「NEWS大地を守る」6月号(大地を守る会発行)を見ました。かねてから私の持論である「減反は日本農業を腐らせている」という主張とほぼ一緒なのでニコニコしてしまいました。

ここまでちゃんと減反に対してノーというのは、実は農業関係流通では難しいのですよ。ハッキリ言って、農産物の最大の供給元であるJAとの関係がありますから、なかなか言えない。というか減反問題なんてまともに考えている生協や農産物流通なんか皆無だと思っていたんで、大地を守る会のこの主張はとても励みになります。さすがは戎谷さん、冴えてます!

減反問題を正面からとらえようとしないので、今の日本の農業関係流通は農水省の手練手管にまどわされっぱなしです。例えば、減反を死守したいための「水田フル活用」政策なんかですね。減反面積を維持するために開いた水田に飼料用米を作ってみせたり、米粉を広めてみたりとあの手この手です。

理念にはうなずけるものがあるとしても、隠された目的が減反死守ということを見ないので、スゴイ!としか思えないわけです。飼料用米など半額補助金、つまりは減反の財源からでていることに眼つぶっています。だから、税金で竹馬を履かせてもらった畜産自立運動というヘンテコなことになってしまっています。

あるいは、どこの政党も自給率アップを言わぬ日とてないのに、日本の自給率アップとは直接関係のない(米の自給率はMA米なかりせば100%超です)米食推進を強引にむすびつけたりします。自給率アップ゚したければ油糧穀物である大豆、菜種などや、飼料作物の小麦などの生産を上げるしかないのに、です。

_edited さて減反問題。JA、全農こそが減反反対の総本山です。JAはこう言います。減反をすると「米価が下落して、零細農家が潰れる」⇒「米作を維持できなくなって耕作放棄地が増える」⇒「自給率が下がる」⇒「日本の食糧の危機」というのが図式です。これは自民、民主、農水省、ほとんど一致した図式といっていいでしょう。

だからJAは減反という生産制限カルテルを死守して、価格統制を敷かねばならないと言っているわけです。

この主張はそれなりに日本農業の一面の真理であって、確かに今の米作は兼業農家が主力となってしまっています。北海道や大潟村などは例外です。皆だいたい横並びで1ヘクタール~1.5ヘクタールは多いほう、少ない人だとせいぜいが20アールていどをシコシコとやっています。

じゃあこれをして「零細農家」というのかと言えば、実情はちょっと違う。答えはもうお分かりですね、今まで何度もこのブログで触れてきたように、ここで言う「零細農家」とは、その言葉から連想されるような、農地に必死にしがみついて、爪を大地に立てるようにして健気に生きている老農夫ではないのです。

ではなにか?単なる「現住所勤め人、本籍農村」の村の人だというだけです。確かに、現に会ってみれば私などのようなにわか百姓と違って、立派な農家づくりの家に住み、消防団や青年団にも属していて、いやさすがにDNAの農民の血をひしひしと感じますが、実際の職業は勤め人や公務員です。だって、年に1週間も田んぼや畑に出ませんからね。収入もほぼ100%農業外収入です。農業収入は余祿にすぎません。

これで「零細農家」はないでしょう。はっきりと兼業農家と表現すべきなのに国民感情に訴えるためにこの表現をとりつづけています。だから、国民は誤解して、減反を止めると、頑張っている零細のじぃ様、ばぁ様などの小規模農家が潰れてしまうと錯覚しています。これはちょっとないな、と思います。

_edited ところで話は変わるようですが、JAはなんで食べているのかと言えば、米の販売手数料です。そしてもうひとつは、金融、もうひとつおまけに資材売り、と。

あまりJAを刺激したくないのでほどほどにしておきますが、JAをひとつの企業と考えると分かりやすいと思います。JAにも企業利害が明瞭にあることが分かるでしょう。

JAにとっては米の価格低落は、膨大な販売手数料の激減を意味します。同時に、組合員の営農口座の減少となります。これは分かりにくいかもしれませんから,多少説明しますね。村の人は、仮に勤め人となってもJAの営農口座とは縁が切れません。勤め先の振込も、ガス代も、兼業で作っている米やイモなどの農業資材の引き落としも、またその売り上げ代金も一括してJA営農口座一本で済ませられるからメンドーがないわけです。だから減反政策を止めて、米作りから離れたとしたら、JAバンクを使う必要がなくなっちゃいますもんね。

そして、毎月のJA共済も手厚く、孫の手のようにきめ細かく村の人を覆っています。保険、年金、果ては葬式までJA共済はフォローしています。病気になったら病院は各地の協同病院、死んだら墓石もJA。結婚式場もJA、指輪もJA。スーパーもJA。育った伜が後継者になればなったで、相談窓口はJA、機械の更新の補助金の相談もJA。買うのは当然JA。修理はJA。そして子供の誰か、親戚の誰かは必ずJA職員。JAは農村地域最大の雇用者でもあるからです。

ああ、こうして書き上げているだけで村のガイドブックになりそうです。ですから、さきほど書いたJAを「ひとつの企業」として考えるというのは、その意味で正確ではありません。JAとはある意味、農村そのもの、村宇宙を支える巨大な柱のようなものだからです。ここが理解できないと、JAの組織心理はわからないでしょう。JAはある意味、村そのもの。自らが単なる私企業ではなく、それを超越した日本農業と農村の守護神だと信じて疑っていないのですから。

兼業農家を農業にむすびつけているのはただの一点。米作りだけと言っていいでしょう。ですからここが切れると、村人のうちの大多数を占める兼業農家はJAと縁が切れていきかねないのです。それはJAにとって悪夢以外のなにものでもありません。そしてそれを永遠の票田にしていた自民.民主両党の農水族にとっても

_edited_2 JAのことに深入りしすぎました。話を戻しましょう。

「零細農家が潰れる」論にしがみついているかぎり日本農業には先はみえないでしょうそれは今や国民に理解されない村の感覚に他ならないからです。

こう考えたらいいと思います。俵に足がかかった日本農業に必要なことが、つまるところは村の利害なのか、農業そのものの利害なのかです。今まではそれは一致していました。しかしとうにそのような幸福な時代は終わっています。とうに終わっているのに、その形骸にしがみついて、結局経済行為としての米作をダメにしているのが今の日本です。

このことを腑分けするのは大変難しいことです。しかし、今農業内部からやらねば、次に来るのは企業参入自由化の大波の時代なのです。

2009年5月12日 (火)

おみたまプリンから思ったこと

_edited 先日、隣町のYさんが私の農場にやってきました。ワケは、「初卵の卵が300グラムありませんか?」

一瞬、その電話を聞いたカミさんは「「300㌔?よもや300㌘じゃないよね」

いや、正真正銘300グラムで、いくら初卵、つまり生み出したばかりの卵でも50㌘前後はありますから、たった6ヶなわけです。やって来たYさんは照れくさそうに、「そちらのグループに頼むのも恥ずかしかったもので」とニヤニヤ。

この隣村のYさんのグループは、実に面白いことを考えて、しかも実行してしまったという人達です。このYさんとお知り合いになったのは、もうかれこれ7、8年前だったと思いますが、当時彼はO町商工会の青年部のボスだったんです。

うちのグループの事務所に来たO町商工会の青年は実にユニークでした。バルーン(あの気球ですぜ)を趣味で飛ばすは、ハングライダーで筑波山から飛び下りるは、といった野郎共が町興しをすべぇとブンブンなわけです。

O町(現小美玉市)というのは一風変わった町でしてね。まず自衛隊の百里基地がズドンっと町の中心にあり、それ以外は例の「世界一の養鶏企業」であらせられるイセファームの超大型鶏舎群がのたくりまわっているという地域でした。このイセに貸している地主や雇用者で町は成り立っていたわけです。法人税収入、固定資産税共に裕福。おまけに自衛隊の落す各種の補助金で茨城唯一の裕福自治体だと思われていました。

Img_0006 まぁ、うちの村のような貧窮自治体としては、土下座してでも市町村合併したいような土地に思えました。

ところがYさんの話を聞くともなく聞いていると、どうもそんな簡単なこっちゃないんですね。町に活気がぜんぜんなくなっているのです。商店街はガラガラ、人気なし。櫛の歯が抜けたようなシャッター・ストリートってやつです。

自衛隊とイセファームで懐が豊かに見えるのは行政と、そのすそ野に位置する人達だけで、かんじんなネイティブであるはずの地元の農家や商工業者はまったく鳴かず飛ばずだったようです。

これじゃあいかんという思いの連中が、O町商工会の青年部に集まり、おかしなおかしな企画を立てていきます。そのボスがYさんでした。Yさんのおばぁさんは、百里基地反対闘争で存在感を示したY町長です。そしてその孫にとって出来てしまった基地をどのようにして地域になじませるのか、がテーマになったのではないでしょうか。そこで出てくるのが空港共有化です。自衛隊と民間空港をが一緒に使いましょうね、という案です。

そしてもうひとつは、「おみたまプリン」というとんでもない地域興し商品でした。「おみたま」という、なんというヘンテコなネーミングだという名は市町村合併したからですが、これを彼は逆手に使っていこうと思ったようです。

この「おみたまプリン」はちっとも安くありません。ぜんぜん手軽に買えません。たった3ヶのプリンが、たしか7000円だったっけな。間違いなく「日本一高いプリン」です。

ただし、ハンパではない。コリコリに凝っています。凝りすぎているほどです。プリンの原料の大部分を占める卵はわがグループの平飼卵の初生卵という飛び切りのものが使われました。あっそうそう、うちに来たYさんのそもそもの用件は、この初生卵300㌘がほしいということでしたっけ。

プリンの容器には笠間焼の作家もの、収める木箱はなんとかいう木工の名匠。パッケージデザインと総合デザインは、O市在住のなんとかビエンナーレ・デザイナーの超一流。そしてなにより作るのは、麻布一番でパテシエを張った人です。これでまずかったら、ウソだよな~。もはやため息。

_edited_2 と、まぁこのような胸焼けしそうなメンツの合作はそれはそれは美しい木箱に収められ、渋い陶器に入ったすさまじく美味しいプリンでした。

これが当たるかどうか、当のYさん自身に確信があったら不思議です。ハズしたら今までかけた開発費はパーですし、そればかりか地域での信用はがた落ちでしょう。失敗した場合、青年部のこのハッタリぎみの取り組みに親組織はなんていうのか、想像は容易につきます。

ところがギッチョン、これがホームランでした!それも柵外超えの大ホームラン!「おみたまプリン」の取材には全国紙、全国ネットキイ局、県地方紙のすべてが来ました。それどころか、近県のメディアも取材に来ました。8チャンネルなど、デッカイ中継車で安藤優子さんの6時台のニュースに中継したほどです。たかだかといってはなんだが、田舎のプリンをですぜ。

このようにしてYさんたちの町興しは進んでいきました。昨日来たYさんに私は農村との提携を組まないかと話してみました。私たちの農村の直販所という拠点に、地方の商工業者が乗っていければどんどん面白くなります。

地域を興すには「オール地域」が必要です。その地域の農家、農業法人、JA、行政、商工会などなどが絡まってひとつになっていきます。農家、漁師、旅館、商店、不動産屋、味噌屋・・・無数の地域の人々が、楽しく入れて利益を上げられる仕組み、いわば「楽市楽座」が必要なのです。

近隣の人達を含めて、私たちの直販所を大いに活用してほしいと思います。

2009年5月11日 (月)

うりずん、若夏、初夏、キビ刈りの思い出

Img_0003 ゆずの白い花が散って、小さな実がなりはじめました。

こんにちは、昨日はメチャクチャに暑かったですね。もう初夏。沖縄風に言えばウリズンです。ウリズン、若い夏、初夏。

きっとうまく沖縄語を訳せなかったんで「若夏」なんて言ったのかしら。でも若夏も悪くはない語感ですが。

そう言えば、昔は「若夏国体」なんて呼んでましたっけ。今だったら「ウリズン国体」の方がむしろすっきりしてカッコがいいと思うでしょう。

僕はこの時期になると猛烈に沖縄が恋しくなります。理屈じゃありません。心の底で静かに、しかし、あらがいがたく醸されるような熱です。こちらに来い、ここにくればいいと呼ぶような声です。

この季節は沖縄ではキビ刈りが終わってコシユックイの頃でしょうか。コシユックイ、腰ゆっくり、ああご苦労さんだったね、サキグワ(酒)のひとつでも酌み交わして曲がった腰を伸ばそうかね。

049_edited 昔は秋の田んぼの終わりの時でしたが、今は田んぼを沖縄はほとんど作らないので、キビ刈りの終わりなのかな。キビ刈りはそれは重労働なのです。

まず、キビ、サトウキビ、ウチナーグチでウージーがすっくとまっすぐ立ていると思ったら大間違いです。そのような性格のいいキビは半分程度しかありません。特に海岸に近いところで作ったら最後、Sの字です。

台風が東海岸を北上すれば、時計回りに暴風雨が吹きつけます。これでキビはひねて曲がります。そして今度は西海岸から来ようもんなら逆に曲がります。台風が一回で済むならいいのですが、まずない。往復ピンタのように何回も別方向から風速30mで煽られると、キビはなんとSの字になるのです。

これを切り倒すとなるとちょっとコツがいります。傾いだ逆から斧を入れていくのです。斧?そうオノ。キビは何で刈るのかと言えば、斧なのです。ちいさな手斧です。これで地面すれすれにガツっとかっとばします。

そして同じ方向に並べて、あとは頭の部分を切り、茎の部分の葉を落としていきます。これは男衆もしますが、主力は女衆です。炎天下に黙々とした作業です。

050_edited これを大きく一抱えほど束ねて約50キロ、いやもっとあるかな、道端に並べねばなりません。夕方に来る砂糖会社のトラックの荷台に一気にこのキビの束を背負って運びます。

荷台まで渡してある細い戸板にしっかりと足を踏ん張って、食い込むキビの束をヨッコラショと積み重ねていきます。ヤッとか、ソラッ、ヨッコラショ、ドッコイショという労働の掛け声がただあるのではなく、力を一点に振り絞る時に必要な声だとわかりました。

道から遠い畑の束は、えんえんと肩で背負って数十メートル運ばねばなりません。肩に濡れ手拭いをあてても、日没の頃には肩が真っ赤に腫れ上がってしまいます。初めの頃は痛くて夜眠れないほどです。それが面白いことには、キビ刈りの季節の終わりにはしっかりとした筋肉が張り、痛くもなんともなくなるのですから人体とはすごいものです。

夕方5時に村のサイレンが鳴って、こんな一日のキビ刈りを終えると、一風呂浴びたシマ(村)の誰ともなしに皆んなが集まってきます。いつもはアサブシ、ヨルブシ(朝星夜星)でも、なぜかキビ刈りの時だけは勤め人のように5時でお終いです。だって第一製糖のトラックはもう行ちゃいましたしね。ひとりで張り切ってもしかたありませんからね。

056 そして、もうひとつはキビ刈りというのは、本土の田んぼように村の共同体で揃ってやる仕事だからです。ユイマールといって労働の貸し借りを今でもひんぱんにします。

今日はシロタさんの畑、明日はウエバルのオジィのだ、来週月曜日はうちらが助けてもらう番だというように。

また、キビをひとりで刈ってみても、製糖会社のトラックは来ません。工場を動かすに足る量があって、運びに来るに足る量があって来るわけです。となると、とうぜんキビ刈りは村の共同体の仕事になってしまうのです。

さて、長い南洋特有の夕焼けパープルの陽が暮れ、男衆はゆるゆると集まります。手持ちの夕飯の余りのようなゴチソーを持ち寄り、シマザキ(泡盛)を飲みます。やがてほろ酔いともなると、誰かが得意のサンシンを奏で始めます。

恐ろしいことに、沖縄で男がサンシンひとつ弾けないのはブチョホー(不調法)といって死に優る屈辱なのです。男全員が唄えるのはともかくとして、楽器を弾けて踊れるというとんでもない芸能の島なのです、ここは。

負けずともうひとりが奏でて、やがてカチャーシーを踊って、ひとりふたりとへばって泥のように深く眠るのです。そしてまた翌朝からキビとティダ(太陽)との格闘が始まります。

これが僕の初めての百姓の場でした。沖縄のヤンバルといいます。赤土と赤瓦の屋根、紺碧の空、風に揺れる芭蕉の葉・・・ヤンバル、いいとこな。

2009年5月 6日 (水)

街の女性と農村の女性で作れないか、私たちの農村レストラン!

_edited 農村レストランでなやんでいます。うれしい産みの苦しみです。こんな企画段階は後になれば、「あの時がいちばん楽しかった」っていえる時なんですよね。

ズバリのご指摘をいただきましたゆっきんママさん、勇気づけられるコメントを頂戴しましたbianca様、心からありがとうございました!

さて、自分自身にもハッキリさせたいのですが、この農村レストランプランのキモはこじゃれた田園の料理店をもうひとつ作ることにはありません。そんなもん掃いて捨てるほどあるでしょう。雑誌にも毎月でています。ここのところの農業に対する追い風を受けて、今やむしろ流行といっていいくらいです。見ていて、カッコいいなと思いつつも僕の考える農村レストランのイメージとはどこか違うのです。

この間、この直販所プランが始まる前から、意識的に全国の事例をみるともなく見てきました。
仙台の惣菜コーナーが異常な売り上げと聞けば調べてみます。
すると案の定、素敵なおばさんが坐っていました。というか陣頭を飛び回っていました。僕たち男にはなかなかわからないことを教えてもらえます。
レシピを作らない、作るとそれに若いスタッフが縛られてしまうから。
その時の一番安くて美味しい素材を使う。だしはしっかり取る。化学調味料にだけはまかしちゃダメ。あれは援軍、隠し味ていど。
気持は主婦感覚で自分の家族に食べさせるつもりで作る。薄味と濃い味をうまく組み合わせる。年寄りに濃い味やギトギトはきついでしょう。かといって、育ち盛りで汗をかいて走り回る男の子には濃い味や脂っぽさも必要なの。
パックの大きさも、老人2人用の小パック、大人数用の徳用パックなどパックまで細かい気配りがありました。買った家族の中で余らせない、かといって不足しないという気配り。
うちの県の勝田の「協働館なかよし」は前にブログでも書きましたよね。
あそこのリーダーなんて話していてこんな人の下で僕も働いてみたいと思えるような女性でした。今や地域のヘソにまで成長しています。
Img_0002 僕はこの直販所を女性にやってほしいのです。金を借りる、その算段をする、関係諸方面に頭を下げる、建物を作る、直販所として野菜を集める、そんなところまでは僕たち男ができます。しかし、そこから先は女性が仕切り、内容を詰め込んでほしいのです。
男はそのための後ろ楯、ガード、用心棒なんでもします。ただし、リーダーでもグループ中心でもありません。男はうまく立てておきゃいいのです。
さきほども言いましたが、農村レストランという範疇は今や珍しくもなんともないジャンルで、いくつも事例があります。だいたいが街から来た男のシェフか、ペンション風の夫婦でやっています。
でもそうじゃなくて、女性、しかも都会の女性と農村の女性と共同、協働できないかと、やはり僕は街から来て村に根を張った人間として夢見るのです。
誤解を恐れずにいえば、都会の女性のすぐれた感性で、農村を引っ張っていくことができるのではないかということなのです。
農村の女性にはまだまだ縛りが多い。やれどこそこの嫁、やれ誰の親戚。風呂の順番、祭の準備、冠婚葬祭。ぜんぶ女性がモクモクと、しかし陽気に背負っています。しかし新しいことに自分たちからチャレンジする風にはなっていません。
ほんとうはすごく強いのに、いざとなると亭主に言わせる、出るとバァ様に「そたらとこに嫁がしゃしゃりでるな」とイヤミを言われる。なんせ農村は3世代同居なんてあたりまえですからねぇ。
そんな村のしがらみを一回とっぱらってほしいのです。ですから、別に農村の女性といきなり協働する義理はありません。もっと言えば、あえて気をつかう必要すらもありません。この湖の村の風景と食材、そして僕たちのグループを背景にあなたたちの腕をぞんぶんにふるって下さい。
そのほうが、農村のオカアちゃんも面白がります。今うちの村にもケーキを作るグループや、美しい絵のような海苔巻き(なんていったっけ)を作る女性達などはいます。しかし、いずれも農作業のない日曜日にしかできないか、農閑期にしかできない状態で、残念なことに趣味で終わっています。
それは都市の女性もだと言われるかもしれませんが、僕からみればぜんぜん違う。都市の女性は農村とは世界に生きています。いい意味でも、悪い意味でもこれが日本という国の「根っこ」である農の村、農村なのです。
ですから農村のお母らゃんだけでは、いきなり今の村で新しい農村レストランを作るのは無理だと思います。
_edited_4 かと言って、いうまでもなく街の女性に無責任に丸投げにする気はありません。僕たちの企画の基本線は提示できます。また財政的な共同などの裏打ちは得意です。むしろそれを先に言うと、本来的な女性起業にならないと危惧しているだけでのことです。起業は自分の足で立つ自律性が大事ですから。
僕の望むことはひとつです。魂を吹き込んでほしい!この未完な有機農業の地域のヘソを女性の感性で丸々と包んでほしいということなのです。その中の新しいエンジンが、直販所あり、農村レストランなのです。
僕の大好きなブログであるゆっきんママさんのような繊細で心のこもったおもしなしがこの農村レストランでできたらと夢想しています。
それも街と村の女性によって!
■ゆっきんママさんのブログ
「お野菜を食べよん」http://oyasai-tabeyon.no-blog.jp/
■写真いちばん下は今盛りの藤の花の滝。

2009年5月 4日 (月)

私は今日、キヨシローという最良の同時代人を失った

_edited_2  抜けるような青空だ。魂が吸い込まれていくような透明な空だ。

キヨシローが死んだ。私と同じ歳だった。そして、私とほぼ同じ時期に病んでいた。

放射線治療を拒否して、玄米菜食でガンとつきあっているという風の便りを聞いた時も、やっぱり奴らしいやととてもうれしかった。一抹の不安は確かにあったが。

彼の愛車チャリ「オレンジ号」を作ったフレームビルダー松永さんの店で、私もチャリを買った。彼の話をその松永さんから聞いた。沖縄へのコンサートツアーにも彼は空港まで、チャリをこいでくるのだという。そして沖縄でもそう。ツアー会場に行くと、「ボス!」と呼ぶスタッフが待っていて、天啓を受けたミュージシャンになる。コンサートが終わると、またチャリに乗って帰る。

この愛車オレンジ号でどこまでも行った。いい脚をしていた。きっとどこに行ったら楽しいのか、わくわくするのかという嗅覚がワンコロのように発達していたのだろう。だから、愛車が盗難にあった時にはうろたえた。めったに私生活を露出しないのに、この時ばかりは素のクリハラ君となってあらゆるチャンネルで「返してくれ」と訴えていた。

そうだ、かつて10代の最後の歳だったか、今はもうない山野ホールというショボイ会場で、RCサクセッションを聞いた時が初めだったっけ。「エレキが買えなくって。バンド名はある日作成しようです」とつまらない冗談を飛ばしながら、仲井戸と二人だけのアコースティクギターでガンガンに弾きまくっていて、弦が弾け飛んだ。彼は20、私は19だった。

当時まだメークアップはしていなかったし、エレキでもなかったがかんぜんにロックンロールだった。ロックはエレクトリックでやればロックなわけではない。私は長い間彼のことをポップス、現代日本が奇跡のように生んだ最高のポップスだと思っていたが、彼自身の認識は違ったようだ。彼は自分のことをブルースマンだと思っていた。

何回かRCのコンサートには行った。最後はこの茨城でのものだった。ラッパや女性ボーカルまで入った大編成で、まるでローリングサンダーレビューの頃のディランのようだった。そのバッキングを従えて、というよりそのバカデッカイ音の空間で、童子のように楽しげに舞台で遊んでいた。やはり私から見れば、ブルースマンじゃない(笑)。

ある時は演歌の坂本冬美とセッションを組み、ある時はなんとヘルメットにトラメガという懐かしき70年アンポルックで反原発の放送禁止歌を歌った。ただし政治的には無色透明だったはずだ。彼には右も左もない。ついでに立ても横もない。彼のアンテナでヤバイと思ったものに素直に、そして敏感に、笑えないジョークで応えたんだろう。

_edited_3 彼の武道館での完全復活コンサートに行きそこなったが、心から祝福した。そうか、治ったんだね、よかった。声が出るんだ、やっぱり声帯を切らなくてよかったね、と思った。

言葉がうまく出ない。医者はあのコンサートが寿命を縮めたというだろう。そうなのかもしれない。初期に外科手術をしていたら助かっていたという人もいる。

そうなのかもしれない。しかし、そう言う人は彼がロックンローラーであることを忘れている。外科手術で切り刻まれ、抗ガン剤で虚ろになり延命チューブに繫がれることを拒否した。

彼は玄米と野菜とチャリ、そして音楽で闘った。いや闘ったというのは正確ではない。ガンと一緒に生きて、奴をも仲間に引っ張りこんで、この透明な5月の空へと旅立ったのだ。「愛しているぜ、ベイビー!」と他の奴が言ったら照れるようなことを叫びながら。

2009年5月 2日 (土)

コメの競争は安ければいいだけではない

_edited またまた、名無しのコメントさんからコメントをいただきました。

もらうのはうれしいのですが、もう少しなんつうのかなぁ、キチンと農業を見て話ませんか。あなたの言うのは今回もこんなかんじなんです。

[以下引用]

でもその減反も結局は生産者つまり農家の為だよね。
生産者がガチで競争して、コメの値段が下がれば、消費者(少なくとも俺は)喜ぶよ。

[引用終了]

コメ以外の農産物にほとんど関税がゼロ、平均3%。日本の農産物の1割の関税が他の国に例を見ないほど高く、一方9割はないに等しい、という私のデーターに納得されましたか?前回まではピーナッツやコンニャクなどという枝葉末節というと作っている人には申し訳ないが(成田のテツちゃん許せ!君の茹で南京豆は最高だ!)コメと比較したら、まぁ傍流の農産物をさも大事のように言ってましたが、今度はとうとう「コメの値段」一本になりましたね。

少し分かってきたのかでしょうか。日本の農産物は関税なんかで守られちゃいないんです。その味の良さと作りの良さ、そして国産であることの安心感という「国産プレミアム」という自分自身の力で守っているのです。その部分を抜かして、コメの超高関税を一事が万事と言わんばかりの、なにも調べてこないで「国産は自由化されていないから高い」などと書き散らす経済評論家諸氏に、私は心底腹を立てているいるのです。野ツボにはまって、嫌気性発酵してしまえ!

さて、減反が「農家のためでしょう」とスラっと名無しコメント氏は言いますが、さてそうなんですかね。あなた、私の記事ぜんぜん読んでないでしょう。読んでいたら、兼業農家が今や米作りの大勢になりつつあること、そのような兼業農家、いわばパートタイム農家の利害のために減反という生産制限トラストが作られていることも書いたはずです。

簡単に「農家」てひとくくりにできるほど、日本の農業構造は簡単じゃないんですぜ。一年に1週間も畑や田んぼに出ない人まで、「農家」でカウントしているのが、今の日本なのです。その問題は長くなるので、別稿にしますが、それを理解しないで「農家のためでしょう」って安直に言われましてもねぇ、私ら主業農家(専業農家)は困りますよ。

じゃぁ、減反を止めたら名無しコメント氏が言うように安くなるのかといえば、さてどうでしょうかね。普通の自由競争ははじまるでしょう。しかし、競争=安くなるという現象になるかどうかは分かりませんよ。一時は確かに60キロ1万円を切ると予想されています。農水省は「半値になる」とまでのシミュレーションを出して煽っています(「日本農業新聞」4月23日)。

_edited 私はそんな簡単なことにはならないと思っています。競争は単純な安値化ではないからです。価格競争は他の産地を潰すか、自分が潰れるかのチキンレースです。本来の競争は、価格だけではなく、その質と価格による相関関係だからです。

今ですら既に質による大きな価格差がでてきています。コメがうまくないと揶揄されているわが茨城でも筑波山麓などでは地域ブランド化がうまくいっていますし、強制ガス乾燥によらない天日干し米、さらには私の友人たちなどが努力しているアイガモ農法のコメなどは目を見張るほど美味しいわけです。

美味しい、そして安全である。さらには、コメの美味しさの源である里山の湧き水の清浄さ、つまりは地域の水や土などの環境の素晴らしさをトータルに評価されていく「競争」でなければなりません。競争は価格だけではないのです。質や安全性、さらには環境との関わりまで含めてあるのです。

ですから私は、自由競争が価格の低落につながるとだけは思っていません。むしろ価格の分化がすすむと思っています。皆がお国の音頭のもとに減反という生産制限カルテルで価格統制をするのは、完全な間違いですが、かといって安価のみを狙った競争もまたメダルの裏面でしかありません。

「そんなこと関係ないや、ただひたすら安ければいいのさ」と言うならタイ米の古米でも食べてたらいかがでしょうか。なんだったら、MA米のシャリで寿司をお食べになったら?それはそれは安いですよ。

あ、い、いかん今日は農仕事が山積みなんだ!書いてる暇はない、ひぇ~!では、またゆっくりと、農業談義をしましょうぞ。

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