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2013年6月13日 (木)

福島第1原発:吉田前所長 ビデオ発言全文  「最後まで残って戦ったのはこんな人間だぞ」

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吉田昌郎前福島第1原発所長は、今ガンと戦っています。

それがこの原子力事故と関連があるのかどうかはわかりません。その因果関係が明らかになるのはもう少し後のことでしょう。

私は吉田昌郎というひとりの男が日本を、地獄の奈落へと滑り落ちて行こうとするわが祖国を救ったと思っています。

彼が注水停止を官邸の言うがままに実行していれば、今私はここにいないはずです。東日本全体は深刻な長期間続く放射能汚染の地になったことは間違いありません。

吉田は、事故が起きた時に関連会社の作業員の退去を命じます。それは、この福島第1原発に「残る」ということが、すなわち死を意味することを原子力の専門家として熟知していたからです。

福島第2原発所長は、扉を閉めて退去させないようにと命じたそうです。それも正しい判断でした。

原子力事故とは、米国NRCが言うように長丁場になり、延べ数千人が交替で行うものだからです。

しかしこの時、吉田を動かしていたのは「論理」ではなかったはずです。いわば「魂」でした。

言い換えれば、原子力技術者としての合理性ではなく、このような事故を起こしてしまったことに対する原発所長としての慙愧の念でした。

だから、彼は責任を取るのは自分とわずかの死を覚悟したメンバーでいいと考えたはずです。かなうことなら、ほんとうは彼一人で立ち向かいたかったのではないでしょうか。

彼はホワイトボードに残ることを選んだメンバーの名を書いていくように言いました。それは上司としての命令ではなかったはずです。

彼が語るようにまさに墓標でした。墓標に共に自らの名を刻む仲間に語りかけたのです。

「最後まで残って戦ったのはこんな人間だぞ」、と。

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福島第1原発:吉田前所長 ビデオでの発言全文
 毎日新聞 2012年08月11日
 

−−第1原発の現場の声を伝えてほしい。 

 ◇昨年の大震災、それから私たちの発電所の事故で福島県の地元の方々に本当にご迷惑をおかけしている。この場で深くおわび申し上げる。 

まだしばらくこういう状況が続くが、我々も全力を挙げて復旧しており、ご理解をお願いする。本来ならこの講演会に自分で出てきたいと思っていたが、昨年末から病気でずっと入院していてまだ体力が回復していない。そういう中でこういうビデオレターということで失礼する。 

政府などの事故調査委員会が開催されている中で、なかなか一般のマスコミの方に我々の生の声を届けるわけにはいかないと思っていた。事故調査委員会が一段落するまでは変な形でお話しをすることはルール違反になると私は思っていた。そういう中で(今回)話を聞いていただけるということは大変ありがたいと思っている。

−−発電所からの全面撤退がささやかれている。事実は?

 ◇しゃべりだすととまらないが、基本的に私が考えていたのは第1原発をどうやって安定化させるかということに尽きる。そういう時に我々が現場を離れるということは絶対にあってはならない。

かといって人命は非常に尊いので、関係のない人といったらおかしいが、事故の収拾に直接関与していない人には避難していただく。ただやはり現場で原子炉を冷やしたり、そういう作業をしている人間は撤退できないと思っていたし、本店にも撤退ということは一言も言っていないし、私は思ってもいなかった。

本店には一言も撤退と言っていないということは間違いない。事故調にもそう話をしている。あとでいぶかしく思ったが結局、本店と官邸の間でそういう撤退騒ぎが起こっているが現場では一言も絶対そういうことは言っていない。これは間違っていない。

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 −−自らの命を亡くす覚悟はあったか?

◇覚悟というほどの覚悟があったかはよくわからないが、結局、我々が離れてしまって注水ができなくなってしまうということは、もっとひどく放射能漏れになる。そうすると5、6号機はプラントはなんとか安定しているが、人もいなくなると結局あそこもメルト(ダウン)するというか、燃料が溶けることになる。 

そのまま放っておくと、もっと放射能も出る。福島第2原発も一生懸命、プラントを安定化させたが、あそこにも人が近づけなくなるかもしれない。そうなると非常に大惨事になる。そこまで考えれば、当然のことながら逃げられない。 

そんな中で大変な放射能、放射線がある中で、現場に何回も行ってくれた同僚たちがいるが、私が何をしたというよりも彼らが一生懸命やってくれて、私はただ見てただけの話だ。私は何もしていない。実際ああやって現場に行ってくれた同僚一人一人は、本当にありがたい。 

私自身が免震重要棟にずっと座っているのが仕事で、現場に行けていない。いろいろな指示の中で本当にあとから現場に話を聞くと大変だったなと思うが、(部下は)そこに飛び込んでいってくれた。本当に飛び込んでいってくれた連中がたくさんいる。私が昔から読んでいる法華経の中に地面から菩薩(ぼさつ)がわいてくるというところがあるが、そんなイメージがすさまじい地獄のような状態で感じた。

現場に行って、(免震重要棟に)上がってきてヘロヘロになって寝ていない、食事も十分ではない、体力的に限界という中で、現場に行って上がってまた現場に行こうとしている連中がたくさんいた。それを見た時にこの人たちのために何かできることを私はしなければならないと思った。そういう人たちがいたから、(第1原発の収束について)このレベルまでもっていけたと私は思っている。 

−−吉田さんは所員の精神の支柱だった。 

 ◇私は何もしていない。私のとりえは福島第1原発に4回、赴任したことだ。第1原発のメンバーの名前もほとんどわかっているし、協力企業さんも結構つきあいがあり、名前で呼べるんですね。「○○さん、○○くん、大丈夫か」とか。それだけだ。それで声をかけただけだ。私は。何もできていない。みんなやってくれたということだ。いまだにそう思っている。 

−−事細かなコミュニケーションをとったということか? 

 ◇そうだ。やはり知らない間じゃないということだ。昔から一緒に仕事をした仲間だ。そういう仲間が大変な現場に行って帰ってき、出て行くというのを見ているので、頭を下げるしかない。 

−−3号機が爆発した段階では死ぬかと思ったか? 

 ◇今回一番インパクトがあったのは1号機もそうだが、3号機の爆発というのがあった。これは今まで経験した中で非常に、あとから考えれば水素爆発だったが、その時点では何が起こったかわからないという状態なので、これから、もう破滅的に何か起こってるんじゃないかと思った。 

爆発について。一つは自分が死ぬということ、メンバーも含めて、免震重要棟の人間は死んでたっておかしくない状態だった。3号機なんかは特にそうだった。あれだけのがれきが飛んできて。私は、最初は行方不明者が何人ということを聞いた時に、確か数十人レベルでまだ安否が確認できていないというのが最初の状況だった。ああこれは10人ぐらい死んだかもしれないというふうに思った。 

そこから時々刻々、だれだれがという話が入ってきて、軽傷の人間は何人かいたが。それから自衛隊の方には本当に申し訳なかった。水を補給しにきてくれた自衛隊の部隊がけがをされて、本当に申し訳ないと思っている。不幸中の幸いで人命にかかわるものではなく、これはある意味、仏様のあれかなという感じが私はしている。 

−−原発に残ったメンバーの名前をホワイトボードに書くように指示したとのことだが、どのような思いだったか? 

 ◇ほとんどその時のことを思い出せないが、たぶん、要するに最後まで残って戦ったのはこんな人間だぞということを残しておこうということだ。今から思えば。わかんないですよ。私自身。本当に。 

−−墓標になると思って書いたということか。 

 ◇はい。そうだ。 

−−最後に何かお話はあるか? 

 ◇いずれにしても今回の事象は、いろいろ国会とか政府事故調、民間事故調などで書かれているが、我々は特に政府事故調にはすべてを話をさせていただいた。マスコミの方からいろいろ問い合わせがあるが、お話は全部すべてそちらでさせていただいているので、そこをベースに考えていただければいいと思っている。 

ただやっぱりなかなか我々の肉声というのは通じない。調査委員会を通すと肉声がなかなか届かない。その部分はいろいろな形でちゃんとメッセージを発信していかないといけないと思っている。私一人ではなくてあそこで一緒にやったいろいろな仲間の経験をちゃんと伝えたい。 

−−これから第1原発や福島県はどうあるべきか? 

 ◇そういう次元の高い話になると今すぐに答えがないが、やっぱり発電所をどうきちっと安定化させるかがベースだ。そこができていない中で、地元にお帰りいただくわけにはいかないので、そこが最大の(課題だ)。 

これは事故当時も言っていたが、日本国中だけでなく世界の知恵を集めて、より発電所、第1原発をより安定化させることが一番求められている。いろいろなだれの責任うんぬんということもきちっとやるべきだが、やはり発電所を少しでも安定させる。それには人も必要だし、技術もいろいろな知恵が必要だ。そこに傾注するということが重要なことだと思う。 

そのうえで、地元の方々に(通常の)生活に戻っていただけるか考えることができる。いずれにしても現場を落ち着かせる、安定化させることが一番重要な責務だ。私はちょっとまだ十分な体力がないが、戻ったらそういう形で現場のために力を届けたい。 

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コメント

まさに現場指揮責任者の鏡です。(本社や政府は邪魔しただけのようですが…)
アメリカ流に物量作戦を展開できない事情もありますが…。
あちらには契約で即応義務のある民間の大規模部隊まで各原発周辺にありますからね。


吉田所長の発ガンとの関係は、まだなんとも言えませんが、ぜひ元気になって可能な限りの『当時の生の声』を聞かせてほしいです。

非常時現場の人間というものは覚悟を決め、もてる能力を最大限発揮し、事象に立ち向かうのが常です。
その覚悟が無ければ前線に立つ事はできません。最終的にその身に危険が及ぶとも・・・です。また、不幸中の幸いで、最悪の事態が避けられたとしても、一般の人から見れば、加害者の立場に立たされ非難の的になる事も覚悟しなければなりません。
無我夢中での対応だったと思いますが、「男気」と「責任感」からの行動だったと想像しています。

人々は結果で物を言います。あの時ああしたからこうなった!!あの時何故こうしなかったのか??特にテレビをはじめマスコミは、何かをターゲットにしたら、それを徹底的に叩きます。
近頃の様々な記者会見をテレビで流していますが、記者が暴言・失言・妄言を引き出そうとするような質問をしているように見受けられます。
話が逸れてしまいましたが、本社にいる役員方々や政府の役人ではそこまで覚悟した行動をする事は期待できないですね。
そこに「吉田」と言う所長が居た!!事が結果として、被害をここで食い止められたのではないでしょうか?


吉田所長さんの信念と言うか、命を張って、東京の役員と激しく意見を述べたり、自分が、役員にうそをついてでも、冷却を何とかすると言う、廃炉をしない程度で、終息させたいと言う本部役員の考えを否定し、とにかく核物質を拡散させないためであれば、何でもやれることはやると言う姿勢には、所長として、人間として、何をすべきかが、解っている方なんだなあ。と思い、尊敬いたします。

自分の同級生達は、地元、名大理学部、核分裂、核融合関連研究に、進んだ人も、何人か、おりますが、博士課程を出て、フランスへ、家族ごと、移住後、わずか40歳代で、死亡した人が、私の近所や親戚に、2名おります。
フランス、アレバ社における外国研修メンバーの健康管理は、かなりアバウトではなかろうかと思ってます。

彼の死亡の前年には、会社から、3ヶ月以上の長期休暇が与えられ、日本から両親を呼んで、レンタカーで、ヨーロッパ中の観光地を、自由に観光し、費用は、アレバ社が負担すると言う制度だったと聞いて居ます。

その後、帰国し、翌年に、死亡したと思いますが、結構、フランスでの原発出向後、若い人ほど、死亡する印象を個人的には、持ってます。(もちろん、統計データーを持ってる訳では、ありませんが、)

結局、外見上、目だった自覚症状が出ていない段階で、正直な公開されない被曝線量が、オーバーした段階で、死亡する前に、日本へ帰して、アレバ社の責任逃れをするシステムが、存在していたのではと、自分は、証拠を掴んでいる訳では、ありませんが、個人的には、そう推測しています。

個人的には、原発反対ですが、核燃料の処分方法が、決まると言うか、決められるまでは、日本人の意のある研究者に、予算をつけて、廃炉や除染も含め、研究活動は、続けていただければ、ありがたいと思ってます。

もっとも、まずいのは、廃炉の具体的処理方法は、日本は、大陸とは、違いますから、独自で、安全な具体的廃炉作業方法を、研究開発しないで、停止した原発を、燃料棒を、入れたまま、長期に放置することだと、思っています。放置して、メンテナンスを、怠れば、バルブ、配管など、チェックできないまま、作業せざるを得ない場合、
検知器具事態の信頼性がありませんし、バルブ類は、適時、動かさないと、正常動作しませんから、後日、かなり困った状況に、追い込まれることが、心配ですね。

メルトスルーした原発の廃炉作業に、国民の目が、集中していますが、現在残っている原発の廃炉作業は、福島第1より、センサーが稼動し、燃料棒、吊り上げクレーンが、きちんと、作動する間に、ドライキャストなどに、封印しながら、次の工程を、試行錯誤する研究は、続けてほしいと思ってます。

吉田所長はさぞ悔やんでいる事でしょう。
勝俣・清水をはじめとした旧東電経営陣があまりにも無能で、あまりにもセコくて、そしてあまりにも無責任だった事を知って。
「ああ、こんな奴らにお伺いをたてたりなんかするんじゃなかった。独断で海水をちゃっちゃとぶちこめばよかった。」、と。
きっと今頃、歯軋りする思いをしながら癌と戦っているんじゃないかと思います。
御回復を心よりお祈りいたします。

今、ニュースで訃報が入りました。
吉田所長が逝去されたそうです。
ガンの原因が原発事故だと断言できる人はいないと思いますが、
無関係だと断言できる人もまたいないことでしょう。

しかし、吉田所長が命がけで日本を救ったということだけは、間違いのない事実だと思います。
ゆっくりとお休みになられることを願います。

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