広島になぜ原爆が投下されねばならなかったのか?
米国には歴史修正主義(ヒストリカル・リビジョニズム)という言い方があって、第2次大戦の戦勝国の言い分と異なった認識を示すと、「こら、リビジョニストめ!」とバッシングされるのがおちだそうです。
米国内では、先日日本に来て説教を垂れていったオリバーストーン監督などもそれに当たります。彼は左翼リビジョニストです。
彼は良心的であろうとしているのでしょうが、わが国で毛虫のように嫌われている鳩山氏に、「高邁な道徳や平和のために立ち上がった(日本の首相で唯一の)人」(大爆笑)と賛辞を送るなどして、いかにも「良きアメリカ人」らしいトンチンカンさをさらけ出しています。
彼は私の相当に好きな監督で、「オリバー・ストーンか語るもうひとつのアメリカ史」も見ていただけにがっくりきました。ちなみに、これは典型的な修正主義の作品です。
※http://www.webdice.jp/dice/detail/3946/
もっとも有名な例としては、ドイツのユダヤ人虐殺問題です。ホロコーストを否定することはむろん、犠牲者数を少なくすることなどしようものなら、欧米社会では親ナチ・リビジョニスト扱いされて抹殺されます。
麻生副総理は、この欧米社会のナチス問題にあまりにも無神経でした。このことに関しては弁護の余地がありません。
しかしその修正主義歴史観のひとつに、なんと驚いたことには、わが日本の広島原爆投下の理由もあると聞くと、日本人は耳を疑います。
あくまでも正史には、「米軍は本土決戦による100万人戦死を予防するために原爆投下を決断した」と書かねばなりません。
ところが天の邪鬼の私は、この正史を必ずしも信用しているわけではありません。
では、1945年8月6日午前8時15分、広島市島病院上空で何があったのかをみていきましょう。
上空580メートルで炸裂した原爆から照射されたガンマ線、中性子線を中心とする高エネルギーの放射線は、直下の人々の頭上に降り注ぎました。TNT換算で15キロトンでした。
その結果、当時の広島市の人口35万人(推定)のうち約半数に当たる9万から16万6千人が被爆後2カ月から4カ月以内に死亡したとされています。
ではなぜ、この広島に原爆が投下されたのでしょうか。もちろん韓国中央日報キム・ジン記者や、ユダヤ人のダニエル・シーマン氏などが傲岸に言うように「神の懲罰」や、「日本が侵略行為の報いを受けた」わけではありません。※ http://www.webdice.jp/dice/detail/3946/l
1945年(昭和20)年6月の検討会議で、原爆の使用については、「労働者の住宅に囲まれた軍需工場に、事前の警告無し」で投下すべきだと決定されました。
この会議では開発に携わった科学者の一部から無警告の原爆投下に反対する発言が相次ぎましたが、結局押し切られてしまいました。
後に、これに関わった多くの科学者は終生、良心の咎めを受け続けることになります。
実際、当時の我が国には継戦能力はほとんど失われており、政府、軍部内にも和平を模索する動きが強くなってきていました。
軍事的に見ても、まったく広島・長崎への2発の核攻撃は不要なものだったのです。
もし軍事的な攻撃目標が必要ならば、広島の近隣にある呉軍港を標的にすればいいのであって、非戦闘員が大部分を占める都市に対しての核攻撃にはいかなる正当性も見いだせません。
また横須賀軍港は最後まで通常爆撃さえ控えられましたが、それは戦後にここを米海軍の拠点にする気だったので温存したにすぎません。
このように原爆を含む本土空襲は、米軍の都合によってなされていたのです。
百歩譲って軍事的圧力により日本を降伏に追い込みたいのならば、後にさんざん核実験をしたような無人島で実験してみせればいいのです。それだけで、当時の日本政府は降伏を決意したでしょう。
米国は、大戦の後にくるであろう対ソ戦に備えて核兵器の実戦データを欲していました。ユタ砂漠などの実験では威力が読みきれなかったからです。
ですから、現実に人が大勢住む都市で、無警告に落としてみる「必要」があったのです。このようなことを人体実験といいます。
広島・長崎合わせて約21万人の犠牲者は、生きながらにして人体実験に供せられたのです。
その結果を知るべく、米国は大規模な米国戦略爆撃調査団( USSBS)を戦争終結後直ちに広島、長崎に送り込み、膨大な報告書を作成しています。この報告書は、ソ連との冷戦期の戦略構築に大きく貢献しました。
※http://rnavi.ndl.go.jp/kensei/entry/USB.php
さて、上の写真を御覧ください。Google Earthによるものですが、広島は海に面して三方を山によって塞がれている地形だとお分かりいただけると思います。
このような地形は、もうひとつの被爆地・長崎にも共通していますが、核爆弾の数十万気圧の超高圧と、数万度に達する超高温、そして風速280メートルもの爆風を効果的にするにはうってつけの地形でした。
鍋の中で爆発させるほうが、広い場所でするよりも効果が高められると計算したのです。
また、市街地範囲が直径3マイル(約4.8㎞)以上あることも条件でした。この規模ならば市民の人口が30万人ていどに及び、殺傷力の測定が容易になるからです。
5月11日の第2回投下目標検討会議で、このような条件を持っていた京都、広島、横浜、小倉、新潟(※)、長崎、京都などが挙げられ、これらの都市は広島が第一目標となるまで空襲が差し控えられました。
空襲してしまうと、核兵器の威力が測定できなくなるからです。
広島の空襲禁止指示は5月28日に出されています。
余談ですが、京都が空襲されなかったことが米国の文化的配慮という説がありますが、米国は京都を原爆投下対象にしていたために空襲しなかっただけです。
こうして8月6日の当日、小倉は近隣の八幡製鉄への空襲の煙て視界が閉ざされており、広島は晴天でした。この瞬間、広島の運命は決まりました。
照準点は市内中心部にあるT字型の相生橋。午前8時15分に投下された原爆は、相生橋の南東約300メートルにある島病院の上空約600メートルでさく裂しました。
それは人々が、夏の暑い日差しの中で一日の平和を祈りながら職場や学校へ急いでいる時間でした。
母親は、乏しい配給から一日の献立を考えて悩み、子供は工場へ勤労奉仕にひび割れた手をさすりながら急ぎ、父親は毎日のように招集で減る職場に暗澹とし、・・・彼らが見上げた早朝の夏空に、ユダヤ人が作り、米国人が投下した原爆が炸裂したのです。
これをもし戦争犯罪だと言わないならば、なにをもって戦争犯罪だというのでしょうか!
非武装の市民に無警告で原爆を投下する行為は、裁かれるべきは米国だと教えています。
しかし米国はこれを断じて戦争犯罪だとは認めないはずです。なぜなら、対日戦勝利が「正義の戦争」であったことこそが、米国盟主の戦後秩序の根拠である以上、その否定につながるからです。
そうであるからこそ、核軍縮でノーベル平和賞を受賞した(!)オバマ大統領が、来日に際して広島訪問をする可能性はゼロです。
そしてわが国が米国の従属的立場にある限り、米国がこの「正史」を変更することはありえず、わが国もそれを「正史」とする以外にないのです。
※ 新潟だけは平野部にあって例外です。おそらく日本海側の都市を投下候補の予備で考えていたものと思われます。
※本記事は
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