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2010年1月

2010年1月31日 (日)

「勝ったのは彼らだ」と言うために生きているのかもしれない

_edited1 柳生様。なかなか面白いというか、ちょっとしんどんお話になりそうです。あらかじめ申し上げておきますが、このことに「正しい答え」はありません。
柳生様のコメントです。

小学校の運動会では「地区対抗レース」というのがあり
私の組は「田無(水田があまり無いので)」でした。
この地区はサラリーマン家庭が多かったのです。
しかし他の組には
「新田」とか「新屋敷」とか一目で農家と分かる名称が多かったのです。
 
ところが現在は逆ですね。
農家は 農業と畑は・・・
綺麗サッパリ! ・・・・無くなってしまっているのです!
 
ですから私には
濱田さんが「農家は村のなりわい」と言われても実感としてどうしても理解できないのです。
 
また
私はいろいろ職業を替えましたが
残業代を払ってもらえなかったことはしょっちゅうであり
濡れ衣を着せられて解雇されたこともあります。
しかし私は常に前向きに生きてきましたし・仕事は1番出来るほうでしたよ。
それは各職場の先輩達から
「高い給料をもらいたかったら・それに見合う仕事をしろ!」
「世間が社会が欲しがるものを提供できない企業には存在する価値が無い」
(市場原理主義)・・・と言われて鍛えられたからです!
私と濱田さんとの人生(観)の違いなのでしょうか?
すぐには結論・合意はありえないかも知れませんが・・・
一応 簡単に私の仕事観について濱田さんのお考えをお聞きできませんでしょうか?

私も東京の品川生まれ、中野で小学校4年まで、それから神奈川でした。30の歳までサラリーマンもしていましたし、今でも町ッ子(という歳ではないか)の部分を多々残しています。
カミさんなんか、私以上の町っ子で、生まれは葛飾の立石です。

この土地に来て、彼女にも私にも言えることは、あまり自分を変えようとか、合わせようとしなかったということでしょうか。村中でも二人ともあいかわらずの東京弁でしゃべりますし、茨城弁などは、たまに東京に行って友と酒を飲む時に取っておきます(笑)。

しょせん町の人間が、村のふりをしてもダメです。多くの就農者がコケるのは、その地の風習に「合わせよう」として、いつも不安定な竹馬に乗っているようなことをするからです。

なんて言うんですかね、私は、自分がやってきたことは、一種の「移民」だと思っています。「農村という外国」に来た移民です。農村で農業をするというのは゛下手な外国で暮らすよりもしんどい部分があります。なぜって、日本語が通じるからです(笑)。

この「農村という外国」で、作家をするとか木工をやるというアートな仕事なら、村人はなんにも思わないで、「はぁ~変わってんなぁ」と思っておしまいでしょうが、なまじ「村のなりわい」である農業をやるとなると、本職は黙ってみてはいません。

私はある所からこう思うことにし始めました。私は農業はしているが、農民にはなれない、だからこそここの土地の人の生き方や価値観は粗略にしないようにしよう。礼儀を知ろう。その喜びや哀しみの部分をも理解していこう。なぜなら、私はこの村で受け入れてもらっている「移民」にすぎないのだから。

農民にはなれないのだからそれを大事に思う、いとおしく思うのです。前回書いたことは、私なりに見てきた兼業にならざるを得なかった百姓の心根です。たしかに神門さんに言われるまでもなく、日本農業は矛盾だらけですが、好きでそうなったわけではない。その苦しみや軋みの音を聞いて、初めて減反政策の愚劣さがわかるのだと私は思っています。

遅くなりましたが、柳生さんのご質問にお答えするのなら、貴兄のブログで拝見すると、柳生さんの価値観は、失政をしてもぬくぬくと解雇されることもなくロクな働きもしない高級官僚、あるいは、大きな会社に安住する高学歴の勤め人などにストレートに怒りが向けられているように思えます。


その怒りがひるがえって、兼業農家というある種の特権階層に対して批判をもたれているようです。このような日本国家にたかる巨大な寄生階層がある限り、日本に未来はないとおっしゃっています。そして
、寄生しぬくぬくと安住する階層と、自分の能力の限りを尽くして仕事をし、富を稼ぐ者を対照させています。

「競争」とは「自由」という概念のコインの表裏です。競争も、自由も実はただひとつのものから始まっています。それが「個」です。個が協業して、あるいは競争して社会を作っていくんだというのが近代の考えでした。

実はこの「自由」という理念ほど、私を長く捉えていたものはありませんでした。私は、さきほどお話したように入植から10年ほどは、日本で希有な生活まで実践するリバータリアンみたいでしたからね。あ、クリント・イーストウッド、大好きです。「グラン・トリノ」、夫婦でわんわん泣いて、封切館に行かなかったことを後悔しました(笑)。

それはさておき、私は今、しょせん「個人の自由」などはやめる自由や、逃げる自由がある「自由」だと思っています。競争する自由、戦う自由、そして逃げる自由までワンセットで「個」なのです。

今、日本農業は津波のようなグローバリゼーションの波に対置しています。そして私は日本農業を防衛する立場にいます。長くは言いませんが、日本農業がコケから、日本の環境の基盤は崩壊するでしょう。その修復、再生に巨大な社会的投資が必要です。外国に食料を依存することは、日本という国を壊すことです。

逃げられないのです。逃げないものを作らねば堤防になりません。そのときにあてになるのは、個ではなく、にぎり飯のような「村」という共同体です。

かつて「七人の侍」という黒沢の映画の最後で志村喬が言った言葉が、長年の私の謎でした。それは助っ人で戦い、そのほとんんどが死んだ侍を包む早乙女の声を背景にして、「勝ったのは彼らだ」という言葉でした。勝ったのは、確かに百姓だが、それでいいのか。それは虚しいのではないか、侍たちは。

貴兄の暮らす都会は、私にとって過去のものです。たしかに個と個がしのぎを削るものでしょう。しかし今、私が暮らす農業というひとつの前線の中で、私ができることは、私のたいしたことのない「個」としての能力を使いきって、「勝ったのは彼らだ」という言葉をどこかで言うために生きることなのです。

個の能力などは、いつかほんとうに守らねばならない存在に対して使われてこそ本望なのかなとも思います。

■ 写真 シュロの葉です。シンメトリの直線がカッコイイですね。  

2010年1月30日 (土)

農業とは村のなりわいなのです

Img_0032 ずっと気になっておりました柳生様のコメントに徐々にお答えしようかと思います。正直に言って、日本農業をどうするという大問題は、やや私の任に余ります。しょせん、私は県単位までならなんとか、いや自信があるのは自分の地域、いや、わしら有機農業の界隈と、逆3段スライド式尻つぼみとなってしまって、いやまったくどうも。

柳生様のコメントは、以下のようなものです。

日本の農業も同じようなものです。
米作農家は約200万戸 そのうち専業はたったの7万戸・・・
兼業農家は収入の9割をサラリーマン収入で得て
公共工事という”宝くじ”に当たることを夢みています。
 
たしかに私自身
濱田さんのような有機農業に専心される農家には個人的にでもいくらでも援助したいと思います。税金も使うべきでしょう。
しかし
腐敗官僚や700万人とも言われる企業内失業者を一掃しなければ日本産業の景気回復などあり得ないように
農業など本気でやる気がない兼業農家が日本の田畑の大多数をこれからも保持するなら
日本の農業にも未来などあり得ません!

また、メールでも柳生様の「こうやったらどうなのだろうか」というご意見を頂戴していまして、要約すれば、以下のようになるかと思われます。要約が間違っていましたら、ごめんなさい。

従来の、兼業農家を基盤とするJAを重視した農政では、意欲ある活発な日本農業は生まれず、むしろ国家に寄生する層に農民がなってしまっている。
そこで、兼業農家が補助金漬けで囲い込んでいる「優良農地」を政府が買い上げて、それを意欲ある人や法人に供給し、大規模農業に集約化していったらどうだろうか。

実はですね、たぶんこの前段の部分の現状認識に温度差があるのです。兼業農家寄生論とでもいうべき論調は、確かにあります。神門善久教授などが「テーミス」誌上で毎月、日本農業の恥部を指弾されていて、私は直接関係がないのになんか耳が痛くもあります。

また、このような論調は「農協の大罪」の山下一仁氏や、若くは「農業経営者」誌副編集長の浅川芳裕氏などの論調とも重なる指摘です。

実の話、「兼業農家」問題ほど、知れば知るほどスパンっと切ることができない問題はありません。なぜなら、兼業農家の問題とは、生産部門としての農業では括りきれない「農村」という地域社会問題でもあるからです。

農業が、他の産業と根本的に異なっているところ、それが農業とはあくまでも共同体の中でする経済行為だというところです。すっと読むとなんかわからないかもしれませんが、考えて見てください。経済行為、ぶっちゃけて言えば、家族の生きる糧を稼ぐことが共同体という身体の一部となっている部門など他にありますか、あったら教えてほしいものです。

これは都市の協同組合や同業者組合とは似て以て非なるものです。同じ村の水でオギャーと産湯を漬かり、同じ半径3キロ以内の小学校にてくてく通い、同じ訛りでしゃべり、同じ祭で彼女を見つけ、そして結婚し、子供を授かり、そして老いてナマを言うようになった孫を見ながら村の土に戻っていく。そのような生き方。

そのような生き方と「農業」は不即不離でした。しかも今日昨日の関係ではなく、三代百年ははあたりまえ、本田とか本郷とかいう地名の字に行けば、もう300年、400年のつきあいとなります。

私のようなよそ者がこの村に入れたのも、私の場所が他の字の次男三男が、自分の親父の土地を継げずにいたしかたなく切り拓いてきた土地だったらです。その通称からして「カイタク」。とてもじゃないが、村の「中」には簡単に入れませんでした。ですから、わが班の名は「班外班」、おい、私は番外地に入っちまったのかって!(笑)

冗談ヌキで、一度「村」と養鶏場拡大でトラブルを起こした時には、不条理極まる「立ち退き陳情」すら受けたことすらあります。立ち退きとは、要するに村から出て行けということです。14名集められました。知人の署名すらあった時にはショックでしたね。後に、すまん、すまんしょうがなかったんだ、と頭をかいていやがりましたが。
ま、現代版村八分ですな。幸か不幸か、そのような仕打ちに合うと逆に燃えるというわが夫婦は、シャラっとして今も村で生きています。

さて柳生様。このように恥ずかしいことをお話したのも、農業というのをあなたは都市の産業部門一般のように考えられているのではないかと思うからです。それは半分は正しく、半分はズレています。

農業とは村です。村全体の生業(なりわい)なのです。
だから、「米を作ることを制限する」というお国の減反命令が下った時に、ありとあらゆる知恵、ありていに言えば百姓のズルさといやらしさを発揮していったのです。

JAの持つどうしようもないズルさといやらしさは、わが農民の体質から出ています。いかにJA全農がネクタイを締めたサラリーマン団体になろうとも、基本的DNAの性格は変わりません。

農業から離れていかざるを得なかった層を兼業「農家」として翼下にかばったのもそれが故です。村の衆だったからです。だから農業から離れていき、街の勤め人となっていく哀しさは理解できたのです。そして農業とのヘソの緒だけでも残しました。それが田んぼです。

やがて時がたつに連れて世代が替わり、それは利権化しました。それは事実です。ただ、私が今言いたいのは農業という場所は、あるいは、村はそのような人の苦しみや哀しみが積み重なっている場だ、ということです。
だからその改革があるとすれば、その重さを知ってから始めてもバチは当たらないのではないでしょうか。

2010年1月29日 (金)

沖縄の友人に電話をした

001_edited2_2 先日、ヤボ用があって沖縄の友人に電話をした。用件が済んだ後に、やはり「あの話」になってしまった。くだんの平野官房長官、強制収容発言以降の辺野古だ。

「ああ、そろそろ君からかかってくると思ってたよ」と彼。
「どうもな、ひでぇことになりそうだな」と私。


「まさにアキサミヨーさ。参っている奴もいるな。マジに民主党の言うことを真に受けた人も多いからね。特に辺野古現地が参ってるんじゃないか。長すぎる闘争で、いったんは去って行った人で今回こそは最後になるって言って戻って来た人もいるからね。知ってると思うが、現地は完全に賛成反対二分だぜ。親戚で立場が別れたというところだってある」

「ああ、戻ったっていうのはあの人か。本土政府に何言っても、金しか返ってこないって、顔を見せなくなった人だよな。彼が選挙勝利後にカチャーシーを踊っているのをテレビで見たよ。ちょっとホロっときた」

「本土から来ている支援組は、組織があるからいいだろうが、ああいう素の人にはこたえたろうな。闘争なんて10何年もやってるもんじゃないぜ。支援組織は財政的にもバックがあるから潤沢だろうが、受け入れる現地は普通の人たちだからね」

「(喜納)昌吉さんはどうだい」
「うん、あの人は今や雲の上の人って感じで、なかなか話をすることもできないんだ。なんせ今や小沢サンとサシで話せる唯一の沖縄人といわれてるくらいだし(笑)」

「あの人、最近また、琉球独立とか言ってるのを聞いたけど」
「うん、2カ国が承認すりゃいいとかどこからかで聞きつけて、県民投票をして過半数を取って独立宣言をするって話なようだ」
「その二カ国って、中国と韓国か、北朝鮮かだろう。いいのかオイだけど」゛

「いいわけないじゃないか。あ、ハマちゃん、オレを誤解してるかもしれないけど、今オレは、あの去年のウイグル(東トルキスタン)の虐殺事件以来、あのテの琉球独立論とは距離を開けているんだ。居酒屋独立論者とはつきあえんさ。ただそんな琉球独立を大声でぶっているのが、今や政権与党の沖縄県連会長だとなると、影響力は確かにあるよ」

「政治家昌吉さんとしたら、辺野古で勝って、その勢いで民主党の沖縄プランにある1国2制度を実現し、一種の自治州となった後に、時を見て独立宣言と考えていたんだろうがな。これで初手でつまずいたわけだ」

「まぁ、普天間問題は民意で決めるってあれだけ鳩山が言ってたのに、その民意が出たらコロリと変身するなんて、誰も想像つかなかったしね。
それにオレはあの沖縄についての民主党プランには反対なんだ。あれには外国人を大量に受け入れるという一項がある。その外国人って中国人に決まっているだろう。それに外国人地方参政権を付与してみろよ。俺らウチナンチューの居場所がなくなるって笑)ウイグルやチベットみたいになりたくはない。嘉手納基地を中国軍が使うだけの話だ」

「今後どうなると思う?」
「わかるわきゃないよ。沖タイも琉新もガックリきて怒り狂っているが、相手が自民党じゃないんでやりにくそうだね。今回の平野官房長官の強制執行発言なんか、同じことを自民党がしてみろよ。もう今頃は自民も入れて県議会全会一致で非難決議、全島集会に10万人だ。
しかし相手が沖縄の味方だと思っていただけに、手ひどく裏切られて脳震盪状態となって、先まで考えられないってとこだ。5月に向けてなんらかの動きはするんだろうが。もう燃えないなぁ。あ、ひとつだけ確かなこと。7月の参院選で、この沖縄では民主党完敗だってことくらいか。あ、こんなことあたりまえか(笑)。
ま、オレはこれでヤマトが何を言おうと、もう二度と信じられないとは思っている」

「オレもヤマトンチューだぜ」
「いやあれだけ島酒を飲んだら
、ハマちゃんはもう名誉ウチナンチューだから、(笑)」

■写真 杉林の樹間から差し込む旭。

2010年1月27日 (水)

平野官房長官、辺野古移転の本音とは強制収容だった!

033_edited1 うちのカミさんには、もういいかげんにしなさいよ、飽きたよと言われておるのですが、また今回平野官房長官の追い打ち的発言があって、逆に頭の芯が冷えてきました。再び、三たび辺野古問題です。

では、私が沖縄の名護市民(←だったんだぞぉ)の時代から愛読している「沖タイ」こと「沖縄タイムス」の紙面をご覧ください。

 合意がない場合でも法律的に移設が可能な手法があるとの見解を示したが、具体的には言及せず「沖縄基地問題検討委員会でゼロベースで議論をしている最中だ」と述べるにとどめた。

 また、名護市長選の結果は斟酌しないと発言した真意については、「市長選の争点が基地問題一本だったわけではないと思う。しかし、一つの民意であることを否定したつもりはない」と釈明した。(略)

 合意をめぐる平野氏の発言に対し、仲井真弘多知事は同日、「詳しい話を直接聞いていないのでコメントできない。官房長官と直接会う時に確認したい」と述べた。
2010年1月27日 09時55分)http://www.okinawatimes.co.jp/article/2010-01-27_2136/

沖縄のある種の有名人である照屋寛徳さん(社民党議員・弁護士)などからは「ぶん殴ってやりたい」とまで言われてしまったようでまぁ反戦地主会の幹部としては当然のリアクションです。
しかし、どうせインタビューをとるなら、喜納昌吉民主党沖縄県連会長に聞いてみてほしかったなぁ。今日、あの日本一のゼネコン親分が訪沖するようなので、昌吉さんぜひそのあたりを、政治的駆け引き抜きで聞いてほしいものです。ま、本音を軽々と言うタヌキじゃねぇか(苦笑)。

さて、ここから本題です。長すぎた枕ですまんこって。
上の沖タイの記事にあるとおり、平野官房長官のいう「法律的に移設が可能な手段」とは、私の知っている限りでは土地収用法に基づく強制収容です。たぶん「辺野古移設に関する特別立法」みたいな特別立法を作って、沖縄県に要請をかけるというか、ありていに言えば、圧力をかけるしかないですね。

というのは、土地収用の認可権は県知事にしかないからです。県土地収用委員会にかけて決定されますし、県議会の同意も必要です。

そして最終的には、県知事が判子をおさねばなりません。あ~、損な役割だねぇ。かつての成田の時の友納知事みたいだ。収容委員になり手がいるのかしら。成田では何人かテロられましたからね。たぶん県議会はシッチャカメッチャカだろうな。まず、今の沖縄の民意では通過しないでしょう。だから、自民党も14年もたらたらかけてしまったのです。

ところで、私は昨日今日、つちらつらとこの平野官房長官の動きをトレースしてみたところ、興味深いことが分かりました。平野さんは、名護市長選挙前に沖縄県知事と会ってるんですな。正月明け早々の1月9日のことです。

仲井真県知事に、わざわざ首相の腹心の官房長官が出向いたのはこの一言をいいたかったようです。
知事のご決断をお願いするかもしれない

意味深ですな。この時期に首相の腹心が「知事のご決断をお願いする」と言えば、それはただひとつしかありません。辺野古移設について協力しろ、という以外ありえません。当然、知事はビビリました。「そんな恐ろしいことを」と答えたそうです。


時系列で整理するとこうなります。民主党政権は、マニフェストに「県外移設」とデッカク書いた時点では、とりあえずその気でした。もちろん代替案は考えてもいません。政権さえ取ればなんとかなるさってなもんです。それが政権の雰囲気でした。財政にしても農政にしても、国家安全保障にしても、だいたいこんな調子で、政権さえ取ってしまえばなんとかなると。
事実、沖縄選挙民の票はこの民主党トロール漁によりザクザクと民主党に流れ込みました。かくして沖縄全選挙区は民主党の勢力下となったわけです。と、ここまではハッピー。

しかし、米国政府が同じ民主党政権だと甘く見たのかどうなのか、出方をまったく読み違え、日米政府間公約違反という事態にまで発展し、大騒動になりました。財政や農政などはしょせん国内問題ですが、同盟関係は次元が違いますからね。
この段階で、岡田外相、北澤防衛相など矢面に立つ閣僚は、はたと現実に目覚めたようです。

そして普天間移設に関して定番にして不毛の候補地探しが、またもや始められたのです。下地島、硫黄島、そしてあろうことか「沖縄平和運動の聖地」伊江島までもが候補地に登りました。たぶん佐賀空港も調査対象になったことでしょう。そして社民党の一押しのグアムです。

これらの候補地が現実性がないことは、すぐに調査の結果分かりました。そんなものがあれば、とうに自民党が決めていますって。選択枝はなかったのです。ここに至って、民主党は自分で自分の首を締めている状況をようやく理解したようです。結局、二転三転、四転五転、七転八倒の結果、民主党政権内にはある合意ができていたと思えます。

それは「辺野古移転やむなし」です。そして、連立の社民党を切るシナリオまで秘かに決断したと思えます。これは、昨年末の前原氏や岡田氏、土澤氏の発言からかいま見られます。

そして民主党政権としては、名護知事選に関しては、表面上今までのしがらみで反対派を推薦したものの、たぶん内心「容認派が勝ってほしい」と願っていたのではないでしょうか。だから天下分け目の地方選なのに、民主党中央は支援のひとつもしていません。

というのは、選挙前に日本一のゼネコン親分が、なんと子分たちの苦労を知ってか知らずか、「あの辺野古の青い海を埋めてはいかん」(←プッ、お前にだけは言ってほしくないよ)と言い出したからです。ハレホレ、ケセラセラ。

子分たちからすれば、もはや「沖縄民意は基地移設容認です」という言い訳しか残っていなかったと思われますが、しかし結果はご覧の通り、他ならぬ自分たちが起こした「民意の風」が吹いてしまいました。

ただし、もし本気で平野官房長官の言う強制収容案が政府内で検討されていたのなら、名護市長選の前に明確にそのように言うべきでした。このように、口当たりのいいことしか選挙前には言わないことで、その後にかえって現地の傷を深めるという後出しジャンケン癖は、もはや民主党の病と化しているようです。

今後ですが、とりあえず鳩山首相が「徳之島もいいじゃん」などと何を言おうと一切無視してください。あの人は良く言ってあげてもただの他人から良く思われたいだけのボンボン、はっきり言えば歩くムーのような人ですから。


民主党政権の路線(そんなものがあればの話ですが)の本筋は,ひたすらヒール役に徹して日々袋叩きにあっている平野官房長官の言説のほうです。

つまり、5月という期限をむかえて民主党がとりうる政策は、特別立法を作ってでも辺野古移設を強行し、その代償に賞味期限切れのマザコン首相の首を生贄に差し出すことか、あるいは、米国との関係を完全に破壊して普天間移設不可能と米国に言うことのふたつしか残されていません。いずれにせよ、自らが招いたこととはいえ、悪魔の選択であることにはまちがいありません。

■写真 名護市役所の漆喰シーサー。この毎日、市庁舎の上で怒ってるんだろうな。

2010年1月26日 (火)

平野ぶざけるな!選挙結果を斟酌しなければならない理由はない、だと!

049_edited1_2  今日のニュースで平野官房長官が、「選挙結果には斟酌しない」などと言っているのに出くわした。ひさしぶりに腹の底から怒りが吹き上げた。

なにが「斟酌する理由はない」だ!ふざけるな!大ありだ!いったいあなたに人の心というものがあるのか!民主党はマニフェスト政治だと言ってきたのはどこの誰だ。「マニフェストに違約したら、辞任する」みたいなスカしたことを言っていたのはどこのどいつだ。

そして選挙マニフェストにはデカデカと「普天間基地の県外移設」と大書きしてあるではないか。これがあったから、沖縄の選挙区を総なめにしたのだ。

それを信じた沖縄県民がバカだったと言いたいのか。今の民主党政権には選択の余地はない。投票結果を受け入れて、選挙マニフェストを遵守すること、他に何かあるんだったら教えてほしいものだ。

今になって、対米関係がどーたら、県外移設の候補がないなんてスカタンを言うんじゃないぞ。そんなことは千も承知、百も合点だったはずだ。なんで自民党が14年もかけていっかな進まないのか、数千億の北部振興予算を投入してなお、ヤンバルの衰退の歯止めがかからないのか、そんなことを調べてマニフェストを書いたんだと思っていた。

いや、ウソ。農業政策の時も思ったが、なんも考えちゃいなかったのだ。なんせマニフェスト自体一握りの人間が、専門家も党内の専門家すら入れず、密室で1カ月ていどで書き上げたような代物だからな。

沖縄のなにが問題なのか、基地をどうすべきなのか、具体的にどこに移設したらいいのか、沖縄経済をどうするのか、真剣に考え抜いて作られたものではなかったのだ。

ただの選挙目当て、票目当てで人心を利用したにすぎぬ。弄んだにすぎぬ。票さえ頂ければ、後は「斟酌する理由はない」のだから、「ゼロベースで考える」ことになる。

このようなやり方を詐欺と言う。

辺野古移転はなくなった・そして

024_edited1 上の写真は名護市役所です。象集団が作った風土を生かした公共建築の傑作ですが、新たな名護市長に反対派が押す稲嶺進氏に決まりました。予想どおりの僅差でした。

阿波根昌鴻さんも、天界であの温顔をほころばせていらっしゃることでしょう。そしてショーコーさんの写真に見守られて、長期の炙られるような炎天下の下で座り込みを続けた監視団の皆さん、ご苦労様でした。長い戦いをしばし忘れて、チクとコシユックイして下さい。皆さんの辺野古移転阻止という運動目標は十分に達せられましたから。

さて視点を変えます。情を抑えて今後の展開を考えてみます。
実は、意外に思われるかもしれませんが、この選挙結果ほど鳩山政権を追い詰める結果はありませんでした。「県民の思いを重視する」という表現で、のらりくらりと国防方針を地方自治体に転嫁し続けてきた首相は、これで完全に退路を断たれることとなりました。

首相は「ゼロベースで」などとピントのはずれたことを言っていますが、今度こそ中央政府が決断を下す番です。しかし、この選挙結果により、選択肢は極端に狭まりました。辺野古移転が地域の民意によって拒否された以上、県内移設候補だった伊江島、下地島はほぼありえません。両地元自治体とも反対決議をしているうえに、伊江島に至っては沖縄の「反戦の聖地」ですらあります。

つまり、県内移設の線は完全に消えたと言っていいでしょう。ならば県外移設となるのでしょうか。交渉には「相手」がいます。私たち日本人はとかく忘れがちですが、今回の普天間移設問題には「相手」が存在します。あたりまえですが、それは米国政府です。

ここで改めて交渉相手の米国にとっての普天間基地が「なければならない緒条件」を上げてみましょう。たぶん条件は大きくふたつです。

まず第1に、普天間基地が存在する意味は、東アジア有事、なかでも台湾有事のためのに緊急展開部隊を送り込むためのヘリコプター基地です。そしてその基地の所在地は、ヘリコプターの航続範囲が台湾から緊急有事に即応できる範囲内です。この条件に合うのは、北九州の一部と奄美諸島の一部、そして沖縄本島です。

第2に、普天間基地というのは単独では存在しません。あくまでも海兵隊の駐屯地(キャンプ)とワンセットなのです。有事即応する部隊とヘリコプター部隊は一つがいの軍事ユニットなのです。となると、海兵隊駐屯地と離れた普天間基地の存在はありえないことになります。

もし普天間飛行場のようなヘリ基地を県外に移設するとなると、同時にキャンプハンセンなどの海兵隊駐屯地も移設せねばならなくなり、大変な大事となります。

また、グアムでは東アジアでの緊急展開にあまりに遠すぎる上に、事実上、嘉手納空軍基地を除く沖縄の基地すべてを撤去するに等しくなり、現実性がありません。社民党や伊波宜野湾市長の言説は空想的期待にすぎません。米国がその条件を飲むことはありえないでしょう。

したがって、普天間基地は、現状の諸条件の中では動きようがないと思われます。そしてその場合の答えは、消去法によって論理的にただひとつしかありえません。

普天間基地は居すわり続けます。ある米国政府関係者は、この普天間移設の交渉に15年かかったのだから、あと15年はかかるだろうね、とのたもうたそうです。

かくして、すべては15年前の振り出しに戻りました。しかも単純に戻ったのではなく、もつれて、歪んで、地域を二分し憎み合って戻ったのです。

私は為政者に必要な条件は、「毒」を飲む精神の強さを持つことだと思っています。この場合、普天間を辺野古に移転するという「毒」を飲むか、さもなくば交渉相手に「毒」を飲ませるしかなかったはずです。

鳩山首相は、この「毒」という言葉からもっとも遠いひとです。いつも他人の顔色を伺い、ヘラヘラと無節操な言い逃れで人生を渡れると思ってきた御仁です。もっとも首相に据えてはならないタイプの人でした。それにしても、こんなマザコン男とゼネコン男がリーダーでなければ、この民主党政権はよほどましなものになっていたでしょうに。
しかし、もう逃げられません。今度は「毒」を飲むのは、他人に毒の杯を回し続けて恥じなかったこの男の番ですから。

鳩山首相、あなたに少しでも勇気というものがあるのならば、米政府に対して真正面から「県民の思い」を対置しなさい。結果、普天間基地が居すわるのなら、それを県民に、いや、私たち日本国民すべてにわかるように説明しなさい。それがあなたの首相としてのたぶん最後の仕事になるはずですから。

■追記 
記事をアップした後に、首相の発言が伝わってきました。「辺野古移転の現行計画も除外しない」そうです。また名護市長選の結果も、「それはそれとしてひとつの意志として考える」のだそうです(爆笑)。いちどこの人の脳味噌を開けて、中身がオガクズでないのか確かめてみる必要がありそうです。

2010年1月24日 (日)

今朝のワンコロどもの獲物・キジの雄

014_edited1 このところ、うちの農場の下の原っぱ、正式名称・耕作放棄地でわが家のワンコロともが狩猟などするよになり、毎日のようになにか捕まえてきます。

先日は野うさぎで、ワンコロどもにも美味だったとみえて、ハグハグと食べられてしまい、残ったのは哀れ尻尾のみ。

英国人は野うさぎの尻尾は幸運のお守りとするそうですが、こんなもんだけ残されてもねぇってかんじです。入植した当時、ある農家から勧められてウサギを飼ったことがあります。といっても、10羽くらいですが。

あ、そうそうウサギは「羽」とカウントします。なにやら江戸の昔、獣食が禁制だった時代に、これはニワトリの肉だと言って、お上をだまくらかしたとかなんとか。ま、お上もダマされたふりをして、一緒にウサギ汁にフーフーと舌鼓を打ったんでしょうな。

結局、そのウサギたちは、大部分自分たちで食べてしまいました。味はあっさりとしていて、たしかにニワトリと似ていなくもない。ただ肉量が非常に少ないのです。モモ肉にしても、オバさん鶏より細いんです。

たしかにその勧めて頂いた農家さんが言うように繁殖力はあるようですが、でも、灰谷さんの小説のタイトルではありませんが「兎の眼」は可愛すぎて、ちょっと落とせない。そうとうに心理的な抵抗感があります。
しかも、食肉処理しようとして捕まえると、妙に固まってしまうのですから、かえって罪悪感をそそるんです。

毛皮は、本を調べてなめしました。ちょっとグロで恐縮ですが、ウサギは丸剥きが出来ます。肛門に包丁を入れて少し拡げてそのままセーターを脱がせるようなあんばいでクルリと剥きます。そして皮に付いてくる肉をきれいにこそぎ落として、薬品を使ってなめしていきます。
可愛いミニマフラーが出来ました。ただし、なめしがいい加減だったで、摘むと毛がゴソと抜けました。

そして今日は、ワンコロの獲物は、なんとキジの雄です。ケーっというような甲高い声で啼くので、いるのは分かっていたのですが、よもやわが庭にゴロリと横たわっているとは。

どうやら、うちのワンコロどもは集団で狩猟をすることを覚えたようです。複数の犬の組織的な狩猟はいわば本能です。一匹がガーっと追う、一匹が待ち伏せする、そこに別のもう一匹も加わって包囲するという手筈です。習熟した犬の集団狩猟からは、まず逃げられません。

こんなことを覚えさせていいんでしょうか。日に日に狩猟犬のようになりくさって、嬉しそうに主人にウヘウヘと鼻をならしながら獲物を獲ってくるわが愛犬を見ると、犬の教育を根本的に間違えたのかと、カミさんと真剣に悩む毎日であります。

■写真 キジの雄。たぶんまだ若いと思われます。なんとメタリック・グリーンとメタリック・ブルーというハデハデ。雌はいたって地味な茶色です。いつも思いますが、自然界というのは、人間の感覚と違いますなぁ。キジはニワトリの一族なので、姿は酷似しています。

2010年1月23日 (土)

名護市長選のその後

Photo 葦原微風様、余情半様。温かいコメントありがとうございます。おふたりとも旅行からお帰りになられたのですね。葦原様、3週間もどこに行かれていたのですか?うらやましい。

余情半様、沖縄紀行http://kantannihasinjinai.blogspot.com/読まして頂いております。辺野古にも行かれたような。阿波根昌鴻さんの写真は、まだテントの上で微笑をたたえていましたでしょうか?普天間問題の解決を、名護市におっ被せるという「政治主導」には、なんともかともの気分です。

名護市の市長選の結果を占ってみましょう。いえ、容認派のヨシカズか反対派のススムのどちらが勝つかなどという生々しいことは、私には分かるはずもないでしょう。いずれにせよ、僅差でしょうね。

ヨシカズとかススムとかいう選挙ポスター懐かしいな。沖縄は姓でのポスターもありますが、名前だけのポスターもかなりあって、選挙投票用紙にヨシカズとかススムと書いてもまったくオーケーです。

余談ですが、今、名護で大選挙運動をやってボルテージ上がりっぱなしの喜納昌吉さんは、お父さんが有名な最近お亡くなりになられた唄者の喜納昌永さんでした。沖縄の名前のつけ方には法則があって。喜納昌永さんの門中の男は「昌」を頭につけます。
ですから、喜納昌吉なら、ああ、あの昌永さんの伜ね、と想像がつくというわけです。

さて反対派のススム候補が勝てば、わが首相は、得たりとばかりにとうぜんこれを「沖縄の民意」とし、県内移転はきわめて難しいとするでしょう。おいおい、自分の決断でやれや、と言いたいところですが、まぁあのようなペラペラとしたカンナ屑のようなお方なので、贅沢は言えません。

そして、現実にはグアムや硫黄島、ましてや伊江島への移転などありえない以上、事実上これで普天間基地移設を巡る日米交渉はワンラとなります。

そして普天間基地は動きたくても行く先がないし、米国としては東アジア、なかでも台湾有事の上で動かせない基地と判断していますから、普天間基地は現況のまま居座り続けるということになります。

では、容認派のヨシカズ候補が勝った場合ですが、「天の声」からダメと言い渡され、社民党も辺野古移転決定の場合は連立離脱を宣言した以上、カンナ屑首相は動くに動けません。結局5月という自分で作った最終期限になっても、決断がつかないでまたズルズルと、1日おきに発言を翻すという余人には出来ない得意技で乗り切ると思われます。

すると米国はシビレを切らして、向こうから交渉を家切ってくるでしょうから、普天間基地居座りとなり、結果は前者の反対派のススム候補が勝った場合とさほど変わらないということになります。

あるいは、日米関係が極度に冷え込むことは避けられませんから、その外交的な代償として、「沖縄タイムス」(1月9日)に佐藤優さんが書いているように、揺らぐ日米同盟の補強のために、集団的自衛権の強化や、自衛隊の海外派兵を即時に行うことを求められるかもしれません。

まぁ、いずれにせよ。初めから代替案など考えてもいなかったのに、米国政府と沖縄現地をここまで引っ張ってしまえば、こうなるしかないという気もします。
沖縄県民と、米国政府という必ずしも一致した利害を持つわけではない両者に対して、「トラスト・ミー」と甘い言葉をささやいてしまったツケはどこかで払わねばならないわけです。

■写真 沖縄名物チラガーの燻製。チラガーとは豚の顔の肉です。コリコリして実に美味。

2010年1月21日 (木)

私の写真事始め

1_edited2 写真を撮ることが好きです。このブログを始める前まで、特に写真を撮るのが好きだと思ったことはなかったのですが、やはりアップできると気分が違うんすね。

たまに私の写真をダウンロードして壁紙に使っています、なんて言われるとホコホコと嬉しいのですな、これが。

さて、まだガキだった時、そうですね16くらいだったかな、親父殿のペンタックスを借りて飛行機を撮りに行きました。私の当時の実家は神奈川の厚木飛行場の近くにあって、大山山塊を従えた富士山を背景に、飛行機がまるで水面に跳躍するスイマーのように舞い降りてきていました。

不思議と記憶は無音です。白い機体を光らせながら、富士を真横にして滑り込んでくる情景だけが記憶に残っています。夢中でシャッターを切りまくりました、と言いたいところですが、実際は24枚撮りの高いフィルムで、しかも家族のニカッと笑った集合写真なども入っているヤツですんで、慎重に慎重にパチっと写しました。今のようにデジカメで撮りまくり、すぐにPCで確認して画像処理をするなどというのはSFの世界です。

ところがまるでシャッター速度が追いついていなくて、心霊写真よろしくボケていたり、機体のヒップだけだったりというトホホばかりで、親父殿から「お前、才能ないなぁ」と笑われたものです。そうそう当時は、ベタ焼きといって10枚くらいミニサイズで焼いて、その中からこれとこれね、みたいに選んで大きくしていたもんでした。ああなんと、昭和古老の聞き語り風な話であるよ。

高2の夏休みの時に、親父殿が新型カメラに買い換えたかなんだかで、このペンタックスはめでたく私のものになります。嬉しかったですね。今と違って花鳥風月などはゼェ~ッタイに撮りませんでした。なんせピカピカのメカ派でしたから。私が花や樹や雲を撮るようになったのは、もう少し後の山登りをしだしてからです。

高2の夏休みに厚木飛行場の着陸直下地点でカメラを構えていると、不思議な一団と毎日出会って、挨拶をするようになりました。オジさんばかりで、麦藁帽子をダサくかぶり、手拭いを首に巻くというおおよそヒコーキファンとは思えない姿で、カメラで米軍機を撮り、ノートになにやら記録をしているのです。

なんと怪しい人たち、きっとこれがあのスパイという奴なんかしらと思っていると、私に「坊や冷たい麦茶飲まないかい。菓子パンもあるよ」などと親切です。だいたい私は子供の頃から、何か食べ物をくれる人は皆いい人という固い信念の下に生きていたのでした。

これが一部では有名な日本共産党の反戦なんとか監視団という人たちでした。当時燃え盛っていたベトナム戦争から帰還して、厚木飛行場に付設された日本飛行機という会社で修理されていた米軍機を、しっかりと監視し、記録に取っている人たちだったんですね。

そのうち、「キミの写真も現像してあげようか。僕のうちで現像できるんだよ」なんて危険な甘言には、もちろん乗りました。だって現像代をどう工面しようかと、小さな胸を痛めていたのですから。

こうしてこの夏いっぱい私は、米軍MPが柵の向こうから車両をどっかりと据えて、望遠レンズつきカメラで遠慮なくバチバチと撮られている「スパイ団」の、唯一の少年になっていたというわけです。

■写真 里山から登る満月。まるでパラオかバングラディシュの国旗みたいですな。現実にパラオ国旗は、日の丸へのオマージュだということは知られています。

2010年1月20日 (水)

自分自身が権力であることを忘れた民主党は滅べ

014_2 2日間ばかり、書くのがイヤになってお休みをしていました。なんかなぁ・・・というある種の無力感みたいなものがあります。

というのは、ま、アレですよ、あの小沢疑獄事件というか、それによる民主党のとったリアクションの愚劣さです。

結論から言えば、私が見る限り民主党はダメです。政権維持というレベルではなく、たぶん分解消滅にまで行くのではないかと思われます。

まず、政権存亡という危機管理において最悪の選択をしました。小沢一郎の言うようになんのやましいことがないのなら、さっさと検察の事情聴取に応じればいい、ただそれだけのことだったはずです。それを「検察と戦う」だとか、小沢を擁護するのにことかいて、検察を新撰組や226事件の青年将校にたとえてみたり、果てはCIAがどーしたのとか、またぞろ去年で味をしめた「国策捜査論」の柳の下に二匹めの泥鰌を探すに至っては、もう頭を抱えるしかない体たらくです。

かつて西独のコール首相が自分に裏献金疑惑が出たとき、「ただちに調査委員会を作ってくれ。捜査には全面協力をする」という意味のことを発言し、現にそうしました。結果、裏献金は発見されましたが、被害は最小限度で済みました。

さっさと疑惑を晴らす調査委員会を立ち上げていればいいだけです。そう、たしかに調査委員会は作るそうです。ただし、自己検証のための小沢事件調査委員会ではなく、検察の情報リーク調査委員会である、と。あらあら、ハラホラ。

政権党が、自分の意に沿わない報道をなされると、その都度ブチ切れてその情報のソースを疑い、そして情報統制してやるといわんばかりの委員会を発足するとなると、これはどのような社会になりますか。
民主党内部で全体主義国家ゴッコをするのは勝手です。虫酸が走りますが、イチローユーゲントでも、イチロー真理教でも自由にお作りなさい。しかし、それが政権与党であり、国や社会を統制し得る308議席を有している政権与党が、自分たちの党に批判的だというだけで情報統制をする準備を始めたとなると、ことは冗談ではなくなります。

なぜなら、スペイン戦争のファシストと戦い、スターリニズムに背中を撃ち抜かれたPOUMの義勇兵だったジョージ・オーエルの「1984年」が描いた逆ユートピアが、全体主義社会が現実味を帯びてくるからです。

民主党は「権力」を甘く見すぎています。みずから自身が政権党であり、政権党が「検察と戦う」と言う重大な意味、政治的な信号にまったく気がつかず、そして、自らが不利な情報を統制してやるとまで発言してしまいます。まったくその意味の重大さに気がついていない。

自分が権力者であることにすら気がつかない権力者ほど、タチの悪い者はありません。事業仕分けの狂宴の時にもそう感じました。たぶん、この人たちは「権力」のほんとうの怖さを知らないので、それをオモチャにして遊んでいるのだ、と。
「権力」が使い方次第で、託した希望を一瞬にして断つものだということを。

仙谷行政刷新大臣、あなたはたしか東大全共闘でしたね。所属党派はフロント(社会主義学生戦線)。41年前、あなたは1969年1月19日の安田講堂にはいませんでした。あなたは、権力」の放水に腹をすかせ、骨まで凍えて、着火しない火炎ビンを投げんとして逮捕されていった学生たちの姿を覚えていますか?その後、ほとんどが他大学だった彼らが、長きにわたる公判と下獄を受けたことを。大部分がまともな就職などできなかったことを。

福島瑞穂少子化担当大臣、今回の事件で「説明責任があります」ていどでお茶を濁しているあなた自身社会党の活動家だったし、人権派弁護士でした。そして旦那は某党派とも関係のあるという噂のあるお方のはずです。

おふた方ともに、「権力」の不条理と戦うことを人生のテーマとした人間だったはずです。ところがそのあなたがたが「権力」そのものになってしまった。

そして私も、農村で生きる上で色眼鏡で見られるので大ぴらにこそしていませんが、17の歳に高校全共闘の首謀者として処分会議の常連となりました。以来十数年、逮捕歴すらあります。そして農業に志して、農村に飛び込み、百姓として25年間、私もまた、時間と生きる場が私を根っこから変えました。

しかし、17歳の時から私の中で変わらないものがあります。それは「権力」を相対視する眼をいつも自分の中に持つことです。
一生「権力」と無縁で生き抜くなどと言う気はいささかもありません。大なり小なり、50代の後半になれば、社会的責任という名の「権力」を背負うことになるからです。そうでなければそれはまた別の意味で、卑怯というものです。

しかし私は、自分の「権力」の保全のために、己の権力装置を使うという道を外れたことはしませんでした。強大な権力者の膝にすり寄ることもしないし、まして、それを守る為に、国民の情報を統制するなどという愚行はしない。

私はかつて、ある農業組織の代表責任者であった時に、自分の「権力」を取るか、あるいは、「組織」の保全を取るかを問われた事件にはからずも遭遇してしまったことがあります。
道はふたつしかありませんでした。自分の「権力」を守るためになりふりかまわず戦い、多くの人を巻き込んで傷つけるのか、または、自分にすべてを引き受けて「組織」を延命させるのか、でした。

結局、私は後者の道を選び、またただひとりの百姓に戻りました。それが決して潔くも、私が強いことでもない証拠に、私はそれからの日々を悔恨の念と共に暮らすはめになりました。

そんな私から小沢一郎という男を見ると、私のもっとも深い部分から嫌悪の苦い汁のようなものが込み上げてきます。
国民の血税をワタクシすることにより肥え太り、そして権力をワタクシするためには手段を選ばず、他人の党を乗っ取ってワタクシし、そしてひとたび権力を得れば己ひとりに権力を集中させるワタクシのシステムを作り上げ、それにひとたび司直の手が伸びれば、「組織」すべてをワタクシの道連れにして恬として恥じない。そんな男を私はためらわず悪霊と呼びます。

そして今やそのような悪霊に使えるようになった仙谷大臣や福島大臣を哀れみます。あなた方が「権力」と引き換えに失ったものはなんだったんでょうね。
仙谷さん、41年前のようにまた逃げるのですか。

■写真 なんだかわからないでしょう。ムクゲの種子です。

2010年1月17日 (日)

昭和の悪霊は、魂を寄越せば栄光の日々を与えようと言った

017_edited1 ご承知のように、民主党大会が開かれました。なんと覇王とともに轡を並べて戦うそうです。鳩山首相も「どうぞ検察と戦ってください」と、小沢一郎氏に檄まで飛ばしました。

ひとつの政権が、検察司法と全面対決に突入するという異常事態が始まったのです。

また、毎日新聞によれば、この男が鳴り物入りで行った政府への「陳情」なるものの内容がわかってきました。

民主党の小沢一郎幹事長が2010年度予算編成に向けて鳩山由紀夫首相へ提出した「重点要望」のうち、目玉項目となったガソリン税の暫定税率維持や子ども手当への所得制限導入について、実際には各種団体や自治体からの陳情、要望はなかったとみられることが17日、分かった。複数の党関係者が明らかにした。

やっぱりね。そうじゃないかと思っていたのです。形式的には各党に上がってきた「陳情」を、党務の責任者としてのこの男が、政府に「陳情」するという形式ですが、内実は政府の上にそびえ立つ覇王による政府への恣意的な政策のゴリ押しだったというのが、はしなくもバレてしまったようです。

民主党幹事長室の陳情箱の中には、私たち地域の有機農業推進協議会の陳情書もあったはずですが、そんなものは眼の端にもなかったと見えます。ま、ゼニになりませんからな、わが有機農業は。

さて、彼は「陳情」の聴取を、従来の選挙区の議員から取り上げ、いったん県連に集約した形をとった後に、中央の幹事長室に一括集約するというシステムに作り替えました。これによって、民主党議員は陳情を聞き取ることも、添え書きひとつもできず、かてて加えて議員立法も禁止という議会で手を挙げるだけの存在に成り下がったのです。
このような党の政治体制を民主中央集権制、別名全体主義といいます。


この陳情聞き取り禁止の名目をこの男は、体裁良く「政-官-業の癒着を断つ」としました。
しかし、ちょっと待っていただきたい。この男だけにゃあ言われたくはないですな。今政界を見渡して、この男ほど絵に描いたような政-官-業の談合そのもののをあいもかわらず、大っぴらにやって恬として恥じないヤカバラはいないのではありませんか。
談合本家の自民でも、今や彼のような「利権工学」の域にまで達した者はいません。

たしかにかつての自民党政治は、議員に業者や住民が陳情をするのを官僚に仲介する中から、政-官-業の談合腐敗構造で下から支えられていました。これが自民党政治の温床であった金権構造です。
たとえばODAがあれば、必ずコンサルタント会社があり、それが政治家を仲介して外務省を動かし、その3~5%をコミッションとして政治家が自分のポッポに入れたと言います。このODAがらみの最大の闇が、中国利権でした。

これは田中角栄が「井戸を掘った」(中国側の表現)ことにより、旧田中派が一元的に握ってきました。田中-金丸-橋本と連綿と続く中国ODAの利権のやり口をもっとも知悉していたのは、誰あろう田中-金丸という流れの直系本流にある小沢一郎その人だったはずです。

そう考えると、なぜこの男が毎年几帳面に年末北京詣でを続けたてきたのか、そして日本の最高権力者になった今、国会会期を調整してまで、なぜ160名の現職議員、そして随行合わせて600人もの恥知らずの北京参拝団を従えたのか、あるいは、中国共産党の御曹司に天皇陛下を強引に会見させる必要があったのか、その理由の一端を説明することができます。

ダム利権、道路利権、土地改良にまつわる利権など、自民党がなしてきたすべての談合構造を知り尽くした彼が考えてきたことは、自民党の持てるすべての利権を自らに吸い寄せること、そっくり自らの下に移し替ることだったのです。

そして利権の全面的な移し替えのためには、「政権交替」が必須でした。ある意味、旧民主党も利用されたのかもしれません。しかし、昭和の悪霊に乗っ取られ、それなくしては何も出来ないようでは、乗っ取られてあたリまえです。

今回、民主党が唯一生き延びる方法は、この男をいったん検察の捜査中は休職させて空位にし、それの責任をとった形で鳩山首相が辞任した上で、前原氏などに代表を交替し、新代表の元に第三者を交えた党内調査委員会を作る危機管理体制だけだったはずです。

この陣形ならば、仮にこの男に検察の鉄槌が振り下ろされようと、あるいは助かろうとどちらにも対応できるはずでした。鉄槌ならば、休職を辞任にすればいいだけですし、セーフならば復職すればいいだけです。

しかし、民主党は最悪の方法をとってしまったようです。つまり、昭和の悪霊と轡を並べて戦い、そしてこの男と共に地獄にまで落ちるという。悪霊は空虚な者にしか憑依しないというのは、どうやらほんとうのようです。

かつて悪霊は彼らを訪れ、お前らの力ではとうてい見ることが出来ない栄光の日々を与えようと約束しました。
そしてその引き換えに、魂を奪っていったのですから。

■ 写真 満月の下の農場の宵

2010年1月16日 (土)

覇王の失墜

001_edited1 まずは、小沢一郎の巨大疑惑解明に大きな司直のメスが入ったことを歓迎します。今までタブーのように触れられてこなかった談合組織「東北建設業協会」の幹事会社鹿島という本丸に一挙に捜索の手が伸び、さらには石川、大久保という旧、現職秘書が逮捕されるに及んで、「小沢帝国」の擬制が音を立てて崩壊に向かっているように思えます。

国民の多くが、自民党の旧態依然たる政治に倦んでいたことはたしかですが、誰も「小沢帝国」などというグロテスクなものを作ってくれなどと頼んだ覚えはない。
小沢一郎は、清新な空気を求める国民感情を利用し、ゼネコンとの癒着を構造化し、巨額の賄賂によって自らの私腹を肥やし、手下を養い、自らひとりの元にすべての利権と政治権力を集中させる政治構造を作らんとしました。

そして、この恐るべき野望はほとんど完成の直前でした。小沢チルドレンという使い走りだけで、実に自民党以上の議席数を持ち、それを背景にして与党は反対派なき一元支配構造になりました。そしてさらには、与党の圧倒的多数を通じて、現在の日本国は、無力な首相の上に「覇王」が君臨するという異常な権力構造になりました。
日本国は、議会によって選ばれた首相ではなく、私党の実力者によって統治される国になったのです。

さて、昨日の事態を受けて、鳩山首相はなんと言ったのか。
「このようなことを国民はご承知の上で、衆院選に勝たせていただいた」
どうやら騙されたお前ら国民の方が馬鹿だったのだと言いたいようです。前から疑っていましたが、彼という人間は、人としての倫理観と責任感が二つながら欠落しているようです。
前原氏だけは筋の通ったことを発言しましたが、後はだんまりです。党内で調査委員会を作るどころか、猫の首に鈴をつけようという胆力を持った者すらいません。検察の捜査が不調におわった場合の報復を恐れているのでしょう。私たち国民は、こんな怯懦な者たちを選んでしまったのですよ。

私は、小沢一郎に説明責任を求めるなどということを望みません。ただちに与党幹事長を辞職し、議員を辞任し、そして司直に出頭してすべての悪行を自白しなさい。
それが民主党に308議席も与えてしまった国民の歯ぎしりするような慙愧の念に対する、唯一の責任のとり方です。

2010年1月15日 (金)

日本の農民より在日韓国人を向く赤松農水大臣

_edited1 われらが赤松広隆農水相の民団(在日大韓民国民団)の新年会での挨拶が伝わってきました。いつもは存在感の希薄な大臣ですが、こういうマニフェストにもない法案ともなると、がぜんファイト一発なご様子です。

「鄭進団長をはじめ民団のみなさまには昨年、特にお世話になりました。今農水大臣ですが、その前は選対委員長やってたもんですから、全国各地で、直接皆さん方、投票いただけませんが、いろんな形でご支援をいただいた。それが308議席、政権交代につながったと確信いたしております」

いや~、正直な方ですなぁ。大潟村で減反無視を繰り返してきた農民相手にいきなり謝っちゃった時もそう思いましたが、「去年の選挙で各種の多大な支援を民団からもらった」なんてことをほんとうに政府高官が言ってしまっていいのかしらん。欧米でこんなことを言えば、赤松さんの首はおろか、確実に首相の首も飛びますよ。だって、外国人政治勢力の手先だって言われかねないことですもんね。

赤松さんが懐かしの旧社会党の書記長だったというのは有名ですが、野党政治家の時分なら、在日韓国人の政治集団に物心双方の応援を受けようとどうしようと、とりあえずは、まぁねですが、政府高官となった今、大きな声で「私、赤松ヒロタカは、在日外国人勢力に支援をもらっております!」なんて恥ずかしげもなく大っぴらに言うこっちゃないでしょうが。
赤松さんあなた、旧社会党的ぬるま湯の常識に長く居すぎたね。

去年の選挙の折、目に余るような民団のなりふり構わない民主党選挙応援には、この私ですらいかがなものかと思っていました。「在日韓国人」という問題は根深い問題です。それを永久化することが良いことなどとは、私はまったく思いません。参政権付与は、単に解決を遅らせるだけだとすら思っています。
第一、そんなややっこしい屈折した歴史が絡む政治問題を、平気で選挙の票という党益に使うというセンス自体がバッカじゃなかろかです。

それをあっけらかんと「前回の選挙でのご支援ありあったんした!今後もよろしく、あなたがた在日韓国人が票になるように努力します!」とやっちゃうというがスゴイと言えばスゴイ。
赤松さん、あなたは日本の農民の気持ちはな~んもわかっちゃいないのは、大潟村減反謝罪事件の一件でよく分かりました。でも、これだけの在日韓国人への熱い気持ちを、わしら百姓にちっとは向けてくれてもバチは当たらんだろう(涙)。

さて赤松大臣はどんどんテンションが上がります。続きです。

そのときのみなさんの思いは政権交代ができれば、民主党中心の政権ができれば、必ずこの15年間、16年間取り組んできた地方参政権の問題が解決するんだ。その思いで、全国で私どもを応援していただいたんだと思っております。心から感謝申し上げます。
その意味で公約を守るのは政党として議員として当たり前のことですから、この政権のなかで鳩山総理の決意のもとで、あるいは小沢幹事長、民主党の与党の強い要請のもとでこの通常国会、必ずこの法案を成立をさせ、皆さん方の期待に応えていきたいと思います」

おや、「公約を守るのは当たり前のこと」と来ましたか。おいおい、赤松さん、いつ外国人参政権を政権公約に入れていたんでしたっけ?たしかマニフェストには一行もなかったですぜ。民主党内部ですら反対が多くてまとめきれず、だから今回議員立法ではなく、「天の声」のお導きの下に、党議拘束が効く政府提出立法としたんじゃありませんでしたっけ。
だいたいが゛外国人参政権がマニフェスト落ちしたのは、国民の反感を買いたくないからと分かっていたから、マニフェスト落ちしたんでしょうが。こんな選挙戦術というのもおこがましい、目先の選挙利害にまどわされて、なにが「マニフェスト選挙」ですか。

しかし、政権取っちまえばコッチのモンだということですか。大方のマニフェストは、実現不可能か、それでなければ議論すらされていないという惨憺たるありさまなのに、こんな裏法案を票が欲しいの一心でやろうという、そんな赤松さんたち民主党のさもしさが嫌いです。

赤松社会党書記長、いやさ赤松大臣、こんなくだらないことに力を注いでいるなら、さっさと自民党を凌ぐまっとうな農政をおやりなさい。在日韓国人のことをおもんばかる前に、私たち日本農民のほうをきちんと向き合いなさい。

減反がどれほどの農民の涙を吸ってきたのか、そして日本農業を歪めてきたのか、その心がわからないままに日本の農政をやってくれるなと言いたいのです。
そして、有機農業支援を切られたことを農水省の恥だと思いなさい。耕作放棄地対策事業を切られたことに痛みを感じなさい。農地改良事業の全国会長が自民党野中さんだからといって、半分にするような仕打ちにをした小沢さんに噛みつきなさい。

そして、そのような恥べき手練手管でひねり出した金でようやくバラまけた農家所得補償制度を、農水大臣として間違っても誇りになど思わないように。

■写真 農場の水たまりの氷。もう連日氷点下4度です。

2010年1月14日 (木)

私の阿波根昌鴻さん

051_edited1_2 今、伊江島になんともかまびすしい声が上がっています。小沢一郎や石原慎太郎が、「お、あの島が開いているじゃないか」と言えば、防衛大臣までもが「おおそうだった、見に行こう」などと言う始末です。

沖縄の戦後にまったく無知な人々を、為政者に据えてはいけないという見本のような発言です。沖縄の戦争と戦後史を知らずに、単純な政治的な思いつきで伊江島を再び政治の場に引き出す無神経さに耐えられません。

伊江島は阿波根昌鴻さんの生まれた島です。今彼は本土の人からは忘れられつつありますが、強大な米軍と身一つで戦った伝説的な人でした。彼の指導した戦いにより、伊江島は沖縄の平和の静かな聖地となりました。


しかし、今、
から見える阿波根昌鴻さんは農民としての姿をしています。仰ぎ見るような偶像的平和運動家としての彼ではありません。

彼は、フォルケホイスコーレというデンマークの信仰と農業、生活をひとつにした農学校を伊江島に作りたいと思っていました。フォルケホイスコーレはとても興味深い農学校です。デンマークのグロントヴィが始めた、上から下に詰め込む教育をやめ、互いに農業で汗を流す中で、語り合い、変化していく農学校でした。

「民衆大学」とも訳されるそうですが、私の勝手なイメージでは、阿波根昌鴻さんのそれは、水俣の生活学校に信仰の要素を加え、さらに西田天香の一灯園の共同体運動を加えたイメージではないでしょうか。

農民が無料で働きながら、学問や芸術を学べる農場の中にある学校とでもいいますか。宮沢賢治が夢見て、そしてその実現の途上で捨てざるをえなかった羅須地人協会の姿にも重なり合うものがあります。

また、私にとってのもうひとりの阿波根さんは、キューバやペルーに海外出稼ぎをして、骨のきしむような労働に耐えた男の姿です。沖縄は広島に並んで、南米や南洋に多くの海外出稼ぎを生み出した貧しい地方です。

男はキビやパインの刈りとりという最底辺の仕事につきました。多くの男たちは、望郷の思いを残しつつ、その地の土となりました。ある者は現地の女性を娶り、ある者は沖縄から写真花嫁をもらい。子供を授かり、現地の中でもうひとつの「オキナワ」を作っていきました。今でもブラジルやボリビアなどには、その名も「オキナワ」という名の村があります。

阿波根さんが西田天香の本と出会ったのも、この故国から遠く離れたキューバの古本屋だったそうです。

阿波根さんは、金をコツコツ貯めて島に帰り、夢に見たフォルケホイスコーレを作る準備を始めた時に、あの忌まわしい戦争が起きたのです。伊江島は本島の戦闘を前にして、徹底した攻撃を受け灰塵に帰しました。そして戦の中で子供までも失ったのです。

そして戦後、直ちに米軍による島全体にも及ぼうという基地建設のための、村民の強制収容が始まりました。すべての農地を奪い、家をすりつぶし、家畜を殺し、着の身着のままで強制収容所に送り込むという所業です。

阿波根さんは、襤褸をまとった島民とともに戦うことを決心します。ただし、手にひとつの石もなく、ただ一本のカマも握らず、丸腰で。手を耳から上げることすら、米兵に暴力をふるったとされて射殺されるかもしれない占領時代に、まったくの素手で気の狂うような恐怖と戦いながら、人々のいちばん前で銃剣と向き合ったのです。


後に、襤褸をまとった「乞食行進」の先頭に立ち、島を巡り、戦世(いくさゆ)ですさんだ多くの沖縄の人たちに勇気を与えまし
た。これがもうひとりの阿波根さんの姿です。

私は、自分が農民となり、今また農学校を構想することを始め、その視線の先に阿波根昌鴻さんと再会しました。
かつての私は反戦運動家でしたが、逆に、それゆえ彼を自分の心の深い場所で理解してはいませんでした。今、彼の眼の位置に近い場所に営みをもつことが出来て、彼が何のために戦って来たのか、ややわかりかけているところです。

戦い、あるいは運動というものは、人がやむを得ず、最後の最後にとる切ない手段であり、戦いというのはつらく悲しいことばかりなのではないでしょうか。
人にとって戦わないことこそが幸福なのです。それが戦を止めるための戦いであったとしても。

人と人が争うことをもっとも嫌い、避けた男。これが私の最後の阿波根さんの姿です。

2010年1月12日 (火)

名護市長故岸本さんの夢と挫折

056_edited1 1982年の頃でしたか、私は沖縄の名護という所に新規就農者として入りました。今、普天間基地移転問題で、この1月の名護市長選が今後の日米安保総体の流れを決めるとまで言われている土地です。基地受け入れ受容派と呼ばれている前市長だった故岸本さんと島酒を飲み交わしたことがあります。

私たち夫婦がいた共同農場が、岸本らのグループと野菜や玉子のワンパック産直をしていたご縁でした。

当時の岸本さんは、まだ若くて市の企画室というところで市全体のプランニングに携わっていました。その中でできたのが、当時の言葉でいう「地方主義」の金字塔とでもいうべき名護プランでした。
名護プランはフロー、つまりは地域に落ちる金そのものより、その土地の中で根を張り続けてきた伝統とか、人の歴史、地域の成り立ちというストックに着目したものでした。

たとえばそうですね、仮にシマの公民館とマチヤグワー(小さなお店)の前に、大きなガジュマルの巨木が大きな緑陰を投げかけている広場があったとします。そこではオジーや、オバー、あるいは洟垂れ小僧どもが、長い夕方を過ごしている場所だったとします。

ここに、この市道のど真ん中にガジュマルがデンとあるので、市道がふたつになってしまっていて、4トン車が通過できないため、重量車は迂回をせねばなりませんでした。そこで、業者から苦情をたくさん受けた市としては、ガジュマルを抜いて道幅を拡げるということを企画しました。

さて、どうするのかです。たしかに道は大きくなるから、そのガジュマル広場の先にあるJAの集荷センターからの便は通りが良くなるでしょう。建設業者も助かります。農家もうれしいかもしれない。経済合理性から見たら、この私ですらそう思うかもしれません。

ところが、市の企画室の岸本さんたちの作った名護プラン的発想では、このムラのガジュマルの大樹の広場は共同体の要なんだととらえたのです。これを抜いてしまったら、オジーやオバーが公民館の空調の部屋にやって来るでしょうか。たぶん、来ません。狭いもん、息苦しいもん。

となると、共同体の集まる「ヘソ」を失くしたムラの人たちは、仕事が終わった夕暮れに、ムラの人と話す替わりに自分の家でテレビでも見ているしかなくなるかもしれません。子供はゲーム器を握って離さないでしょう。こんな都会とさほど変わらない風景が、今の農村風景になりつつあります。

こうして少しずつムラは通い合う体温を失くし、死んでいくのです。

共同体には必ずヘソがあります。どこかしらにあります。そこで人々はなんとはなしに同じ時間を過ごし、行き交い、ゆったりとした流れを共有するのです。それはごたいそうなことではなく、市場の店の前であったり、銭湯であったり、学校の校庭のブランコの横であったり、小さな公園のベンチかもしれません。

そして岸本さんたちはガジュマルの大樹を抜かず、市道を迂回させるバイパスを作りました。これは私が考えた仮の話にすぎませんが、そのような地域共同体に対する深い愛情という温かい血が流れていたのが、この名護プランでした。

時は流れて、当時助役になっていた岸本さんは市長に懇願されて市長選に出ました。なんと立場は名護市辺野古に普天間基地を移設する行政側の責任者としてでした。これほど損な役割はないでしょう。
かつての名護プランを支えた友人や仲間、彼らの多くは平和運動家だったわけですが、彼をユダとすら呼んだとも聞きました。私のいた共同農場のリーダーは、憤然として彼に決別を告げたそうです。

沖縄の言葉で肝苦さ(チムグリサ)、という言葉があります。心が泣いている、胸が痛みに耐えられないという意味です。この濁った世の流れの中で、かつて泡盛を呑みながら名護プランを私たちに楽しそうに語った岸本さんは病み、衰え、そして亡くなられました。長命の島で、哀しいほどの短命でした。彼の心中の嵐を、私には計る術すらありません。

普天間基地が辺野古に移転されると決まって既に十余年。かつて岸本さんの後継者だった島袋さんがまた市長選に出ます。彼の心の中で、岸本さん、いや名護プランはどのように生き続けているのでしょうか。

■写真 本部から伊江島のタッチューを望む。タッチューとはあの尖塔のような岩山です。

2010年1月11日 (月)

村の酔っぱらいたちの赤松農政の評判

021_edited1 昨年の暮れに村の友人たちと鍋を囲みました。話はするともなく、今年は厄年みたいなもんだっぺから始まって、来年はというと、もうまったく分からんということに揃い踏みの情けなさ。
となると、今の民主党政権はナニ考えているんだべ、と言うことになっていったとおぼし召せ。

私など自民党農政の頃はバリバリの批判派であったことは隠れもないことですから、「一回やらっせてみっぺよ」で政権を握ったところに好意的と見られていたようです。あ、この「一回・・・」ウンヌンは、ほんとうにこの茨城3区の民主党候補者のキャッチコピーです(笑)。
余談ですが、うちの地方は語尾にペをつけただけで、なんか土着オリジナルになると、やや安易に考えている節がありますんで、バリエーションとしてはご当地交通標語「酒飲んで運転やめっぺよ」(「泥酔して運転やめっぺよ」ではない)なんかがあります。

まぁそれはともかく、酒に酔うほどに皆どこに入れたんだ、白状せいや、ってことになりました。笑えることに2名を除いて皆民主党ということでしたが、1名は額賀先生の後援会の地区幹部の息子ですから、これはしゃ~ない。そして民主党に入れなかったもうひとりがこの私で、なんと共産党ときたもんだ。

おい、ハマちゃんや、いつから共産党になったんだ、と追求が厳しい。だって村の共産党は一種の屋号みたいなもんでありまして、どこそこの亭主、その舎弟、その嫁、その甥、そのまた女房と、なぜかみな「その」でつながる血族の園みたいになっているのですな。ですから、浮動票で共産党に入れるというのは、ほぼないのです。

私が共産党に入れたのは「その」血族とはなんの関係もなく、ましてや党員などでもなく、自民党にも民主党にも愛想が尽きていたからにすぎません。少なくとも私は、マニフェストとやらにこっそりと日米FTAを忍ばせるというやり口が信用ならん、と思ったからです。

で、皆の衆が言うことにゃ、民主党が農家戸別所得補償制度(ええい長ったらしい)をしたくてしたくてしょうがないのはよ~く分かった。しかし、それの実態が段々明らかになるにつれ、な~んだ米の減反補償金とおっつかつだっぺ、となってしまいました。

今までの減反奨励金を止めて、替わりに所得補償金という形に変えてみた。建前は減反廃止だが、内実はどうもそう簡単じゃないみたいだ、と皆が頭をひねる。
計算式は難しいのですが、反あたり1万5千円くれるというのは農業新聞にデカデカと出ています。

じゃあ割り当ての減反生産数量守って、その金握ったとして、その次はなんなのさ、ということろで話がパタリと詰まってしまいました。フツーはですね、例えば赤松さんの前任者の石破さんの頃だったらとしましょうか、専業農家の農地集積化事業や、それに見合った政府金融の低利の資金設定があったり、山間地ならばまとまって営農組合を作って、それに対する山間地支援策がある、という方向がとりあえず出ていました。

しかし赤松農政では所得補償金の「その次」がまったく見えないのですから、評価しようがない。たとえば農地集積事業はバッサリと真っ先に切られました。次いで、耕作放棄地対策事業もバッサリ打ち首。農道建設事業もバッサリ、そしてなんとびっくり仰天したことに有機農業支援事業も、農地改良事業本体すらも脳天唐竹割りで惨死寸前。

そしてこれらの屍累々の山も、なんのこたぁない、ただ農家戸別所得補償制度の財源の犠牲にされたにすぎないとわかってくると、もう悪酔いです。

つまりですなぁ、赤松農政は、専業農家が村の中の田んぼや耕作放棄地を借り集めて農家経営を成長させていくという道を、事実上バッサリと切ってしまったわけです。水田は、多くが改良区というひとつのため池から伸びるパイプラインでつながった水利組合が管理していますから、農地集積事業を止めてしまい、個々の水利組合の小規模農家(要するに兼業農家ですが)に農家所得補償で現金を配ってしまえばどうなるのか。

ま、これからは、たとえ専業農家が張りきってこれらの兼業農家に貸してくれや、と頼み込んでも、うんにゃお国が減反生産目標さ守れば、現金くれるつうに、貸借すっと所得補償金の受給関係がめんどうなだけだべ。おめぇにゃ貸せねぇな、となるのは必定でしょう。

じゃあ、なぜ民主党はこんな俺ら専業農家を目の敵にするようなことを始めたんだっぺとなるわけですが、誰かが杯をチビチビ舐めながらドッチラケの表情で言うには、選挙以外になんかあっか。

ああ、この一言で皆、酔いも覚めました。お~いねぇちゃん、代行さ呼んでくれや!おお、表はサブい。

■写真 食べごろの干し柿です。前にアップした干したての時と比べてください。

2010年1月10日 (日)

デジカメってほんとうは不自由なのかもしれない

Img_0001_edited1 昨日、友人のNさんと写真のことで語り合いました。

Nさんは親切にも私のブログからミニ写真集をピックアップしていただいて、赤面の限り。また、彼の友人のナカイノブカズ写真画廊ブログhttp://nakainov.exblog.jp/や、米国やイタリアの聞いたこともないスゴイ写真家のものも拝見しました。

彼は大学を経て、写真専門学校にまで通ったという経歴を持ちます。私などのように、コンパクトカメラでパチパチやっているのとはレベルというか、根性が違います。

何もカメラに「根性」などという東京タワーのお土産の木刀(昭和30年代にはそんなもんがあったのだよ)のようなことを書き込めと言っているのではなく、気合が違うとでも言うか。あ、いかん、いっそう精神論に。

それはともかく、今のカメラはある意味、無限の「自由」を手に入れてしまいました。というのは、私の買い換えたばかりパソコンにも鎮座しているアドベ・フォトショップを使えば、ほとんど原型を留めないまでに変えられちゃうんですから、こわい。今日掲載した写真も、左右をトリミングして、コントラストを上げてあります。

こんなことが瞬時にできてしまう。いや、やろうとすれば緑の太陽が2個水平線から上がるなんてこともお茶の子(私には難しいけどさ)。けれど、これってかえって人にとっては、しんどいことではありませんか。

写真や文学は、ある意味不自由の枠がはまっていて、制約があるほうがいいような気がしてならないのです。技術的制約、時間的制約、金銭的制約などは、人の想像力を豊かにします。というか、そうしないことには一枚の写真も撮れないからです。
人はそのような制約を乗り越えるために、その場の露出を測り、シャッター速度を設定し、白と黒とその中間色しかない色調に祈りを込めました。例えば人の肌の白さと、石膏像の白さ、襖のそれとは、すべて階調や質感が違います。
ただ撮っていてはその違いを表現できないとすれば、光線の斜角、強さをいろいろと変えてみるしかないわけです。そこに写真に人の眼が入る隙間が生まれます。隙間とは魂の言い換えです。

今のデジ・カメはそのような技術論を極端に圧縮してしまいました。もはや露出設定はおろか、ピントすらあっていなくとも平気のヘイザなのです。なにを撮るのかだけが、プロとアマの差になりつつあります。

Nさんに見せてもらったイタリアの写真家は、白と黒の階調だけによる静謐な静物画、人物像、そして群像を残しています。それらの写真は私の奥深い柔らかな部分をゆっくりと浸し、そして揺さぶります。
もしこれらの写真がデジタル処理されたカラーであったのなら、まったく違う作品になっていたことでしょう。

私が撮っているのは単に風景でしかありません。そのとき、そのときに面白く感じたオブジェの面白さでしかありません。しかし、ほんとうに優れた写真は、撮った人の精神を同時に映し出している残酷さを持つように思えます。

そのイタリア人写真家は、2000年に没するまでデジタル・カメラには触らなかったそうです。

2010年1月 9日 (土)

新しい有機農業支援予算事業とは その3        一度地域を巻き込んだら、二度と引き返すことはできない

_edited1 新有機農業支援予算の3つめの問題。新事業予算では地域に対する有機農業者の立場がまったく考慮されていません。

廃止されてしまった有機農業モデルタウン事業では、要として、市町村行政と協働することが条件づけられていました。

私は農水省の予算の組み方はよく知らないのですが、このモデルタウン事業において行政に仲立ちをさせることはいろいろな意味で意義あることでした。

まず、農村地域においては行政、あるいはJAとの協働することなしにはモノゴトがいっさい進まないのです。たとえば、協議会の会合を呼びかけるなどといったささいなことひとつでも、そこに行政やJAが参加していると、いないのとではまるで重みと広がりが違います。
これを事大主義と笑うなかれ。農村で幅広く地域興しをしようという時に、行政やJAを敵に回してはまず何もできません。彼らの持っている公共性は、農村では私たち変わり者連合である有機農業者の比ではないからです。

30余年間、いい意味でも悪い意味でも、私たち有機農業の関係者は、よく言えば栄光ある孤立、はっきり言ってout of order、序列外の存在でした。私たちの有機の仲間うちだけで組合を作り、産直事業を立ち上げ、村の催しや農業関係の集まりなどにも顔を出すことは稀でした。


なるほど、行政も、ましてやJAなどが、私たちを振り向こうともしなかったことは事実ですが、もう私たちはかつてのそれではない。それなりの力を付けて、確固たる経済基盤も、都市消費者との関係も作り上げてきています。もう孤立を粋がっているような子供じみたことは終わりにしたいのです。

私たち有機農業も幼年期が終わり、地域農業の一角として果たすべき役割を果たすべき時期です。その時期にこのモデルタウン事業がやってきたわけです。

・・・などと、殊勝に考えていたら、あっさりと仕分けられてしまい、次に農水省が言ってきたのは、「予算を復活させたが、今度のものは地域など考えなくてもいいんだよ。あんたがたの収益性や経済効率を向上させることだけやってくれたらいいんだから」ときたもんだ!

何を考えているのか農水省。そんなわけにいかんだろうが。
もう、私たちは一世一代の決意で、有機農業という住み慣れた穴ボコから出てきて、地域の行政や、なんとJAまでにも声を掛けてしまった後なんですぜ。ここで、「いやー、農水省がああいうもんで地域興しはいちおう中止つうことで、私らだけの収益性向上に邁進しますわ」などと頭をかきながら言い出せば、まぁご想像どおりですわな。もう百年間、地域は私たち「有機のてい」を信じてはくれないでしょう。田舎では信義は命より重いのです。

ですから、この地域行政や、JAなども含んだ減農薬減化学肥料生産者とともに地域を作っていくという私たちの有機農業推進協議会の規定方針は変えるわけにはいきません。名称も、「産地収益力向上協議会」などというゲロゲロの名称には絶対にしない。
冗談じゃない。政治に介入されるたびに地域主体を名称ぐるみコロコロ換えていたら、いったい農業者の主体性なんぞどこにあるのでしょうか?
農水省、そして私たちをよくぞ仕分けてくれた無知蒙昧な民主党議員の諸君、ひとこと言っておく。百姓をなめるなよ!

2010年1月 8日 (金)

新しい有機農業支援予算事業とは その2        有機JAS五割増し目標は空論にすぎない

Img_0022_edited1 この新予算の最大の問題点は、「有機JASを26年度までに5割伸ばす」という、なにを根拠にしたのかさっぱりわからない有機JASの拡大目標が突如登場したことです。

今や、有機JASは今の日本の有機農業の桎梏と化しており、現実に当初期待された減農薬減化学肥料栽培の層には、完全にそっぽを向かれてしまい、新規の申請もほとんどないありさまです。農水省は、取得者の有機JAS返上が年々増加していることを知らないのでしょうか。
今盛んに申請してくるのは、外国の有機農産物加工品原料のみといった状況で、それを5割も延ばすという目標は、現実無視も甚だしいと言わざるを得ません。

まずは今、農業現場の有機農業者が有機JASを取得して何の壁に突き当たっているのか、どこに問題点があるのかを、各地域の有機農業推進協議会に予算をつけて調査をさせ、それの結果を踏まえてから、次の「ではどうやって有機JASの欠陥を改善して、伸ばしていきますか」という段階に進むのがものの順番ではないでしょうか。

現状調査活動⇒調査結果の集約⇒改善点の洗い出しといった施策のきめの細かさがないとダメです。これに関しては、県や市町村の農政課レベルと、有機農業推進地域協議会が協同して調査事業に当たるべきでしょう。まずはこれに予算をつけるべきで、いきなり、「技術力強化」、「販売企画力強化」などと寝言を言われても困ります。

本筋から離れるので短くコメントすれば、有機農業30余年の歴史の積み重ねの中で、有機農業の技術や販売力は独自の展開を見せているのです。30年前だったらありがたかったでしょうが、現時点で必要なことはむしろ有機農業技術の整理と体系化、そして次代を背負う農業者や、減農薬、減化学肥料の生産者へどのように繋げていくのかがポイントなのです。

また、「有機農産物マッチングフェア」ということも述べられていますが、ほんとうに農水省はなにもわかってないのですねぇ。有機農産物は売るのに困ってはいないのです。私たちが売り先がなくて困っていると農水省は認識していたんだと、かえって妙に感心してしまいました。


なるほど、こう現状認識がズレていては話がスレ違うはずです。山間地などの市場から遠い地方や、新規就農者は別種の問題点があるのでひとまず置きますが、有機農業団体はおおむね「売るものがなくて困っている」のです。
特に有機JAS出荷をしている団体は、有機JAS農産物は減少の一途をたどっており、市場の需要との需給ギャップが生じているのです。この有機JAS農産物の減少による需給ギャップ問題は深刻で、有機農業団体の伸び悩みと直接につながっています。

このようなことの原因はいつにかかって、有機JASの現実にそぐわない硬直した基準・表示体系の内部にあります。この矛盾を素通りしたまま「5年後に5割増せ」とは片腹痛い。寝言は寝て言え。
繰り返しになりますが、
まずは、有機JASの問題点の洗い出しを行った上で、それに立ったところで、なんらかの大幅な有機JAS制度の見直し、あるいは、直接支払いまで視野に入れた「国策としての」本腰を入れた支援策がない限り、国産有機JASは5割増しどころか、いくら予算を注ぎ込んでもざるで、立ち枯れていくでしょう。

この部分を農水省はどのように考えているのでしょうか。それが明らかにならないままに、こちらの農業現場にただ「有機JASを増やせ。予算をつけたぞ」と振られても困るというのがこちらの正直な気分です。

(この稿続く)

2010年1月 7日 (木)

新しい有機農業支援予算事業とは その1         「効率」で葬られて、経済効率一色でよみがえった

015_edited1 私を大変に可愛がってくれた叔父が亡くなって、熊本の葬儀に駆けつけてきました。
叔父は、行政法を専門とする法学者で、水俣の公害問題などにも取り組み、熊本大学教授を経て、退官した後も、ひとりの弁護士として金銭報酬の薄い裁判にも地道に取り組むといった尊敬あたわざる人柄でした。

私の亡父は酒が好きで、口を開くと冗談口と駄法螺ばかり叩いているような俗世の人でしたが、なぜか厳格な学者肌の叔父とはうまが合った仲だったようです。
そして、中学生の私にキリスト教を教え、またその正義を貫く生き方を通して、私の人生の師のひとりでした。
さようなら、私のいちばん好きだった、そして自慢だった叔父さん。

さて話は変わります。去年の暮れ、あの悪名高い事業仕分けで廃止されてしまった有機農業モデルタウン事業の代替えとして、新たな有機農業支援法が閣議了承されました。その内容の評価についてはお伝えしていなかったので、簡単に触れていきましょう。

有機農業モデルタウン事業からの完全な後退としか思えない内容です。急遽の代替えという事情はよく理解できますし、その熱意に感謝を惜しまないつもりですが、内容があまりにもひどい。

_edited1_2 左に新しい有機農業支援事業予算の一部を掲載しましたが、要するにひとことで言えば、よくある農業関係一般予算のひとつにしかすぎません。

ここで述べられているのは、いわく、「産地収益力向上」、「販売収益力向上」、「生産技術力強化」、「人材育成力強化」といった、農水の予算のマニュアルどおりの一皿盛りいくらというようなありきたりの予算内容にすぎません。

農水省、頑張って復活させたのはエライし感謝もするが、なんにも考えずに作りやがったのが見え見えじゃねぇか!たぶん今まであるそこいらの農業予算の客体対象を、「有機農業」に書き換えただけだと思われます。

これでは、有機農業の独自の歴史や構造がまったく評価されることなく、今後期待されるべき有機農業の21世紀日本農業への寄与という最も重要な魂の部分が抜き去られました。

そもそも2004年に成立した有機農業推進法は、その核心部分として、日本農業の中で有機農業が独自の歴史と蓄積を持ち、その蓄積に立っていかなる貢献をすることが求められているのかという大きな俯瞰図がありました。
そしてそれが、21世紀の開始を告げる時に制定された新農業基本法の精神であるはずの「自然と調和した農業のあり方」の精神を体現するものなのだという理念に裏打ちされていました。

このような21世紀の日本農業をどうしていくのかという理念の問いかけと、現実に施行される具体的な有機農業支援対策がまったく無縁であっていいのかと、私は思うのです。

無知蒙昧、粗暴野卑の民主党レンポー女史と枝野氏に破壊された有機農業モデルタウン事業は、その問いかけに真正面から答えようとしていた意欲的な事業でした。
有機農業が、各々の地域の中で、行政やJA、減農薬減化学肥料栽培の農業者とも連携して、ネットワーク構造を作り上げ、今までの30余年の有機農業の蓄積を拡げ、踏み固め、次の世代に引き継ぎ、減農薬減化学肥料の人々とも結んで新たなすそ野を拡げ、街の人々と結び合う地域作りの主体としての有機農業を登場させる画期的な意味を持っていたのです。

それが「効率」という一言で事業仕分けされた結果、農水省はその代替えとして、まさに経済効率一色の事業案を考えたというわけです。
まことにやれやれであります。このようなことを世では、仏作って魂入れずと言います。民主党もまったく罪作りなことをしてくれます。

(この稿続く)

2010年1月 4日 (月)

素人の地球温暖化に対する疑問 第4回 北極圏研究の世界的権威・赤祖父先生登場!

007 私はホッキョクグマ絶滅危惧問題や、あるいは南太平洋の島の沈下現象を考える時、マスコミの言説をあまり信じていません。マスコミはえてして地道な調査をせずに、結論を既に持って取材にきます。

結果、彼らの考える結論に合わない事象を勝手に切り捨てることもたびたびあります。


また、環境保護団体などの言うことにも、必ずしも全幅の信頼を置くことはしません。私自身環境NPOと関わっていたために゛その短所と長所ともに理解できるからです。

環境団体は理想主義的で献身的ですが、別の一面から見れば自分の運動理念にそぐわない事実には眼を閉ざしがちです。となると、このような場合、私が一番信頼するのは、その分野で地道な研究を続けてきた現場の研究者となってしまうわけです。

さてここで、北極圏研究の世界的権威の赤祖父俊一博士にご登場願いましょう。先生はオーロラなどの北極圏研究の世界的な第一人者です。アラスカ地球物理学研究所の所長を勤められておられました。北極圏を知り尽くした研究者で、彼の右に出る人はそうそう存在しないことでしょう。

皆様、世界的な大学者に拍手を!不肖私が品悪く、市民語に翻訳をいたします。では、先生レクチャーを。

■たしかに海氷は溶けているが、それは9月夏の短い季節だけで、その時にだけマスコミが押し寄せて写真をとりまくりおる。
北極圏の海氷は冬になれば北極海一面覆われるのだ。しかしこの時には知らんぷり。2007年には確かに減ったが、その原因は風に吹き寄せられたためであった。
「ニューヨークタイムズ」の記者が、夏に北極点で水が溜まった写真をあろうことか「北極点でも氷が溶け出した」と書きおったから怒って抗議をしたもんだ。そうしたらなんと

・・・え~先生、あの~、恐縮ですが、シロクマの話をお願いしたいのですが。

_edited_2おほん、シロクマではないホッキョクグマだ。ホッキョクグマなど北極圏では珍しくもなんともないぞ。第一、今より暖かかった間氷期初期にもホッキョクグマは生き残ったのだ。この素晴らしい生物の生命力を馬鹿にしてはいかん。あいつらはタフなのだ。

ん?「海氷が融けてホッキョクグマが溺れ死ぬ」とはなんたるヨタ話だ。9月の短い北極の夏が過ぎれば、海氷は元に戻るのだ。
アザラシが海岸ぷちを移動すれば、それをホッキョクグマは追う。だだそれだけのことだ。
そんなことはマスコミや政治家や環境保護活動家が、われわれ北極圏で年中調査をしている専門家に聞けばすぐわかることだ、まったくもう(←先生どんどんテンション高まる。怖いぞ!)。

なに?溺れたホッキョクグマが目撃されているだと。それも原因は分かっている。嵐で乗っていた海氷が沖に流されたのだ。不運だったとしかいえないが、厳しい北極の自然界にはよくあることで、それをマスコミが「溺れ死んで絶滅か!」とはやす。


何度も北極圏研究者が教えてやっても、自分に都合の悪いことは一切報道しないのだ。自分にとって「都合のいい真実」ばかり流す。けしからん!だからどんどんと誤情報が一人歩きをして、混乱にワをかけている

先生、ありがとうございました。気つけに一杯やって下さい。

最後に、ホッキョクグマ問題をまとめてみるとこんなかんじになりそうです。
■まず第1に、
ホッキョクグマは1980年の500頭の絶滅寸前状態から、保護政策により増大している。現在はほぼ安定した個体数の状態を保っている。もしぜ,めつしているならば、北極圏に生きる動物の生態系バランスを熟知しているイヌイットが、年間400等もの狩猟をつづけているはずがない。

■第2に、 夏の短い解氷期が終われば、北極海は一面氷に覆われるので心配はいらない。溺れたホッキョクグマの画像は、嵐で乗った氷盤が沖に流されたため。北極海の解氷とは無関係。

■第3に、 気をつけよう、甘い言葉と悲しい画像。マスコミ報道には売らんがためのセンセーショナリズムが大量に混ざっている場合がある。よく自分の頭で見て、確かめて、調べ、そして考えよう。

2010年1月 3日 (日)

素人の地球温暖化に対する疑問 第3回 ホッキョクグマとイヌイットの微妙なバランスとは

001_edited1北極圏の生態系を考える時に、ひとつご注意していただきたいことがあります。
それは2万5千頭というホッキョクグマの個体数が北極圏の上限であると思われることです。

たぶんこの北極圏という生態系では、それ以上ホッキョクグマの個体数が増大すれば、ホッキョクグマの餌となるアザラシなどの海洋哺乳類が減少しすぎてしまい、やがてホッキョクグマ自身も餌不足で減少してしまうからです。増えればただいいというものではないのです。それは北海道のエゾシカの増大による地域生態系の攪乱という事例で日本も経験しています。

食物連鎖の体系の中で、ホッキョクグマはこの生態系の中で最上位に位置します。ホッキョクグマを捕食できる動物はこの北極の自然界ではいません。もしあるとすればそれば、それは私たち人間というかならずしも自然生態系の内にはいない存在だけです。

ホッキョクグマが絶滅に瀕して絶滅危惧種になった場合を考えてみます。
クマが捕食していたアザラシが急激に増加し、増えすぎます。その結果、今度はアザラシの捕食する食物連鎖下位生物である小型魚類が激減していくことになります。

これは深刻な影響を北極圏の生態系に与えていきます。なぜなら、北極に生きる多くの生物にとって共通の基盤的な食料である小型魚類が減少することだからです。小型魚類の減少はそれを食べるシャチやクジラなどの海棲哺乳類に深刻な打撃を与えるはずです。

逆にホッキョクグマが増加しすぎれば、アザラシが減少しすぎるでしょう。食料であるアザラシが減りすぎれば、ホッキョクグマは生存できません。生態系は冷厳な食物連鎖の中で安定しています。これを共生関係とよびます。
自然界はこの共生関係によってしっかりと守られているのです。人間の自然保護t活動によって守られているのではありません。ヒトが出来るのは、己が破壊した帳尻合わせでしかないのです。

ひとつの環境(生態系)の中でホッキョクグマを一定の範囲で淘汰できるのは、私たち人類、ヒトしかいません。ですから、イヌイットの400頭の狩猟は理にかなったことです。イヌイットは乱獲をすれば獲物がなくなるというギリギリの線の上で狩猟をしているのです。

私はイヌイットがホッキョクグマの狩猟頭数を米国政府により制限されかかった時に、猛然と反対したことを聞いて、かえってホッキョクグマの健在を確信したものです。

さて、具体的な地域名とデータを出しましょう。世界動物保護連合(IUCN)の調査では、ホッキョクグマ個体群20個のうちバフィン湾の1から2の群で個体数が減少しているだけで、半分以上の個体群は安定ビューフォート海付近の2個体群では増大しているという結果がでています。この調査結果を見て、どうして絶滅寸前などといえるのか首を傾げたくなります。

(この稿続く)

2010年1月 2日 (土)

素人の地球温暖化に対する疑問 第2回  ホッキョクグマは絶滅寸前なのか?

Img_0003 明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

しょっぱなからなんですが、年末年始の新聞、テレビなどで、「地球温暖化」に触れたもののが多いことに改めて驚きました。だいたいこんな調子です。
「COP15は先進諸国が、自国の利害だけ考えて失敗に終わった。南太平洋の島々が沈もうと、ホッキョクグマが絶滅しようとも、自分たちの国の経済が守れればいいのか」

そして今に至るも、「ホッキョクグマがコグマを食べた」という怪情報が飛び回ったりしていて、いっこうに下火になる様子もありません。地球温暖化の危機を叫ぶことと、事実かどうか疑わしい言説をその傍証に使うこととは、まったく別次元なはずです。目的が正しければ、虚偽を言っていいのでしょうか

私たち大部分の気象学の素人にとって、大気圏における二酸化炭素濃度と気温との相関関係、太陽の黒点変化と地球の気温変化との関連などと言われても、正直その気象データの読み方もよく分かりません。

私たちが心動かされたのは、アル・ゴアさんが「不都合な真実」で紹介した北極で溺れるホッキョクグマの姿、北極の轟音をたてて大きく崩れる氷河、永久凍土の上で溶けて傾いだ家、毎年後退するキリマンジェロの冠雪などといったセンセーショナルで素人でも分かりやすい絵でした。
マスメディアはその「絵」を煽りました。そして国際世論が出来上がっていったのです。

私は、これら分かりやすい「絵」をひとつひとつを検証していこうと思います。
そこでまず、私のブログでもヒット件数が多い「ホッキョクグマは絶滅の危機にあるのか?」という記事を再掲載いたします。これは一昨年に書いたシリーズの一本ですが、大きな変更はないと思われます。なお、記事は再編集してあります。

さて皆さん、この写真はアル・ゴア氏の「不都合な真実」の中にある有名な写真です。アラスカ沖で砕氷船から撮られたもので、たぶんこのホッキョクグマの2頭の生存は厳しいだろうなと哀しい気持にさせられます。そしてこれがCO2の増大による地球温暖化説の証拠の一枚として人の心を大きく揺さぶりました。ゴアさんの本にはこうあります。

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字が小さいのですが、「1970年代、北極の氷冠はかなりのスピードで縮小をし始めました。これは、ホッキョクグマにとっては悪い知らせです。ホッキョクグマはアザラシを追って氷盤から氷盤へと移っていきます。多くの氷が溶けてしまったために、クマたちはこれまでよりもずっと長い距離を泳がなくてはならなくなりました。次の氷盤にたどりつく前に、おぼれ死んでしまうホッキョクグマもでてきたのです。こんなことはこれまでなかったことです」(「不都合な真実」P86:87)

また、NHKスペシャル「気候大異変」では「もう遅すぎるのか!」と叫びながら放映していました。たしか、溺れたホキョクグマの映像もありましたね。

私は動物が大好きなので、このテの報道には極端に弱いのです。湾岸戦争の折りのイラク軍による原油の海への放出によって、原油まみれになって眼ばかり光らせている水鳥の写真には怒りがこみ上げてきました。許せん、イラク!こらフセイン、ここに来て座りなさい、という気分に「操作」されたのです。

今「操作」と言いましたが、この原油まみれの水鳥の写真は、湾岸戦争とはまったく関係のないやらせ映像であったことが後に分かってしまいます。なんのことはない米国の広告代理店が、反イラク感情を煽るため、米政府の要請で「湾岸戦争の自然界の被害者」として捏造したものだったのです。ひでぇ話ですな。米国のみならずよくあることらしいですが、心情にダイレクトに訴えかける映像には注意しなきゃあと思い至ったわけであります。気をつけよう、甘い言葉と悲しい画像

ホッキョクグマの絶滅とも絡んで大きな問題になりました。なんせシロクマはヒグマから分かれた種ですが、ヒグマは怖いけど、シロクマはパンダから隈どりを取ったみたいでとても可愛いですからねぇ。

これが皆んな溺れ死ぬとは尋常ではない。世界野生動物基金(WWF」も「ホッキョクグマは歴史上の動物になる」といい、英国「インデペンデント」紙も「ホッキョクグマは動物園でしかみられなくなる」と叫びました。

で、セーブ、ホッキョクグマとなったわけです。私なんぞ、ひと頃グリンピースのセーブホッキョクグマのTシャツを着て、カンパもしてしまった。なんて軽薄なんだ。( ̄○ ̄;)では実際にホッキョクグマは絶滅の危機にあるのでしょうか?

_edited_4 結論からいいましょう、ご安心くだされ、絶滅していません

まずはこの表をご覧下さい。(*典拠・ビョルン・ロンボルグ・ただし私は氏の意見をすべて肯定するものではない)

表の左側の横軸の最初の起点には1980とあります。これは1980年を表します。縦軸が頭数です。お分かりのとおり、1980年にはわずか500頭に過ぎず、乱獲により絶滅寸前であったということが見て取れます。ちなみに当時は海氷の融解は観測されていません。あくまで人為的な乱獲が原因です。

これが保護政策の結果が出て、5年後にはハドソン湾だけで一気に1500頭まで回復していきます。以後1990年代からはほぼ横ばいという安定した状態が続いています。減少トレンドの線が引かれていますが、1980年代の絶滅の危機からは大幅に増加していると言っていいでしょう。

今上げた2005年850頭という数字は、あくまでも北極圏のハドソン湾地域のみの数字です。他にいくつものホッキョクグマの棲息地があります。ホッキョクグマの総個体数は、北極圏というそれでなくとも厳しい自然の中で、おまけに広域に拡がっているために諸説あるようですが、おおむね総数2万5千頭(坪田俊男/北海道大学院教授・クマ生態学)という説が妥当なようです。少なくとも絶滅しそうだというデーターはありません。そう言っているのはマスコミと一部の環境保護団体だけです。

それはこの北極圏で生活し、猟をしているイヌイットが年間なんと400頭ものホッキョクグマを狩猟していることでもわかるでしょう。イヌイットは合衆国政府が禁猟方針を打ち出したことに強く反発しています。もし絶滅寸前ならば、年間400頭もの狩猟はできないはずですから。

(この稿続く)

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