「琉球処分」から考える沖縄の宿痾その2 幸地はどこで間違えたのか?
(昨日からのつづきです)
沖タイは昨日紹介した記事で、こんなことを書いています。
「明治の琉球人にとって清国軍艦は援軍だった。武力で琉球国を併合した明治政府に対し、琉球の首脳らは清へ使者を送って救援を求めている。そして、沖縄側はその黄色軍艦を待ちわびたのだった」
この短い中に沖タイのような人たちの気分がギュっと詰まった香ばしい文章です。
あのぉ沖タイさん、明治政府の「武力で併合」って、一体なんの話なんでしょうか。沖縄は17世紀から薩摩藩が実効支配していますので、その薩摩藩が主体となって作った明治政府が、なぜ「沖縄を武力併合」する必要などあったのですかね。
日本が沖縄県を作った過程で、軍事力を行使したことはありませんし、「黄色艦隊を待ちわびた」のは支配階級の一部にすぎませんでした。
大多数の沖縄県民にとっての「明治」とは、学校教育や医療制度などの普及などの「近代」の訪れを意味しました。
では、幸地常朝の失敗の原因はなんだったのでしょうか?
最大の失敗の原因は、幸地ら「志士」が当時19世紀後半の国際情勢を読み間違えたことです。
彼らの生きた時代が、帝国主義的パワーゲームの時代だという認識の欠落です。
これは、明治維新をなし遂げた彼と同世代の本土の青年たちが、上海や英国を直に見ることによって、ひりつくような危機感を持ったことと対照的でした。
押し寄せる西欧帝国主義に対して、国を強くする以外に独立の道はない、と考えた本土の青年たちと、「日溜まりの樹」のようになった清国という中世的権力にすがろうとする幸地とは、あまりにかけ離れています。
沖縄を支配していた薩摩藩は、幕末に秘かに多数の有為な若者を英国に留学させています。
それに対して、琉球王国は牢固とした眠りの中にいたのです。その差が、幸地らの悲劇を生み出していきます。
幸地が琉球王の密使で清国に潜入し、李鴻章に介入を要請するという政治的行為を、幸地らはいとも単純に捉えていました。
おそらくは、清国宮廷に琉球王国の声さえ届けられればなんとかしてくれる、「黄色艦隊」が来沖して、ヤマトを叩きのめしてくるれる、そのていどの甘い認識だったはずです。
華夷秩序という東アジアの中世的国際関係が、時代錯誤にも19世紀後半になお生きていると錯覚したのです。
しかし結果として、彼ら「志士」のやった清国への請願によって、琉球王国は保全されるどころか、逆に分割の危機すら迎えます。ハンパでない大誤算だったわけです。
では、19世紀後半の列強が牙を剥く中に放りだされた琉球王国には、どんな運命が待ち受けていたのでしょうか。
そのプロセスを簡単に振り返っておきます。
清国に李鴻章という傑物がいたことが幸地らの救いでした。彼のような人物が存在しておらず、マンダリン官僚たちが相手だったなら、そもそも清国は琉球の訴えに耳を貸そうともしなかったことでしょう。
清国は1881年6月に、清国駐在のドイツ公使ブラントに依頼して日本政府と交渉の用意があることを伝えます。
実は前年に、明治政府と清国は琉球の扱いについて大筋合意していましたが、調印にまで至っていませんでした。3つの琉球王国の処遇案が時系列で出てきます。
①グラント案。米国大統領案。琉球王国を2~3分割する内容。以後これがベースとなる。
②清国案Ver1 3分割案。北島(奄美)は日本が、南島(宮古、石垣)は清が領有し、中島(沖縄本島)には琉球王国を復活させる内容。
③清国案Ver2 北島(奄美)、中島(沖縄本島) は日本が領有し南島(宮古、石垣)に琉球王国を復活させる内容。
清国最終案がVer2ですが、口語超訳すればこんなところです。
「琉球国は宮古か石垣に行ってひっそり生き延びろ。奄美から本島は日本が領有したらいいじゃないか」
清国は最終案にあるように、本島すら日本にやってもいいと思っていました。というのは先ほど述べたように琉球王の尚が既に東京にいたからです。
なお、この清国の最終案を見れば、今頃になって中国か沖縄の領有を言い出すのはおととい来やがれの主張だと分かります。
それはさておき、清国もまた王朝である以上「王」が絶対的なレジティマシィ(正統性)の在り所だと理解していた李鴻章らからすれば、幸地たちに対して、「王を取られてから騒ぐなよ」という舌打ちしたいような気分があったのではないでしょうか。
このような分割案に、いちばんショックを受けたのは他ならぬ火付け役をした幸地たち頑固派でした。
さて当時の日本はどんな状況だったのかも見ておきましょう。維新の動乱はいまだくすぶっていました。
当時、明治政府は、武士自身による武士階級の特権を剥奪する自己否定的改革のまっ最中でした。そのリアクションとして佐賀の乱や西南戦争などが相次いで起きます。
明治政府は、この幸地たち沖縄士族の清国請願もこの士族反乱の一環として認識していたはずです。
その対策は実は出来ていました。琉球王尚泰を東京に置いていたことです。
維新を推進したいわゆる元勲たちは、新政府のレジティマシイ(正統性)は天皇によって担保されていると考えていました。
実際に明治維新の戦いは、視点を変えれば「玉」の争奪戦ともいえるものでした。※「玉」・維新の志士たちの隠語。天皇を指す。
ですから、琉球王国における「玉」を沖縄から移送し、明治政府の監視下に置いたわけです。これが後に、決定的な意味を持ちます。
そもそも尚泰王を東京に去らせた段階で、頑固派は負けていたのです。狡猾だと言われようとなんだろうと、王なき琉球王国はその時点で実質滅びていたのです。
皮肉にもこれを最もよく理解していたのは、交渉相手の清国でした。彼らは王なき琉球王国は、日本政府から王の子を譲ってもらって東アジアの動乱から息を潜めるように離島で暮らすしかないと考えたのです。
幸地らは、これでは琉球王国は食っていけぬと猛烈に抗議したようですが、状況は決定的でした。
つまり、幸地たち「琉球王国の志士」がしたことは、琉球王国の分割と、離島への逼塞でしかなかったわけです。
もはや彼ら頑固派にできることは、沖縄の分割という最悪の事態の回避しか選択肢はありませんでした。
これをNHKなどは美化して「分割を阻止した」と褒めたたえていますが、自分の読みの甘さが引き起こしたことに、自ら決着をつけたにすぎません。
かくして幸地たちの頑固派の抵抗は終了し、琉球王国は幸地らの脳裏にだけ生き残ることになります。
幸地が李鴻章に書いたとされる、「生きて日本の属人となるを願わず。日本の属鬼となるを願う」という呪詛は、「属鬼」となることで、ある意味達成されたことになります。
この幸地らの行動に対して、当時日本も清国も共に事を荒立てる気がなかったのが救いでした。
もしどちらかに戦争の意思があれば、日清戦争は歴史的にはるかに前に開始されていて、当時有力な海軍を保有していなかった日本は、一気に清国軍に押し切られて沖縄本島の地上戦に持ち込まれた可能性すらあります。
その場合、60数年早い沖縄地上戦が起きたかもしれません。
また、幸地の行動はグラント案のように列強を介入させかねないものでした。彼らが使う手口は、往々にして仲介をすると称して領土や租借地を切り取るのが常でした。
沖縄の帰属が紛争化したのならば、列強による領土の切り取りや、那覇という良港の租借地化もありえたかもしれません。
幸地らの純粋な国を思う気持ちは尊いものですが、政治的幼児にすぎない彼らの火遊びは、時と場所を誤れば、大火災になっていても少しもおかしくなかったのです。
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弱い大国に頼っては生きられない。
強い大国に頼っては自立を失う。
という小国の悲しい現実に、彼は一生気付かなかったのでしょうね。
ところで、
>『生きて日本の属人と為るを願はず、死して日本の属鬼と為るを願はず』。生きても死んでも日本とは一緒にならないという激しい決意
ですが、中国では「鬼」は幽霊みたいな意味なので、「属鬼」は守護霊なのだと思うのです。最近有名な「鬼子」とは違うのではないでしょうか。
幸地は「日本の属鬼と為るを願『はず』」ですから、こちらの方が意味が通りやすいと思います。
投稿: プー | 2014年11月27日 (木) 10時10分
ぷーさん。なるほどそうか。あなたの言うほうが正しいと思います。修正しておきます。ありがとうございます。
投稿: 管理人 | 2014年11月27日 (木) 10時18分
ありがとうございます。色々なウロコが目から
剥がれて行きます。
心情的に幸地さんの思いも理解できます。ただ、
今の中国は共産党独裁の国で、自由主義陣営に
なったであろう蒋介石以後の自由中華民国では
ないのです。中共と日本を天秤にするとは学生
運動気分が抜けていない、オトナになれないコ
ドモだと思いますわ。
中共にくっついても、米軍追放は出来たものの、
かわりに南沙諸島みたく人民解放軍が大挙して
沖縄の島という島を基地にするのは目に見えて
います。自由を失い、より多くの基地を押し付
けられ、それにプロテストするとウイグル人の
ように虐待を受けます。マゾヒストの世界です。
世の中には、いくつになっても理解できない人
達が数多くいらっしゃいます。
投稿: アホンダラ | 2014年11月27日 (木) 12時53分