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2009年5月28日 (木)

賢治と莞爾

Img_0644 ある旧友の手紙で、友の息子が石原莞爾に関心をもっていることを知りました。そしてその息子によると石原莞爾と宮沢賢治が入っていたという「秘密結社」があるとのことでした。
ひさしぶりに賢治と、莞爾のことを考えてしまいました。
ここでいう賢治も莞爾も入っていた秘密結社とは国柱会のことです。別に秘密結社じゃありません(笑)。立憲養正会という政党をもっていて衆議院にも議席がありました。法華経を基にした社会運動体で、まぁ区分すれば日蓮宗系土俗仏教型右翼とでもいうことになりますが、そのような区分けは私にはあまり関心がありません。でも、おどろいたことに、確か今でもその流れは現存します。
賢治は、ある意味、複雑怪奇な人です。国柱会は彼が上京していた20代の前半に入って、死ぬ間際の有名な永訣の手帳のメモにも法華経を配って欲しいと書き残しているくらいですから、その意味では筋金入りです。
しかし、作品面にはまったくといっていいほどその影響はありません。これが賢治の面白いところで、作品だけ読んでいると賢治は当時流行のトルストイ主義者、白樺派、あるいはコスモポリタリズムのようなかんじがします。今風にいえば大流行のエコ(←猫もシャクシもで、やや食傷ぎみ)。
「銀河鉄道の夜」など、そうですねたとえば、中欧の作家が書いて賢治がどこかでそれを知って訳したと言われればそうかと思います。しかし彼の芯にはこんな土俗的な彩りの法華経的農本主義があったのですから、人というのは面白いもんです。
一方、莞爾は彼の軌跡自体が、あの戦争に転がり込むことと同義語で、かえって彼の人となり、思想なりを分離することが難しい部分があります。賢治は生前は無名のまま葬られましたが、莞爾は日本を、というか世界史の大きなターニングポイントを動かしています。
しかも彼がトリッキーな手段で作った彼一個の作品とでもいうべき満州帝国は、複雑な国際政治の中で王道楽土たりえず、日中戦争の火種となり、そしてあの大戦争へと発展していきました。その中で彼が考えていた凡亜細亜主義、すべてのアジア人が白人帝国主義を押し退け、自由で平等でたおやかに生きるという理想はズタズタになっていきました。
「大東亜戦争」の理念部分、つまり八紘一宇などを作ったのが莞爾なのです。そしてそれをあの戦争を理念もクソもあったもんじゃないものに仕立て上げたのが、彼を退役に追い込んだ軍事官僚の東条秀樹でした。
ちなみに莞爾は退役に追い込まれた後も権力者・東条を「上等兵」と堂々と呼んでいたそうです。上等兵なみの国家観しかないのに、一国の舵を握ったことに対することに対する強烈な皮肉です。
そして、東条は権力志向のある能吏であったが故に、その時点に権力中枢に居合わせ、無能が故に日本を地獄に落としてしまったのです。
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賢治と莞爾。同時代に生き、まったく異なった社会的な生きかたをしました。一方は名もない農民作家として、一方は帝国陸軍作戦部長として。
賢治は病弱な身体で畑仕事をし、貧しい教え子に「稲が君の胸の高さになったら、このような肥料を上げなさい」と教えます。「今日からぎしぎしとなる手を持つ」と決意します。(「春と修羅第3集」)
当時の農村に西洋風のチェロとバイオリンの文化を持ち込もうとしました。もちろん農民は見向きもしませんでした。
結局、賢治は農民にはなれませんでした。彼の晩年は、酸性の土地に苦労していた農民に、いかに安価に石灰を届けられるかで費やされました。くたびれきった身体で彼はあえて会社員となり、石灰を配り始めます。そのことは賢治の身体をいため続けました。
「雨にも負けず」という絶唱は、「なりたい」であって、「である」ではないのです。とうてい農を通じた悟りになどに至れない自らをうたった哀しくも美しい詩です。
賢治は幸運にもあの大戦を知らずに死にます。
莞爾は戦後まで生き延びました。たぶん不本意だったことでしょう。自らが楽土と信じた満州帝国が、日本を泥沼の日中戦争に引き込む原因となり、それがあの大戦の引き金となってしまったのですから。
彼は自分を極東軍事裁判に呼べと叫びました。そこで彼は自らが信じる大東亜戦争の本義を世界に向かって叫ぶつもりだったのでしょう。あの大戦の「義」は彼以外に万全に語れる者はいなかったはずです。彼は表現者でもなく、政治家ですらもなく、テロリストの如き研ぎ澄まされた精神を持つ実行者だったのですから。
しかし彼は死に場所を与えられることなく、イデオローグであるはずの大川周明すら痴呆のまねをして責任を回避する中、かつての仇敵東条秀樹はその責任を引き受けて絞首刑になりました。天皇の能吏は無能ではあったが、誠実だったのです。
その後の莞爾は多くの旧軍人が自衛隊に職を求める中、それに背を向け庄内の西山農場でかつての同志と農作業を続け、そして農民として死にました。
莞爾の最後の政治的発言は変化しました。戦前の主張である被抑圧人種あるアジア人種と植民地でのさばる白人種との間の最終戦争である日米の戦争ではなく、日本は身を挺して、米ソ間の最終戦争を阻止すべきだとしました。日本が生んだ最高の軍事戦略家にどのような心境の変化があったのか窺い知れません。
賢治と莞爾。このふたりは法華経というところから始まり、農で己の人生を閉じます。国柱会で交差した賢治と莞爾は、ここに完結したのではないでしょうか。そこに不思議な縁を感じます。

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