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2009年7月12日 (日)

ウイグルは誰のものか?

_edited 私がウルムチに行った1990年代には、ウルムチはまだウイグル族の街のたたずまいを失ってはいませんでした。

路ばたでハミウリというまるでラグビーボールのような大きな瓜を買い、宿の井戸水で冷やして皆で分けて食べました。皮も果肉も淡いレモンイエローで、たっぷりと甘い果汁を含んでいました。午後ともなると、あまりの暑さに表を歩く人も減り、たまにロバががたごとと荷車を引き、大きな網籠に入ったアンズや葡萄などを運んでいます。男性は皆小さなイスラムの帽子、婦人はスカーフ姿でした。帽子は丁寧な刺繡が入っていて、様々な意匠があるようです。

見かけた街の楽器屋で、上の写真の五弦楽器を買いました。なんという名前なのでしょう。聞きましたが、覚えられません。弾いてもらうと、なんとも枯れた涼やかな音色が奏でられました。思わず拍手をすると、楽器屋のオジさんはちょっと嬉しげに、奥さんにウイグルのコーヒーを出すように言い、近所から仲間を呼んでの五人のオジさん合奏会となってしまいました。もう私のことなどそっちのけで一生懸命です。そして演奏を終わっての、ムスリムですからコーヒーでの乾杯と握手。ほんとうに楽しい記憶です。このようにウルムチは、活気の中にも人の温もりのあるほんとうにいい街でした。

そしてこのウルムチから、カシュガル、タシクルガン、パミール高原、クンジュラブ峠を超えて、パキスタン領に入り、楽園のフンザ、ギルギット、そしてイスラマバードに至る数千キロの旅を続けました。その間、私の背にはこのバスタオルに巻いた名も知れぬウイグルの弦楽器、ザックには薬罐2個がガランガランとぶら下っていました。旅の教訓、旅の初めにデカイものと、うるさい金物は買ってはいけない(笑)。

D0123476_7575114さて、当時から既にウイグル族の土地への漢族の侵入は開始されていました。ウルムチは、ウイグルの経済の中心地であっただけに特にその度合いがひどく、伝統的な家並みの調和を破壊するように巨大なビルが立ち並び始めていました。ホテル、オフィスビル、官庁街など、それはほぼすべて漢族の所有によるもので、もともとの先住民であるウイグル族は、旧市街の片隅に追いやられていきました。

1949年、つまり元々のウイグルには、漢族はわずか4%しか居住していませんでした。それが、独立を奪われてから20年ほどたった70年代末には、新疆全体に占める漢族の割合は 30%に増加し、更には2000年には40%、そして現在ではウイグル族とほぼ同じ人口を持つに到りました。

つまり、先住民族と、独立を奪って入植してきた漢族がほぼ同数となってしまったのです。これはたまたまそうなってしまったのではなく、その背景には中国政府の強引な政策的な植民政策があります。

それどころか、ウルムチでは漢族が75%にも達し、先住民族をはるかに凌ぐという有様になっています。もはやウイグルの土地は、ウイグル人のものではなく、金と権力を使って奪っていく漢族のものになりました。

124700798800016101427ウイグル族は、漢族から「ウイグルの犬」と蔑まれて差別され、漢族が経済のすべてを握ってしまったために経済格差と失業に見舞われています。漢族がウイグルの天然資源を安く買って、工業製品を高く売るということをしたためです。

そして、ウイグルの天然資源である豊富な石油は、中国の3割にも達する埋蔵量を持つために、開発が急速に進められた結果、自然破壊は目を覆うものがあります。

ウイグルはまた、核実験の実験場として数十回もの被曝地ともなりました。1964年年から1996年にかけて、地表、空中、地下で延べ46回、総爆発エネルギー20メガトンもの核爆発実験を行っています。(札幌医科大の高田純教授「中国の核実験 シルクロードで発生した地表核爆発災害」)

先住民族であるウイグル族と、支配民族である漢族が、中国政府が謳うように平等であり、また自治区という名にふさわしいものであるかどうか、7月5日の虐殺と、7日の漢族の武装襲撃が明瞭に物語っています。

3番めの写真のこん棒を持ってのし歩く男たちの群は、7月7日の漢族の報復襲撃時ものです。こん棒や鋭い鉄パイプで武装し、ウイグル族の商店や居住区を襲撃しました。 124700584429916331573

4番めの左写真は外国のメディアが撮影した漢族のウイグル人の商店を破壊し、焼き払っている時の画像ですが、画面左上(*赤で囲っただ円・クリックして拡大してください)のヘルメットを被った武装警官が自動小銃を持って警戒しているのがわかりますか。驚くべきことに、まったく制止する様子がありません。銃口もまったく別な方向を向いているのがわかります。

官憲が黙認する中、漢族がウイグル族を襲撃したことが、この写真から手に取るようにわかります。そもそもウイグル族が手に武器を持って行進することすらありえないことです。写真にみえるような官憲の前で、暴力的な示威行進をすること自体が、現在の中国では不可能です。官許のもの、いや中国公安当局自身が手を回して煽動している疑いすらあります。

D0123476_7595162_2私がそう指摘する根拠は、5番めの左写真をご覧ください。公式発表でも千人を超える死傷者を出した、ウルムチ「暴動」の翌日、7月6日の写真です。外国メディアに必死の訴えをするウイグル女性の抗議を、武装警察が楯とこん棒で容赦なく殴りつけています。胸が悪くなり、口に苦いものが湧き出すような画像です。

行方不明の家族を探して抗議する、非暴力のウイグル女性に対しては非情な暴行を働きながら、方や屈強な漢族男性の暴力的示威行動は黙認し、あろうことか略奪、放火まで許容する。このどこが民族の「平等」なのでしょうか!なにが法治なのですか。そしてここのどこに「和諧社会」(調和社会・中国政府のスローガン)があるのですか?

本来、ウイグルはウイグル人のものでした。2度に渡る独立建国運動で、「東トルキスタン共和国」であった土地です。他民族の国に侵攻してわが領土とし、その名も「新疆」、即ち「新しい領土」と悪びれる風もなく改名し、数百万人の膨大な漢族を送り込む。そして支配民族として増殖し、奪い、差別する。

かつて、北米大陸で、中米、南米大陸において、オーストラリアで、タスマニア島で、パレスチナの地で、そしてチベットなど無数の地域でなされてきた悲劇が、21世紀の現代においても生き延び、むしろ拡大され、増殖し続けていることにいいしれぬ怒りを感じます。

(続く)

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