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2014年12月22日 (月)

「第1報を書いただけ」「挺身隊は慰安婦と呼ばれていたから」と言う植村記者

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(先週金曜日からの続きです) 

再度、植村記事の核心部分を見てから始めましょう。

「日中戦争や第二次大戦の際、「女子挺身隊」の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた「朝鮮人従軍慰安婦」のうち、一人がソウル市内に生存していることがわかり・・・」(朝日新聞1991年8月11日)

植村記者が今に至るも批判され続けているのは、彼が元慰安婦の金学順さんに関するふたつの重要な情報を落しているからです。 

ひとつは「キーセン学校に親に40円で売られて行っていた」ことを落したこと。 

二つ目は勤労挺身隊を「女子挺身隊として慰安婦にされた」と歪曲したことです。 

この理由を、植村手記はこう書いています。

私が同席した1991年11月25日の聞き取りでは、金学順さんは養父についてまったく語らなかったのだ。それは(略)証言を記録して『ハッキリ通信』第2号でも確認できた」(手記) 
元慰安婦の存在を報じただけの8月11日付けの第1報を書いただけで、その後に報じられた内容で第1報を非難できるだろうか」(同)

つまり植村記者が言いたいことは、自分は金学順さんが「だまされて」慰安婦にされた第1報を信じて書いただけだといいたいようです。 

朝日新聞も今年8月の「検証」記事で、「自分たちは吉田清治にだまされただけだ」などと見苦しいことを言っていますがどうもこの会社の報道者たちは、揃いも揃ってドタン場になると「オレはだまされただけたぁ」と叫ぶのがお好きなようです

いままで、日本社会や政府に対して、容赦ない検察官然としてふるまってきた朝日が、こと自分が被告席に座ると「だまされた」と泣き言を言うのですから失笑してしまいます。 

まぁ、裁判をしたらこんな釈明は100%却下でしょうね。いや、かえって裁判員の心象を悪くするかもなぁ。 

それはさておき、つまり植村氏は記事の前年の聞き取りにおいて「キーセン」も「養父」のひとことも金学順さんはテープで発言していないと言っています。  

そして「親に売られてキーセン学校に行った」という部分は、1992年12月の東京地裁への訴状で「突然」登場したんだと言いたいようです。  

さて、私たちはこのような弁明を素直に信用できるでしょうか。

そもそも金学順さんの裁判は、慰安婦問題の真実を明らかにする目的でされたものではなく、日本政府の責任を問うことで補償を取るために起こされている民事訴訟です。

補償金がからむ民事訴訟において 原告は、自分が不利な証拠や証言は極力控えるのが鉄則です。

ならば、自分がキーセン学校に売られたという事実は、もっとも伏せておきたいことのはずです   

なぜなら、それが一般に分かってしまえば、「なんだ元々キーセンだったんじゃないか」ということになって、日本政府の強制的関与の主張にとって著しく不利になるからです。

わざわざ、自分の主張にとって不利な部分を、あえて後に挿入するでしょうか ありえません。

元々の弁護人聞き取り内容に存在して、否定しても仕方がないと金さんらが考えたから訴状に書いたのでしょう。

ところが、 植村氏はこうも別な箇所で書いているから困るのです。

私は『キーセンだから慰安婦にされてもしかたがないというわけではない』と考えたので、キーセンということに重きを置いていなかった」(手記)

この部分は植村氏が、「自分はキーセンに重きを置いていなかった」から書かなかったんだ、というふうにしか読めません。 

92年12月の訴状で「突然」登場したから知らなかったのか、知っていたが「重きを置いていなかったから」落したのか、どちらなのでしょうか。 

いまに至ってこんなように弁明が揺れてしまうならば、もはや最初の聞き取りテープの取材メモという1次資料を出すしかないでしょう。 

しかし元々知ろうと知るまいと、訴状で「突然に登場」しようがどうしようが、いったんそう書いてしまったものによって、この慰安婦問題が炎上した以上、報道者としての社会的責任から逃れられるわけではありませんが。 

間違っていたなら、さっさとお侘びと訂正を出せばいいだけて、他の報道機関はそうやっているじゃないですか。 

朝日だけが23年間も頑として修正せずに、同じような慰安婦キャンペーンを延々とした挙げ句、とうとうわが国が「レイプ国家」だったというレッテルを国際社会で定着させてしまったが故に、批判されているのです。 

さて次に、女子挺身隊=慰安婦とした決定的誤りについてです。この部分に関しては、彼の古巣の朝日新聞すら「誤用」として謝罪していますが、彼はなおもこう言い募っています。

「14年8月5日付けの朝日新聞『検証』紙面では、『挺身隊』と『慰安婦』が混同されていたことを認め、誤用した。私の記事も誤用があったと書いている。しかし、私自身は<女子挺身隊』の名で>は、決して<女子挺身隊勤労令によっての連行>を意味したものではなかった。植村は<だまされて慰安婦にされた>とはっきり書いており、強制連行とは書いていない。(手記)

おいおい、植村氏は、自分は「強制連行ではないと知っていた」と言っているのです。  

残念ながら、この植村氏の弁明が理解できる人はほとんどいないでしょう。彼は女子挺身隊勤労「」と書いていない、自分はただ「女子挺身隊の「」でと書いただけだ、あれは誤報じゃないと言っているのです。  

当人以外には分からないリクツですが、手記のこの部分と重ねると理解できます。

「私の記事は、その挺対協の活動の続報であった。(※1991年7月31日記事を指す)当時、韓国では『女子挺身隊』といえば『慰安婦』を意味していた。それは伊貞玉さんらが立ち上げた『韓国挺身隊問題対策協議会』という団体名にも反映されていた。この両者の混同は戦後まもなく定着した。日本のメディアは韓国で定着した認識を踏襲した」(手記)

つまり彼は、自分は当時の韓国の間違った慰安婦に対する呼称をそのまま書いただけで、自分は「女子挺身隊勤労」による正式な日本政府の関与を示す意味で使ったのではない、と言いたいようです。 

彼は、ほぼすべての情報を当時から「知っていた」のですから、こう正確に書くべきでした。  

「日中戦争や第2次大戦の際の『朝鮮人慰安婦』は、女子挺身隊勤労令による慰安婦の強制連行ではなく、親に売られたり、売春斡旋業者にだまされて売春行為をした」  

植村氏は、このような必ず読むものに誤解を与える表現をあえて使って、あたかも日本軍による強制連行があったかのような印象を読むものたちに刻印させたのです。

なんのことはない、植村氏は朝日のお家芸である印象報道による情報操作をここでもしていたことになります。 

植村氏はこの長い混乱した弁明の結びにこう書いています。

「私は『捏造記者』ではない。不当なバッシングに屈する訳にはいかない」

私は、彼の受けた迫害には同情しつつも、それは決して故無きバッシングというだけではなかったと思うのです。 

このような植村氏の弁明を、どれだけの日本人が納得するでしょうか。

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コメント

日本の素晴らしい先人達をこれほどまでに侮辱、咎める捏造報道をした朝日新聞、上村記者を名誉棄損で訴えることはできないのでしょうか?
裁判で一つずつ検証し朝日新聞、上村記者など捏造にかかわった人達を追求し逃げ場を無くし慰安婦問題などなかったことを立証したいです。

今現在もこの捏造報道が全世界を独り歩きし多くの日本人が苦しんでいるのです。
本当に許されるものではありません。
そして先人たちの名誉を回復させたい。

思えば、南京事件や首相の靖国参拝をフレームアップして、外交問題にまで持ち上げたのも朝日新聞でした。
ああいうことをするのが、一部の自意識リベラルなミドルクラスに受けた時代があったわけですね。
当時の俗情におもねった記事を書いただけなのですよ、朝日新聞は。

文藝春秋に出ていた植村元記者の写真を見て、これはもう何を言っても駄目だと思いました。朝日人の顔で固まっています。もう、批判は全部いわれなき誹謗中傷にしか聞こえず、自分に文句を言ってくるのは田夫野人で、自分は被害者としか思えなくなっているでしょうね。

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