ウクライナ紛争の背景その2 スターリンの大飢餓
かつての大戦で、日本軍を「解放軍」として迎え入れた東南アジアの独立運動家がいたように、ウクライナのみならず東欧、北欧の諸国ではアチス・ドイツを歓迎する動きがありました。
ウクライナにおいては、独立運動家の多くはSS(ナチス武装親衛隊)「ガリツィア師団」、別名「SSウクライナ師団」に入隊しています。
たしかにウクライナ・ナショナリストには、独自に国家社会主義的思想を持っていたことは確かですが、それだけがナチスに走らせた理由ではありませんでした。
ウクライナは1922年に、スターリン統治下のソ連の一共和国に編入されます。
当時、ソ連は革命直後の内戦が終了したばかりであり、国庫は見事にからっぽでした。そのためにぜがひでも輸出して外貨を稼ぐ必要があったのです。
外貨を稼ぎ、重工業化を進めるというのが、当時のスターリンの強い意志でした。そのためにもっとも手っとり早い外貨獲得手段として目をつけられたのが、ウクライナの穀倉地帯だったわけです。
ここでスターリンが取った手段が、悪名高い飢餓輸出です。
これはその名の通り、洗いざらい強制的に徴発して輸出に廻すことです。
1930年代、GPU(国家政治保安部)は強権的にウクライナの農業集団化を実施します。「集団化」とは、土地を農民から奪い、コルホーズ(共同農場)に一元化することです。
この集団化の過程で共産党は、村の指導者層は「富農」として処刑し、農地を手放すことを拒否する農民は「反革命」「人民の敵」というレッテルを貼って、これも処刑するか、家族もろともシベリア流刑に処されました。
このときにGPUは、ウクライナ民族主義者、知識人、自由主義者を根こそぎ逮捕し、「人民の敵」として処刑するか、ラーゲリ(強制収容所)送りとしました。
まさに悪鬼の所業というにふさわしいでしょう。
また、共産党の官僚たちは点数稼ぎのために、徴発の水準を恣意的に高くしたために、ノルマ達成が困難な村が多く出ました。
そうでした。このノルマという言葉も元はと言えば、そのスターリン主義の時代に使われた忌まわしいロシア語です。
豊穣な穀倉地帯であったウクライナもみるみるうちに疲弊し、農民に不満が鬱積していきます。
たとえば、集団化と強制徴発政策を共産党官僚の言う通り実施すれば、農民自身が食べる麦も残らず、翌年の種籾すら食べてしのぐ状況がどの村にも現れます。
穀物の取引さえ禁じられたために、農業地帯の街には餓死者が増加していきます。
しかし、農産物は共産主義体制の下では、農民の私有物ではなく「人民の財産」とされ徴発ノルマの不達成はラーゲリ送りを意味しました。
畑に落ちた落ち穂を拾ったばかりに流刑地に家族もろとも10年間の流刑に処せられた例すらあります。
飢えのあまりエンバクなどの飼料用穀物を食べた農民は、「人民の財産の悪用」として流刑にされました。
「都市から派遣された労働者や党メンバーから構成されたオルグ団は空中パトロールで畑を監視し、農場にはコムソモール(共産青年団)のメンバーが見張りに送り込まれ、肉親を告発すれば子供にも食物や衣類やメダルが与えられた。
党の活動家達は家々を回り、食卓から焼いたパンを、鍋からカーシャまでも奪っていったと言われる。食料を没収された農民達はジャガイモで飢えをしのぎ、鳥や犬や猫、どんぐり、イラクサまで食べた。」(Wikipedia)
「スタニッツァ・ボルタフスカヤという人口4万人の村は、食料調達に応じる事が出来ず、村の住民が丸ごと追い立てられ、男性は白海・バルト海運河建設へ、女性はウラルのステップ地帯に送られ、離散を余儀なくされた。」(同)
その上、逃散しようにも1932年に国内パスポート制度が始まり、移動は原則禁じられました。
中世の農奴ですら、生きるための穀物は得ていたのですから、まさに共産主義という名の狂気です。、
「ウクライナ人たちは強制移住により、家畜や農地を奪われたために家畜を奪われ、穀物を収奪されたことによる死亡者は、400万人から1,450万人と言われ、400万人の出生が抑制された」(Wikipedia)とされています。
(※飢餓による死亡者数は複数の説が存在します)
その上、スターリンはこの大飢餓の責任をウクライナ共和国政府に押しつけました。
そのためにウクライナ・ソヴィエト政府主席以下多くのウクライナ人が、スターリンによって処刑されるか自殺する運命となります。
また、スターリンは国外の亡命ウクライナ人に、「祖国建設のための帰還」を呼びかけました。
しかし彼らに待っていたのは「人民の敵」「帝国主義のスパイ」という罪状でした。スターリンは自由主義的思想を根こそぎにしたかったのです。彼らもまた処刑されるか、強制収容所送りとなります。
このような想像を絶する政策的大飢餓と国民抑圧を歴史的に探すとすれば、このスターリン時代と、それをモデルにした毛沢東の大躍進時代、更にそれを模倣した金日成の時代があります。
ウクライナ政府は独立後、この大飢餓をホロドモールと呼び、ウクライナ人に対する絶滅政策であったとしています。
このような時代を背景にして、国がそのまま巨大な強制収容所と化しました。
このウクライナ人の怒りが、ウクライナ独立への運動へと転じたのも当然のことです。
とりわけ穀倉地帯であった西ウクライナは、この反ソ、反共感情の高まりの中で、ナチス・ドイツの侵攻を迎えたわけです。
ウクライナ民族主義者は歓喜してナチス・ドイツ軍を迎え、積極的にドイツ軍支配地域からの兵士の徴募に応じたのです。
しかしナチスもまた、ウクライナ人を含むスラブ系民族全体を劣等民族として考えており、ウクライナ民族主義者たちは、利用された後に切り捨てられることになります。
そうとうに端折っているのですが、長くなりそうなので、今回はこのくらいに。
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投稿: mens retro jordans for sale | 2014年4月20日 (日) 00時06分