ウクライナ紛争の背景その1 ガリツィア地方とウクライナ民族主義
ウクライナ紛争について9回に渡って書いてきましたが、追加補足いたします。
第6回で私はこう書いています。
「旧ソ連は傘下の共和国を案外平等に扱っています。欧米の植民地のような収奪はせずに、むしろ産業を拓殖していたわけです。」
この部分は、東ウクライナ、つまり「小ロシア」と呼ばれた東ウクライナの工業化に対してはおおむね正しいと言えます。
ただし、穀倉といわれる西ウクライナに関してはそれは当たりません。順を追ってご説明します。
まず私が、引っかかったのは、「なぜ西ウクライナに反露感情が根強く、ネオナチの拠点にすらなっているのだろうか?」という疑問からでした。
いくつかのキイワードがあります。おもいつくままに挙げてみましょう。「ガリツィア地方」(※)、「ホロドモール」「スターリン」「ナチス・ドイツ」・・・。
ご存知の方も多いでしょうが、近代ウクライナと隣国ポーランドは大国の勝手な領土拡大欲によって、まるでサッカーボールのようにあっちに蹴られたり、こっちに蹴られたりしてきました。
今なにかと話題を提供しているガリツィア地方がある西ウクライナは、かつてハプスプルク帝国(ハンガリー・オーストリア二重帝国)の版図でした。
下の図で見ると、黄色に塗った部分がガリツィア地方です。(図Wikipediaより)
ウクライナ全体から見ても特殊な地域で、宗教的にも他のウクライナが東方正教会なのに対して、カソリックの一派であるユニア派に属しています。
さて、この地域は、このハプスプルク帝国が崩壊した後18世紀から第2次世界大戦まで、ポーランド領となりました。
ところが、ヒトラーとスターリンの独裁者間の密約によって、ポーランドはナチス・ドイツとソ連に分割され、民族分断と強制移住による悲劇を生み出しました。
このガリツィア地方もその時の分割の結果により、ソ連領ウクライナであった東、南、中部ウクライナと統合されて、今のウクライナの版図になります。
こう見るとまさに大国の狭間で、国土を寸断され、チェスの駒のようにいじられまくった東欧の悲劇が見えてきます。
このガリツイア地方はその中でも、ひときわ独立の気風が強く、既に18世紀のハプスブルク帝国時代から独立運動が始まっています。
第2次大戦が勃発し、1939年にヒトラーがポーランド侵攻を開始すると、それに呼応して反露、反共でヒトラーと共闘することになります。
その時、ウクライナ民族主義者を率いたのがステファン・バンデーラです。
今やバンデーラ主義(バデーロフツィ)とすら言われて、ウクライナ民族主義、いや有体にいえばウクライナ・ネオナチの思想的カリスマになっています。
(左端がバンデーラ、右端がスボボダのチャフニボク。右上の黄色の三本指がスボボダのシンボル・マークのひとつ)
バンデーラが抵抗したのは初めはポーランドの同化政策とソ連に対してでしたが、ナチスドイツの侵攻と共に、その矛先をロシア人とユダヤ人に向けます。
ウクライナ民族主義者が目指したのはウクライナ人の独立国家でしたが、結果として彼らが成したのはユダヤ人虐殺でした。
バンデーラの率いるウクライナ民族主義者組織(OUM-B)は、スラブ民族とユタヤ民族を劣等民族と位置づけて多くのポグロム(ユダヤ人虐殺)とポーランド人虐殺を繰り返します。
こうしたウクライナ親ナチ勢力は、ナチス・ドイツの敗北と共に崩壊しますが、まだ悲劇は終わったわけではありませんでした。
ヒトラーがソ連との戦争に敗北すると、ガリツィアに戦車で乗り込んで来たのはスターリン・ソ連でした。
ソ連は西ウクライナを奪い、東、中央、南ウクライナ地方すべてを武力併合します。
この時、ガリツィアの宗教であったカソリックは捨てさせられ、ロシア正教が強制されました。
そしてとうぜんのように、未だかつてない規模の独立運動への大弾圧が襲いました。
この稿続けます。
※ガリツィア【Galicja[ポーランド]】
ポーランド南東部・東部から西ウクライナ地方にかけての地域をさす歴史的名称。ウクライナのリボフ,イワノ・フランコフスク,テルノポリの諸州を含み,ポーランドでは南東部15県が含まれる。18世紀末から第1次世界大戦まではポーランド領とみなされたが,第2次大戦後カーゾン線によってポーランド領とソ連領(現ウクライナ領)に分割された。
北はマゾフシェ平野からポレシエ地方,ウクライナのボリンスカ低地に接し,南はカルパチ山系ベスキド山地北斜面で囲まれる,南北300km,東西700kmにわたる範囲の地方である。
( 世界大百科事典 第2版の解説)
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