エンザロ村のかまど 顔のある技術
江戸時代は日本農業にとって大いなる蓄積の時代でした。各地で農書と呼ばれる農業技術書が編まれました。「百姓伝記」や会津農書などが、民間の力で津々浦々に作られ、伝承されていきました。
これらの日本人の誇るべき遺産は農文協の農書シリーズで読むことができます。驚くほどきめ細かな自然や作物、そして人への観察で満ちあふれています。世界の中で、農家が自らの観察や計測、そこから編み出された技術について書き残し、膨大な技術書の山脈を作り上げたというのは希有の例ではなかったのかと思います。
農書を読んで感じることは、人格と技術を切り離して考えていないということです。技術は技術であって、それが一人歩きするということはまったく視野の外にありました。ごくあたりまえのようにして、農を営む「人」と、「自然」、そして「技術」はひとつのものとしてありました。私はこれを「顔をもった技術」と呼びたいと思います。
たとえば、農書の中の重要な一項目には治水が含まれています。平時には、豊かな流れから水を田に導き入れ、、水車で精米し、川舟で集散地まで運ぶ。大水の時には、荒れ狂う川の流れをどのようにして受けとめて被害を出さないようにするのか、急流と共に生きてきた日本人にとって死活の問題でした。
この川と共に生きる日本人の有り様は、富山和子さんの名著「川は生きている」に詳しく書かれています。あ、一度この本のコメンタールを作ろうとして挫折してましたね。
甲斐の国の農書などには、様々な溢れ出る川のエネルギーを逃がす方法が述べられています。霞堤は左図(「川は生きている」富山和子より)のように、一度に大水を受けとめるのではなく、幾つか斜めの堤防で分散して受け流して付近の水田に導くように出来ています。
これは上流で高い堤を作ってしまうと、下流で大水のエネルギーがそのまま増大したまま溢れ出してしまい、被害をいっそう大きくしてしまう教訓によっています。
つまり、真正面から自然と争うのではなく、受け流すことを大事に考える知恵です。また、自分の地域だけを守れればいいと考えるのではなく、川とその流域をひとつの生きもののようにとらえて、それを利用し、暴れれば受け流し、時には戯れて生活する「顔を持った技術」です。
人類は20世紀において科学技術を制御することに失敗しかかってきました。それは戦争や自然破壊の惨状をみれば明らかなことです。21世紀初頭は、それからの修復と再生の時代です。この時期必要なものは、人の顔を持った技術の確かさではないでしょうか。
エンザロ村のかまどは、日本でいったん昭和30年代になくなった農村のかまどが、時と所を変えてケニアの農村でしっかりと生き返り、根を張って人の役に立っていく物語なのです。
■写真 霞ヶ浦の朝5時頃の風景。
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コメント
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霞堤の発想は素晴らしいものですね。ある程度の被害を覚悟の上で、被害の分散化を狙っている。このような発想は現代には確かにない。完璧を狙いながら、全てをだめにする,All or nothingになっているかもしれない。まあ、地震に対する柔軟構造などは、揺れることを是としながら倒壊を防ごうというてんでは、霞堤の発想と似てなくもない。百姓伝記をそのうち手に入れて見たいと思っています。
投稿: 葦原微風 | 2009年8月18日 (火) 19時50分