わが村の廃校式と子乞い
私の村の小学校で廃校式がありました。
3月11日の震災で、校舎が壊れてしまったために、別々な学校に収容されていた子供たちがひさしぶりに旧校舎に集まりました。
今年卒業式をする子もいて、クラス会と卒業式を一緒にしたようなものでしょうか。
定員割れを起こしかけている60人ていどの小さな小学校でした。毎年児童数が減少して、ひとつの小学校を維持できなくなりかかって、統廃合が練られていた矢先でした。
小学校は村のシンボルです。明治になって日本人は、まず学校づくりから新しい時代を開始しました。
子供たちの足で歩いて通える距離にひとつの小学校を作る。小学校で世の中に出ていって困らないすべてを教える。これが昔の日本人が心に描いた理想でした。
沖縄戦が終了して、基地に土地を取り上げられて収容所暮らしを余儀なくされた時にも、沖縄の人々が真っ先に作ったのも学校でした。
トタン板の屋根で壁さえなくても黒板ひとつあればよかったのです。それは全国どこも一緒でした。焼け野原に学校を立てたのです。
ちょうどキリスト教徒が植民すると、まず教会を建てるように、日本人はまず学校を作ったのでした。
学校は日本人にとってひとつの信仰だったのかもしれません。子供に生きていく知恵を授け、伝統を次の世代に繋いでいくための信仰の依代だったのです。
沖縄の離島には「子ごい」という風習があります。文字通り子供を乞うのです。小学生が数人になってしまって廃校になると、残された子供は連絡船で遠くの島まで学校に行かねばなりません。
通いきれないと仕方がなくなって、その学校のある大きな島まで一家で移住せねばなりません。こんなことが続くと、やがて島で生きる人がいなくなってしまいます。
そして島はゆるやかに死んでいきます。
だから、頼んでも子供を「乞う」のです。ありとあらゆる手段で子供を誘致するわけです。
私の村も「子乞い」をせねばならなくなりかかっています。農業が元気ならば、村は元気です。元気な村には若い人が残ります。
そして子供が生まれます。ふたりなどとケチなことをいわず5、6人作ってほしいですね。そして小学校を100人、200人にしましょう!
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■震災…学びやに永遠の別れ 行方・小貫小で閉校式、1年ぶり児童も勢ぞろい
東日本大震災で校舎が使えなくなり、統廃合される行方市立小貫小学校の閉校式が二十二日、同校校庭であった。震災直後から近くの北浦中学校を間借りして授業を受けてきた児童六十六人が一年ぶりに母校に戻り、慣れ親しんだ学びやに別れを告げた。
もともと小貫小は二〇一六年に新校に統合される予定だった。震災で校舎の壁などに亀裂が入るなどしたことから再編を早めて今年四月から近くの武田小に統合される。
式では寂しがる児童もいたが、児童会長で六年の根本孝紀君は「小貫っ子としてこれからも負けずにがんばる」と話した。
県教委によると、震災で使えなくなったまま廃校となるのは小貫小と同市の三和小、常陸太田市の佐都小の計三校。
東京新聞3月23日
■学校の防災 手探り 文科省、やっと防災手引
幼い命をどう守るのか-。東日本大震災は学校の防災にも課題を投げ掛けた。県内では津波や揺れによる子どもの犠牲はなかったが、震源が少しずれていれば学校にも多大な被害をもたらした可能性がある。震災から1年がたち、学校防災の見直しは進められているが、手探りのところも多い。
■津波
県内では北茨城市で最高六・七メートルの津波が観測され、同市や鹿嶋市内で計六人が死亡、一人が今も行方不明のままだ。船や車、コンテナなどが流されたほか、漁港や沿岸部の魚市場、鮮魚店を直撃して甚大な被害となった。
「津波の訓練なんて震災前までは考えたこともなかった」。大洗町の大洗港から約四百メートルにある「大洗かもめ保育園」の江橋喜久雄園長(64)は打ち明ける。震災では施設や園庭が最高七十センチまで津波に漬かったが、避難して全員無事だった。
二〇一一年度は一キロ先の高台まで園児らを走らせる津波の訓練を三度実施した。「徐々に避難する時間が短くなった」と園長は手応えを感じる。
一二年度以降に園は高台への移転が決まっているが「それまでに津波が来たらどうするのか。地震で建物が崩れ、避難路がふさがれる可能性だってある」と警戒を緩めない。
学校保健安全法は、地域の実態に即した防災マニュアルの作成を各学校に求めてきたが、東日本大震災は想定をはるかに超えた。文部科学省は今月九日、ようやく震災を踏まえた自然災害に対する防災手引を示した。
県教委の指針も改訂中だ。小野寺俊教育長は十九日、県議会予算特別委員会で伊沢勝徳氏(自民)の質問に「(一一)年度内には(改訂版を)作って四月に各学校に配りたい」と答えた。ただし、想定される津波の高さは県が見直している最中のため、浸水域の範囲が分かるのは五月ごろの見通し。
各学校はそれまで待てないと、手探りで防災態勢を見直している。高萩市立東小では、震災時に津波が近くの川をさかのぼり、校庭も五十センチほど漬かった。防災マニュアルに津波は入っていなかった。最初に向かった避難所の福祉センターはいっぱいで、高萩高校に移動してやっと避難できた。
一一年度は例年の倍以上の七度の避難訓練を実施。大内富夫校長は「大災害では細かい決め事なんて守れないと分かった。教諭がいなくても助け合って逃げる。そういうシンプルな内容にしたい」とマニュアルを改訂する方針だ。
那珂川沿いや沿岸部を抱えるひたちなか市の藤田秀美教育指導室長も「想定を超える事態を常に頭に入れるよう指導を改める」と話す。
■原子力防災、耐震化
東京電力福島第一原発事故を受け、原子力防災を求められる学校も増えた。東海村の日本原子力発電東海第二原発から二十キロ圏に入る水戸市立上大野小は一月、原子力事故を想定した訓練を実施。児童を屋内退避させ、衣服を脱ぐまでの手順を行ったという。一方、同圏内の常陸大宮市内の中学は「原子力への対応は検討中」といい、ばらつきがある。
震度6弱以上なら二次災害を防ぐため児童を帰らせないと決めたのは北茨城市の中郷二小。しかし、根本的な問題として県内の学校施設は耐震化が遅れている。県内の公立小中学校の耐震化率は昨年四月時点で64・1%。統廃合予定の学校が多いのも理由の一つになっている。近く首都圏での大地震が懸念される中、校舎を耐震化した上で廃校後の跡地利用を図ることや再編を早めるなどの早急な議論が求められる。
【文科省発表の地震・津波防災手引の抜粋】
・津波警報を聞いたら自主的に避難を考えるよう指導を
・危険を過小評価せず、想定以上を意識
・薬品や飲料水、鍵など必要な物は高層階に備蓄
・長時間の通信手段の断絶を想定
・児童らの引き渡し方法を保護者と事前確認
・自治会などの地域と一体で訓練実施
・屋内退避など原子力災害を想定。シャワーなど洗浄が必要な場合もある。保護者と協議を
(東京新聞3月21日)
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切ない話ですねえ…。
首都圏に近い茨城県でも統廃合するほど子供が少ない上に、震災でダメになるなんて。
こちら東北でも統廃合が急激に進んでいます。
一番馬鹿馬鹿しいのは、昔ながらの木造校舎を80~90年代に次々に潰して(まあ、老朽化が激しかったので致し方ない)おいて、広くて立派すぎる豪華新校舎に建て替えておきながら、それが生徒減少(分かっていたはず)で閉校が相次いでいることです。
山形県にも飛島という過疎と高齢化の離島があります。
生徒数ゼロで「休校」扱いだったんですが、本土から介護士夫婦が子連れで移住したので再開したという珍しい例もあります。酒田市の教育予算だけでずいぶん高くつきそうですが…。
田舎にもまだ多くの子供がいた70年代には、豪雪地では「道路が不通になりバスで通えない冬だけは、親と別れて寄宿舎に泊まり込みで合宿生活」なんてのも珍しくなかったです。
南の島とも違う意味で、痛い問題でしたが、今では懐かしいですね…。
冬は閉鎖されてた分校など、いまや僅か10戸ほどなった集落で「郷土(林業もしくは鉱山跡)史料館」として、かろうじて残っているところもありますが…。
そう。やはり都市でもどんな田舎でも、学校は地域のシンボルでした。
時代ですかねえ…。
投稿: 山形 | 2012年3月25日 (日) 07時35分
http://www.city.nagoya.jp/kurashi/category/11-4-7-5-0-0-0-0-0-0.html
公立小学校の合併、廃校問題は、大きな政令市である名古屋市においても、急激に、始っていると言うか、現在進行形です。
すでに、大都市中心部は、住民の居住しない企業、テナントが、入居した高層ビルばかりで、小さなお子さんを持つ家庭が居住しているのは、庭付きの大屋敷に、大昔から居住している由緒ある家柄の家庭のみですので、授業は、すでに、複数学年統合授業になってきて居ます。
私が、卒業した市内中心部の小学校と学校併設幼稚園は、廃校決定になりました。
http://blog.livedoor.jp/minami758/archives/1467758.html
これは、ある政治家のブログで、恐縮ですが、(自分が応援している政治家ではないが、実態が、理解しやすいので、引用しました。
学校廃校問題は、田舎だけの問題ではありません。
大都市中心部には、若い世帯が住める環境が、減る一方ですので、田舎の離島と同じで、シンボルだった学校は、急激に無くなっているのですが、市当局は、積極的に、市民に現状実態を、示さないのです。
高齢者にとっても、防災避難拠点ですし、その学校を卒業されたOBにとっても、残念なことだと、思います。
根本は、諸外国と異なり、都市計画の長期的グランドデザインが 全くないことです。
学校のグランドは、中年草野球グループの日曜ごとの楽しみの場でもあり、高年者の趣味交流の場でもあるのですが、避難場所が無くなるだけでなく、生活に必要な地域施設と言う概念が、ほとんどありません。
単純に、団塊世代の先生が退職すれば、統廃合で、予算投入を減らせると言う目先の理由のみ、一人歩きしています。
これが、全国一、待機児童が、居ると言われている名古屋市の教育行政の本当の姿です。
陸の孤島状態ですから。。
廃校式は、田舎だけの実態では、なく、事情は違えども、
大都市でも、起こっているのが、真実ですが、夜間人口の少なさだと、茨城も名古屋も、ある意味、同じかもしれませんね。
投稿: りぼん。 | 2012年3月25日 (日) 09時26分
りぼん。様。
私も地方都市の市街地住みですが、目の前の学校が建て替えられたばかりです。
私がいた70年代には1300人のマンモス学校でしたが、今や300人台。
名古屋のような大都市でさえそんな状況ですか…それなのに待機児童ばかり増えるいびつな状態がわかりますねぇ。ふぅ…。
ちょっと脱線しますが、大村知事の瓦礫処理(選別~焼却~最終処分)一連の新プラントを新設するとの話に、口あんぐり!
我々から見たら予算規模の巨大な地域ならではですなあ。
名古屋もんの心意気に感謝するとともに、いつ稼働するのかと…。
投稿: 山形 | 2012年3月25日 (日) 12時13分
名古屋もんの心意気に感謝するとともに、いつ稼働するのかと…。>>>>
これは、まず、未定というか、多分、焼却炉は、出来ても、最終埋め立て処分場を作るのは、アセスメント通すのが、難しいと思いますね。
名古屋の場合、焼却工場で出来た水分は、基本的には、PH、BOD、CODなど、24時間、連続処理して、廃棄可能なレベルの水質にして、放流するので、大きな自動処理施設を鉄筋コンクリート造りの建物に、設置して、
毎日、処理薬品を運ぶ、化学薬品専用ローリーが、来ますが、ダイオキシン、重金属、放射性物質の自動検出装置は、設置されないのが、現状ですね。
まあ、3年後くらい後に、実働するのでしょうね。被災3県の廃棄物処理料金、コンテナ運搬は、倍以上に、値上がりましたから、
そこから得る、法人事業税、法人税、国に代行して徴収している、法人特別税などが、知事の目当てなんでは?と思います。大体、36%くらいが納税額ですけどね。国が貧乏でも、県は儲かると言う仕組みです。
もちろん、これらは、法人市民税としても、追加で、支払うはめになります。
国税の方が、損金扱い経費が多いので、多少助かりますが、法人市民税、県民税は、損金経費扱い品目が、少ないので、しっかり徴収されてます。
もう、次世代を担うお子さん達やその夫婦は、名古屋市近郊から出勤と言う事で、名古屋は、老人の街になりましたね。
もっと、実用的で、納税額も減るプランは、いくらでもありますが、単純に、バブル震災復興資金のおこぼれ狙いですね~。
ただ、実行できれば、コンテナ船で、大量に運ぶことも可能で、コンテナ箱を船から降ろす護岸は、名古屋港に、2箇所、三河湾内にも、あると思います。
トヨタなどは、自前で、自動車運搬専用船を持って居たりと、港湾設備は、結構ありますので、トラック輸送より、大量持込は、出来ると思います。
投稿: りぼん。 | 2012年3月25日 (日) 17時20分