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2012年7月 5日 (木)

原理主義的な二項対立で原発問題を語る時期は終わった

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大飯原発3号機が再稼働し、電力供給が開始されました。また大飯原発の再稼働に反対する人々が首相官邸に数万人集まりました。

労組の組織的動員はあったのでしょうが(赤旗は自粛していました)、その大多数は再稼働を憂いて集まった普通の市民だったと思われます。

では、このエネルギーがどこに向かうのでしょうか。残念ですが、私はいったん雲散霧消してしまうと思っています。

というのは、ドイツ緑の党のような運動の中心になる有力な政党が日本には存在しないからです。

その原因はリアリズムの欠如です。具体現実の課題として脱原発を唱えることを怠り、即時全面稼働停止といった極端なスローガン政治に陥っています。

脱原発というスローガンを唱えているだけでどうかなるほど、原子力はヤワではありません。

戦後の長い歴史をかけて作られてきた国策としての原子力推進の舵を切るためには、こちらにも相当な覚悟とリアルな対案が必要とされます。

日本という痩せても枯れても世界屈指の工業国家のエネルギー政策の問題として、原発問題を見ていく必要があるのです。

たとえば、半導体のクリーンルーム、常時温度管理が必要なバイオテクノロジー関係、コンピュータ制御が絶対条件のNC旋盤や産業用ロボットを主力とする製造業などは、わずか一瞬の停電も許されません。

このような部門にわが国は満ち溢れており、リスクマネージメント上から国内生産から逃避していきます。

これはわが国よりはるかにしっかりとした脱原発路線をとったドイツにおいて、大量の工業の国外移転を生み出してしまったことからも想像がつきます。

では、ここで原子力に未来はあるのかと逆な質問をしてみましょう。私はないと思います。

それはいわゆる「バックエンド問題」が、日本では解決不可能な以上、原子力に仮に明日はあっても、明後日はありません

バックエンド問題とは、日々原発から排出される使用済み核燃料の行き場です。

ひとつはリサイクル工程に入れて再処理されてプルトニウムになります。これは経済エネルギーの枠を超えて軍事転用問題というやっかい事を半永久的に抱え込むことでもあります。

もうひとつは、そのまま処分場に埋設し補完するワンススルー(直接廃棄)方式です。ガラス化しての地層処分は、活断層が縦横に走っていて、未発見の活断層に満ちあふれているわが国ではナンセンスです。

この核燃料問題とは別に、廃炉問題もあります。原発の炉関連は言うに及ばず、原子炉全体の細かなネジ一個まで処分することには膨大な費用と廃棄処分場を必要とします。

現実的に不可能に等しいことです。そしてこのバックエンド問題を処理するために、国が市場メカニズムとは別次元で介入せねばなりませんでした。

これが単なる民間エネホルギー部門でありながら、過剰な国家介入を招いて、飯田哲也(てつなり)氏のいう原子力村を生み出し3.11の遠因を作り、国策民営という歪んだ原子力政治を生み出したことはご承知のとおりです。

推進派は極端な原発安全神話を創造し、いっさいの批判に耳を貸さず、リスクマネージメントすら「何も起きるはずがない」という前提で立てるというまねをしました。

一方、脱原発を掲げる人々の多くは、「命か経済か」というような無意味な二項対立に未だしがみついています。このような別次元のものを秤にかけても意味はありません。

このような原理的な二項対立、つまり一方は不可侵の「原子力安全神話」にしがみつき、方や「命か経済か」という空論から出ようとしないのではリアルな原発の畳み方が議論の俎上に登ることはありえません

ましてこれに小沢新党やら菅直人氏らのグループが政局として脱原発を利用するとなると、絶望的な気すらします。

原理主義的な二項対立で原発問題を語る時期は終わったのです。

今必要なことは、いかに合理的に、段階を踏んで、経済にも国民生活にも負担をかけず、原子力から離脱し、命を守ることなのです。

■写真 当地は今日もぐずついた天気です。その中で新緑がみずみずしく天に向かって伸びています。ほんとうに見飽きない美しさです。
この欅は若木から植えたもので、樹齢が30数年たちます。いつの間にか大木に育ってしまいました。
30年というのは人間にとってあっと言うまですが、ほんとうは長いのですね。

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コメント

私の感じるところでは、福島第1原発1号機と2~4号機について、対策に、差があるように思えるのです。
なぜ、2号機の半分の発電容量の1号機に、カバーを掛けないといけないのかを考えたとき、少なくとも、40年と言う設計上の使用期間を過ぎたものは、危ない可能性が、大きいと言う意味なのだと、思ってます。
東電も関電も、絶えず部品交換しているので、プラントの耐用年数は、問題ないと言ってますが、少なくとも、交換部品ではない、圧力容器、格納容器が、破損したことや、メルトダウン後わずか数時間で、格納容器の耐圧を越えてしまって、ウェットベントかドライベントをしなければならなくなると言う事やとにかく水素爆発に耐えうる格納容器や原子炉建屋は、存在しないと言う事。

全国的に、使用済み燃料棒の保管プールの空きが、わずかしかないのに、原子力発電を続けていくことが、無理な状況からすれば、管理人さんのおっしゃるように、突然、原発ゼロともいかないし、永遠に原発を動かすことも、できない訳ですよね。

原子力村の学者さん達は、全国50基の原発のリスクについて、津波とか、地震とかの問題でなく、メルトダウンし始めたら、どう原発をコントロールできるのか?を、しっかり対策しながら、リスクの小さい原発を優先して、やむなく動かすとか、前向きな思考をしてもらいたいのですが。。

津波対策だけで、すべてが解決するというような、政治的解決に対して、学者さん達が、学者としての信念のある解決やリスク評価を積極的にしない日本の原子力学者は、おかしいと思います。

スイスのマーク1原子炉は、2重にベントラインを3.11以後に作りました。山の中のスイスに、津波は来ないと思いますが、新たな対策を、実際にしているのです。

では、日本は、ベントラインが、不要かと言うと、水素爆発を回避するには、発生水素を放出する以外、ありえないし、窒素を注入する=ベントラインを使わず直接、放射性物質を大気中に放出していると言う事ですので、科学者として、取り入れられるすべての安全対策は、絶対しないといけないことだと思えます。

原発が停止していても、燃料保管プールが、水漏れしたり、オーバーフローすれば、広域汚染は、避けられないことが、わかっているのですから。。

再稼動しないで、停止状態の原発は、安全かと言えば、安全とは、いえないのですから、泊原発のように、試運転も営業運転も、同じリスクなら、営業運転を認めると言う考えも、有りだと思うのですが、単純に、50基の原発ごとのメルトダウン時のSPEEDIの情報すら、公開しないし、肝心のストレステストの2次評価すら、公開しない政府って、国防意識がないと言わざるを得ないと思います。国防=軍備増強ではありません。

もともと、過去の戦争の基は、食糧だったり、資源エネルギーであったり、国際経済問題が、発端ですから。。

原発の管理を、政治家が行うことの危険性は、第2次大戦に突入した内閣の状況と同じだと思えるのですが。。

全くその通りです。
イデオロギー対立で賛成か反対かなんてやってたら、何も始まりません。進みません。


これは(お題違いなので、書くのはためらってましたが脱線失礼!)、沖縄のオスプレイ問題と同じ構図。
まあ見事に「しんぶん赤旗の誘導記事と、沖縄2紙にそのまま掲載され、さらに昨夜のテレビ朝日報道ステーションによって」ここぞとばかりに誘導されてる。(せっかく分析しても『あくまで結論ありき』なので妙なことになる典型)

みなさん、少し冷静になりましょう。オスプレイアレルギーは目に余ります。
煽られて騒ぐような愚策は控えて下さい。
県民運動!それをやって、何か変わるのですか?

配備されて困るのはヤマトンチュでもウチナーでもなく、誘導する外部から来た赤い人達ですよ。

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