植村記者は、当時から「女子挺身隊」と慰安婦は混同だと知っていた
この『月刊文藝春秋』1月号の手記によれば、植村氏は長年探し求めていた元慰安婦の証言を、「韓国挺身隊問題対策協議会」代表の伊貞玉氏から「一本のテープ」として渡され、それを取材するためにソウルに渡ったとしています。
1991年8月のことだったと思われます。その時ソウル支局で植村氏が書いたのが、後にあまりにも「有名」になったこの一文です。(欄外参照)
「日中戦争や第二次大戦の際、「女子挺身隊」の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた「朝鮮人従軍慰安婦」のうち、一人がソウル市内に生存していることがわかり」(朝日新聞1991年8月11日)
ここで、植村氏は「女子挺身隊の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた『朝鮮人従軍慰安婦』という表現をしています。
この短い記事のリードの一行に、以後、いまなお日本を苦しめ、ひるがえって執筆者の植村氏と朝日新聞をも破綻させることになるすべての要素が凝縮しています。
植村氏は「女子挺身隊」という言葉を、慰安婦の強制連行として使用したわけですが、その理由をこう述べています。
「私の記事は、その挺対協の活動の続報であった。(※1991年7月31日記事を指す)当時、韓国では『女子挺身隊』といえば『慰安婦』を意味していた。それは伊貞玉さんらが立ち上げた『韓国挺身隊問題対策協議会』という団体名にも反映されていた。この両者の混同は戦後まもなく定着した。日本のメディアは韓国で定着した認識を踏襲した」(手記)
植村氏は当時の韓国で女子挺身隊=慰安婦として混同が定着していたためにそのまま書いた、これが「混同」であったと知っていたと言っているのです。
この手記を続けます。
「私は本文では、この女性が『だまされて慰安婦にされた』と書いた。暴力的に拉致する類ではないと認識していた」((手記)
ここでも植村氏は、「だまされた」とは書いたが暴力的に拉致したものではないと知っていたと書いています。
この「だまされた」というのは、元慰安婦の金学順さんが、「養父」という女衒に「騙された」という意味です。女衒とは売春斡旋業者のことで、もちろん朝鮮人です。
今もなおわが国が非難されている、「慰安婦の強制連行」はなかったのを彼は当時から知っていたということです。
脱力します。ならば、なぜ23年間も沈黙していたのか。
なぜ、その決定的誤りがどんどんと拡がり、今や国際問題になっているのに、それを修正しようという声を上げず、今になって被害者のような顔してこんなことを書くのか。植村氏にはジーナリストの良心がないのか。
この重大な誤認、いや、むしろはっきりと捏造と言うべきかも知れませんが、これはただの「混同でした」では済まない問題となって日本全体に跳ね返ってきます。
なぜなら、後に韓国政府が公認の「従軍慰安婦」の数として公表している数字が20万人ですが、これは戦時徴用で工場で働いた女性の数だからです。
さらに、韓国メディアはこの「女子挺身隊」に12歳の少女が混じっていたことから、「12歳までの娘を慰安婦にした鬼畜のような日本軍」として今もなお糾弾しているわけです。
またこの植村記事以外にも、朝日新聞(大阪版)は、ほぼ同時期の1991年5月22日に、吉田清治の「木剣ふるい無理やり動員」発言を掲載し、第2弾として同年10月10日に再度「には人妻が多く、しがみつく子供をひきはがして連行」したという「吉田証言」を掲載しました。
この朝日の記事によれば、かつてのアフリカの奴隷狩りのようなことを日本軍が韓国でしたというのです。
この吉田は、1983年に三一書房という左翼系出版社から出した『私の戦争犯罪』という本で概略こう書いています。
「当時、労務報国会下関支部動員部長だった自分は1943年5月15日付の西部軍動員命令によって1943年5月17日に下関港を出発し、翌日済州島に着いて、兵士10人の応援で205人の婦女子を要員として強制連行した」
発表当時はご丁寧にも吉田の「証言」が、担当部局、日付から場所まで特定した「証言」だっために信憑性が高いとされました。
また吉田が、詐話師にありがちな現地謝罪行脚を韓国全土でしたために、韓国に慰安婦糾弾運動が一気に燃え広がっていきます。
吉田にとっては気楽な一種の番宣のつもりだったのでしょうが、これが今に至る慰安婦問題の韓国における起爆剤になりました。
挺対協や太平洋遺族会などの主だった慰安婦訴訟団体は、皆この時期に誕生しています。
なおこの吉田証言は、1992年3月に秦郁彦氏の現地調査で根も葉もない完全偽証であったことが明らかになっています。
また長年、吉田証言を堅持してきた朝日も2014年8月に至って全面謝罪して記事を取り取り下げざるをえませんでした。
なおこの記事を書いたのは、当時朝日の大阪本社社会部デスク(後に論説委員)の北畠清泰氏(故人)で、植村氏の直属の上司にあたります。
植村手記にはこの北畠氏はまったく登場しませんが、なんらかの業務指示なくしては持ち場の大阪を離れてソウルくんだりまで長期取材には出られないはずです。
つまりこれらの一連の慰安婦報道は、北畠-植村という朝日新聞大阪本社社会部ラインで作られたものなのです。
ここまでを整理しておきましょう。
①朝日は植村記事の前から、吉田清治偽証を信じて日本軍が韓国人女性を暴力的に強制連行したと報じていた
②植村記者は慰安婦証言を取るために渡韓し、「女子挺身隊の名で戦場に連行され、慰安婦にさせられた」という記事にした
③植村記者は当時から女子挺身隊と慰安婦は別だと知っていた。韓国の「混同」をそのまま踏襲した
④植村氏はだまされたとは書いたが、暴力的に拉致されたのではないと知っていた
ではなぜ、韓国で「女子挺身隊」と「慰安婦」が混同されていたのでしょうか。植村氏はおそらくその理由を知っているはずです。
それは韓国政府が、他ならぬバククネ大統領の父親のパクチョンヒ大統領時代に、政府が作った慰安婦組織があり、それの名称が「国軍挺身隊」だったからです。
「従軍慰安婦」は後の造語で、ただ「慰安婦」(comfort woman)とだけ呼ばれていた戦時公娼、あるいは兵隊向け売春婦のことです。
公娼制度については意見がわかれるところですが、当時は兵隊の一般婦女子への暴行事件を減らし、性病の蔓延を防ぐという意味を持っていました。
この管理を軍隊が自らがしたのか、それとも民間人に委託したのかは国情によって分かれます。
わが国はいわゆる「赤線」と呼ばれる民間人経営の公娼制度を持っていましたから、民間委託の形を兵隊向けにも踏襲しました。 これがいわゆる管理売春制度です。
管理当局は、一定の場所において、法律に基づいて衛生管理や違法行為があって女性が不利益にならないように監視する売春管理をする制度で、これは今も西欧の一部でも残存しています。
一方韓国は、朝鮮戦争時にこの日本統治時代の軍駐屯地周辺の管理売春区域をそのまま引き継ぎ、米軍に提供した関係で、軍が直接管理しています。
これは性病の兵隊への感染を嫌う駐韓米軍の希望もあったようです。
1950年に朝鮮戦争が始まると、米軍の約50万人を先頭に大量の兵隊が参戦したために、韓国政府も軍と米軍向けに「特殊隊」を作りました。
このとき使用された表記に「国軍挺身隊」というものがあり、これが後の韓国挺身隊協議会などによって、女子挺身隊=慰安婦という混同された図式を定着させていきます。
ただし、旧日本軍のそれが民営であったのに対し、韓国軍のものは軍直営というだけでなく、「特殊慰安隊」として正規の軍組織に組み込まれていた点が大きく異なります。
つまりは韓国は、自分の国の国家・軍管理の慰安所という形態を、具体的個別の調査なくそのまま日本にあてはめて糾弾していることになります。
この致命的「混同」に「寄り添った」のが朝日だったわけで、植村記者は当時からその誤用を知っていて書いたとしています。
彼は今もなおこう書いています。
「しかし、この『女子挺身隊』という言葉を記事で使ったために、私はその後、23年間にわたって、一部のメディアから批判を浴びることになる。しかし、その時は全く想像もしなかった」(手記)
なんとも無自覚なこと!
「女子挺身隊」というのは、戦時中に現存しているわけで、それがだまされるか、あるいは暴力的に拉致されて慰安婦にされたとなれば、日本は「性奴隷」狩りをいたということになります。
このようなことに韓国通であった植村氏が気がつかないで、いや気がついてもその「混同」をそのまま書いてしまうということ自体がジャーナリズム倫理からの逸脱です。
この手記においても植村氏は一切の謝罪を拒否しています。他紙でもしていた、いやあれは混同を知っていたがアレコレの事情で・・・と、自分にとって都合のいい弁明に終始しています。
この「言葉のチカラ」に対する無自覚、あるいは傲慢こそが、朝日新聞と植村記者の致命的欠陥なのです。
※お侘び 手違いで下書き原稿がアップされるミスが続いています(汗)。注意いたします。
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■資料1 朝日新聞1991年8月11日
執筆者 植村隆記者
「日中戦争や第二次大戦の際、「女子挺(てい)身隊」の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた「朝鮮人従軍慰安婦」のうち、一人がソウル市内に生存していることがわかり、「韓国挺身隊問題対策協議会」(尹貞玉・共同代表、十六団体約三十万人)が聞き取り作業を始めた。同協議会は十日、女性の話を録音したテープを朝日新聞記者に公開した。テープの中で女性は「思い出すと今でも身の毛がよだつ」と語っている。体験をひた隠しにしてきた彼女らの重い口が、戦後半世紀近くたって、やっと開き始めた。
尹代表らによると、この女性は六十八歳で、ソウル市内に一人で住んでいる。(中略)女性の話によると、中国東北部で生まれ、十七歳の時、だまされてにされた。ニ、三百人の部隊がいる中国南部の慰安所に連れて行かれた。慰安所は民家を使っていた。五人の朝鮮人女性がおり、一人に一室が与えられた。女性は「春子」(仮名)と日本名を付けられた。一番年上の女性が日本語を話し、将校の相手をしていた。残りの四人が一般の兵士ニ、三百人を受け持ち、毎日三、四人の相手をさせられたという。「監禁されて、逃げ出したいという思いしかなかった。相手が来ないように思いつづけた」という。また週に一回は軍医の検診があった。数ヶ月働かされたが、逃げることができ、戦後になってソウルへ戻った。結婚したが夫や子供も亡くなり、現在は生活保護を受けながら、暮らしている」
■資料2 朝日新聞大阪本社1992年1月23日
執筆者 北畠清泰記者
「記憶のなかで、時に心が痛むのは従軍慰安婦の強制連行だ。吉田さんと部下、10人か15人が朝鮮半島に出張する。総督府の50人、あるいは100人の警官といっしょになって村を包囲し、女性を道路に追い出す。
木剣を振るって若い女性を殴り、けり、トラックに詰め込む。一つの村から3人、10人と連行して警察の留置所に入れておき、予定の100人、200人になれば、下関に運ぶ。
女性たちは陸軍の営庭で軍属の手に渡り、前線へ送られて行った。吉田さんらが連行した女性は少なく見ても950人はいた。
「 国家権力が警察を使い、植民地の女性を絶対に逃げられない状態で誘拐し、戦場に運び、1年2年と監禁し、集団強姦し、そして日本軍が退却する時には戦場に放置した。私が強制連行した朝鮮人のうち、男性の半分、女性の全部が死んだと思います」
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コメント
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それら証言は、朝鮮戦争と「混同」したものだったりして?
「善意で」とか「知らなかった」とか、結果責任を問われない人達は羨ましい、というか、向こうの国の人々にとっては良い結果を出した、と言えるのでしょう。
投稿: プー | 2014年12月17日 (水) 08時32分
植村記者の義母は韓国人で親北朝鮮の挺対協と密接な関係がある人物です。
最近その関係で詐欺を犯して逮捕もされましたっけ(笑)
植村記者の反日記事は義母がらみの悪質な確信犯ですから、救いようがありません。
流石に本人も自覚して(自責の念は皆無、然も本人的には被害者(爆))、韓国で骨を埋めるべく、日々の反日活動で生活の糧を得ているんでしょう。
韓国は例え日本の会社や宗教であっても、親韓国であれば「敵の敵は味方」的な論理で、例外的に友好的ですから。
投稿: | 2017年1月17日 (火) 22時49分
こんな、汚れた反日家族が、日本でのうのうと生きていける日本ってどれだけ不思議な国なんだろう!半島だったら一族全てが惨殺されてもおかしくないです!
投稿: | 2018年4月 8日 (日) 11時12分