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2014年6月11日 (水)

福井地裁判決 双子の神話 原発安全とリスクゼロ

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注目された福井地裁判決(樋口英明裁判長)は、山本太郎氏が陰の執筆者ではないかと思えるようなものになってしまいました。http://www.labornetjp.org/news/2014/1400765883365zad25714  

言っている中身は市民団体と間違えそうなほど過激で、一切のポジティブなことも認めない、全否定なのですからとりつくシマもありません。 

たとえば、本来もっとも大きな争点になるべき原子力規制委員会の安全基準についてもこの調子です。

「いったんことが起きれば、事態が深刻であればあるほど、それがもたらす混乱と焦燥の中で適切かつ迅速にこれらの措置をとることを原子力発電所の従業員に求めることはできない。特に、次の各事実に照らすとその困難性は一層明らかである」(判決文)  

おいおい、こここそがキモでしょう、樋口さん。 

それをスルーして「適切な措置を求めることは不可能」と言ってしまえば、事故が起きそうになったら運転員は声を揃えて「南無阿弥陀仏」とでも唱えていればいいことになります。 

現実の福島事故において、運転員以外の下請け、事務職員、女性などを退避(※)させた後に、故吉田昌郎所長以下60余人が踏みとどまって闘い続けました。
(※朝日新聞報道の「撤退」ではなく、事故対処要員以外の「退避」。)
 

決して「対処不可能」と福井地裁が呼ぶような状況でありませんでした。 福島第2、女川も同様で、強いリーダーシップの下に高い士気を貫きました。

また 判決文は、「事故原因が明らかになっていない」という指摘をしています。3年たって解明されていないのはごくわずかな点であり、残りは原子炉に立ち入り調査する必要がある実地検分のみです。  

したがって、好むと好まざるとに関わらず廃炉作業が進む今後10年は不可能でしょう。 

しかし、いかに立ち入り調査がなされようと、樋口氏の結論は初めから決まっているのです。判決文はこう述べています。

危険性が万が一でもあるのかが判断の対象」(判決文)  

典型的な「ゼロリスク論」です。つまりは津波だろうと、地震だろうと、人為的ミスであろうと、初めから「危険性が万が一でも」あるからダメなのです。

ならば、「原因が分からない」などと書くべきではなく、「初めから危ないと決まっているのだから、原因究明など必要ない」」と正直に書いたらどうなのです。 

「ダメだからダメ」という全否定の考え方に立つ限り、現実に原子炉を運営する立場の人たちとは「会話」が成立しません 

するとどうなるかと言えば、原発を動かす電力会社は「絶対に安全です」と言い続けることになります。 

そのあたりの雰囲気を示すエピソードがあります。 

1999年9月30日の茨城県東海村JCOの臨界事故では、、作業員のミスによって死亡者2名、重症者1名を出す大事故でした。 

JCOは住宅地にありながら、周辺に安定ヨウ素剤を配布していないことが後日の調査でわかります。 

後に来日したフランスの原子力関係者が、わが国の関係者にこのことを問うと、このように答えたそうです。

「とんでもない。日本で(事故の可能性を少しでも示すような)そんなことをしたら原発は一基もできません。事故ゼロと言って周辺住民を説得し、納得してもらっているのだから」。

このフランス人原子力技術者がのけぞったのは言うまでもありません。これで分るのは、わが国には原子力の危機管理そのものが完全に意識もろともなかったという衝撃的事実です。  

日本原子力技術協会の前最高顧問石川迪夫氏がこんな話を述べています。  

1992年、IAEA(国際原子力機関)で原子力事故に備えて指針を改定し避難経路を策定すべきという提案があった時、それを持ち帰った石川氏に対して日本の原子力関係者の反応はこうでした。

そんな弱気でどうする。原子力屋なら絶対に放射能が出ない原子炉を作れ。」

とりようによっては強い安全への決意と取れないではありませんが、石川氏自身も認めるように゛日本において「安全」という言葉の影に隠れて「万が一に備える」という視点がすっぽりと抜け落ちていたのです。 

これが日本の原子力村の「空気」でした。これは「事故を想定するだけでも事故になるという言霊信仰である「原発安全神話」につながっていきます。

原子力事故が起きたらどうするか綿密に積み重ねて初めてその先に「安全」があるのであって、あらかじめ「原発は事故を起こすはずがない」では個別具体の安全性対策が進化していくはずもありません。  

そしてこの「原発安全神話」を後押ししたのが、皮肉にも逆な立場から「絶対安全」を掲げる反対運動でした。 

反対運動は、この樋口裁判官のように完全なゼロリスクを求めて運動したために、それを受ける側もまた「安全です」と言わざるを得なくなるというバラドックスを生む結果になってしまいました。  

というのは、工学系の集団である原発関係者にとって、そもそもリスクはあって当然であり、それをさまざまな対処によって最小限リスクに押しとどめるという発想を取ります。

しかし50年間という長きに渡って「ゼロリスクでなければダメだ」という反対運動を全国で起され続けた結果、「安全神話」という偽造の神を作ってしまったことになります。

この「双子の神話」は、まったく正反対を向きながら、共に「危険はゼロ」ということをいうことによって、現実を見なかったのです。

このようにやるべき安全をめぐる具体策は山積しているにかかわらず、当事者の電力会社は「事故というだけで事故になる」と考え、方や反対運動の「原子力ゼロリスク論」は、反対運動だけしていればいいという落とし穴にはまり込んでしまったことになりました。

双方共に今現にある原発について判断停止に等しいわけです。

福島事故後、原子力安全神話は完全に崩壊し、反対運動の側の「ゼロリスク論」のみが生き延びました。

しかも、「ゼロリスク論」は、「放射能ゼロベクレル」論も加わり、自分の主張が正義だと思っているために、いっそう弾みがついて強力になってしまいました。

ここに、本来科学技術とは別次元にあるはずの「正義」や「倫理」という価値観が反対運動を支配することになります。

かくて今や、「原発ゼロ」以外の議論は不可能となってしまいました。なまじ具体論をすれば、それは一定の規模の再稼働を前提とする以上、それは原発を容認したことになると思ってしまうようです。

仮に段階的廃炉という「論理」は現実的だと思っていたとしても、悪魔の原発を「正義」は許さないというわけです。これではカルト宗教一歩手前です。

改めて言うまでもありませんが、いかなる科学技術も人間や環境に対してリスクが存在します。原子炉だけではなく、すべての交通機関、エネルギー源にもリスクは存在します。

福井地裁判決はまた新たな「ゼロリスク神話」を作りだしました。そして3.11後にようやく芽生え始めた「原子力のリスク管理」そのものを全否定しようとしています。

このような「ゼロリスク論」は「原発安全神話」と同じくらい危ない考え方だと、私たち日本人はいいかげん気がついたほうがいいのではないでしょうか。 

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