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2011年4月16日 (土)

被災地から被災地への支援が始まった!

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被災地から被災地への支援が力強く始まっています。

大震災以降わが茨城県はこれほどの打撃を受けたことがないほど痛めつけられました。おそらくは常陸の国始まって以来でしょう。未だその被害の全容はわかっていないほどです。

復興までどれほど長い道のりになるか想像もつきません。10年では収まらないことでしょう。

大震災による直接的被害のみならず、その直後から始まった福島第1原発の原子力事故は、茨城県、福島県の農畜産物全体を風評被害によって事実上出荷不可能な状態に追い込んでしまいました。

春の種まき、田植えすらこの4月中旬に至るまで決定することが出来ませんでした。それは地表に降り注いだかもしれない放射性物質が、どこにどれだけ降ったのか、そして今後も降り続けるのかの予測が県にも、市にも、そして私たち農業者にもつかなかったからです。

そしてあろうことか、自称「低レベル放射性汚染水」(私はこの数値が発表されない限り「低レベル」という政府・東電発表を信頼していませんが)の大量放出により茨城県海域は「放射能汚染の海」というレッテルを貼られ、水産物は未だ漁にも出られない状態が続いています。

こうしてわが県は、「茨城県産」というだけで農産物、畜産物、水産物のほぼすべてが出荷不可能に近い状態に追い込まれてしまったのです。

これは復興の槌を持つ手を縛り、被災地に二度目の大震災を与えたのでした。

「県難」という言葉があればまさに今がその時でしょう。この重苦しく垂れ込める雲を払うようにわが村からも農業者が東北地方の被災地支援にたちあがりました。

自らも打撃を受けながらも、更に困難な地域を支援するのです。被災者がより苦しんでいる被災者を助けに数百㌔を走って駆けつけたのです。

被災地に向けて自らの農場産の食料を積み、焚き出しをしてきました。今日はこの被災地による被災地支援の主宰者である下河辺昭二氏の寄稿を頂戴しましたので2回にわけて掲載いたします。

Photo_2                      (撮影 下河辺氏 田老村)

岩手県野田村に炊き出しのお手伝いに行って来た。

そこには同じ取引先に生産物を供給している産地、メーカーの人たちが被災されている。

4月4日午後

茨城を出発、先発隊を含めて計7人、3台の車に分乗し東北道を北上、茨城から岩手まで道路におうとつがあり、改めて今回の地震の大きさを実感する。

1000頃に宿に着いた。岩手の山荘にはたくさんの雪が残っていて現場に着く前から厳しい状況での被災を想像しながら就寝。

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野田村入り避難所生活者約100人、街を見て言葉を失う堤防は破壊され街の中に漁船が何艘も打ち上げられている。家屋の大半は瓦礫化していた。所々に家が傾いた状態で存在している。

かろうじて家は立っているが一階部分には津波で破壊された車などが入り込んでいて想像を絶する風景に言葉を失う。

到着後すぐに炊き出しの準備、丼物と汁物、各400食、自分達が寝ている間に岩手の関係者が早朝より準備をしてくれた。

汁物は地鶏のガラを煮込んで出汁を取って本格的に作られていた。いつもイベントなどでは試食と言う合言葉でスタッフの腹を満たすが、今回は本職の仕込みと言うこともあり出来なかった。と言うより行わなかった。

少々残念だが持ち込んだ食材は限られている被災者を最優先にと誰もが思っていたからだ。約1時間で大きな寸胴の底が見えた。

野田村の皆さんに「美味しいよ、ありがとう、頑張ってね」逆に励まされた。

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宮古市重茂漁港に向かった。途中 田老町地区を通り抜けた。国道を挟んで町並みがあったはずなのにあるのは瓦礫の山だった。町民は一人もいない。

いるのは自衛隊だけ、町民全員が避難所暮らしをしていると思われる。

宮古市重茂漁港に到着、ここでは約100人が避難所で暮らしている。46日現在、20人が行方不明。この人たちは高台で津波を監視していた消防団員だ。

重茂漁港では行方不明者捜索の為、炊き出しの受け入れが出来ないと連絡を受け、準備済みの食材を渡し避難所へ配ってもらう事とした。

(次回に続く)

首都圏放射線量マップ
http://www.j-cast.com/2011/03/18090608.html

多くの地域の放射量をみることができる便利なサイトです。政府は原発事故以来一貫して「安全です」と言ってきました。それがいかにいいかげんなでまかせであったのかがわかりました。政府は信用でいません。

私たちは自分で自分の家族を守るしかないのです。毎日自分の済む地域の放射線量をウォッチしましょう!

がんばれ、東北!

茨城からも応援するぞ!

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コメント

長駆三陸北部まで…素晴らしい方々がいるのですね。余震続きで地元も心配でしょうに…。

石原プロダクション名物の大規模炊き出しが話題になってますが、暖かい食事や野菜類は何より喜ばれたことでしょう。

後は風呂とトイレだなあ…自衛隊も10万人規模で全力出動したので、すでにアップアップ状態ですし。
昨日また1人ベテラン隊員が過労死されました。

JBプレスに現地自衛隊からの訴えの記事が出てます。

濱田様有難うございました。
メールを送信しましたので、お手が空いたら確認をお願いします。
濱田様がブログ更新する事により、元気な事が確認できますし、その現地からの情報が何よりのお礼です。
お気遣い無きようお願いします。
本当にありがとうございました。

今日も震度6の余震が発生したようですが、大丈夫だったでしょうか?
相方様共々お体ご自愛ください。

私が茨城の農業をやってる方が、まずやることは
農地の除染だと思います。
野菜つくりを一度、すべてストップし、安全な土壌を作る。
作った野菜をトラクターでつぶしたり、耕したりしてる映像をみましたが、あれでは放射性物質を土の中に入れてしまっているだけです。

表面の土を書き出して、農地の隅に集めておく。それだけでも違うと思うのです。

もちろん、生活がありますから
その分を国と東電に補償してもらう交渉は必要になると思いますが。

まず、茨城県をあげて除染をしなければ、ずっとこんな感じだと思うのです。

まあ、安全基準の数値を現状に合せて簡単に上げてしまう政府が補償してくれるかどうかは、難しいかもしれませんが
宮城の津波と同じく、農地を復興しなければ続くと思います。

以上、私の思うことでした。

すいません。コメントを書く記事を間違えました。
書き直します。

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