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2009年9月13日 (日)

生き、生かされていること その2              沖縄の部落の福木と自由

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そういえば、こんな風景を沖縄でも見たことを思い出しました。
例えば、私が住んでいた近くの海岸沿いの集落の部落に行くと、海岸に沿って全部の、まさにひとつの例外もなく全部の家が海岸に向けて防風林である福木を植えています。福木は丈夫で、しかもよくしなり、風や海水に強い植物なのです。
この樹々が大きく手を拡げて村を守っています。そしてその手の内にシィクワーサーの果樹やパパイヤが守られて繁っています。
もし仮に、この共同の防風林の一角をフリムン(馬鹿)が買って、この別荘から海を見たい、自分の土地だからなにをしようと自分の勝手だろうとばかりに自分の敷地の福木を切ってしまうとします。
と、どうなるのか。台風の時の風雨は、海水を巻き上げながら、この崩れた防風林の一点の穴から吹き込み、部落の中を暴れ回ることでしょう。そして狭まった場所からの風雨の流入は、その風速の威力を増大させて、被害を大きくしてします。
なぜ、ウチナー(沖縄人)がよそ者に土地をなかなか売らないのかお分かりいただけると思います。それは単純な排他主義ではないのです。地域の自然とそれを守る共同体の約束事を守る気持のない人はムラに入れられないというルールにすぎません。
057 「自由」という言葉は、今の社会ではまるで普遍的な至上の価値のように語られています。あるいは民主主義もそうかもしれません。
この自由という概念が、果たしてそんなに至上の価値をもつものなのか、私はこのところ疑問に思ってきています。もちろん私は自由社会に生きていることを享受していますし、それがない状態を考えることさえ難しいかもしれません。
私が「自由」を疑い出したのは、市場競争の自由主義こそが、何よりも重要だから、一切の規制をはずせ、構造改革をしろ、という考え方が栄えた時代を見せられてきたからです。
私は素朴に悩んでしまいました。「自由」とはそんなに素晴らしいものなのだろうか。ならば、自由の結果、多くの人々が大事にしている価値、あるいは風景が破壊されたとしても、それでいいのだろうか、と。
自由はしょせん人間に追随する概念にすぎません。人間がどのような生き方をしてきたのか、互いになにを大事に守ってきたのか、そのために何をしてきたのか、逆になにを禁じてきたのか、それこそが大事なのではないのでしょうか。
水を湛えた水田の連なる風景、福木が守っている集落のたたずまい、それを大事にしてきた伝統、その中で生きる人のあり方、ここから離れて自由はありえません。
(続く)

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コメント

沖縄の福木並木ですか。
なつかしいですね。
私は、久米島と渡名喜島のものしか見ていませんが、確かにこのあたりは、台風が上空で停滞するところなので、福木の防災上の役割は、大きいようですね。

でも、これほどに、用と美をかねそなえた自然社会資本は、ほかに、ないようにもおもえますが。

以下は、大分以前の、私の渡名喜島紀行のスライド集です。
デジタル画像でないので、キメが粗いのですが。
http://www.sasayama.or.jp/webalbum-tonaki/disp.cgi?

私も、「自由とはコモンズである」と、ずっと考えているものです。

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