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2009年11月 6日 (金)

晴れた日に家族農業が見える

_edited いやー、ひさしぶりの休日をとっています。晴れた日の午前に休むって実に気持ちがいい。特に忙しそうに働いているカミさんを見ながら、頑張れやとつぶやきながらズズっ渋茶をすするのはなんともいえません。あ、冗談ですよ、かぁちゃん!
カミさんには、アンタなんか毎日休んでいるようなもんじゃないのとひどいことを言われておりますが、なんやかやで休日が3回飛びました。しかし、思えば、農休日なんて取れるようになったのはこの3年くらいのこと。

わが家業は生き物相手ですから、元旦の朝からケコケコ言いやがるバカドリに餌をやり、今日くらいは生まんでいいと思うのにセッセと生む従業員の勤勉精神すら憎く、あ~休みが毎週2日間あった勤め人時代など、はるかな太古となりおり侍り、いまそかり。

先日、茨大の学生諸君に向かって、黒板に「小規模、家族農業、地域農業」と大書きして、これこそがこれからの日本農業だと大見得を切ったのはいいですが、そう忘れてました。家族労働というのは近代化されなきゃいかん点も多々あるのですよ。

ま、それはともかく、今日は天気もいいし、ちょっと家族労働について考えてみましょうか。

Img_0011 さて、私は農業の基本は家族で働くことだと思っています。これは古今東西を問わずそうだと思います。

親父とカミさんが働くのが基本です。あたりまえと言うなかれ。農業では、ほとんどの仕事がペアでやるようになっているのです。

親父が軽トラックの下からよいしょと収穫物の入ったコンテナを上げる、上でカミさんがどっこらしょと受け止める。トラクターでマルチを張る、後ろでカミさんがそれを押さえる。
寒中に収穫した芹やレンコンを、畑からとって洗うのまでは親父の仕事、それを辛気臭く選別するのはカミさんとおばぁ。

あるいは、たくさん出来た野菜や果実を、漬け物や塩漬けで保存するのはカミさんとおばぁや子供たちの仕事。

家族が皆んなで働いて、汗をかいて自らのその日の糧を得る。田んぼの草取りから逃亡したガキは親父からゴツンとやられる。皆んで自分の家の仕事を支えていて、それを変だと思わない。

だから、農村で女房に死なれると、都会の夫だけではないダメージがあると思います。なぜなら人生のペアと仕事のペアを同時に失うからです。「家族」というチームを支えていたもうひとつの大きな柱がなくなるからです。この感覚は私がサラリーマンだった時にはわかりませんでした。
つまり、女房は仕事のペアであり、家族はひとつのチームのようなものなのです。

これが今や忘れられつつある人間の暮らしの基本の営みだと私は思います。だから都会の人は農に憧れるのです。家族という涙ぐましい世界最小の共同体があって、その宇宙で父が父であり、母が母であり、子供のいる場所があります。

れがおかしくなったのは、アメリカというやたらだだっぴろい土地に、だーっとうちの村全体くらいの畑を一軒で作るという大型農業が跋扈しはじめてからです。
いわゆる、同じ品目(だいたい2~3品目)ばかりバンバン作るという大量生産主義・フォーディズム(*フォード主義・今つぶれかかっている自動車会社のフォードの画一的大量生産方式のこと)というヤツですな。こうなると、農場主と農業労働者がいればいいことになります。

それでも、なんやかや言いながらもアメリカの農家も親父と伜、おっかさんが基本という家族労働構造は案外最近まであったそうです。よくアメリカ映画で見る中西部の農家風景です。ほら映画の古くは「怒りの葡萄」の農民像や「フィールド・オブ・ドリームス」の風景などを思い出してください。
それがだんだん浸食されるようにして、養豚や養鶏などの飼料会社のパッカーと呼ばれる大型企業が直接農地を取得して、トウモロコシ、小麦などを作りはじめました。これがアメリカで穀物生産-畜産-流通-販売まで一貫して包括する農業のあり方になっていったようです。いわゆるインテグレーションつうやつですな。

ではひるがえってわが国ではどうでしょうか。、このような農業の大型化と企業化は部分的であって、未だ企業が農業に全面侵攻をかける時代にはなっていません。

Img_0012 なぜか?
農地法というスゴイ法律があったからです。どこがスゴイかといえば、事実上農家しか農地を取得できないという、ある意味「非常識な法律」だったからです。いいですか、日本の不動産数あれど、同業者にしか買えないという分類の土地がある。それが農地だったわけです。なかなか渋いですね。

ですから、農地は公共事業にかかるというラッキーなことがない限り売れないような極度に流動性がない地目になっちゃったわけです。
よく、農業外のエコノミストなどは、日本の一人当たりの耕地がなぜこんなに狭いのか。それが合理化を妨げて、消費者が高い農産品を買わされているような(←ウソ)国際競争力のなさを生んだのだ(←これもウソ)と論難しますが、しょうがないじゃないですか、農地法があったんだもん、プンプン(←オレはコギャルか)。

この農地法は大いに問題ありの法律で、かつてわがブログでもコテンパンに批判したことがある曰く付きのやつです。結果、21世紀に手つかずのとまでは言いませんが、諸外国に比べ家族農業をやるガラパゴス的基盤は温存されたわけです。

今や私は、これはこれで大切に21世紀の日本農業の財産とすべきだと思っています。このお話は、私のグループの経験も含めてもう少し続けたいと思います。

■写真 沖縄のヤチムン。ヤチムンは焼き物のこと。

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コメント

趣味の農業・・・結構ですな
 
京都の平安神宮から南禅寺まで2kmもないが
人力車に乗れば 8000円
観光地ですからな・・・京都は
貧乏人のわたしは絶対に乗りませんが・・・

家族農業は、日本社会においてはとても
重要な在り方と思っています。私は家族
農業で育ちで今はサラリーマン。職場が
家庭・家族から離れ、子どもは幼少の頃
から厳しい親の職場の現実を日常生活で
接することなく歳を重ね、後年アルバイト
や就職しないと職場を知ることは残念な
がら出来ませんでした。

幼少の頃から親達の職場に放り込まれて、
出来る範囲で親達の仕事を手伝わされる
家族農業の環境は、子どもの成長にとても
大切な環境ではと感じています。

最近、岩波書店から出版された宇沢弘文
内橋克人「始まっている未来 ー新しい
経済学は可能かー」の宇沢弘文の農業論は
濱田さまのこの「家族農業」論に近い様に
感じました。

現代の子ども達に昔はなかった色々な課題
が起きているなか、濱田さまの「家族農業」
の視点は、日本の子ども達の育ちへの重要
な示唆が含まれているのではと私は思いま
した。

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