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2014年11月 7日 (金)

二代目大江健三郎になりたい村上春樹氏の老耄

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村上春樹氏は毎日新聞とのインタビューでこう述べたそうです。゛ 

「(日本が起こした戦争に)中国人も韓国人も怒っているが、日本人には自分たちが加害者でもあったという発想が基本的に希薄だし、その傾向はますます強くなっているように思う」と付け加えた。
福島原発事故にしても「誰が加害者であるかということが真剣には追及されていない」と指摘した。村上春樹は「加害者と被害者が入り乱れているということはあるが、このままでいけば『地震と津波が最大の加害者で、あとはみんな被害者だった』みたいなことで収まってしまいかねない

(ピースソロフィより引用)
http://peacephilosophy.blogspot.jp/2014/11/author-murakami-haruki-criticizes.html

またこうも言っているようです。

「僕らの世代は60年代後半に、世界は良くなっていくはずだというある種の理想主義を持っていた」「ところが、今の若い人は世界が良くなるなどとは思わない、むしろ悪くなるだろうと思っている」 

私は村上氏のいい読者ではありませんし、正直彼の代表作の『ノルウェイの森』など、私の青春時代が時代背景なのですが、どこが面白いのかと思った記憶があります。 

村上氏は、父親の世代に当たる戦争世代を「(自分の)加害者であることを追及していない」と切り捨てる一方、自分の息子たちの世代には「世界が良くなると思っていない」と同情するポーズの影で、その無気力ぶりを笑っています。

で、自分たちの世代ときたら、「60年代後半に、世界は良くなっていくはずだというある種の理想主義を持っていた」と手放しのご様子ですから、なぁ~に言ってんだか。いい気なもんです。

私は彼より3歳下の世代ですが、彼のようなわゆる「全共闘世代」と呼ばれる人たちにはこういう人が今なお多く生息していているようです。

村上氏がノーベル文学賞万年候補だから、深遠なことを言っていると勘違いしがちですが、なんのことはないただの世代自慢です。

村上氏は当時、大学7年生でジャズ喫茶の店主をしており、70年安保闘争に深く関わったという話は聞きません。

当時のジャズ喫茶は、政治的にも文化的にも先端的だと自認する青年のたまり場でしたから、彼もその空気の中に生きていたのでしょう。

実際の運動には関われば心身ともに傷だらけになるものですが、たまり場のマスターとは、まさにうってつけのスタンスだといえるでしょう。

泥をかぶらず、時代の尖った気分だけは頂くといういかにも彼らしいスマートな身の処しかただったのかもしれません。

したがって、何も傷つかなかったのでは時代についての洞察は生れようがありません。

彼にかかると、まるで当時の学園紛争時の闘士たちは、「世界はよくなっていくはずだ」などという幼稚な幻想をもった理想主義者の一群だったように描かれています。

失礼ながら、この部分を読んだ時に私は爆笑しました。 

彼には永遠に、なぜ当時の学生「理想主義者」たちが自由から逃走し、リーダーの命令の下にリンチと虐殺を繰り返したのかわからないことでしょう。

そしてその「理想主義者」たちが学園を舞台に繰り広げた戦争ゴッコのために、百人を超える死者と自殺者、植物人間が出たことなどにはさっぱり視野に入らないようです。

あの時代を経験したひとりとして、当時の狂気の闇についてなにひとつ触れないで、当時をノスタルジックに美化して、今の若者たちに説教を垂れるのは醜い老耄だと申し上げておきます。

さて、村上氏は今まで政治的発言をしないことが美徳でした。

終わった役者が反原発や、ノコノコと沖縄まで行ってしょーもないことをしゃべってきたり、いつまでたっても「防大生はボクたちの世代の恥」といったレベルから抜けきれないノーベル賞作家などが晩節を汚しているを眺めていると、村上氏の禁欲は評価できるものでした。

しかし、とうとうシッポが出てしまいましたね。作家という存在は、小説という虚構世界の中でいかに矛盾に満ちた現実を構造化するかが仕事で、グチャグチャとつまらない講釈を垂れるのが仕事ではありません。

えてして作家はエッセイやインタビューで馬脚を現すと言われていますが、村上氏もそうだったようです。

なぜかといえば、小説世界では隠されていた作家の、あんがい俗っぽい社会観や政治的傾向がモロに暴露されてしまうからです。

今回の村上氏のように、「な~んだハルキちゃんはやっぱり朝日新聞と一緒の9条万歳・反原発派ですか」で終わりになってしまえば、それは作家として得なことではありませんものね。

しかしどうも、村上氏は大江健三郎氏を模倣することで、少しでもノーベル賞に近づきたいようです。

まぁ、あながち皮肉ではなく、ノーベル賞文学賞の選考基準には「社会の進歩に貢献した」みたいな一項があるようなので、この線ねらいなのかもしれませんね。

                                           (続く)

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コメント

>全共闘世代

 一括りにされるのは如何なものでしょう。 私は、村上氏の著作等には全く関心がありませんし、全共闘等とは無縁ですので、同時代に生まれたからと一緒にはされたくありません。 
 世代論は、日本では人気です。 「団塊の世代」等と一緒くたにされるのは迷惑至極です。 私のように個人主義で生きている者には、村上風人気取り作戦は単なるアホとしか言いようがありません。 単なる米国流小説の模倣家でしょう? こんな人の小説を読むよりオリジナルで米国作品を読めば良いのではないですか。 

とら猫イーチさん。私も世代論には関心ありません。またいわゆる団塊の世代には実に多様な人がいることも、現実に知っております。

私が村上氏にムッとなったのは、社会批判に世代論を持ち込んだことです。戦争責任を取らなかったと前の世代を責め、後の世代に対しては「社会が良くなる(する)と思っていない」と切り捨てています。それはないだろうというのが私の正直な感想です。

ご意見を頂いて多少いいすぎたかなという部分は削除しました。

彼のファンはハルキストと呼ばれているそうで。名付けた人のセンスに脱帽です。

あっち系の理想主義者には複雑な現実が理解出来ず、何でも他人のせいにして、手近なところから壊し殺してきた、というものでしょう。

さらに言えば、彼等のスポンサーはその理想主義を壊国の道具として利用し、自身は決して信じていない、ということですね。

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