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2010年1月12日 (火)

名護市長故岸本さんの夢と挫折

056_edited1 1982年の頃でしたか、私は沖縄の名護という所に新規就農者として入りました。今、普天間基地移転問題で、この1月の名護市長選が今後の日米安保総体の流れを決めるとまで言われている土地です。基地受け入れ受容派と呼ばれている前市長だった故岸本さんと島酒を飲み交わしたことがあります。

私たち夫婦がいた共同農場が、岸本らのグループと野菜や玉子のワンパック産直をしていたご縁でした。

当時の岸本さんは、まだ若くて市の企画室というところで市全体のプランニングに携わっていました。その中でできたのが、当時の言葉でいう「地方主義」の金字塔とでもいうべき名護プランでした。
名護プランはフロー、つまりは地域に落ちる金そのものより、その土地の中で根を張り続けてきた伝統とか、人の歴史、地域の成り立ちというストックに着目したものでした。

たとえばそうですね、仮にシマの公民館とマチヤグワー(小さなお店)の前に、大きなガジュマルの巨木が大きな緑陰を投げかけている広場があったとします。そこではオジーや、オバー、あるいは洟垂れ小僧どもが、長い夕方を過ごしている場所だったとします。

ここに、この市道のど真ん中にガジュマルがデンとあるので、市道がふたつになってしまっていて、4トン車が通過できないため、重量車は迂回をせねばなりませんでした。そこで、業者から苦情をたくさん受けた市としては、ガジュマルを抜いて道幅を拡げるということを企画しました。

さて、どうするのかです。たしかに道は大きくなるから、そのガジュマル広場の先にあるJAの集荷センターからの便は通りが良くなるでしょう。建設業者も助かります。農家もうれしいかもしれない。経済合理性から見たら、この私ですらそう思うかもしれません。

ところが、市の企画室の岸本さんたちの作った名護プラン的発想では、このムラのガジュマルの大樹の広場は共同体の要なんだととらえたのです。これを抜いてしまったら、オジーやオバーが公民館の空調の部屋にやって来るでしょうか。たぶん、来ません。狭いもん、息苦しいもん。

となると、共同体の集まる「ヘソ」を失くしたムラの人たちは、仕事が終わった夕暮れに、ムラの人と話す替わりに自分の家でテレビでも見ているしかなくなるかもしれません。子供はゲーム器を握って離さないでしょう。こんな都会とさほど変わらない風景が、今の農村風景になりつつあります。

こうして少しずつムラは通い合う体温を失くし、死んでいくのです。

共同体には必ずヘソがあります。どこかしらにあります。そこで人々はなんとはなしに同じ時間を過ごし、行き交い、ゆったりとした流れを共有するのです。それはごたいそうなことではなく、市場の店の前であったり、銭湯であったり、学校の校庭のブランコの横であったり、小さな公園のベンチかもしれません。

そして岸本さんたちはガジュマルの大樹を抜かず、市道を迂回させるバイパスを作りました。これは私が考えた仮の話にすぎませんが、そのような地域共同体に対する深い愛情という温かい血が流れていたのが、この名護プランでした。

時は流れて、当時助役になっていた岸本さんは市長に懇願されて市長選に出ました。なんと立場は名護市辺野古に普天間基地を移設する行政側の責任者としてでした。これほど損な役割はないでしょう。
かつての名護プランを支えた友人や仲間、彼らの多くは平和運動家だったわけですが、彼をユダとすら呼んだとも聞きました。私のいた共同農場のリーダーは、憤然として彼に決別を告げたそうです。

沖縄の言葉で肝苦さ(チムグリサ)、という言葉があります。心が泣いている、胸が痛みに耐えられないという意味です。この濁った世の流れの中で、かつて泡盛を呑みながら名護プランを私たちに楽しそうに語った岸本さんは病み、衰え、そして亡くなられました。長命の島で、哀しいほどの短命でした。彼の心中の嵐を、私には計る術すらありません。

普天間基地が辺野古に移転されると決まって既に十余年。かつて岸本さんの後継者だった島袋さんがまた市長選に出ます。彼の心の中で、岸本さん、いや名護プランはどのように生き続けているのでしょうか。

■写真 本部から伊江島のタッチューを望む。タッチューとはあの尖塔のような岩山です。

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コメント

 そういうことがありましたか…。

 基地の問題は、本当は日米軍事同盟というこの国の全体の問題です。この重い問題を沖縄に、そのまた市町村に背負わせているというか、背負わされてギリギリの判断を担わされているように考えます。うやむやにも先送りにも、逃避もできない、それがヤマトとウチナーとの段差、温度差です。好むと好まざると選挙は詰まるところ白か黒かになります。様々な利害、目の前の生活も含めて、判断があろうと考えます。私は基地のない名護・沖縄、壊されない辺野古沖の海、「らしい」暮らしが成り立つ施策が住民のみなさんに選択されてほしいと考えています。ひとつひとつの意思が積み重なって、沖縄島を軍事の要石にこれ以上するな、軍事同盟など不要という日米の関係にしていくべきだと考えています。生活するとは平和に生きていきたい、ただひたすら素朴な思いです。

 政権も変わったけれども、軸足がこれでは旧来のままです。本質的にそうなのか、変えていけるのか。

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