私の阿波根昌鴻さん
今、伊江島になんともかまびすしい声が上がっています。小沢一郎や石原慎太郎が、「お、あの島が開いているじゃないか」と言えば、防衛大臣までもが「おおそうだった、見に行こう」などと言う始末です。
沖縄の戦後にまったく無知な人々を、為政者に据えてはいけないという見本のような発言です。沖縄の戦争と戦後史を知らずに、単純な政治的な思いつきで伊江島を再び政治の場に引き出す無神経さに耐えられません。
伊江島は阿波根昌鴻さんの生まれた島です。今彼は本土の人からは忘れられつつありますが、強大な米軍と身一つで戦った伝説的な人でした。彼の指導した戦いにより、伊江島は沖縄の平和の静かな聖地となりました。
しかし、今、私から見える阿波根昌鴻さんは農民としての姿をしています。仰ぎ見るような偶像的平和運動家としての彼ではありません。
彼は、フォルケホイスコーレというデンマークの信仰と農業、生活をひとつにした農学校を伊江島に作りたいと思っていました。フォルケホイスコーレはとても興味深い農学校です。デンマークのグロントヴィが始めた、上から下に詰め込む教育をやめ、互いに農業で汗を流す中で、語り合い、変化していく農学校でした。
「民衆大学」とも訳されるそうですが、私の勝手なイメージでは、阿波根昌鴻さんのそれは、水俣の生活学校に信仰の要素を加え、さらに西田天香の一灯園の共同体運動を加えたイメージではないでしょうか。
農民が無料で働きながら、学問や芸術を学べる農場の中にある学校とでもいいますか。宮沢賢治が夢見て、そしてその実現の途上で捨てざるをえなかった羅須地人協会の姿にも重なり合うものがあります。
また、私にとってのもうひとりの阿波根さんは、キューバやペルーに海外出稼ぎをして、骨のきしむような労働に耐えた男の姿です。沖縄は広島に並んで、南米や南洋に多くの海外出稼ぎを生み出した貧しい地方です。
男はキビやパインの刈りとりという最底辺の仕事につきました。多くの男たちは、望郷の思いを残しつつ、その地の土となりました。ある者は現地の女性を娶り、ある者は沖縄から写真花嫁をもらい。子供を授かり、現地の中でもうひとつの「オキナワ」を作っていきました。今でもブラジルやボリビアなどには、その名も「オキナワ」という名の村があります。
阿波根さんが西田天香の本と出会ったのも、この故国から遠く離れたキューバの古本屋だったそうです。
阿波根さんは、金をコツコツ貯めて島に帰り、夢に見たフォルケホイスコーレを作る準備を始めた時に、あの忌まわしい戦争が起きたのです。伊江島は本島の戦闘を前にして、徹底した攻撃を受け灰塵に帰しました。そして戦の中で子供までも失ったのです。
そして戦後、直ちに米軍による島全体にも及ぼうという基地建設のための、村民の強制収容が始まりました。すべての農地を奪い、家をすりつぶし、家畜を殺し、着の身着のままで強制収容所に送り込むという所業です。
阿波根さんは、襤褸をまとった島民とともに戦うことを決心します。ただし、手にひとつの石もなく、ただ一本のカマも握らず、丸腰で。手を耳から上げることすら、米兵に暴力をふるったとされて射殺されるかもしれない占領時代に、まったくの素手で気の狂うような恐怖と戦いながら、人々のいちばん前で銃剣と向き合ったのです。
後に、襤褸をまとった「乞食行進」の先頭に立ち、島を巡り、戦世(いくさゆ)ですさんだ多くの沖縄の人たちに勇気を与えました。これがもうひとりの阿波根さんの姿です。
私は、自分が農民となり、今また農学校を構想することを始め、その視線の先に阿波根昌鴻さんと再会しました。
かつての私は反戦運動家でしたが、逆に、それゆえ彼を自分の心の深い場所で理解してはいませんでした。今、彼の眼の位置に近い場所に営みをもつことが出来て、彼が何のために戦って来たのか、ややわかりかけているところです。
戦い、あるいは運動というものは、人がやむを得ず、最後の最後にとる切ない手段であり、戦いというのはつらく悲しいことばかりなのではないでしょうか。
人にとって戦わないことこそが幸福なのです。それが戦を止めるための戦いであったとしても。
人と人が争うことをもっとも嫌い、避けた男。これが私の最後の阿波根さんの姿です。
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