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2009年12月14日 (月)

クライメイト事件 第4回  目的は手段を合理化するものなのでしょうか?

Img_0020_2ィル・ジョーンズ教授の流出メールのうちのこの部分を読んだ時、私はああやっぱりな~と嘆息してしまいました。

それは、「40人以上の著名な科学者で学会誌の査読班を作り、主要ジャーナルを乗っ取り、温暖化を否定する論文を却下していた」という部分です。
これは大きな問題になり、欧米、特に米国のテレビで大きくとりあげられたそうです。ジョーンズ教授のメール原文の存在も明らかになっています。

私のような門外漢がこのように思うのは理由があります。あまりに世の中、地球温暖化阻止、CO2削減の一色でありすぎませんか。普段は犬猿の仲の朝日から産経まで、同一の歩調を取っています。私は青年の頃からこんな不気味な光景は見たことがありません。地球温暖化CO2説に疑問を唱えれば、「人類の敵」呼ばわりされてしまいそうな空気です。

実際、地球温暖化CO2説を唱えた研究者をそう呼んだヨーロッパの環境団体もあったそうです。私自身、エコロジスト宣言を発して30年、職業は有機の百姓ですし、各種の環境保護運動もしてきました。way of lifeと世界観というとオーバーですが、生きる哲学みたいなものが、そうとうに一致しているほうだと自負しています。
しかし、今回の地球温暖化CO2「説」、というよりもはやこの現実世界の力学そのものと化していますが、これにはなじめないのです。ところが、このCO2削減努力の結果としてのエネルギー多消費型社会からの転換などは、まさに私の意とするところなのです。これが私の悶々とするところです。

_edited_edited1 CO2削減という軸を社会を、より人類がこの惑星と調和的に生きるための一種の方向指示器として考えれば、たしかに実に説明しやすい概念です。

私は長年、口酸っぱく環境保全だ、有機農業だと叫んできましたが、ところが今は、地球温暖化阻止のためにと言えば、一言で用が足りてしまう。化石燃料である油を炊いたり、石油由来の化学肥料・化学農薬に頼る農業を止めましょうね、と一言いえば済んでしまうのです。

にもかかわらず・・・、私がこの地球温暖化CO2説に疑問を持つようになったのは、個別にひとつひとつのCO2説の論拠を自分なりに調べていった時のことです。
ホッキョクグマの減少、海水面の上昇、ツバルの沈下、キリマンジェロの冠雪の減少、北極海の融解・・・私が調べる限り、地球温暖化CO2説を裏付けるものはなにひとつありませんでした。むしろそれらの危機を叫ぶ言説は、実証的にはプロパガンダの域を抜けませんでした。

たとえば過酷な北極をライフワークとする極点観測者は、「ホッキョクグマは減少していない、北極の氷の減少はCO2の増加によるものではない」と断言し、あるいはまた、南太平洋の海面上昇を調べている観測者も、「海水面は上昇していない。ツバルの地盤のほうが沈んだのだ」と明快に言い切りました。

そして彼ら現場観測者に共通の認識は、地球温暖化CO2説は科学的根拠が非常に危ういということでした。
それを裏付けるデータは豊富にありました。むしろ、「ある種の力」によって隠蔽されているのではないかと思えるほどです。なぜこのような知見やデータが、私たちに知らされていないのか。なぜマスメディアは、一方の学説のみをしか取り上げないのか、調べながら大いに不思議に思ったものです。

今回のクライメイトゲート事件によって、その隠された一端がわかりました。わが国においては知るよしもありませんが、欧米においては「ある種の力」が組織され、それがぶ厚い科学の扉の向こうで地球温暖化CO2マフィアと化していたようでに思われます。

今日、むしろ私はこの自分の中の迷いを皆さんにお聞きしたいのです。
目的は手段を合理化するものなのでしょうか?

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コメント

 初めまして、面白いプログを読ませていただきました。 
 若いころ山本周五郎の「長い坂」を読んだときに感じたのは、その人の目的が崇高であれば手段は正当化しても良いのではということです。
 ただ人間は弱いものですからすぐに汚濁の中に埋没したり、脅されて言いなりになってしまう可能性が高いのではないでしょうか。
 つまり常に初心を忘れない強さがなければ決して安易に道理にもとる手段を用いて良いとは言えないように思えます。
 ただこれは一般的な話で科学に関しては決してありえてはいけないことです。 データの改ざんや異なる意見の抹殺等、この瞬間それに関与した理論や結論は全て放棄せざるを得ないというほど重大なことと私なら考えます。 

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