1945年8月6日午前8時15分、広島でなにが起きたのか
爆発点直下には数十万気圧の超高圧が作られ、周囲の空気は煮えたぎり、上空に爆風として吸い上げられ、この時起きた激しい風は風速280mにも及びました。
これに乗って爆風はまず外側方向に向かい、わずか30秒後には11㌔遠方まで衝撃波と熱線、そして放射線を延ばしたました。
この外側に向かうエネルギーが去った後に襲ったのが、内側に向かうキノコ雲です。
(写真 広島に投下された原爆によるキノコ雲(米軍機撮影)。キノコ雲の下に見えるのは広島市街、その左奥は広島湾。Wikipediaより)
爆発で形勢されたこの禍々しい火球は、摂氏数万度にも及び、これにより爆心地から3.5キロ以内に無遮蔽でいた人々は致命的熱傷を受けました。
同時に爆心地から半径2キロ以内にいたすべての人は、直接放射線により急性放射線障害により即死しました。
この高エネルギー放射線を照射された地表は土壌の放射化現象を起こし、広島市民は頭上のみならず地表からも超高線量を浴びることになったのです。
かくして広島において、原爆の熱風、熱線、放射線によりその年の12月までに14万人が死亡しました。
さらにこの悲劇は終わったのではなく、急性放射線被曝のみならず、放射線による晩発性障害が引き起こされました。
核爆発後に発生した超高温のキノコ雲は、上空で冷却されて雨となり、これが「黒い雨」として人々の頭上に降り注いだのです。
雨が、木造家屋の火災による煤を含んでいたために、黒い雨になり、爆発後北西方向の風に乗り、30㎞遠方まで放射性物質を大量に含んだ雨がフォールアウト(放射性降下)しました。
北北西に伸びた「黒い雨」のエリアは、長径19キロ、短径11キロに及び、約1時間以上激しい雨となりました。
この「黒い雨」の範囲内では、直後から急性放射性障害による脱毛、下痢が始まり、長い時間に渡って人々は白血病などの放射性障害、「原爆症」に浸食され続けていくことになります。
この「黒い雨」のエリアにいた人たちは、毎日のように続く野辺送りを経験せほばなりませんでした。
そしてそれだけではなく、放射能に対する社会的偏見にさらされ、社会的交際、就職、結婚にまで「黒い雨」は暗い翼を伸ばした。それは放射線被爆地の人々にとって「三度目の死」といっていいでしょう。
そして・・・
広島の原爆投下後に、人は70年間住めないと言った物理学の権威がいたそうです。というと、2015年までダメというわけですから、今も広島は無人の荒野というわけです。
もちろん私たちはこの間違いを知っています。今の広島は、中国地方一の大都市です。
広島は、原爆投下から2カ月後の10月には既に仮設住宅が立ち始めています。
同じく10月には市電が運行を再開しました。あの広島名物のゴトゴト走る可愛い路面電車です。
11月に恵比寿神社が再建されて復興祈願祭が執り行われ、人々の気持ちを明るくさせました。
翌46年1月には、広島復興局が開設され、行政と一丸となった復興が本格化します。原爆投下からわずか5カ月後のことです。
そして4月には復興都市計画が策定されました。ものすごい速度で復興を果たしていたのがわかります。ほんとうに広島の人たちはエネルギッシュです。
同じ4月には都市ガスが再開しました。都市インフラの復旧がすごい勢いですすんでいることが分かります。
46年の水道の復旧率が、なんと7割です。人口は46年末のデータで、15万人にも達しました。
人類史上最悪のジェノサイドからわずか1年半たらずで、広島市は蘇ったのです。これを広島市民と私たち日本人は誇りに思うべきです。
私たち日本人は原爆に勝ったのです。
この非道な原爆によって生命を失われた広島・長崎合わせて約21万人の犠牲者の御霊が、とこしえに安らかならんことをお祈りします。
« なぜ広島に原爆が投下されたのか? | トップページ | 他県より長寿を実現した「ヒロシマ」の事実 »
「原子力事故」カテゴリの記事
- 福島にはもう住めない、行くなと言った人々は自然の浄化力を知らなかった(2019.03.11)
- トリチウムは国際条約に沿って海洋放出するべきです(2018.09.04)
- 広島高裁判決に従えばすべての科学文明は全否定されてしまう(2017.12.15)
- 日本学術会議 「9.1報告」の画期的意義(2017.09.23)
- 福島事故後1年目 大震災に耐えた東日本の社会は崩壊しかかっていた(2017.03.16)
正に震災後から現在まで一部の方々から出ている「福島差別」と同じですね。
全く馬鹿馬鹿しく嘆かわしいことです。
広島の原爆は核分裂万能したのは2~5%であの威力で、250Kgの残りのウラン(ウラン235が80%)は周辺に飛び散りました。
70年は人が住めず草木も生えないと言われたのはよく知られていますが、あれはなんだったのか。
爆心地付近でさえ、その後の核実験の放射性物質バックグラウンドで計測不能で、床下や地下でようやく検出できる程度の状況だというのに。
特に福島や東北・関東を『被爆地』と言う方々、自分も同じ(差別対象)だということを理解して下さい。
自分が汚染されたと文句を言うなら中国へどうぞ。
国内で過去最大の大気中放射線が計測されたのは、当時の米子市です。
投稿: 山形 | 2013年5月30日 (木) 09時16分
よく放射能に敏感なお母さん達から内部被爆の恐ろしさの話しを聞き、やれ野菜が何ベクレルだ魚が何ベクレルだからという話をされると一体何ベクレルならいいのだろうかと思います。
で、爆心地でありながら誰も原爆障害者を出さなかった聖フランシスコ病院の秋月医院長の話しをされるのですが、その時代ですからその方達はきっと地場の米や野菜や魚を食べていたと思うんです。
それでも天寿をまっとう出来たのですから、そればかり固執してもしょうがないのでは・・・
と、いつも思ってしまいます。
爆心地でそれですから、今住んでられるところであればちゃんと生きられるのではないのでしょうか?
健康に生きるということに関して言えば、他にも生命を脅かすもろもろの因子がいっぱいありますよね。
投稿: こずさん | 2013年5月30日 (木) 18時49分