私は今日、キヨシローという最良の同時代人を失った
キヨシローが死んだ。私と同じ歳だった。そして、私とほぼ同じ時期に病んでいた。
放射線治療を拒否して、玄米菜食でガンとつきあっているという風の便りを聞いた時も、やっぱり奴らしいやととてもうれしかった。一抹の不安は確かにあったが。
彼の愛車チャリ「オレンジ号」を作ったフレームビルダー松永さんの店で、私もチャリを買った。彼の話をその松永さんから聞いた。沖縄へのコンサートツアーにも彼は空港まで、チャリをこいでくるのだという。そして沖縄でもそう。ツアー会場に行くと、「ボス!」と呼ぶスタッフが待っていて、天啓を受けたミュージシャンになる。コンサートが終わると、またチャリに乗って帰る。
この愛車オレンジ号でどこまでも行った。いい脚をしていた。きっとどこに行ったら楽しいのか、わくわくするのかという嗅覚がワンコロのように発達していたのだろう。だから、愛車が盗難にあった時にはうろたえた。めったに私生活を露出しないのに、この時ばかりは素のクリハラ君となってあらゆるチャンネルで「返してくれ」と訴えていた。
そうだ、かつて10代の最後の歳だったか、今はもうない山野ホールというショボイ会場で、RCサクセッションを聞いた時が初めだったっけ。「エレキが買えなくって。バンド名はある日作成しようです」とつまらない冗談を飛ばしながら、仲井戸と二人だけのアコースティクギターでガンガンに弾きまくっていて、弦が弾け飛んだ。彼は20、私は19だった。
当時まだメークアップはしていなかったし、エレキでもなかったがかんぜんにロックンロールだった。ロックはエレクトリックでやればロックなわけではない。私は長い間彼のことをポップス、現代日本が奇跡のように生んだ最高のポップスだと思っていたが、彼自身の認識は違ったようだ。彼は自分のことをブルースマンだと思っていた。
何回かRCのコンサートには行った。最後はこの茨城でのものだった。ラッパや女性ボーカルまで入った大編成で、まるでローリングサンダーレビューの頃のディランのようだった。そのバッキングを従えて、というよりそのバカデッカイ音の空間で、童子のように楽しげに舞台で遊んでいた。やはり私から見れば、ブルースマンじゃない(笑)。
ある時は演歌の坂本冬美とセッションを組み、ある時はなんとヘルメットにトラメガという懐かしき70年アンポルックで反原発の放送禁止歌を歌った。ただし政治的には無色透明だったはずだ。彼には右も左もない。ついでに立ても横もない。彼のアンテナでヤバイと思ったものに素直に、そして敏感に、笑えないジョークで応えたんだろう。
彼の武道館での完全復活コンサートに行きそこなったが、心から祝福した。そうか、治ったんだね、よかった。声が出るんだ、やっぱり声帯を切らなくてよかったね、と思った。
言葉がうまく出ない。医者はあのコンサートが寿命を縮めたというだろう。そうなのかもしれない。初期に外科手術をしていたら助かっていたという人もいる。
そうなのかもしれない。しかし、そう言う人は彼がロックンローラーであることを忘れている。外科手術で切り刻まれ、抗ガン剤で虚ろになり延命チューブに繫がれることを拒否した。
彼は玄米と野菜とチャリ、そして音楽で闘った。いや闘ったというのは正確ではない。ガンと一緒に生きて、奴をも仲間に引っ張りこんで、この透明な5月の空へと旅立ったのだ。「愛しているぜ、ベイビー!」と他の奴が言ったら照れるようなことを叫びながら。
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コメント
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きれいな画像が撮れるものですね。キヨシローさんの分まで生きましょう。私は夏とみなみが好きです。こんな青空があるからです。みなみへ行くには気分はよくとも体力的にはストレスです。「今より若いときはありません」、養生をして行きましょう。
投稿: 余情 半 | 2009年5月 6日 (水) 09時21分