「旅する百姓」としての立松和平さん
立松和平さんが亡くなられました。
享年62歳でした。あまりに早い旅立ちでした。つい先日まで元気に活動をしていらしての突然の訃報です。ほんとうに驚きました。
私はf氏をうらやんでいたのかもしれません。彼を彼たらしめている驚くべき行動力、ダカールから知床まで、ほんとうに素晴らしい「脚」をもっていました。そしてその脚にふさわしい好奇心は枯れることがないようにすら思えました。
彼の出版されていないエッセーシリーズに「さとうきび畑のまれびと」という沖縄をテーマにしたものがあります。これは地元誌「うまる」に連載されていたもので、氏がまだ20代だった頃の復帰前後の沖縄貧乏旅行を描いています。
彼は当時まだポンポン船でいくしかなかったような与那国から、先島までくまなく回ります。本島においても米兵にヒッチハイクしたり、貧乏旅行者お約束のキビ刈りの手伝いをして金を稼いだりと、なんとも微笑ましい。私自身もあんなでしたから。
たぶん沖縄無銭旅行(おお懐かしいね、無銭旅行なんて表現!)が、後の「旅する百姓」としての立松さんを生み出したのではないでしょうか。
さて、彼が初期に書いた出世作である「遠雷」は、宇都宮時代の市の職員時代のものです。都市近郊の新興住宅地にはさまれたトマトのハウス農家の青年の蹉跌を描いたものでした。
あの小説はだいぶ前に、たぶん就農する前に読んだのですが、正直に言って、「重たいなぁ」という沈み込んだ気分にさせられたことを覚えています。そして、この主人公の持つ暴力性は、彼の同時代の空気なのかなとかってに想像していました。それから大分たって、たまたま書棚で見つけて再読し、この人は農家という存在を内側から見られる希有な作家だと思いました。
その苛立ちや、やりきれなさ、都市住民に対する屈折した怒りに似た心情は、通り一遍の観察からは生まれないものです。この「遠雷」という作品の持つ閉塞感と、後期の和平さんの「心と感動の旅」のようなテレビ番組で訥々と語る風情の彼と、私の中で長い間つながりませんでした。
たぶん彼は根っからの「百姓」だったのです。地を這い、足で地温を測り、植物を慈しむ眼を持ち、同時に土の呪縛から逃れたいともがいている「百姓」だったのではないでしょうか。
そのように考えると、和平さんは同時代を写し取るために「遠雷」を書いたのではなく、彼の中にある「百姓」の眼からはてしなく膨張し、農村を浸食していく都市を見ていたのだと気がつきました。
そして旅する和平さんは、帰る土地を持った百姓が故に、あのように無理なく、明るく、愛情深く、温容をもって生きられたのです。私は日本でひとりの心やさしき「農民作家」がなくなったことを悼みます。
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本当、びっくりしましたね。立松さんは、エコツーリズムにもご熱心な方だったのに。
つい先日、NHKでしたか、立松さんがモデルのトマト農家のかつての青年を訪ねるシーンがありました。
怒りを込めている農家の青年というイメージからはほどとおい、いまでは吹っ切れた中年の方でした。
遠雷ってのは読んでませんが、都市のなかの農村、農村の中の都市、という、滲み出しはするが、けっして、まじわることのない、永遠のテーマを描こうとしたんでしょうね。
農民作家、久しぶりに聞く言葉ですね。
そういえば、お近くでもないでしょうが印旛沼にも土の歌人吉植庄亮がいましたね。
『土間に食う昼餉はうましわが足に触りつつ遊ぶ鶏のひよこら』
けだるい時間ですが共生を確認するひと時の描写です。
投稿: Sas | 2010年2月11日 (木) 09時56分