• 1810-024
  • 2022080500050079yom0003view
  • Map_sakishima
  • 20090310twd002b001_20220808103101
  • 227-015
  • M_okinawa20220805095200
  • Img_db5b67540d48edefe0471a8c7e9453611204
  • China1028
  • S-022
  • Large_220805_sbm_01

« 義父死去のため写真のみです | トップページ | 名無し氏の投稿にお答えして  われわれが宮崎を助けたのではない、宮崎がわれわれを助けたのだ! »

2011年2月26日 (土)

義父、 最後の職人、そして生き残った兵士

Photo

皆様。たくさんのご丁寧なお悔やみを賜りまして有り難うございました。

長患いの果てでしたので、私たち家族も亡父を既にない義母の住むもうひとつの世界に静かに送り出したという感慨です。

義父は生涯をひとりの東京下町の職人として送りました。精密機械の試作品や、ミクロン単位の部品の旋盤などを業としてきました。

蹴飛ばせば倒れるような小さな工場で、油で黒光りする、しかしサビひとつない機械を操っていました。そして出来上がった部品をマイクロ・メーターという測定具で計測し、そしてミクロン単位の修正をかけていくのです。

今はこのような仕事は、NC旋盤といってコンピュータからダイレクトに図版を送って削り上げる装置が普及してしまたためにほとんど見られなくなりました。

しかし、義父のような職人が日本の高度成長を支えたのです。その意味で義父は最後の職人であり、そして日本の誇るもの作りの無名戦士でした。

しかし、義父はこの15年間は、その愛した旋盤にさわっていないはずです。仕事がなくなったのです。

それは義父の老齢化のためではなく、現在の日本社会と経済の様変わりが原因でした。義父に仕事を出していた会社は海外に工場を移し、義父はさびれた下町工場街に取り残されたのです。

義父にとって仕事がなくなるということは死にも等しいことだったのではないでしょうか。その頃から義父の深酒が始まりました。決して荒れたりする酒ではないのですが、酒が切れないのです。

義父は失ったものを酒で紛らわせていたのでしょう。その酒につきあうと、仕事の話は出ずに、ひたすら南洋で一緒に闘って還らなかった多くの戦友の話ばかりでした。

ある時、なにを思ったのか皇居に詣でると言って、早朝から古びた復員の時に使ったような背嚢ににぎり飯を詰め、これさえあれば生きていけるという鰹節を詰め込んで歩きだしたのです。

もちろん皇居までは行けはしませんでした。老兵は日頃の不摂生がたたって足がつり、目がくらみ警察に保護されました。子供たちに叱られたのは言うまでもありません。

もはや義父が皇居でなにを唱えたかったのかは誰にもわかりません。

最後の職人、そして生き残った元帝国陸軍無線兵は、平成23年2月24日、亡き義母と戦友の待つ国へ旅立ちました。享年90歳。静かな眠るような最期だったそうです。

私は義父の墓に一輪の野菊を供えたいと思っています。
合掌。

« 義父死去のため写真のみです | トップページ | 名無し氏の投稿にお答えして  われわれが宮崎を助けたのではない、宮崎がわれわれを助けたのだ! »

コメント

戦中から戦後の日本復興~成長を支え続けた無名の戦士だったのですね。合掌。

濱田さんも今大変でしょう。休めない仕事でしょうし。
ご無理だけは絶対になさらないで下さい。
ブログ更新が滞ることがあっても、何ら恥じることではありませんから。

私の父も他界しましたが、第2次世界大戦では旧満州で戦い、引き上げてきました。
私が幼い頃、太腿の皮膚の下に爆弾の破片が入った所(少し膨らんでいました)を見せてくれた事があります。
終戦後農業をしていましたが、草を裁断する機械で右手の人差し指を根本から切断してしまい、右手の指は4本の状態で、家族を養ってくれました。
最後は「前立腺ガン」でしたが、痛い・苦しいなどの言葉は最後まで言いませんでした。

濱田様の記事を読み、亡き父を思い出しています。

うちの父も、陸軍将校で、満州に、4回ほど、出兵したようです。大大砲小隊だったようです。
現地、野戦病院で、破片を抜いた跡が、体に、あるようです。
戦争の話は、ほとんどと言うか、まったくしません。1個小隊が、3分の1になり、他の連隊と合同で、また、小隊を作り、前進する、らしいのですが、生きた人間より、死んだ人間の方が多いので、とても、悲惨な戦場の話は、しないです。ただ、最近、聞いたのは、北朝鮮が、ヨンピョン島を砲撃したとき、これは、曲射弾道射撃で、榴弾砲(りゅうだんほう)だろう。山のむこうから飛んできたと思うと、まだ、マスコミが、そういう話をする前に、話したので、「そうなんだ」戦時中に、体で、覚えこまされたものは、忘れようがないのだな。と、思いました。

たくさんの思い、思い出を持って旅立たれたのでしょうね。

私の祖父は戦時には歳が行っており、幼少時から栄養失調で身体が虚弱だったために徴兵から外されましたが、立派に郵便局員として働き遂げました。20代まで生きるのは無理と言われながら満90で大往生。
今思うと、その弟たちは若くして戦死多数。生き残ったものたちは、それぞれ会社を起こしたり、大手でそこそこの地位まで行って業務管理(兵坦)を活かしたりして、定年まで闘ってました。。
ある親戚は、「〇〇××…今すぐ行くぞ!もうすぐ会えるな…と、泣きながら逝きました。」

母方の祖父・祖母などもここ数年で続けて亡くなりました。祖父は32連隊歩兵。弟はビルマの隼乗り。

祖母は戦後復興期から30年以上の民生委員(行政を民間ボランティアにやらせる今も続く奇妙なシステム)でした。沢山の人を助け続けたそうです。

かの大戦を体験した人々の話を、もっともっと聞きたかったです。

母は7年前にガン闘病の末に亡くなり、叔母や祖母も続きました。


身内の葬儀が続くのはツラいものです。
寝不足の中、非日常の中ジェットコースターのような日々。それでも親戚の協力で淡々と進む。

改めてご冥福を御祈りいたします。


濱田さん、無理だけはなさらないで下さいね。

旋盤、少しだけやったことがあります。
大学の実習で。大変、細かい作業でした。仕上げまでこだわると大変な労力だったと記憶しています。
今でも砲丸投げの砲丸は、日本人の名工が旋盤で、削りだして作ったものが、世界のトップアスリート御用達だと聞いたことがあります。
フライス盤やNCでは、到底、及ばないそうです。
北京オリンピックでは、砲丸投げの記録は伸びないだろうと予想されたそうです。理由は、その名工が、中国という国のあり方に疑問があるから、砲丸は提供しないと宣言したからだそうです。
機械を使った手作り、世界に誇れる日本の業ですね。

青空です。
お義父様のような、名のなき戦士たちの血を吐く努力と60年以上の闘いが、廃墟と化した日本を世界屈指の国にしていたったのですね。嘗て持った武器を、工具に持ち替えて、ただ一念に。

世界の歴史上ほぼ唯一、武力によらず、ものを作るという愚直で、困難を極める闘いをただひたすらに闘い抜いてきたことに、強い畏敬の念と感謝の気持ちを持ちます。

多くの名もなき英傑の成果を今生きる日本人は甘受できています。
私達は後進達に何か残していけるのでしょうか。

宮崎人に畜産をやる資格なし。というのを鹿児島大学様にメールで送りました。口蹄疫、鳥インフルエンザではもう中国産の肉と変わりありません。宮崎の畜産農家が日本の畜産の足を引っ張っているのです。宮崎牛、宮崎地鶏がなくなっても日本は困りません。私はそんな汚い宮崎の肉より安全で安いオーストラリアの肉を買っています。宮崎の畜産農家がどれだけ全国の畜産農家にご迷惑をかけているのか反省しろ!お前らは日本には必要ないんだよ!詳しくは鹿児島大学様にお問い合わせください。

名無し氏への私のコメントは明日に記事で掲載します。

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 義父、 最後の職人、そして生き残った兵士:

« 義父死去のため写真のみです | トップページ | 名無し氏の投稿にお答えして  われわれが宮崎を助けたのではない、宮崎がわれわれを助けたのだ! »