2日続けてですが、白井美佳さんというある主婦の「放射能パニックからの生還」と題されたインタビューを基にした手記をご紹介します。
ここで彼女が率直に述べているのが、私が「放射能パニック症候群」と名づけたものです。
私は去年からこのブログで、いやになるほどそのような人たちを相手にせざるをえませんでした。あまりのひどさに、私の方が人間不信になりかけたほうどです。
彼女がこのような症状に陥ったのは、ネットで流される武田邦彦や、早川由紀夫、小出裕章、岩上安身、上杉隆、広瀬隆など各氏の言説によってでした。(*)
彼らが執拗に流布した「放射能の恐怖」は、強い感染力をもっており、「原発避難論」という本に描かれた自主避難者のほぼ全員がこの人たちの影響下にありました。
福島第1原発事故は、多大な被害を日本社会にもたらしましたが、その直接の被害そのものよりも放射能パニック症候群に罹った人々による流言蜚語や差別行動によって、更に傷を深めてしまいました。
彼らは被害者でありながら、同時に根拠のない風評や差別によって加害者に転化してしまったのです。
彼らは他者の声に耳を貸しません。偏った一定の情報ではなく、沢山の立場の違う情報を集めて考えるということを、この主婦が自身で言うように「御用学者とされた正確な情報を発信する人の話が間違っていたと思い込み、話を聞きませんでした」。
彼女はいわゆる「バカの壁」を自ら作り出してしまったわけですが、その恐怖心を核にする小さなコミュニティがネット上で沢山存在し、皮肉にもその中に閉じこもると絶対的安心感が湧くという心理状態になったようです。
そして、彼らにまって、自分たち以外はすべて放射能の恐怖を理解しない馬鹿な人たちであり、自分と見解をことにする人たちは「敵」と見なすようになります。
この人たちにとって、3.11以後の日本社会は、「邪悪な原子力ムラ」とそれに洗脳されている人たち、それに対して「正義の闘いを挑む脱原発派」に二分されてしまったのです。
そこには彼女が告白しているように、「反原発を唱えることで、特別な使命を持った選民意識を持てましたし、自己愛が満たされ」た心理的背景があったようです。
彼女の場合、中年期を迎えたことによる迷い、仕事や住宅環境、家庭内の出来事などの悩みが、反原発を唱えることで解消できるような錯覚に陥ったのです。
さてここで、ひとつの考え方が疑似宗教に転じてしまう三ツの要素が出揃いました。
それは、その考え方が、自分の不安心からの「救済」を約束し、その代償として絶対的「帰依」することを命じ、それに従わない周囲の人たちを「回心」させる、という三要素です。
この手記に書かれている「居心地のいい場所で、現実の世界にはない絶対的安心感を抱けました」という気持ちの安らぎは、まさに宗教が与える法悦感そのものでした。彼女自身もいう「カルト宗教への依存」と酷似した心理状況でした。
カルト宗教へ依存する人の多くがそうであるように、彼女もまた家庭内でのいさかいが絶えなくなり、いっそう彼女を苦しめました。
また、しょせん疑似宗教は本物の宗教のまがい物にすぎませんから、一時は「安らぎ」を与えるかも知れませんが、そこから新たに原子力kない社会をリアルに構想することは不可能です。
まして、この「正義の闘い」が原子力ムラにのみ向けられているのならばともかく、まったくなんの関係もない東北の被災地瓦礫にまで牙をむくに至っては、なにをかいわんやです。
私はひとり孤独で悩む放射能パニックの人々を気の毒だと思いますし、できるならその実情を聞き取りたいと思っています。しかし、弱者にまで攻撃をかける人たちはとうてい許すことができません。
このような書くこと自体がつらい手記を、実名で公表された白井由佳さんの勇気に敬意を表します。
では、放射能パニックからの生還の手記をお読みください。
■* これらの人たちを私は一様には見ていません。
武田氏は専門性を持たない悪質なデマコーグにすぎません。この原発事故で甘い汁をもっとも吸った強欲な男です。
早川氏は専門の火山学を応用して事故初期に政府より早く放射性雲の動きを国民に伝えた功績は高く評価しています。しかし、後のあまりに常識を欠いた発言は学者のものとは思えません。
また小出氏に対しては、その清貧な生き方と相まって、私は深い尊敬の念をもっていましたが、事故後は日本のC・バズビーと化してしまったような人になってしまったことを、非常に残念に思います。
■関連過去ログhttp://arinkurin.cocolog-nifty.com/blog/2012/04/post-e738.html
http://arinkurin.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-943f.html
http://arinkurin.cocolog-nifty.com/blog/2012/06/post-fda2.html
http://arinkurin.cocolog-nifty.com/blog/2011/12/keiko-2.html
■内部被曝がどうしても不安な方はこちらで検査を
http://www.radio-isotope.jp/
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放射能パニックからの生還=ある主婦の体験から — 自らの差別意識に気づいたことが覚醒の契機に
白井由佳
−−放射能パニックとしてどのような状況になったのですか。
震災直後からおかしくなりました。昨年9月から10月にかけて一番ひどかったです。原発の状態と放射能汚染の事ばかりを考え、情報収集に明け暮れ、ノイローゼでした。「このままでは放射能汚染で死んでしまう。その前に関東で地震が起きて死ぬ可能性もある」という思いに取りつかれ不安がぬぐえず、めまい、頭痛、だるさ、激しい動気に悩まされ、体調も最悪の状態でした。
生活もおかしくなっていました。食材は東北から離れた西日本や北海道、外国産のものだけを利用。原発事故前につくられた米を大量備蓄しました。私の家は母子家庭なのですが、子どもにマスク登校を強要し、教育委員会には給食やプールの安全性について問い合わせをしました。子どもは私に反発して毎日親子喧嘩を繰り返しました。それでも私は、「自分が正しい」と思い込み、子どもの気持ちを無視して、毎日おかしな情報を集めそれを自らも拡散していたのです。
−−医師や専門家などが発信する、正しい情報を集めなかったのでしょうか。
情報の入手先は、ネットが中心でした。ツィッターをメインにしてブログやUSTREAM。情報ソースは、暗く悲惨な情報を流していることで有名になっている人ばかり。匿名の人たちから大学の先生、研究者まで色々でした。今になるとおかしな人々を信じてしまったと思いますが、当時は正しいと思っていました。そして「御用学者」とされた正確な情報を発信する人の話が間違っていたと思い込み、話を聞きませんでした。また原発事故まで原発や放射能についての知識はほとんどなく、情報の真偽を確かめられませんでした。
放射能パニックに陥った人の集まりに出たことがあります。私のように思い込みが激しく、偏った情報を信じる人ばかりでした。私は他人との交際はある程度ありますが、その人々はネットばかりを使い、リアルでコミュニケーションを取ることが上手ではない人が多かったようです。頭の片隅で「この人たちはパニックになっているな」と思ったのですが、自分がおかしくなっていることには思いが至りませんでした。
福島県民の苦しみを知りパニックに気づく
−−恐怖がピークに達した際にどうしたのですか。
疎開先を探し、北海道の田舎に移り住もうとしました。引っ越しの準備を始めようとした矢先、私の狂乱ぶりを心配した現実での友人たちが何人も「やめなさい」と忠告をしてくれました。仕事に支障が来たすし、私が常軌を逸していたことを指摘してくれました。しかし同じ放射能パニックに陥っていたネット上だけの知人達からは「疎開決定おめでとう」コールが殺到しました。
生活や収入のことを考え、東京にとどまることにしました。当時住んでいた所は、池袋のそばで、家賃は高いのに住環境が悪く、まともに太陽を見ることもできない所でした。多摩に引っ越しましたが、緑がいっぱいで、空も良く見えます。家賃は安くなったのに、部屋の間取りが広くなり、清潔さも増しました。これで私の心は一息つくことができたのです。とはいえ放射能ノイローゼはそのまま。食生活に気を使いながら、相変わらず毎日、ネットで情報取集していました。
−−そこから、なぜ変わることができたのですか。
少しずつ変化をしました。疎開を止めたころから考え直したり、しっかりした人の本を読んだり、行動が少しずつ変わったのです。そして友人である福島出身の若い男性が「福島から来た」というだけで、ひどい差別とイジメを受けたことを聞きました。彼は私の前で泣きました。それを見て、私は大きな間違いを犯していたことに気が付いたのです。私は被災者のことは考えずに自己中心的な思いだけで「放射能」を捉えていたのだと理解したのです。
私のノイローゼが悪化したのは、自分の生活や、心の問題があったためです。落ち着き始めると、それに気づきました。東日本大震災から私の生活は悪化しました。私は自営業をやっていますが震災自粛ムードで、仕事が減りました。そして震災や原発事故のテレビ映像にばかり関心を向けて、何もできなくなってしまったのです。
すると、あらゆることにやる気を失いました。どうせあがいても、放射能で東北と関東は壊滅する、もう未来はないと思い込みました。絶望感でいっぱいでした。ところが同時に、当時は正直に言うと、うれしい気持ちもあったのです。「放射能と地震で、私の苦しみが解放される」という矛盾する気持ちも、わいてきたのです。
−−「苦しみからの解放」とはどのようなことでしょうか。
私は44歳です。数年前から幾つかの大きな壁に直面して、困惑していました。まず自分の年齢により、容姿とスタイルが明らかに劣化しています。「おばさん」として社会から扱われ、自分もそう見ている。この現実が受け入れられませんでした。
そして仕事の問題がありました。大きなことをして世間をアッと言わせたい。長年そんな願望がありました。けれども、何もできていません。他にも子育てや人間関係など悩みは一杯ありましたが、どれも解決の見通しは立っていませんでした。自信を喪失していました。「心に大きな穴」というか、絶望めいたものがあったのです。
そんなときに、放射能問題によって、すべてがリセットされて、一から人生をやり直すことができるのではないかという思いが起こったのです。破壊の中に救いを求める気持ちです。私が震災情報に夢中になったのは、それが刺激的で、これまでの人生の悩みを忘れる事ができるほどのものであったためです。
−−つまり「強烈な不安」が「心の穴」に蓋をして、生きる目的までつくってしまったのですね。
ええ、そうです。不安が強ければ強いほど現実の問題から目を背ける事ができました。「放射能で子どもが死ぬ」というのは強烈なメッセージで心底怯えました。しかも母親として子供を救う使命感もありました。「母親」という立場が、パニックに拍車をかけたと思います。
私は役割を得たとも思いました。思うような人生を歩むことができない事を、社会のシステムの責任にしていました。「原発」問題は社会に反撃を行うチャンス。原発というこれほど分かりやすい「悪」はありません。「反原発」を唱えることで、特別な使命を持った選民意識を持てましたし、自己愛が満たされました。自分のパニックの背景に、「自尊心の維持」があったと、今になって思います。
脱パニックは周囲の理解でゆっくりと
−−パニックから目覚めた後で、何が起こりましたか。
おかしさに気づく過程で自分の嫌な面に気づき、自己嫌悪に陥りました。またおかしな情報を拡散したことや、福島や被災地の差別に加担したことの罪悪感も抱きました。また自分の心の先行きにも心配しています。私は極端から極端に触れやすく精神のバランスの悪い人間です。以前は放射能ノイローゼに依存しましたが、今は「脱放射能」に傾きすぎているのではないかと不安を抱きます。放射能や生活のリスクを直視せずに「これでいいのか」という心配があります。パニックから抜け出ることも、かなり精神的に苦しいことでした。
−−放射能パニックに陥った方をどのように救うべきでしょうか。
放射能パニックはカルト宗教への依存と似たものがあったと感じています。パニックに陥った人々の世界には、不満や不安を抱いている自分を心地よく受け入れてくれる仲間がいます。同類同士が傷の舐め合うことができます。しかも現実の煩わしさの少ない、ネットでの情報のやり取りが多かったのです。さらに自分の頭で考えることを放棄できます。道を示してくれる崇拝者、つまり「恐怖情報ソース」がいるのでとても楽でした。居心地のいい場所で、現実の世界にはない絶対的安心感を抱けました。
しかし、それが何も問題を解決しないこと、さらに虚構の上に成り立っていることを、この中にいる人は知りませんし、認めたがりません。そこからの脱出の道筋は人それぞれであると思いますが、他の人が示す情報によって、少しずつ気づかせ、変えることしかできないのではないでしょうか。周囲の協力が必要であると思います。
私は「心の闇」を持ち、それが放射能パニックに陥った大きな原因であると思います。ただし、私のような人ばかりではないでしょう。情報を調べることが得意ではないとか、子どもへの心配が大きすぎて冷静ではいられないとか、人間関係も苦手で情報が手に入らないとか、多様な視点から問題を考えられない状況にいるだけの人もいると思います。そのような人は私よりも、気づかせることで簡単に状況から抜け出せると思います。
私はできるなら、こうした方々を救うお手伝いをしたいと思ってインタビューに応じました。パニックに陥った人を批判、攻撃するのではなく、温かく見守ってほしいと思います。
脱原発運動に参加することで、3.11までの内面の「心の穴に蓋をする」ことが得られたようです。
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