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2014年11月26日 (水)

「琉球処分」から考える沖縄の宿痾その1 幸地朝常の遺伝子

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有名な物書きの佐藤優氏は、いつもは冷徹な国際情勢の分析をしてみせることで有名ですが、こと沖縄問題になるとへなへなと夏場のアイスのように溶けてしまいます。  

というのは彼の母親が久高島の出身で、父親が内地というハーフ・ウチナンチューだからのようです。そういえば、顔がコユイですね。  

あまり知られていないようですが、その佐藤氏は本土では「国益こそが外交の基本」と言っていますが、沖縄に来るとがぜん移設反対、米軍基地反対と、いきなり革新になってしまいます。 

彼がそれを説く時には必ずといっていいほど、「沖縄の両属性」ということをしきりと言います。  

どうも沖縄はハーフ・ジャパニーズ、ハーフ・チャイニーズだと言いたいようです。今日はこの「ハーフ」のややっこしさを巡ってのお話です。  

そのあたりの「ハーフの気分」を、沖縄タイムスがこう書いています。全文を欄外に掲載しましたので、読んでみてください。一読の価値があります。 逆説的意味ですが。

「『生きて日本の属人と為るを願はず、死して日本の属鬼と為るを願はず』。生きても死んでも日本とは一緒にならないという激しい決意。中国で死んだ幸地朝常が李鴻章へ送った書簡に残る言葉。歴史の反転は大きかったようだ▼百余年前はともかく、少なくとも最近の銃口や占領者を忘れてはいけない。境で揺れる島だからこそ、平和の選択肢を選び取る覚悟も必要だろう」

なんとも、ファァァ~と毒気を当てられるような一文ですね。「生きて日本の属人となるを願わず。日本の属鬼となるを願う」ですか。

ここまで憎まれれば本望だなァ(笑)。それも130年前の話じゃなくて、ただ今現在こんなことを地方紙に言われるとはなぁ。

さて、この幸地朝常(こうちじょうちょう)は、当時の沖縄支配層に特有の、強烈な中国に対する帰属意識をもっていた人物で、彼は「向徳宏」という中国名すら持っていました。使い分けていたんですね。 

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(※写真 中国人の姿をした幸地朝常 NHKはるかなる琉球王国 ~南の島の失われた記憶~ この番組は沖縄タイムス・琉球新報共同制作みたいな内容です。見ていて気持ち悪くなるほど幸地を美化しています 

幸地は尚王の親類筋にあたる人物で、「親方」という地位にいたバリバリの支配層(士族)です。彼は琉球王の密使として清国帰属を清国に請願する役割をします。 

日本に対しては(当時は薩摩藩・間接に幕府)、「わたしゃ日本人の幸地です」と言い、中華帝国に進貢する時には、「ほんとうはチャイナの向徳宏でございます」というわけです。

こういうダブスタのスタンスは、天下泰平の江戸時代にはなんの問題もありませんでした。 

薩摩藩は基本的に朝貢貿易の利権にしか関心がなく、琉球王朝を実効支配していましたし、年貢さえ納めてもらえれば内政にはとんと関心がなかったからです。 

というか、表向きは琉球王国でなければ朝貢貿易はできないわけですから、中国名を名乗ろうと、中国の使節に琉球王が頭を床に擦りつけて臣従しようと知ったことではなかったというべきでしょう。 

しかし幕末という嵐の中で、日本全国の仕組みが変革されて、近代国家になろうとしていました。

琉球王国は、他の諸々の藩と同列に扱われて、沖縄県として生まれ変わることを要求されます。当然のことながら、ここにファジーで暮らしてきた琉球王国は消滅します。 

これが今に至るも一部では恨みを込めて語られている「琉球処分」です。沖縄からだけ見れば降って湧いた災難という言い方をされますが、何も沖縄だけのことではありませんでした。 

だって、日本全国に視野を拡げれば、珍しくもなんともない廃藩置県のひとこまにすぎませんもん。 

公平に見れば、新政府に対して抵抗した奥羽越列藩同盟の地域に対する、政府の扱いは沖縄より遥かに苛烈で、後々にまで尾を引きました。 

ただ、沖縄が唯一他県と違ったのは、国際問題になってしまったからです。つまり、琉球王国がどこの国のものなのか、存続させるのか否かということが、当時の清国と日本で問題化したわけです。 

いままでダブスタでうまくやってきたつもりが、ちゃんとした近代的国境線の確定をせねばならない時代になって、その琉球王国のダブスタぶりが混乱の原因になってしまったわけです。 

実は幸地にとって気の毒なことに、清国は琉球王国になんてまるっきり関心がありませんでした 

それは清国自体が西欧列強の侵略にタジタジとなっていたからで、朝貢貿易が華やかなりし14世紀ならともかく、清国の屋台骨が大きく揺らいでいたわけですから、「リュキューなんて小島は知ったことか」が本音でした。 

しかし、幸地などの在清沖縄人たちの泣き落としが功を奏して、いくつかの琉球王国分割プランが清国から出てきます。

え、まんま残してくれるじゃないの、という幸地たちの悲鳴が聞こえます。

そう、頼りにしていた清国は琉球王国は八重山+宮古ブロック、奄美諸島ブロック、そして本島ブロックの三つに分解して、それぞれ日本との分割領有を決めようという案を出してきたのです。

幸地が考えていた丸々王国領が残るというのは、清国ですら無理だと判断されて、残しても本島だけか、八重山、宮古に王の息子を残して「後琉球王国」とするのかしかなかったのです。

ところで興味深いのは、ここに今の沖縄県の「外交」の原型が登場します。つまり、本来国内問題であるはずのことを、外国に持ち出して騒ぐことで国際問題化させることです。

清国を絡ませれば、必ず分割案が出てくるのは目に見えているのに、それを理解せずに国際問題化させます

そして清国から予想どおり3分割案が出てくると、今までは泣きついてきたのに、今度は一転して頑として反対します。

う~ん、どこかで年中見た光景だなぁ(苦笑)。

明日詳述しますが、清国のパワーも意図も幸地はまったく読み違えています。

あいかわらず、宗主国を清国と定めて、泣き落としさえできれば、清は黄龍旗をはためかせて、多数の軍艦で沖縄に来援し、日本を蹴散らしてくれると思い込んでいます。致命的判断ミスです。

悲劇と喜劇は紙一重といいますが、まさにこの時代状況の読み違えこそが、幸地ら「琉球頑固派」の失敗の原因でした。

もちろんガタガタの清国にはそのようなパワーはありませんし、事実、後に日清戦争で日本に完膚無きまでに敗北しています。

そして戦略眼がゼロなだけではなく、戦術眼もダメです。幸地らは、清国に解決能力がない以上、この問題が国際紛争化するのを恐れた清国が必ず欧米に仲介を依頼することを読んでいません

アジアを切り取りたい欧米列強に介入させたらとんでもないことになるという危機感がゼロなのです。、

そして実際、アジアのことなど何も知らない米国などがシャシャリ出てきていっそうやややっこしくなります。バッカじゃなかろうか、と思います。

いったん外国を絡ませれば、国にはメンツと下心がありますから、事はいっそう複雑化するに決まっているではないですか。なぜ、こんな中坊でも分かることがわからないのでしょうか。

結局、この「琉球処分」のドタバタ劇は、他ならぬ自分たちが縋りついた清国による琉球王国分割案にショックを受けた幸地らが、自ら分割を止めるように嘆願したことで終幕します。

なんだ、自分で火を着けて、自分で消しとるだけやんかとしか後世には見えません。恨むなら、日本に対してではなく、自分の政治能力のなさを恨みなと言いたいですね。

私がよく言う、「気分」で動くからこうなるべくしてなったのです。この幸地のDNAは今も脈々と沖縄県に受け継がれています。

この幸地たちをまるで悲劇のヒーローのように見るのが、沖縄の「平成の頑固派」である沖タイなどの知識人です。

膨張する中華帝国というアジア共通の脅威を見ずに、自分たちの「気分」にのみ誠実で、基地問題という国内問題を、外国との交渉を必要とする国際問題にしてしまい、その結果が自分の意図にそぐわないものになると、今度は断固として反対して耳を貸さない・・・、あ~あ、既視感ムンムンですね。

長くなりましたので、明日に続けます。

※関連記事http://arinkurin.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-94c2.html 

                :;;;:+*+:;;;:+*+:;;;:+*+:;;;:+*+:;;;:+*+   

■沖縄タイムス2005年5月16日
大弦小弦

 黄色軍艦がやってくる…。船体に黄色の龍の文様を描き、黄龍旗を掲げる清国の南洋艦隊は黄色軍艦と呼ばれたという。知人とこの話をしていたら、黄色軍艦が沖縄を侵略すると、勘違いして話がややこしくなった。
実際は逆で、明治の琉球人にとって清国軍艦は援軍だった。武力で琉球国を併合した明治政府に対し、琉球の首脳らは清へ使者を送って救援を求めている。そして、沖縄側はその黄色軍艦を待ちわびたのだった。
一八八六(明治十九)年に大迫貞清県知事が上申した「事変準備ノ件」が残る。清が軍艦を派遣するとの報に対し、政府派遣の知事は、対策十項目を提案。政府も北洋艦隊から戦艦九隻が派遣されると情報を得て、県に指示を出した。
日清戦争時にも清国の援軍は話題になった。それからの百年余が経過し、あれほど待ちわびた援軍も的と見間違えるところに今の位置があるのか。林泉忠著『「辺境東アジア」のアイデンティティ・ポリティクス』は当時の言葉を紹介する。
「生きて日本の属人と為るをねがはず、死して日本の属鬼と為るを願はず」生きても死んでも日本とは一緒にならないという激しい決意。中国で死んだ幸地朝常が李鴻章へ送った書簡に残る言葉。歴史の反転は大きかったようだ。
百余年前はともかく、少なくとも最近の銃口や占領者を忘れてはいけない。境で揺れる島だからこそ、平和の選択肢を選び取る覚悟も必要だろう。(後田多敦) 

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コメント

これ、幕末の動き次第では、下手すると今でも英国植民地で、島はことごとくプランテーションなんてことになっていたかもしれませんね…。

はい。明日書く予定でしたが、かなり早まった日清戦争になって、沖縄が戦場となったか、あるいは仲介として外国に那覇あたりを租借地にされていた可能性もあります。

この当時のアジア情勢をまったく知らず、事前の研究も情報集めもしないで、こんなことをする幸地たちの気がしれません。大変に危険な火遊びでした。

当時の維新の元勲たちは、おそらく今の日本人以上に列強の実力と、力関係を読み切っていますから、(そうしなければ、日本は英仏露に分割されていました)こんなガキのような幸地たちの出る余地はなかったのです。

黄色艦隊って・・・結局来なかったんですよね??

沖タイの中の人は中二の夢みたいな作文を書けば食っていけるなんて幸せですね。

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