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2009年6月

2009年6月30日 (火)

うちの市にも有機農業推進協議会が出来たけど・・・第2回 なんと事業計画案、予算案がないとは・・・!

Img_0003 かっと照りつける夏の日差しがたちまち終わって、またじっとりとした梅雨空です。

さて、ほんとうは朗報としてお伝えしたかったわが市の有機農業推進協議会の発足ですが、不透明な曇り空のような始まりとなってしまいました。

私は協議会の発足総会の議事資料を読んだ時に、なんともいいようのない不可思議な感覚に襲われました。通常の総会に必須の要件が少なくとも3ツあります。椅子、テーブル、弁当です(←わけないって)。

え~気を取り直して、当年度の人事案、事業計画案、予算案です。つまり、誰が責任をもった執行体制を作り、どのような事業計画を策定し、そのためにどのような財政予算を組むのか、という三本の柱です。これがないと総会議事になりません。ただ集まって、「では、はぁヨイショ、ご承認を」というしゃんしゃん大会となってしまいます。

_edited_2ところが、この協議会で配布された議事資料にはこの3つがすべて抜け落ちていたのです。いや、正確には人事だけは予め決めてありました。3人の役員のうち、代表呼びかけ人が代表、その家族が会計責任者となり、監査(監事と記載)はJA関係者でした。

社長が親父さん、その家族が会計というような人事は、よく同族の有限会社ではあるケースです。これが私企業ならなんの問題もありません。

しかし、ことが有機農業推進協議会というような、行政や地元の各種同業団体が絡んで作る公的団体で、代表の家族が会計責任者という人事は、絶対にありえません。財政は金の流れの統括責任者です。それを身内で固めれば、どのような金の恣意的使途も可能になってしまうからです。

しかし、ここでもうひとつ私は疑問が湧きました。そもそも予算案がないのです!まさか、と思って何回見ても、ない。予算案がない団体というのは手足がないのと一緒です。金がなければ、なにも出来ないわけです。県の推進フォーラムは、会費が集まるまでの半年間、準備期間までいれると丸々1年間、すべて役員の弁当自弁でした。私たちのように、全部代表呼びかけ人が自弁でするということなのでしょうか?

更に、びっくり仰天したことにはなんとまぁ、肝心要の事業計画案自体が見あたらないのです!確かに抽象的な総論は規約文にうたってありますが、当年度の事業計画自体がないのです。これではいったい何をしたい組織なのか、今後一年何をするのか、さっぱりわかりません。

いくらなんでもこれはひどい。事業計画がなく、従って予算案が存在せず、しかもその会計の責任者が代表呼びかけ人の家族、そして地域の有機農業者はほとんどいない、となると・・・私の中になんとも苦い疑問が姿を現してきました。

(続く)

2009年6月29日 (月)

うちの市にも有機農業推進協議会が出来たけど・・・

_edited 何日か更新が途絶えました。と言っても体調は良好ですのでご安心を。むしろ余情半さん、大丈夫ですか。とても心配です。皆さん素敵な大庶民の余情半さんに励ましのコメントをお入れ下さい。

■「はくれおいどん余情半」http://kantannihasinjinai.blogspot.com/

さて、ニホンミツバチの布団蒸しの最終話でしたが、ちょっと後回しにして、別のことを。

先週末にうちの市でも有機農業推進協議会というものが出来ました。外部からは、私が絶対に黒幕(笑)だと思われるかもしれませんが、実のところ、私はまったく立ち上げには関与していません。設立総会の2日前に出席を要請されたのですが、行って少々たまげました。

県や市の行政のお歴々、地元JAの幹部、都市の有機流通の代表、中島紀一教授、石岡市有機農業推進協議会などが顔を並べてそれは壮観ですが、かんじんの有機農業者が片手ほどしかいません。居ても呼びかけ代表者の家族と所属する生産者といったところで、部外者の農家は私ともうひとりのアイガモ農法の生産者2人だけでした。

_edited_2 ご存じかどうか分かりませんが、わが地域は、関東全域の中でも最古の有機農業の生産地のひとつです。ほぼ30年前からこの行方(なめがた)台地では有機農業が開始されており、生産量も関東では図抜けて多いという、まぁ有機の里なのです。生産者も大変に多く、たぶん数えたことはありませんが、有機栽培と減農薬栽培の並行生産まで入れれば30軒を楽に超えるだろうと思われます。

とうぜん、有機農業を掲げる団体数も多く、私が知るだけでもひい、ふう、みい・・・5つ以上ありますね。出荷額もトータルで億単位となるでしょう。その中のひとつの団体のI氏が、今回の「なめがた有機農業推進協議会」を立ち上げました。そして他の団体は座敷の外だったというわけです。

言うまでもなく、私としても創設したこと自体に異義があるはずがありません。大賛成です。私の持論も県や国単位での大きな運動ではなく、地域に根を持った地場の有機農業運動の横の繫がりづくりです。ですから、県の有機農業推進フォーラムを作りました。

しかし、行く前にかすかにあった違和感は設立総会当日の議事の中でむくむくと大きく育っていくこととなってしまいました。

というところで、次回もこの話題を続けます。

■写真上 わが愛犬のタロー、ジローの小犬時代。見分けがつかないのです。ラブラドリーレトリバーの雑種で、実に気のいい元気犬です。

■写真下 凶暴無比のヤクザ山羊であった故無法松氏。ともかく凶暴で、私以外に何人もその鋭い角でやられました。しかし、その凶悪な一生も、食あたりで最後に。

2009年6月25日 (木)

対決! オオスズメバチ VS ミツバチ フェロモン暗合戦

_edited

昨日、初生雛が入ってきました。この時期の入雛は実は気が楽なのです。なにせ温度が高い。通常、雛には20度以上の加温を加えます。ちょうど母鶏のお腹の下にぬくぬくと抱かれている温度です。また湿度も必要で、あまり乾燥するとよくありません。

このような母鶏のお腹の下でゆったりと保護されているような状態を、約2週間ほど保ちます。冬場の入雛は気が気ではありません。この地も氷点下になるので、温度管理に失敗すると雛にストレスをかけてしまって強い雛に育ちません。また台風の時期など風雨が育雛をしている部屋に吹き込み、雛を痛めつけてしまった失敗もありました。

この初夏の季節、低温もないし、台風も来ません。私たちは気が楽に雛を育てることができます。さぁ、これから約半年、この子たちの子育てが続きます。

さて、スズメバチ・ターミネーター軍になすすべもなくバタバタと倒れるミツバチ抵抗軍(え~、よせばいいのに「ターミネーター4」見ちゃいました。おまけで60点)、ミツバチに抵抗する術はないのかぁぁぁ!というところまででしたね。

実は世界広しといえど、たった一例だけそれがあるのです。在来種のニホンミツバチです。故吉良さんと、この研究の先駆者である玉川大学の小野正人さんの研究を合わせてお話しましょう。

小野先生のいる玉川大学というのは変わった大学でしてね、たぶん日本で唯一のミツバチ研究施設を持っています。農学部、数あれど養蜂と蜂研究に特化した研究施設はかなり珍しいはずです。

_edited_2

それはさておき、ニホンミツバチはどうやってあの自然界 のギャング軍団から巣を守るのでしょうか。それが「布団蒸し殺法」なのです。

オオスズメバチはワルの仲間特有の賢い頭脳を持っています。社会性生物特有の情報の伝達、作戦などに巧みです。ただ一匹でがむしゃらにカチコミ(一口豆知識・ヤー様用語で襲撃のこと)することはありません。

ですから、情報伝達のためのマーク・フェロモンを出して仲間を呼び集めます。この警戒伝達フェロモンは3ツの化学物質でできていて、一種の暗号のようになっているのだそうです。いくつかのフェロモンが組合わさった時に、「♪おおい、ここにオイシイ獲物があるでぇ」というえげつない信号に変わります。フェロモン物質が一種類だと、誤情報になる可能性が高く、そのつど間違った出撃となるので、わざわざ3種類を重ねて配合しているという入念さはさすがです。

ちなみに、このマーク・フェロモンは人も嗅げます。化粧品のいい匂いがかなりそれに近いそうで、自然界でこのオオスズメバチ・襲撃暗号の香りをプンプンさせていると、知らないうちに誤情報を発してしまうことになります。よく山をハイキングする女性が刺されたりする原因のひとつには、この化粧品のフェロモン物質があります。異性ではなく、オオスズメバチを呼んではシャレになりませんので、ご注意を。

では、守備側のニホンミツバチはと言うと、なんとこのマーク・フェロモンの暗号を傍受しているんですね。巣の側には常時,警戒のためのガード・ミツバチがパトロール飛行していますが、彼女は巣の側でオオスズメバチがマーク・フェロモンを出すと、それを解析して群に警戒を発します。

そしてニホンミツバチは、襲ってくるオオスズメバチ・ターミネーター軍を巧妙に待ちかまえるのでありました。♪音楽高まる!

(続く)

■写真上は、蜂蜜を採取する遠心分離機を回す故吉良さん。師匠のおかげでたくさんの蜂蜜が絞れました。

■写真下は、養蜂の巣箱。箱の前についているのがスズメバチ防御のためのトラップ。これを入り口に着けていると、オオスズメバチは一匹ずつしか巣に突入できません。

2009年6月23日 (火)

対決!オオスズメバチ VS ミツバチ

_edited_2 故吉良さんのご指導で 蜜蜂を飼ってみました。今年もまた養蜂に挑戦したいと思っていたところ、なんと言うことか、吉良さんがこの5月に急逝されました。

エネルギッシュにして軽妙、そしてなんともいえない温もりのある氏の突然の訃報に私は声も出ませんでした。氏からもっと教わりたかった。心からご冥福をお祈り申し上げます。氏とはたったひと夏のはかない師弟関係となってしまいましたが、沢山の楽しい話を教えて頂きました。

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そのひとつに、吉良さんが笑いながら話してくれた「ニホンミツバチの布団蒸殺法」という話があります。ミツバチの天敵は言うまでもなく、あのオオスズメバチです。歌舞伎町か池袋の裏町あたりでブイブイいわしてそうな見るからに危ない蜂です。あのオレンジ色と黒の趣味の悪いヤンキー風シャツ(警戒色といいますが)を着こみ、刺されると人間さえ危ない。

_edited_3

上の写真の中心でセイヨウミツバチが寄ってたかって闘っている巨大な蜂がこの自然界のギャング・オオスズメバチです。実は、この写真のフレームの外には、巣を守るために散ったミツバチ戦士の死骸が沢山散らばっています。

オオスズメバチにとってミツバチの巣ほど美味しい餌場はありません。オオスズメバチはミツバチの巣を発見すると、まず周囲の樹などにマークフェロモンという誘導物質をなすりつけます。

このマークフェロモンがプ~ンと揮発して、「オーイ、ここにオイシイ獲物がぎょうさんあるでぇ」(←なぜか河内弁がなじむ)と仲間を呼び集めるわけです。仲間が3匹あつまると、おもむろにミツバチの巣の襲撃にかかります。自然界でのミツバチの巣は樹の祠や草むらにありますから、当然ガードする門扉のようなものはありません(巣箱の場合はあります)。たちどころに巨大なオオスズメバチはガード役のミツバチを大きくて鋭い顎でかみ殺し、抵抗するミツバチを片端からかみ殺しながら巣の中に侵入していきます。

続々とオオスズメバチのターミネーター軍は数を増し、数十匹にも達するそうです。残念ながら、この時点で勝負はついてしまっています。わずか2時間で4万匹ものミツバチが全滅したこともあるといいます。圧倒的なパワーの差、なんとも凄まじい破壊力です。まるでターミネーターと人間の抵抗軍の戦いのようです。

こうしてミツバチを全滅させた後に、オオスズメバチたちはミツバチが営々と蓄えた蜂蜜や幼虫とサナギを根こそぎ自分たちの巣に持ち帰り、飲めや歌えの大宴会を開くのだそうです。まことにむかつく奴らです。

ではミツバチがなすすべがまったくないのかというと、そうでない例がひとつだけあります。ニホンミツバチは彼女たちしかない方法で凶悪なオオスズメバチから巣を守っていることが分かってきました。それが「ニホンミツバチの布団蒸し殺法」です。

(続く)

2009年6月22日 (月)

今が盛りの蜜蜂の採取飛行

_edited  蜜蜂が吻(ふん)を突き出して、ブルーセイジの花房に接近しようとしています。ホバリングという空中停止の状態を保つためにすさまじい回数の羽根の振動をしています。

蜜蜂はこの状態でしっかりと採取すべき密や花粉を精密にターゲッティングしているはずです。

この状態は実は鳥やスズメバチにもっとも襲われやすい姿勢で、うかうかしていると空中で捕殺されてしまう危険な態勢です。彼女は一刻もこのホバリングをおわらせて安全な花房の中に隠れて採取の仕事にいそしみたいはずです。

あ、よくホモサピの♂は自分を卑下したように「俺らはただのハタラキバチだ」なんてぬかしていますが、ハタラキバチは皆♀です。お間違いないように。蜜蜂の世界にも♂は少数いますが、まったく労働も、巣の守りにもつかずひたすら飲んで喰うだけのヤカバラ。女王蜂に生殖活動をしたあとは、お役御免となり、巣の外に蹴落とされてくたばってしまいます。気楽というか、物哀しいというか・・・。

さて、次の写真で蜜蜂は狙いすまして花房に飛び込みました。

_edited_2

やがて花房にすこしだけ羽根が覗かせるように身体を花房の中に没して採集に没頭し始めます。三昧の世界でしょうね。花粉の場合は、両足にしっかりと吸着させて、重そうに飛行している姿が見られます。

蜜蜂の採取活動、露の合間をぬって続けられています。冬の間の長い窮乏生活から解放されて、どこか蜜蜂もうれしげです。ホモサピの蜜蜂不足の悩みなど知らぬ気にいまが盛りです。

2009年6月21日 (日)

もうひとつ続 農地法改正 株式会社=悪玉の時代は終わった

_edited せめて農業が自らの中に体力があるうちにこそ、農地法改正は有効だったでしょうに、と私はため息が出ます。受け皿としての農家に体力と展望があるうちならば、農地法改正をすることによる異業種や新規就農者といった輸血手術で立ち直ることもできたでしょう。異業種との効果的なコラボレーションもありえたでしょう。

この農地法改正は10年遅かったと私が言うのはそのためです。せめて1900年代に新農基法の改訂と同時に改正されていたのならば、まったく違った可能性を呼び込むことになったはずです。

仮に農地法改正反対派での人達が唱えるように、異業種が農業に参入することで産業廃棄物の捨て場にされる恐れがあるとか、事業をやめてしまった場合に農地に空白ができるとかいった問題は、今までの農地法下でも日常茶飯の出来事だったことは農業委員会自身が一番よく知っているはずです。そしてそのような違法行為を働いていたのがほかならぬ農家自身だったのです。このような反対意見は、単に株式会社=悪という図式を煽っているにすぎません。

Img_0002 このようなことは、それを監視する農業委員会が今までどおりしっかりと監視活動をしていけばいいだけの話で、むしろ地元の利害や感情が入り組む農家相手より、異業種のほうが言いやすいのではないでしょうか。

第一、参入するのは企業ばかりではなく、かつての私のような新規就農希望者も大勢いることを忘れて貰っては困ります。新規就農希望者にとって農地が取得できなかったために、かつての私のように条件の悪い山林原野に入植したり、借りることすらできない人も多いのです。新規就農者を鉦と太鼓で呼び集めておきながら、農地は農地法があるから売れない、お前らは原野に行けはないでしょう!

この農地法改正論議で忘れ去られている新規就農者にとっては、農地法の改正は歓迎すべきことです。私たちの時代にはなかったことですが、今後都市の就農希望者が1円株式会社という形態で農業参入することもありえる時代になってきました。時代は変わったのです。株式会社=悪者で断じられる時代は終わったのです。

むしろ私が真に心配するのは、今や農家が自ら民主党に所得補償金を寄越せと言うような状況、つまり、農家自身が農業は自立した産業ではなく福祉の分野だと言い始めているような中での改正は、一挙に異業種による農業部門の支配へと変わる可能性があることです。これについては別稿にしますが、農業ほど経済行為として可能性がある事業分野は少ないからです。今の農業の衰退は、むしろ農家と農政内部の問題によるもので、農業そのものは沃野であり続けているのです。

(もう終わりにしなくちゃな、でもまだ書きたらないな)

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なぜ、日本農業は大規模化できなかったのか?4回シリーズ

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2009年6月20日 (土)

続々々 農地法改正 10年遅かった輸血手術

Img_0009 戦後すぐの昭和27年(1952年)に制定された農地法は、小規模農家(小農)の権利を保護する目的で作られたそうです。戦前の地主制度の復活を許さないという強い意志がこの法律には込められています。時代的な意味はあったといえるでしょう。

確かにその時代に農業に新規に参入しようという物好きな人や企業などは考えられもしなかったのは確かです。なにせ国民の6割が農民で、不況だといえば故郷に帰って百姓でもするかという時代です。

それが半世紀の間に大きく状況が変化していく中で、かんじんの守るべき小農は老化と兼業化が進み、街へと働きにでていくパートタイム農家に変身してしまいました。後継者も極小の状況があたりまえになってしまいました。農業は今の形のままではもう5年後には自動的に消滅してしまいます。

_edited_2ここまで追い込まれて初めて農水省は重い腰を上げたのでした。なるほど、現実には農地法を軸に作られた法律がまるで迷宮のように入り組んでいて、これらをひとつひとつを改訂することが至難だったと農水省関係者は言っているようです。また、農地法を扱う責任部署が、地域行政なのか、農業委員会なのかといったいかにも日本的な地域行政の曖昧さも指摘されています。

しかし、そのようなことを勘案しても笑うべき農水省の因循姑息ぶりです。農家の高齢化問題などは、突然生じた問題ではなかったはずです。小学生が考えても、10年前に2010年代には農家平均年齢が60歳を超えるということなど分りきっていたはずです。ならば、農家平均年齢が50歳を超えないまでに、その対策を考えておくべきが農水省の仕事のはずではなかったのでしょうか。

(続く)

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なぜ、日本農業は大規模化できなかったのか?4回シリーズ

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■参考

農地法改正反対アピールhttp://www.jcp.or.jp/akahata/aik09/2009-05-12/2009051205_01_1.html

■「ありんくりん」は読みたいんだけど、なんせ長くってねぇ~という野生のトキ様などのご意見をお聞きします。すまんこって。いちおう農業系オピニオンプログなもんでどうしても長くなっちゃうんです。そこで、できるだけ読みやすくするために、本来は同じタイトルで書いたものも、今回ていどの長さで切って文載することにしようかと思っております。すると今度はシリーズ回数が増えることになりますが、ごかんべんを。

2009年6月19日 (金)

続 農地法改正 排外的法律としての農地法

Img_0014_3農業をしたいか否か、企業が若者会社であるか否かなど、 もちろんそんな言い訳に農地の番人である農業委員会が耳を貸すはずもありません。

ここでぶち当たったのが、わが業界では有名なかの「農地法3条」です。これには農業資格というのが、しちめんどくさくネチネチと事細かく書いてあり、要するに「農業をしたい!」、「農業をしたいから土地を買いたい」では駄目で、耕作者資格なるものを得る必要があったのです。

今ですと私は図々しく、パパはなんでも知っている(←古いっす)という顔をしていますが、当時農業をやるのに「資格」がいるとは思わないですよ!初めこれを聞いた時には、ひょっとして農業者という仕事は、国家資格で「一級農業士」てなものを取得しなければならないと真剣に悩みました。

しかし呆れることには、農業を余所から来てするにはその「資格」が事実上あったのです。耕作者資格は、50アール以上の実績がないと、土地は買えません。では借りればいい?とんでもない!農村に来たよそ者に土地を貸すものなどいるはずもありません。

_editedこれも後に知ったのですが、農地法下の土地貸借においては圧倒的に借り手が強いのです。いったん合法的に借りてしまえば地主は返せと言いにくい法律だったわけです。仮にこの街から迷い込んだ奇妙人どもに貸してしまって、めちゃくちゃにされておかしなビルのひとつでも建てられたひには目も当てられない、といったところです。

となると、街から来た農家志願者の立場にすれば、まずは50アールなどという耕作者資格のハードルを超えられるはずもく、かといってヨソモノには貸してくれるはずもないという二重苦ではじき返されます。土地が借りれない、買えないではそもそも農業などできるはずもないのは猫でもわかりますもんね。

農地法とは、このように極めて排外的な法律でした。ありていに言えば、農業の外から来る人たちをブロックすることが目的の法律だったといっていいでしょう。今でこそ農家の老齢化によって新規就農者ウエルカムですが、ほんの10年前までの現状とはこんなものだったのです。事実上、農業を既存の農家以外にやらせないための法律が農地法です。もはや悪法と呼んでかまわないとすら私は思っています。

農地法は村の入り口で私たちにこう叫んでいました。「農業は昔からの農家のものだ。街から来て農業をしたいなどと言っても信じないぞ。とっとと街へ帰れ!」、と。つまり農業の閉鎖的な体質を法律的に裏付けていたのが、この農地法だと言ってよいのです。

(続く)

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2009年6月18日 (木)

農地法改正 街から農業をしに来たと言っても信じなかった法律・農地法

Img_0032 農地法が改正されました。まぁ、もうかれこれ5、6年以上前から内容の原案は出ていましたから、逆に「お、まだ改訂されてなかったのかい」というのが本音です。ですから、村うちでも別に取り立ててなんという反応もありません。

今回の農地法の改正については各紙が報じていますから、細部についてはお読み下さい。要するに、「企業の参入がゆるやかになった」ということです。あとは、参入企業に耕作者がいること、農地転用がかえって規制強化になったようなことが歯止め的な条項としてついています。

さてそうですね、もう27、8年前にもなりますか、沖縄から帰っての百姓修業時代に玉造農場というところに2年間ばかりお世話になったことがありました。ここは街の帰農したいという若者が必ず立ち寄る農場でした。それはまさにネットワークそのもので、インターネットもない時代に、芽生えたばかりの農の拠点を頼りに多くの若者が旅をし、農作業や祭に加わっていきました。ひとつの場所で宿をやっかいになり、翌日にしっかり農作業すると次の行くべき場所を教えられました。

当時、私たちはそれを社会システムからひからびたプラグを抜いて旅する旅人のための「光のネットワーク」、あるいは「ヤポネシア・ハイウエイ」とよんでいました。

また成田空港にも近かったためにインド帰りでリハリビ滞在する奴とか、外国から来るヒッピー(私たちはフリークと呼んでいましたが)の人達の日本最初の宿としてもかなり有名だったようです。農場の便所Img_0031 の中から出てきたのがゲーリー・シュナイダーだっりしたような農場でした。こんな話をし出すときりがありません。そのうちゆっくりと。

玉造農場は街の有機流通会社というもおこがましい、その原型のようなJACという会社(*現ポラン広場系の元祖のそのまた元祖)が出資したものでしたが、その時に行政ともめました。なんでか?なんと「企業は農地を取得できない」のです。

ゲ、です。お百姓になりたくて農村に来た若者はショックでした。おいおい、企業ったって三井物産じゃないぜ、しょぼい若者のビンボー企業だ、なんせポケットに千円もないフリークがやってんだぜ(ため息)、農業が好きな連中で作った会社なんだよ(涙)!その仲間が農業しに行ってなにが悪いんだ(怒り)。なぜ街の人間や会社には土地が買えないんだよォォ!(エコーつきの悲鳴)

そうです。新たな農家を作らせない法律、それが農地法だったのです。

(続く)

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●なぜ、日本農業は大規模化できなかったのか?4回シリーズhttp://arinkurin.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/post_4dc5.html

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2009年6月17日 (水)

人の手を離れた竹の反乱 その2 耕作放棄地は竹藪だらけという実態

Img_0004 竹は、今やかならずしも歓迎されない存在に転落してしまいました。資材は工業製品に変わり、タケノコすら中国からの輸入品が通年出回るようになりました。かくして人の手を離れた竹は暴走を始めます。下の写真をご覧ください。これはわが地域の耕作放棄地の調査の折りに撮影したものですが、畑の向こうには竹林が見えますね。

056_3 そこの地主さんに聞くと、あそこは元は傾斜地の畑だったそうで、使い勝手が悪いのでほったらかしにしておいたところ、みるみるうちに竹に侵攻されてしまったそうです。このような畑は随所に見られます。今回の耕作放棄地調査でも明らかになりましたが、放棄地の大部分は今や竹(特にマダケ)と、シノダケで覆われています。

森林が切り開かれて太陽光が地上まで充分に差し込むようになった土地に、真っ先に竹やシノが群落化していきます。本来は照葉樹に遷移していく初期の段階なのでしょうが、人の手が入らないために竹群落ばかりがはびこる結果となってしまいました。

063 左写真の右上を見て下さい。木の下に一面に笹竹が見えます。これが今言った通称シノダケ、学名アズマネザサです。竹亜科の中でも笹に属する植物です。これもたちが悪い。関東では猛威をふるっています。

わが農場も初期の頃はごたぶんにもれず、こやつとの戦いで苦戦を強いられて、それでなくても狭いわが農場がシノダケでぐんぐん狭まるという苦境に追い込まれたことがありました。

作りかけの母屋などシノダケに覆われて、どこが作業現場か分からないことすらあったのですからシャレになりません。夏の間暑さにめげて作業をしなかったらシノダケに覆われて、土台などはたちまち藪の中のアンコール遺跡のように。角形UFOの着陸跡などと言われるとほほの始末。

もう地上部を刈る、スコップで根をほじるといった手作業ではどうにもならず、最後はブルドーザーを借りて来て地下十数㎝まで削って、バリバリと根絶させねばなりませんでした。こうなるともう土木作業です。

それでも尚、残ったシノダケの根の残党からひょこひょこと芽が出て来るのですからしぶとい。まぁ、そのていどならかっとばせばいいのですが。と、まぁこのように竹と人間は、勝ったり負けたり、はたまた利用したりして暮らしているわけです。

しかし、考えてみれば本来は「闘う」必要などなかったのです。大いにヒトにとっても利用価値があったフレンドリー・プラントの竹を、モンスタープラントに変えてしまったのは他ならぬ私たちヒトなのですから。農業の衰退はこのようなところにも顔を出しているようです。

■写真はヒルガオの花粉採取に余念がない在来種のニホンミツバチ。仕事中にふと目にしてカメラを向けましたが、あまりに没頭していてまったく人など知らぬ気。いいのか、まるっきり無防備だぜ。

2009年6月16日 (火)

人の手を離れた竹の反乱 その1 迷惑な雨後のタケノコ

Img_0007_2 雨後のタケノコとはよくいったもので、この間の長雨で見る見るうちにニョキニョキと生えたのがタケノコです。

一度高速撮影でもしてみたいもんです。まさに目の前でグイグイと生えてくるといったかんじ。まことに迷惑なヤカバラです。

竹という植物はまさに凡モンスーン気候を代表する植物で、東南アジアから中国南部、琉球弧、日本列島は北海道を除く全国どこに行っても油断をすると竹、また竹、イネ科タケ亜科に覆い尽くされることとなります。この竹軍団を雅びだと思っているのは最初のうちだけ、やがて連中のスーパーパワーに驚愕することになります。

沖縄のヤンバルで見た廃屋など、わずかな床板の隙間から竹が入り込み、一挙に腐った畳の各所にブスズスと竹が貫通するというシュールな眺めをみることが出来ます。♪テントの中でも月見ができるぅ~じゃなくて、家の中でも竹見ができるぅ~です。

竹という奴はですな、地下茎で繁殖するのですよ。ですから地上部だけ切っても痛くもかゆくもない。すぐに別な場所に頭を出します。クヌクヌと思ってシャベルで根をほじくり出しても、たった数節の根が地中に残っていただけで、芽が生えてそこから再生してしまうのです。ちょっとしたモンスタープラント。敵ながら天晴れというべきでしょう。

_edited_3 いや、かならずしも「敵」ではなく、長年アジアやアフリカ(アフリカ中部まで生息域)の人達はこれを細工してザルやヘラ、楊枝、釣り具、魚籠(びく)、竹箒などの道具にしたり、よく乾かして柱や桁などに利用してきました。昔の農家の粗壁は構造材として竹筋を編んで塗り込めてあります。独特のしなりと強靱さがうってつけだったわけです。また、スダレや竹の垣根にも用いました。農家の防風林にも利用されてきました。このように、竹にはかつて百を超える用途があったはずです。

もちろん春のタケノコはアジアを代表する食材でもあります。さらには炭にして竹炭にしますし、その製造過程でできる木酢酸は害虫の防除に描かすことのできない農業資材ともなります。

ところが、今の農村ではこれらの竹を用いた工芸がほとんど死滅してしまいました。かつては冬の間の重要な仕事だった竹細工は今やごく一部で残っているのみです。農家は竹を冬の間に刈り、竹林に手を入れることを放棄してしまいました。

よく写真などで見る京都の竹林は長い歳月をかけて手入れされ、間伐されて、ときには堆肥すら入れられて出来上がった「飼い馴らされた竹林」なのです。

(続く)

■写真上は、咲き始めた石榴のつぼみ。下は農場の竹林から侵攻してくるマダケのタケノコ。

2009年6月15日 (月)

メダカと田んぼの豊かな関係 完結 メダカが好む田んぼを作ってやると不思議にうまくいく

_edited_3 おかしなことを聞くようですが、米の「原料」とはなんでしょうか?土と水と苗です。単純だが永遠の真理です。いい土、いい水、いい苗があれば、陽気さえ普通ならまずはずしっこありません。では、いい水と土はどんな顔をしていますか?簡単にみわける方法は、「風景」を観察することです。

日だまりの田んぼの中でミジンコがクルクルと円を描くように泳ぎ、それをとろうとメダカが小学校の生徒のように列をなし、メダカをめあてに来たシラサギやツバメが華麗に舞う。アカトンボの幼虫のヤゴを食べるクモが朝露に美しい輪を描く、このような景色があれば、そこの土や水は健全だといえます。きっと、その田んぼからは秋には輝くような良い米が収穫できることでしょう。

私は小さなイトミミズがこの田んぼの底土の下にたくさんいることを知っています。それらが毎日微細なトンネルを掘り、土の中に空気の穴や水の穴を無数に掘っていることを知っています。これが稲の根を気持ちよく育てる秘密になっているのです。そしてこのような土はイトミミズの糞によって非常に豊かな微生物をもつようになります。

Img_0050_edited そしてこのイトミミズのエサはプランクトンで、それは藻類のサヤミドロなどから生まれてきます。サヤミドロは微生物相が豊かな土壌にしか発生してきません。ね、これで一回転したのがわかりましたか、車輪のようでしょう。これを私たち有機農業者は循環と呼ぶのです。

この循環がどこかで切れたり、パイプがふさがると、たちどころに生き物が減り、病虫害が多発したりするようになります。すると、対処療法のステロイド剤でアトピーを抑えるようにして農薬が必要なわけです。 人間の農業がしょせんどこまでいっても反自然であるのは(有機農業ですらそうです)、自然界という精密な仕組みの中でヒトのために自然界ではありえない単一種を大量に作るという行為そのものが、自然の摂理に反した行ないだからです。そのいわば罰として、私たちは病虫害や凶作に遭遇し、痛めつけられ泣きます。

だからせめてみずからの「罪」を自覚して、この大きな自然という宇宙の均衡を崩すことを最小にしようと願っているのです。私はクリスチャンではないのですが、もしお望みならこれを「原罪」と呼んでもいいでしょう。

_edited_4              たしかにメダカを増やすために農業をしているわけではないのかもしれません。しかし、メダカが好む田んぼを作ってやると不思議にうまくいくことがわかってきました。メダカの好きなサヤミドロ、サヤミドロの発生する土壌、土壌を豊かにするイトミミズ、イトミミズを食べにくる昆虫類や鳥類。これらによって微妙なバランスを作っている小宇宙がこの田んぼです。

ほんとうに素晴らしいものはすべて美しい 形をしています。日本人の田んぼがそうです。山懐から裳裾のように流れる田んぼの連なり、ひとつひとつの川に寄り添うように耕された田、水をたたえたた青空を写す田、夏の緑に燃え立つ田、そして黄金の原の田、そのひとつひとつに小宇宙が宿っており、多くの生き物の依代でした。この環を転がしながら、私たちは生きていこうと思います。

(完)

2009年6月13日 (土)

減反見直しは露と消えるのか? 減反攻防の最終局面来たる

_edited_6ダカの最終回をお話しようと思ったのですが、こちらを先にすることにします。減反、またの名を米の生産調整を巡る攻防が最終局面に入りつつあります。

選挙を目前に控えて、いっせいに全農JA、自民党農水族の包囲網が固められました。

前後の状況を簡単にご説明します。石破農水大臣は独走と言われながらも果敢な減反見直しを唱えてきました。今までこのようなことを言った農水大臣は現れませんでした。私は、農家のやる気と意欲を削ぎ落し、補助金にすがる淀んだ農政の流れに抗して、突き進む石破氏に期待していました。

氏は、「いろいろな角度から減反政策について見直す。タブーを設けず、あらゆることが可能性として排除されない」(2008年12月28日TVでの発言)と述べるなど、各種の媒体を通して消費者に直接減反の見直しを訴えてきました。麻生総理が石破氏を農水省に据えた人事そのものが、減反という日本農業の宿痾を段階的に断つという意志があると見られていました。

農水大臣は実になり手が多いのです。農水族にとって農水大臣になるのはいわば農水族出世ゲームの上がり、これで一生農業利権と終身議員の地位は安泰だからです。大臣となってからでも、官僚の作るペーパーを読むだけでいい。余計なことをして追いだされるのは大臣のほうです。不祥事の温床となるのもむべなるかな。このようなおいしいポジションに連綿としがみつく農水族ではなく、自民党総裁選挙で唯一人、減反見直しを唱えた石破氏を当てるということ自体、官邸の意志を感じさせるものでした。

_edited_2 農水省入りした石破氏がまず着手したことは、2008年末、MA米不祥事の責任を取らせる形で当時の農水省官房長官ら幹部職員を更迭したことです。この官房長官は総合食料局長当時に、減反を強化したことで名をはせている官僚でした。この減反墨守の古株を切り、同時にMA事故米処理を受けて農水省内に10人の改革チームを発足させました。そしてこれに農水省内の課長クラスの農政改革派を当てました。

これは立場こそ違いますが、民主党がかねがね言っている「霞が関に民主党議員を送り込んで改革する」ということの先鞭をつけたものだと言ってもいいかもしれません。石破氏は見かけとしゃべりかたのオタッキーさとは違って(失礼)、明確な理念と戦略を持っているかに見えました。

予想されたように、この石破農政改革は、各方面からの大きな反発と重圧を受けることになります。その最大のものは、今年春からの全農JAを挙げての「生産調整を守れ!」という大キャペーンでした。JA準機関紙である「日本農業新聞」は、もういいかげん読み手もあきるだろうというくらい延々と1面トップに減反見直し反対記事を載せ続けています。そしてJAにネジを巻かれるようにして、自民、民主両党の農水族議員は石破氏の減反見直し政策に大声で異義を唱え始めました。

Img_0026ところで、民主党は、他の政策分野は知りませんが、農政に関してはほとんど自民党の政策と変わりありません。いやむしろ、本家自民党農水族よりいっそう旧来の農政にしがみついている印象すら受けます。

それはこの減反というリトマス試験紙に浸してみれば分かります。民主党はかつての記事でも書きましたが、元来は減反に明瞭に反対していました。しかしいつのまにやら、謎の方針転換を行ってしまいました。

2007年の参院選に「農家所得補償」政策という花咲ジジイ的大盤振る舞い選挙マニュフェストで大勝するやいなや、一転して2008年6月には減反見直し方針を完全に捨て去ります。

私はこの陰に、当時民主党内で隠然たる勢力になっていた小沢一郎氏の影を見ます。氏こそ一人区、つまりは農村選挙区での田中角栄型必勝法を民主党に伝授した張本人だと私はにらんでいます。

農村の過半数を占める兼業農家を押さえることによって、その利害の代弁者JAを民主党支持に向けさせることでした。兼業農家にとって、減反を見直すことが、大減収につながると脅かし(*この減反見直し=農家減収が正しいか否かについての検証は稿を改めます)、石破農政改革に対して叛旗を翻させ、一挙に農村票を自民党から引き剥がすというのが、小沢氏の目論見ではなかったのかと私は考えています。

理念もクソもありません。あるのはただ選挙リアリズム。新鮮味皆無。因循姑息。思考停止。票田第一、利権第一。日本のリベラルは小沢一郎氏のような人を大立者に据えねば勝利できなかったツケをやがて支払うことになるでしょう。

Img_0025 まぁそれは置くとして、この方針は着々と完了しています。まず、同じ穴のムジナである自民党農水族が悲鳴を上げました。彼らは「石破などにこのまま農政をやらせたら、衆院選で大敗する!」という悲鳴を上げ出しました。もちろん、彼らが農村選挙区に帰る週末の度に、しっかりと各地域のJAに「石破を支持し、減反見直しなどに同調すれば、次の選挙で必ず落す」と釘を刺されたことはいうまでもありません。

かくして減反見直し包囲網の環は閉じつつあります。石破氏は減反見直しを選択制にするとトーンダウンし、その選択制すら今や風前の灯火状態まで追い込まれています。その最大の原因はなんでしょうか?

JA?農水省?農水族?いえいえ、消費者という名の国民です。国民が農業をどうするのか、今までのように減反を巨額の税金、つまりは消費者負担のまままかない、パートタイム農家である兼業農家に任せたままでいいのかという問いに反応しなかったからです。消費者の無関心、それが最大の原因なのです。

■関連旧記事 「減反・この日本農業の宿痾」3回連載

第1回http://arinkurin.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/post-5126.html

第2回http://arinkurin.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/2-134a.html

第3回http://arinkurin.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/post-c80d.html

■写真1枚めは満々と水を湛えた田植え前の一時。2枚めは出穂した米の花。3枚め、4枚めは花が着き始めた煙草の花です。煙草のうすもも色の花は実に可憐です。

2009年6月12日 (金)

メダカと田んぼの豊かな関係 その3 家庭用メダカの学校の作り方

_edited 家庭用メダカの学校の作り方

そういえば、見学した時に若い女の先生に小学校のビオトープではメダカが増えないんですよぉって質問された時のことを思い出しました。こりゃ難しい。いちおうマニュアルどおりに浮水植物などが浮いてはいるのですが、サヤミドロなどの藻類がまったくないのです。

藻類がないとメダカは出ない

「先生、藻類がなけりゃプランクトンは出てきませんよ。プランクトンやミジンコ類がなけりゃメダカはいきられませんから」って教えたら、ヘ~、藻ですか、でも汚いじゃないかしら、だって。

さっきもお話しましたが、水槽ではほとんどメダカは繁殖できません。そこで家庭用メダカの学校の作り方をお教えしましょう。この方法は不耕起栽培の先駆者である岩沢信夫先生の方法です。

①大きな発泡スチロールの箱(30㌢×50㌢×20㌢)をスーパーの裏から頂戴してきます。夜に忍び込むとワクワクしますが、もらってきたほうが無難です。

②次に、その中にバケツ一杯ほどの普通の園芸用腐葉土を入れます。買うのがイヤだったら庭の土、できたら立樹の下の落ち葉が枯れたあたりの土がいいですね。これを突き硬めて、この上に有機栽培の田んぼの土をひとつかみハラリとかけます。

③一株稲の切り株を真ん中に植えて、稲藁の刻んだものを散らします。そして田んぼの神様に、どうか可愛いメダカを与えたまえとお祈りをして下さい。

④水深が5㌢になるていどに水を入れます。ただ、この場合、消毒剤を消すために汲み置きしてね。米のとぎ汁を大さじ1じゃなかった1ℓくらい多少水でうめて入れて下さい。さぁ、これでほんとうの田んぼと理屈は同じになってきました。

⑤ここにできたら有機栽培の稲の苗を二本ていど植えます。

⑥近所の、できたら県をこえない場所からメダカを連れてきます。ヒメダカは鑑賞用なので、ビオトープとしてはやめたほうがいいでしょう。また他の地域のものもできたらパス。ビオトープというのは固有の地域の固有種で作らないと本当の意味がありません。

(続く)

■写真 アイガモの雛の兄弟が田んぼを泳いでいます。

2009年6月11日 (木)

メダカと田んぼの豊かな関係 その2 生命回廊としての田んぼ

_edited 逃げ場としての田んぼが必要

この近年、ブルーギルやブラックバスの在来種への被害が新聞の紙面にも登場します。この両名は私の住む北浦の湖にも霞ヶ浦にもわんさかといます。

ブラックバスなどもう百年も前から住んでいるようなわが世の春を謳歌しています。まったく悪食な魚で、強力な顎でワシワシとばかりにシラウオ、ワカサギなどの在来種や放流した稚魚を食べまくります。ブラックバスと並ぶ、というか今や外来魚第一位のアメリカナマズなどは、さらにタチが悪いことには、身体が平べったいでしょう。そのペタンコのお腹を利用して、在来魚の営巣、産卵、子育ての場である湖岸の浅瀬にまで乗り込んで食いまくります。

ぜひ、わが北浦にブラックバス釣りにいらした節には、キャッチ&リリースなどという西洋人風の偽善をせずに、絶対持って帰ってお食べ下さい。真水に漬けて泥抜きをすれば、私も何度か食べていますが、まんざらでもない味ですよ。軽く塩コショウし、オリーブ油でソテーするとなかなか。

第一リリースされた魚は、口の中を鋭い釣り針で裂かれ、時に逃げようとして全身を傷つけている場合が往々にしてあるのです。そこから傷が膿み、感染症に罹り、それを水中の他の生きものに感染拡大していく原因となります。もちろん、「自由になった」はずの魚も助かりません。

Img_0017 さて、メダカは小川や池などと田んぼを行き来しています。川や池でブルーギルなどの獰猛な大型の魚に追いかけられると、シュワッチと田んぼに逃げ込んできていたわけです。

田んぼは浅い水なので絶好の避難場所を提供していたわけです。しかし、これが用水路と田んぼの段差があって逃げられなくなり滅びつつあるわけなのです。

今の日本の基盤整備事業をかけられた田んぼは、ため池とポンプ場があって、そこからパイプラインで田んぼに水を供給する仕組みになっています。これは一斉に行われ、各戸の農家の自由にはなりません。昔からあった水利権をより画一的に近代化したものです。それに加わっていない農家は、各自小川や用水路、時には川から直にポンプで水を引いています。

従来、田んぼにあったなだらかな緩斜面の魚道である水路が消えました。パイプラインだと、直接に田んぼの隅にパイプのコックがあります。排水のための水路はありますが、水を溜める時期には締め切ってあります。

Img_0005 このように現代の田んぼは、外部の生態系と仕切られてしまいました。このことが、外部の環境と田んぼ、田んぼと田んぼを結びつけていた様々な糸を断ち切ってしまいました。

「生命回廊」の駅としての田んぼ

私はヒトにはなかなか見えないこのような生きものの往還のルートを、「生命回廊」と名付けています。森と田んぼの淵をつなぐ蛇の道、田んぼの淵と稲の茎を結ぶカエルやミズスマシの道、稲の茎と穂のあたりを繫ぐクモの道、そしてそれを空から旋回して狙うサギやタカの空の道、森の中に縦横にあるタヌキやウサギの道。

このような生命回廊が互いに交わり、集中し、また散らばっていくポイントが、水の湧き出る小川であり、田んぼだったのです。

このようにして、田んぼと湖水を往還していたメダカやドジョウ、小鮒、ウナギなどの「田の魚」たちにとっていっそう住みにくい世になっていったわけでした。

(続く)

■写真上 谷津の有機の田んぼ風景。地形に沿って田んぼが拡がっていることがわかります。左右には水路があり、湧き水も豊富です。左右の森が、雨水を溜め、浄化し、腐葉土によってミネラル豊かな水を田んぼに供給しています。たぶん平坦な場所の田んぼより美味しい米ができるはずです。ただ、難点は作業性と日照の悪さです。

■写真下  ♪お籠に摘んだは~幻か~の桑の実と、白い花は咲き始めたばかりのホオズキの花です。  

2009年6月10日 (水)

メダカと田んぼの豊かな関係 その1メダカとは「田んぼの魚」の意味

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メダカの学名は「田んぼの魚」という

梅雨が始まりました。雨がありがたい季節です。日本の気候はこの梅雨と台風で年間の降雨量の大部分を得ています。

曇天の下、田んぼが緑の絨毯になろうとしています。NPOアサザ基金の活動で、霞ヶ浦の周りの小学校には多くのビオトープが作られています。私の村の小学校のものも見せて頂いたことがあります。

とてもよく管理されていて、子供が楽しんで水環境を学べる様子がわかりました。でもちょっとヘンなところもありましたっけ。ビオトープで泳いでいるメダカはオレンジ色だったのです。ありゃヒメダカじゃあないのでしょうか。

現に、今この有機栽培の田んぼでチョコマカと泳いでいるちっこい奴らは、やや透明感のあるグレーががった黒です。実は、学校で飼っているヒメダカは養殖種で、鑑賞用に作られた品種だったのです。

1999年に環境省が作ったレッドデーターブック(絶滅危惧種Ⅱ)にメダカが載って大騒ぎになりました。よもやこんな身近な生き物まで全滅に瀕しているとは思ってもいなかったからです。お百姓もたまげました。メガタの学名はモノの本によると「オリジアス・ラティペス」というそうです。このオリジアスというのはラテン語でイネ(学名オリザ・サティバ)のことなので、要するに「田んぼの魚」ということらしいです。そのくらい田んぼとは縁が深い生き物でした。

やっとわかってきたメダカの習性

お恥ずかしい話しですが、このお話している私もこのメダカという種の生態をよく知りません。だって、書いた本がないのです。大学や研究所というところは何かヒトのために利益になることしか研究をしません。

わがラティペス君ことメダカは風物詩ていどにしか理解されてきませんでした。ですから、これを調べても研究費がでないのです。ただ、最近心ある研究者の努力で、どうも日本にだけで10種類ていどのメダカがいて、そしてなんと水系や小川、田んぼによってどうも住む種類が違うんじゃないかということもわかってきました。

ですから、皆さんがもし田んぼでメダカを捕まえたとしても、近くの水田に放すのはおやめになったほうがいいでしょう。いいことをしているつもりで、「在のメダカ」(固有種)とその外来のメダカの交配を促進させてしまう可能性があるからです。どんどんと貴重な在来種が減ってしいます。

また、ややグロテスクなメダカの性格もわかってきました。メダカは自分の孵卵した稚魚を、どうもボウフラなどと誤認して食べてしまうらしいのです。うへ~。ですから、とってきたメダカを水槽で飼ってもなかなか増えません。

(続く)

2009年6月 8日 (月)

拝啓、吉野家様 完結 先進国の条件とは農業国である

Img_0010 先進国の条件とは農業国である

ほかの先進諸国はどうでしょうか?調べてみました。

私が子供の頃に習った教科書にはイギリスは「世界の工場となって自給率を落とした」と書かれていました。当時の子供の私は「ほ~、先進国になるというのは自分の国でメシがたべられなくなることなのだな」と思っていました。

違います。なるほど、1970年のイギリスの食糧自給率は46%で、わが国は60%でした。ドイツは68%でした。ところが、今、イギリスの食糧自給率は2001年に61%で、ドイツに至っては99%です。そして、我が祖国は40%です。この際、「世界の穀倉米国」は言うも愚かですから除外します。

_edited 世界の先進国の特徴は、どこも「売るほど農産物を国内で作っている」ことです。言い換えると、先進国の条件とは、「農業国であるということ」なのです。この30年ほとんどすべての先進国は食糧自給率のアップを国策としました。先進国とは、「自分の国でメシを食えてあたりまえ、勢いがあったら、農産物商品として他の国にも売ってやるぜ」という気概があります。現にフランスなど工業先進国でありながら、完全自給して、まだ30%オツリがくるそうです。もうシャレにもなりません。

どうして他の先進国がこの30年をかけて国内自給率を押し上げている時に、唯一我が祖国ばかりが武装解除してスッポンポンになってしまうのでしょうか?その薄氷の上に乗って、「飽食とグルメの時代」を気取っているのですか?グルメと280円牛丼、どちらも同じ薄氷上に乗っていたのです。

吉野家様。今回のあなたの蹉跌に学ばせていただきます。私たち農業者はあなたが壊してしまった道をじっくりと修復していきます。時間がかかりますが、それが私たちの仕事ですから。     敬具

■ 写真はタンポポの花の上のニホンミツバチ。花粉の採取中です。自分で言うのもなんですが、タンポポのオシベ、メシベまでバッチリ撮れたので驚きました。一心不乱で、私がカメラで狙っていても気がつかない可愛らしさ。

2009年6月 7日 (日)

TVアサヒ、取材に来訪す!

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昨日、TVアサヒ(10ch)が取材に訪れました。今回は私たちのグループが原料卵を出荷している「おみたまプリン」の取材の一環です。

前に一度おみたまプリンをお話したことがありましたね。旧小川町商工会青年部の代表だった山西さんとその仲間が作り上げた、「日本一高いプリン」です。

旧記事「おみたまプリンから思ったこと」http://arinkurin.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-8184.html

テレアサのディレクター(写真左の爆笑問題の太田光みたいなひと)のインタピューで私はこう言いました。

プロだったら絶対に発想しないプリンです。しないというか、しえないのです。通常のプリンなら、賞味期限切れもどきを集めて極力価格を抑えます。それをこの人たちはあえて、いちばん高い平飼卵、それも生み出しからわずか1カ月以内の初卵を使おうというのだから、正直に言って驚きました。

これってめちゃくゃストライクゾーンが狭いんですよ。私たち平飼養鶏の農家なんか、今の養鶏業界でガラパゴスです。コンマ何%でしょう。その平飼卵の、いちばん神秘的とすらいわれる生み出しのみが欲しいなんて図々しいにもほどがある(笑)。_edited_2

そうなんです。プリンというのは山西さんから初めて教わりました。それまで知らなかった。ほとんどが卵なんですって。パティシェの腕が確かなら、卵と砂糖で勝負が決まってしまうのです。マヨネーズなんかもそうです。

だから山西さんたちはこれにこだわりました。単に卵だけではなく、それを入れる器には笠間焼の気鋭の作家を、入れる木箱を作らせては並ぶもののない職人を、そしてそれを小川町在住の世界的なデザイナーがデザイン統括しました。そして、パティシェは麻布十番で腕をふるっていた小川在住の人です。

これらすべてを地元だけの力でプロデュースして、現実の商品にしたてあげ、今や日本の名産品のひとつに押し込んでしまった彼らの力業に打たれます。だからカメラに向かって言ってしまいました。これは、茨城を代表するもんじゃなくて、日本を代表するもんです、と。そしてそれに関われたことを誇りに思いますと。

_edited_4 しかし、テレビ取材というのは何回やってもアガリます。カメラのレンズの数十㎝前でしゃべってんですぜ。マイクのブームは顔の横にプラプラあるし、頭、真っ白。しかし今回のディレクターさんはかなり突っ込んでくる質問をしてくれました。私のような素人はいい質問がこないとうまくしゃべれないのです。彼とのやりとりは非常に気が楽でした。まったくトンチンカンな人がディレクターだと、悲惨なんです。

というわけで、わが農場の取材は終わり。夕方の報道番組である「スーパーJチャンネル」のどこかでやるらしいです。どこでやるかは教えません。力いっぱい恥ずかしいですもん。

■おみたまプリン公式ブログ http://omitama.livedoor.biz/archives/cat_50022708.html

2009年6月 3日 (水)

拝啓、吉野家様 その3 よその国に首根っこを預けてどうするのだ

_edited すべてを外国産食糧に依存したツケ

話しを戻しましょう。一昨年の牛丼ゼツメツ騒動はもの哀しいものでした。最後に牛丼をたべる人がテレビにしつこくさらされていましたね。私たちはこの光景をおもしろおかしくではなく、心に刻んでおきたいのです。教訓としたいのです。それでなくては、かつてわが青春の胃袋を満たしてくれた恩人とでも言うべき「貧乏人のステーキ・牛丼」が哀しすぎます。

吉野家。

かつてBSE問題が国内で荒れ狂っていた時、吉野屋様は店内に米国農務省のカッコのいいエスタブリッシュメントのオジさんの写真つきで「BSE安全宣言」を出しておられました。このポスターを見て、国内の牛生産農家は歯ぎしりをしたことを知っていますか。当時、国内の牛生産農家は存亡の危機にありました。米国からすれば猫の額のような土地で、一頭、一頭をわが子のように肥育している日本の農民にとって米国のこれみよがしの「安全宣言」は死刑宣告にも似た残酷な響きをもっていたのです。さすがのファンの私も、吉野屋の牛丼を今後絶対に食べないようにしようと、我ながら健気な誓いをしたものです。

因果はめぐる水車、今回、吉野屋様は前回の正反対の追われる立場です。外国にすべてを依存する結果がどんなに怖いことかおわかりになったでしょうか?食糧は人間の生存の基本です。その基本を他人に預けてしまうことが、どんなに危ないことか痛感されたのではないでしょうか。

外国に首根っこをあずけてどうするのだ

食の原料を単一の外国に依存した場合、その国の事情に左右されてしまいます。アメリカがBSEだとなれば、会社存亡の危機に立たされ、タイでトリインフルエンザとなればピンチヒッターの焼きとり丼もダメです。同じように、トウモロコシが熱波で収穫量が減れば、日本の畜産は大打撃を受けます。

仮に、アメリカが戦略的に日本を締め上げたいのなら簡単です。在日米軍を動かす?いえいえ、一切の食糧、飼料穀物の輸出を凍結すればいいだけです。日本は半年以内に干上がります。それは、考えたくもないのですが、今回の牛丼パニックとは比較にならない大パニックでしょう。

そんなことをしたら売り手の米国も困るだろうって。いえいえ、実は米国は日本に特定部位(例えば牛バラ肉、タンなど)を買ってもらえれば、べつに困らないのだということがわかってきました。米国は自国の中の農産物市場だけでいざという時には、なんとかなるのです。先進国とはそういうものです。

(次回完結)

拝啓 吉野家様 その2 牛が食べられたわけ

Img_0002 吉野家様。

ものの本によると、かの米国ですら建国以来肉は羊であり、豚でした。ニューイングランドの深き森に放たれた豚は、ブナやナラのドングリを食べて非常によい肉を人間に与えてくれたそうです。またその効率は牛の5倍ともいわれています。牛肉が食べられだしたのは、ニューフロティア開拓時代の中で、ミシシッピー河以東の大平原を得てからです。たかだか100年くらい前の話しです。

その豚と牛の比率が劇的にひっくりかえったのは1950年代でした。同時にブロイラーと呼ばれる肉用の鶏が誕生しました。ブロイラーは第2次大戦中にローコストで大量の肉を製造するために開発されました。わずか60日(!)で出荷可能となるという高生産性で食肉の一角を占めてしまいました。ケンタなどそれ以下の飼育日数です。

さて、現代中国の食は「白化」ということが言われているそうです。雑穀から白米への白化、甘草など天然の甘味料から白砂糖への白化、在来の黒豚系から大型の白豚系への白化、強健な赤鶏から白色レグホン系への白化が急速な勢いで12億の民を席巻しているのだそうです。そして今中国の政府が頭を悩ませるのが、このように「ぜいたく」になってしまった国民の舌を、どのように満足させるのかということだと聞きます。そしてその延長で、必ず不足する食糧とエネルギー源の輸入確保だそうです。

この波の中で、かつて築地の威勢のいい兄いがカッカと食べていた牛丼は、一見見た目や味はかわらないが、なかみはまったく別の者になっていったのでした。

(続く)

2009年6月 1日 (月)

拝啓、吉野家様 その1 牛丼が消えた日を忘れません

_edited 拝啓一筆啓上。吉野家様。

牛丼、24時間バッチコイの状態になられたようでおめでとうございます。その間にすき家にだいぶ差を着けられたようですが、奮闘をお祈り致します。 同じファーストフードでもマックのパテと称する薄っぺらなダンボール味の板はわが家の犬もまたぎますが、あなたのクズバラ肉(失礼)から作ったとは思えないジュシーな味、飽きのこない味つけ(さすが学生時代3食食べた時は飽きましたが)、そして今や宿敵すき家に差をつけられたものの、そのヤケクソのような安価は同業他社に追随を許さないものでした。  吉野家様。当時、私たち貧乏学生は学校がひけると、群れをなして「ステーキを食べに行くぞぉ」と言っては牛丼を食べ、「食後はストレートコーヒーがシティボーイの決まりさ」と称しては、無料のお茶をおかわりしておりました。当然のことながら、紅ショウガはたっぷり大盛り、だってタダだもん。実にセコイ奴らであります。まこと吉野屋のオレンジTシャツは私たちの青春の胃袋そのものでした。

しかし、今思うと、私が貧乏学生だった頃に食べた牛丼は国産牛肉だったそうです。そして今は全量が米国産に一本化されている。そのことが、今回のあなたの蹉跌につながったのはあまりにも知れ渡ってしまいました。あなたの牛丼280円が私の学生の頃と同額の秘密は、単一国からの原料牛肉の大量買いつけ、大量販売にあったのです。要するに、たくさん外国から買うから、安い。逆に言えば、外国から買わないとわずか3カ月で干上がる、これが吉野家様の社業発展の秘密だったわけです。

思えば、吉野様の店頭に並ぶもので、国産と言い切れるものは店員さんと米くらいなもので、今や店員さんも既に半分外人さんのようですが、味噌汁の大豆は米国から、紅生姜のショウガ、いや、唐辛子でさえも中国からという具合に過半は外国頼みだったのです。とすると、私たちは店の壁にかけてある築地の牛丼ではなく、「アメリカ丼」か「グローバル丼」を食べていたのかということになり、あなたへの愛情が少々冷めてまいります。見た目は一緒でももうあなたは別人なのですね、ううっ(泣く)。 (続く) ■写真芽生え始めた石榴の花。

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