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2014年6月24日 (火)

河野談話検証報告書を読むその2 「従軍」問題は日本人が作った

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いわゆる「従軍」に対しての日本政府の強制性を認めた河野談話の作成過程についの政府報告書を読んでいます。 

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報告書の前半は、いわゆる「従軍」問題を巡る日韓間のやりとりの経緯に割かれています。

これは1992年1月に予定されていた宮沢首相(当時)の訪韓を前に、問題が韓国国内で火を吹いていたからです。

「1991年8月14日に韓国で元が最初に名乗り出た後、同年12月6日には韓国の元3人が東京地裁に提訴した。1992年1月に宮沢総理の訪韓が予定される中、韓国における問題への関心および対日批判の高まりを受け、日韓外交当局は同問題が総理訪韓の際に懸案化することを懸念していた」

宮沢総理訪韓前に、これにさらに火を注ぐような衝撃的な記事が日本で出ました。

それが、朝日新聞(1991年8月11日)記事『元朝鮮人従軍慰安婦 戦後半世紀重い口開く』(欄外資料参照)です。

「日中戦争や第二次大戦の際、『女子挺(てい)身隊』の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた『朝鮮人従軍慰安婦」』」(同記事)

この記事の致命的誤りは上記のように、当時日本国内でも実施されていた勤労動員である「女子挺身隊」と、従軍を意図的に混同して、それを「連行」という官憲の強制性としていることです。

女子挺身隊は1943年に実施された14歳以上25歳未満の女性の工場などへの勤労動員のことです。

これは当時の米英でも一般的であって、女性を「従軍」にすることとはなんの関係もありません。

しかし、この朝日記事によって、日本の官憲が暴力的に韓国婦女子を従軍にしたという認識が完全に固定し、後の日韓交渉での韓国側主張を裏付けることになります。

また記事の直後に、後に問題のシンボル的な人物となった金学順氏のソウルで記者会見がセットされており、この朝日新聞記事が韓国内の訴訟運動と連動していることは明らかでした。

事実、この「従軍」訴訟団は「太平洋戦争犠牲者遺族会」といい、その常任理事だった梁順任氏の娘婿が、朝日新聞韓国特派員だった植村隆記者です。

植村記者の義母は既に賠償訴訟の原告団長をしており、義母の訴訟を有利に運ぶために挺身隊を動員とこじつけて「日本軍の強制連行」説を作り出したようです。

ちなみに、その弁護人を務めたのは福島瑞穂議員(元社民党党首です。

つまり、この朝日記事は一方の利害関係者の情報提供によるインサイダー記事というだけではなく、新聞が記事の火元自体を作ってしまい、自分でそれを記事にするという自作自演的性格を持っています。

報道の客観性という次元ではなく、もはや報道倫理からの逸脱です。

この植村記事以外にも、ほぼ同時期に朝日新聞(大阪版)は、1991年5月22日に、吉田清治氏の「木剣ふるい無理やり動員」発言を掲載し、第2弾として同年10月10日に再度「には人妻が多く、しがみつく子供をひきはがして連行」したという「吉田証言」を掲載しました。

吉田氏は、1983年に「私の戦争犯罪」という本で、「1943年5月15日付の西部軍動員命令によって1943年5月17日に下関港を出発し、翌日済州島に着いて、兵士10人の応援で205人の婦女子を要員として強制連行したと狩りをした」という「証言」をした人物です。

この吉田氏の「日本官憲が韓国婦女子を暴力的に強制連行した」という「内部告発」の影響は、氏が韓国国内で「謝罪行脚」をしたことにより燃え広がっていきます。

なお、この吉田証言は、後に秦郁彦氏の現地調査で事実無根の捏造であったことが明らかになっています。

吉田氏当人も1996年5月に週刊新潮のインタビューで、自ら「創作」であったことを認めていますが、いったん世に出た捏造証言は修正されることなく、以降の韓国政府公式の「従軍は性奴隷だ」というプロパガンダの根拠となっていきます。

そもそもこの訴訟には、日本の人権派弁護士である高木健一氏などが立ち上げから関わっていました。 

いやむしろ、「従軍」の訴訟運動は韓国側の自然発生的運動ではなく、むしろ戦後補償を運動化したい高木氏などが、韓国人元に働きかけて始まったというのが実態のようです。 

たとえば、高木氏は同じサハリン残留韓国人訴訟においてこのようなことを言って、原告たちを集めていたことがわかっています。

「東京で大きな弁護士事務所を、開いている高木弁護士が、もっと日本から賠償をとれるから要求しなさいと教えてくれた」(サハリン残留韓国人訴訟会長談) 

つまり、この「従軍慰安婦」問題は、当初の「慰安婦」探しから訴訟団作りに至るまで日本人が大きく関わっていました

そしてそれを一挙に大きな政治課題にしたのが朝日新聞です。

朝日新聞は従軍問題をあえて宮沢訪韓の前段にぶつけることで、韓国側の反発を作り出し、それを外交懸案にすることで自民党政権に痛打を与えることを狙ったわけです。

このような中韓政府を引き込むことで、社論を通そうという手法は、この新聞社が好むところです。

国内政治ならまだしも、外国政府まで巻き込んだ現実政治にここまで深く介入するとなると、朝日新聞はもはや報道機関というより立派な政治党派といっていいでしょう。

さて、この韓国国内の思わぬ従軍問題の炎上に驚いた宮沢政権に対して、「韓国は懸案化しないように」あらかじめ「日本側が例えば官房長官談話のような形で何らかの謝罪をすることがいいと伝達してきます。

つまり、この後に出る加藤・河野官房長官両談話は、日本側の自発的なものであったというよりむしろ韓国側の入れ知恵だったわけです。

「1991年12月以降、韓国側より複数の機会に、問題が宮沢総理訪韓時に懸案化しないよう、日本側において事前に何らかの措置を講じることが望ましいとの考えが伝達された。
また、韓国側は総理訪韓前に日本側が例えば官房長官談話のような形で何らかの立場表明を行うことも一案であるとの認識を示し、日本政府が申し訳なかったという姿勢を示し、これが両国間の摩擦要因とならないように配慮してほしいとして、総理訪韓前の同問題への対応を求めた。」
 

しかし、これで朝日新聞のキャンペーンは終わったわけではなく、1992年1月13日第1面に吉見義明中大教授が、防衛研究所で「募集に関する日本軍の関与についての新資料が発見された」との記事が出されます。

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この資料を発見したとされる(※実際は現代史家には知られていた資料でしたが)吉見氏はこう書いています。

「この通達は、「派遣軍が選定した業者」が日本内地で誘拐まがいの方法で「強制徴集」をしていた事実を陸軍省が知っている事を示しており、日本軍に対する国民の信頼が崩れる事を防ぐために業者の選定をもっとしっかりするようにと指示している」。(「共同研究日本軍」)

「軍の威信を傷つけるこれらの問題点を克服するため陸軍省が指示しているのは、(ア)募集などは派遣軍が統制し、人選などは周到に行うこと(イ)募集実施の際は関係地方の憲兵・警察との連携を密にすること、の2点である。つまり各派遣軍はもっと周到に徴集に責任を持て、と指示しているのである」(同)

この吉見説については、多くの現代史家からの批判が存在します。朝鮮現代史研究家の西岡力氏は、これは強制連行をした証拠にはならず、むしろ悪質な斡旋業者を取り締まる内容であるとしています。

「合理的に考えるなら、戦地での民心離間を心配する軍が、一部で抗日独立運動が続いていた植民地朝鮮で強制連行を行い、朝鮮における民心離間を誘発するはずがない。吉見教授文書は、権力による強制連行を証明するものではなく、むしろそれがなかったことを示唆するものだった」
(「よくわかる問題」)

素直にこの吉見資料を読めば、むしろ斡旋業者が悪質な募集をしているので、このようなことを禁じるようにしか読めません。

吉見氏の意図とは別に、むしろ業者の誘拐まがいの「強制連行」に軍が関与しないようにすることを指示していたことを示した資料です。

歴史家の秦郁彦氏はこう述べています。

「このリード文を読めば、キャンペーン報道の意図が首相訪韓のタイミングに合わせて、それまで『国の関与』を否定していた日本政府に『偽証』の証拠をつきつける劇的な演出だったらしいことが読みとれる。
1月11日といえば、訪韓の五日前にあたる。今さら予定の変更もできず、かといって予想される韓国側の猛反発への対応策を立てる余裕もない。私はタイミングの良さと、『関与』という曖昧な概念を持ち出して、争点に絞った朝日新聞の手法に、『やるもんだなあ』と感嘆した」

この朝日記事でパニックに陥った当時の政府の状況を、報告書はこう述べています。

「日本側は、1991年12月に内閣外政審議室の調整の下、関係する可能性のある省庁において調査を開始した。1992年1月7日には防衛研究所で軍の関与を示す文書が発見されたことが報告されている。その後、1月11日にはこの文書について朝日新聞が報道したことを契機に、韓国国内における対日批判が過熱した。1月13日には、加藤紘一官房長官は、「今の段階でどういう、どの程度の関与ということを申し上げる段階にはありませんが、軍の関与は否定できない」、「いわゆる従軍として筆舌に尽くし難い辛苦をなめられた方々に対し、衷心よりおわびと反省の気持ちを申し上げたい」との趣旨を定例記者会見で述べた。

このように政府は、吉見氏の新資料発見の朝日記事の裏をとることもせずに、わずか2日後に慌てふためいて加藤紘一官房長官(当時)が早くも「軍の関与」を認めて「反省の気持ち」を表明してしまっています。

そして訪韓した宮沢首相は首脳会議の席上で、実に22分間で8回も謝罪するというギネス級のお詫び外交をしてしまったわけです。

ただし、この時点では、日本側は「関与」は認めても、「強制性」まで認めておらず、また賠償する気もなかったようです。

秦氏が皮肉まじりに指摘するように朝日新聞は、「関与」とは巧妙な表現をしたもので、まさにどうとでも取れる表現です。

しかし、この加藤談話で「軍の関与」を認めてしまった以上、「関与」を「強制性」と理解している韓国側主張まで首の皮一枚ということになってしまいました。

というか、何に韓国が怒っているのか、従軍問題とは何なのか日本政府はまったく理解していなかったというのが実態だったのでしょう。

そのために、とりあえず謝っておけばいいだろうという、いかにも日本人体質そのものの対応をした結果、更に悪い結果に引き込まれていきます。

ここにおいて日韓外交交渉の力関係は決定しました。朝日新聞を論拠にして強硬な主張を繰り返す韓国政府に防戦一方の日本政府という構図です。

全面的に韓国ペースでの河野談話作りへと進む助走が始まったのです。

以後、当時の宮沢政権は朝日新聞と韓国政府に挟撃されるようにして、韓国主導の強制性を認める謝罪への道へと踏み込んでいくことになります。 

(続く) 

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●資料 朝日新聞1991年8月11日 
植村隆記者記事
 

「日中戦争や第二次大戦の際、「女子挺(てい)身隊」の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた「朝鮮人従軍慰安婦」のうち、一人がソウル市内に生存していることがわかり、「韓国挺身隊問題対策協議会」(尹貞玉・共同代表、十六団体約三十万人)が聞き取り作業を始めた。同協議会は十日、女性の話を録音したテープを朝日新聞記者に公開した。テープの中で女性は「思い出すと今でも身の毛がよだつ」と語っている。体験をひた隠しにしてきた彼女らの重い口が、戦後半世紀近くたって、やっと開き始めた。 

尹代表らによると、この女性は六十八歳で、ソウル市内に一人で住んでいる。(中略)女性の話によると、中国東北部で生まれ、十七歳の時、だまされてにされた。ニ、三百人の部隊がいる中国南部の慰安所に連れて行かれた。慰安所は民家を使っていた。五人の朝鮮人女性がおり、一人に一室が与えられた。女性は「春子」(仮名)と日本名を付けられた。一番年上の女性が日本語を話し、将校の相手をしていた。残りの四人が一般の兵士ニ、三百人を受け持ち、毎日三、四人の相手をさせられたという。「監禁されて、逃げ出したいという思いしかなかった。相手が来ないように思いつづけた」という。また週に一回は軍医の検診があった。数ヶ月働かされたが、逃げることができ、戦後になってソウルへ戻った。結婚したが夫や子供も亡くなり、現在は生活保護を受けながら、暮らしている。」

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