村の共産党の老人が亡くなられました
昨夜、私の村の共産党員のご老人が亡くなられました。大往生でした。
海軍兵学校の最後の生徒で、戦が終わり帰郷する途中に立ち寄った広島の被爆地を見て生き方を変えたと、どこかでおっしゃっていました。
帰郷してから、自分の地主としての農地を小作農に分けたりして弱い立場の人に立っていきてきました。村で唯一の共産党議席を十数年に渡って勉めてきました。、
私は共産党の支持者ではありません。そうとうに考え方が違います。
しかし、村の中で共産党でいることの大変さはよくわかるつもりです。村ではつい最近まで「アカ」という言葉が生きている所でしたから。
自弁で軽自動車を宣伝カーとして、村中を走り回っていました。そしてこまめに村民の相談に耳を傾けました。
どうしても村は実力者に頼る傾向があるのですが、実力者にはもって行けない悩み事を持つ人は彼の家の門を秘かに潜りました。私も一度土地トラブルで悩んでいた時に、彼に相談したことがありました。
すぐにあれをしろ、これをしろと言うタイプではなく、まして選挙で入れろなどというわけでもなく、話をよく聞くタイプでした。相談するほうからすれば、なにかお坊さんに悩みを打ち明けるという風情です。
結局、私の相談事では直接の役には立っていただけなかったのですが、なにか心の支えを頂いたような気になりました。
彼への義理で長年「赤旗日曜版」をとっていました。正直に言ってほとんど読まなかったのですが、毎週お顔を拝見できることが楽しみでした。
ある時、思い切って「あまり読まないのでこれで止めたい」と申し出ると、しわだらけの顔を哀しげにされて、ひょっこりと頭を下げられ、「今までありがとうね」とひとこと言われました。
それが最後に見たお顔です。
村の中の大切なものがまたひとつなくなったような気分です。
« 宮崎口蹄疫事件 その143 10例目 宮崎県畜産試験場川南支場の疫学報告 | トップページ | 宮崎口蹄疫事件 その144 最初の豚へのウイルス侵入 12例目疫学報告 »
「村の風景」カテゴリの記事
- 村人が自分ひとりしかいないクチョーおジィ(2012.07.03)
- さようなら、私の好きなジジィ(2012.07.02)
- 村の共産党の老人が亡くなられました(2010.11.29)
- 湖岸地帯の「のっこみ」文化(2010.08.15)
- オジィ自慢の芋焼酎(2010.08.13)
コメント
« 宮崎口蹄疫事件 その143 10例目 宮崎県畜産試験場川南支場の疫学報告 | トップページ | 宮崎口蹄疫事件 その144 最初の豚へのウイルス侵入 12例目疫学報告 »
私も共産党支持者ではありませんが、立派な方だったのですね。
ご冥福をお祈りいたします。
戦争を身を持って体験した方々が、今どんどん亡くなっています。
なんとなく危惧を覚えます。
投稿: 山形 | 2010年11月29日 (月) 07時26分
当時の陸士・海兵といえば、エリート中のエリート。今の防大がエリートではないと言いたいわけではありませんが・・・。
かなり、信念を持った方だったようですね。
戦争の実体験を持った方たちが、殆ど85歳以上となった今、山形さんと同じく、隣の半島のごたごたを見るにつけ、危惧を憶えます。まだ、映像が残っているだけ、ましですが。
投稿: Cowboy | 2010年11月29日 (月) 15時19分
以前、ギニア大使館員のOサンコンさんが「ギニアでは村の長老が亡くなるのは、図書館がひとつずつ消えてゆくようなものです」と、おっしゃってた言葉を思い出しました。
御冥福を祈ります。
投稿: doll24 | 2010年11月29日 (月) 21時10分